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RESEARCH WORKS
2017.03.02

未来の家族 結婚・出産・看取りめぐる人類史的展望 2009.12

 

第3章 「家族」の未来のかたち
結婚・出産・看取りめぐる人類史的展望

 

森下 直貴

 

はじめに――未来の家族の行方

 

二〇〇八年の夏、アニメ映画作品「スカイ・クロラ」が公開された。空を飛んで這い回る虫というほど意味である。監督の押井守は数年前に「イノセンス」を公開して話題になったが、今回の作品では森博嗣の小説を下敷きにして、今日の若者世代の生と死の感覚を描いている。衣食住の欲望が基本的に満たされた社会にあって、退屈きわまりない平凡な毎日と、辛く苦しくつまらない人生のなかで、生き続ける意味を求めている若者世代。目指すべきものの不在に悩みながら、非日常のスリルと躍動感を渇望しているその姿が、商業化された戦争ゲームの戦士たち「キルドレ」に重ね合わされる。「キルドレ」たちは、戦争ゲームの最中でしか生きている実感をもてないばかりか、永久に死ぬこともできない。そこに浮かび上がってくるのは、影のように輪郭の薄い日常の生と、同じく輪郭の薄い日常の死とのあいだの、境界の消失である。
輪郭の薄い生死の感覚という捉え方は、今日の若者世代の一面をそれなりに鋭く射当てているように思われる。仮にそうだとすれば、今日の延長線上で登場してくる未来の世代にとって、家族もしくは親密な関係はいかなる意味をもつことになるのだろうか。制度の重みが剥落し、種々の役割をバーチャルに着脱しつつ、ネットをつうじてボーダーレスに交流する彼ら「デジタル・ネイティブ」(1)にとって、結婚や出産や看取りはどのようなかたちをとり、そのさい、生殖テクノロジーの利用はそれらをどこまで変え、セクシャリティと愛情はどうなってしまうのだろうか。それは、例えば「イノセンス」で描かれたように、サイボーグの主人公が犬(生身の動物)を抱きながら、ネットのなかにデジタル情報体となって消えて行った恋人を思いつつ、人形(人の形)を見つめるという、いささか気の滅入るようなかたちになるのだろうか。
この章では、性交渉・結婚、出産・子育て、看取り・死といった、人生における出会いと別れの出来事に注目し、変容する家族の現在進行形のうちに一定の傾向を読みとることによって、「家族」という社会的関係に向き合うための座標系を手に入れることを目指している。そのために、ともすれば主観的な感想に流れるところを統計資料で是正しつつ、しかしたんなる未来学的な推測や社会学的な分析に止まることもなく、哲学的な水準での考察を試みる。つまり、人間の「家族」を成り立たせている条件を見極めることをつうじて、未来の多様なかたちを柔軟に包容するような倫理的枠組みを浮かび上がらせたいのである(2)。

 

一 彷徨する「家族」の現在

一九八〇年代の前半は「家族」が話題となり、「家族」が問われた時代であった。湯沢雍彦・宮本みち子編『新版 データで読む家族問題』の巻末年表から、目立った出来事をいくつか取り出してみよう。
一九八〇年の春、米国の離婚事情を描いた「クレーマー、クレーマー」が評判を呼ぶ。その前年あたりから「家庭の日」制定の動きが見られたが、これは首相の急死で頓挫。ベビーホテルで乳幼児の死亡が相次ぐ。男女の定年格差や単身赴任が問題にされる。離婚が急増するなかでとくに熟年離婚が目立つ。家庭内暴力の実態が公表される。一九八三年には日本初の体外受精児が誕生する。女性の忍苦の一生を描いたドラマ「おしん」や、家庭崩壊をテーマにした『積み木くずし』が話題となる。配偶者のある女性で仕事を持つ割合が半数を超えるのは一九八四年。国籍法が改正されて父系血統主義から父母両系血統主義になる。高校家庭科を男女共修とする案が出される。そして一九八五年には、男女雇用機会均等法が成立するとともに、一〇歳代の妊娠やいじめの実態が公表される。
こうした世相を反映して「家族論」のブームが起こる。例えば、私も関与した「家族論」シリーズ(『現代のエスプリ別冊 家族とは 家庭とは』全五巻)が刊行されたのは、一九八三年の初めである。また、それより前の一九八〇年から、多彩な研究者を結集した『家族史研究』シリーズ(大月書店)も刊行されている。その一方で、家族をテーマにした映画作品も続々と上映される。私の記憶のなかにいまなお鮮明に残っている作品は、旧家の四姉妹の生き方をつうじて伝統的家族の姿を描いた「細雪」、彷徨する今日的家族の生態をコミカルかつリアルに抉った「家族ゲーム」、それに、管理された現代的家族の対極にある野性的な民俗を謳い上げた「楢山節考」である。睦まじい家族を演じる人びとの行動をとおして家族の本質を問いかけたテレビドラマ「今朝の秋」も忘れがたい。ちなみに、これらの作品では家族の問題に生死の問題が重ねられていた(3)。
ともかくその頃から、「家族」が地滑り的に変容し始めたことは間違いないように思われる。それでは、そのとき漂い出し彷徨し始めた家族は、その後どうなったのであろうか。どこかにたどり着いたのだろうか。それとも、いまなお漂流し続けているのだろうか。家族の「定義」については後で論じることにして、手始めに現象面から、主に『新版 データで読む家族問題』の統計資料を拾い読みしながら、家族のその後を追ってみよう。

「家族」の縮小 全体の特徴としてすぐに目につくのは「世帯」の変容である。「二〇〇五年国勢調査」によると、いわゆる「核家族世帯」は約五八%になる。そのうち夫婦のみの世帯は約二〇%、一人親と子の世帯が八%ちょっとだから、夫婦と子の世帯は約三〇%になる。これは「単独世帯」の二九•五%とほぼ同率である。じつは、一九二〇年(大正九年)の統計から二〇〇五年まで、核家族世帯の割合はほとんど変動していない。変化は伝統的な「拡大家族世帯」の減少と「単独世帯」の増加にあり、両者が反比例しているのである。なお、三世代が同居する拡大世帯は率こそ減少しているが、人員数からいえば全国民の五人に一人弱を含んでいる。
世帯数ではなく人数からみると、家族と同居していない人は総人口の一三%程度になる。ということは、残りの八七%は誰かと暮らしていることになるが、問題はその「誰か」である。高齢者どうし、後期高齢者と中高年の子どもという組み合わせが急増している。核家族世帯じたいが高齢化しているのである。二〇〇五年に六五歳以上の人口の割合は二〇•八%であったが、二〇〇八年には二一•七%になった。他方、一四歳以下の人口の割合は一三•六%と世界で一番低い。後でも言及するが、日本はすでに世界一の高齢社会なのである。
「世帯」は数だけでなく規模からみても縮小している。世帯平均人員は一九二〇年から一九五五年までの三五年間、ほぼ五人のレベルで変わらなかった。ところが一九六〇年からは急速に縮小し始め、六〇年代の末には一挙に三人台になった。そして二〇〇五年には二•五八人にまで落ちている。それにしてもなぜ縮小するのだろうか。高度経済成長期以降、仕事や学校を求めて人びとが地方から都市へと移住したことが直ちに思いつくが、それとともに見逃せないのは、後で取りあげる結婚と離婚をめぐる意識の変化である。
二〇〇八年の「世帯動態調査」の結果によれば、親と同居している未婚者の割合は、学生を除けば、男性でほぼ八〇%、女性ではほぼ八五%になる。日本の若者の同居率はもともと先進国のなかでも非常に高いが、近年は非正規雇用の増加や賃金の低下にともなって同居理由が変化している。他方、大学進学率は二〇〇八年度に過去最高の五五•三%を記録した。二〇〇六年の「青少年の社会的自立に関する意識調査」では、「親離れ」に関して子ども自身、男女とも二〇歳代後半の約三割が「できていない」と答えている。親からみた子どもの独立の時期は、「結婚したとき」が三六•五%、「自活したとき」が二一•四%、「就職したとき」が一〇•一%の順である。「とくに考えたことはない」が一六•七%もある。晩婚・未婚化に加えて、就職難のうえ、たとえ就職しても自活できない状況では、子どもの「自立」はどんどん遅くなりつつある。

晩婚・未婚化 恋愛結婚と見合い結婚の比率は一九六〇年代の半ばにクロスし、以後は恋愛結婚が増えている。二〇〇七年に初婚者の平均年齢は、夫が三〇•一歳、妻が二八•三歳になった。初婚年齢が上昇して西欧・北欧並みの水準になっている背景には、恋愛志向とともに未婚化の動きがある。男性で二〇歳代後半の約七〇%、三〇歳代前半の約四七%、三〇歳代後半の約三〇%が未婚である。女性ではそれぞれ約六〇%、三〇%強、二〇%弱になる。独身志向もたしかに増えているが、必ずしも広がっているわけではなく、むしろ結婚願望は相変わらず根強い。ただし、年齢へのこだわりがなくなり、理想の相手が現れるまで先延ばしている。独身生活の利点のほうが結婚の利点を上回っていることがその理由である。一昔前の「結婚して一人前」という「社会的信用」圧力が減少し、行動や金銭面の自由度が重視されている。
晩婚・未婚化だけでなく、結婚観の多様化も著しい。「同棲すれば結婚」や「結婚すれば子ども」という、これまで自明とされてきた図式が揺らいでいる。二〇〇五年の調査では、既婚女性の場合、「同棲=結婚」に三三%が反対し、「結婚=子ども」には二六%が反対している。「夫は外・妻は家庭」への反対はもとより、「婚前性交渉の容認」に至っては、一九九二年の調査でも賛成がすでに過半数を超えていたが、いまや賛成多数である。「家庭のための犠牲」に賛成が四〇%であるのに対し、「結婚しても自分だけの目標を持つ」に八五%が賛成している。学歴や居住地や職の有無によって開きが大きいとはいえ、大勢としては夫婦重視より、個人重視の傾向が際立っている。
価値観は生活実感から生じる。夫婦共働き(夫婦とも雇用者)世帯が増え続け、一九七七年に男性片働き世帯を上回って以来、その差は年々開いている。二〇〇七年では前者が一一三〇万世帯、後者が八五一世帯である。女性の就業に関して男性の七割以上が肯定的であり、女性の八割以上が希望している。ただし、配偶者のある女性は妊娠・出産を期に七割が離職している。就業か出産・子育てかの二者択一の状況が続いている。
離婚率は、戦後の混乱期を除いて一九六三年まで減り続けて以降、基本的に増加傾向にある。とくに九〇年代の伸び率はどの府県でも著しい。離婚は「何でもない」という風潮が広がっている。一九五〇年頃の離婚の主役は、妻が一〇〜二〇歳代の若い夫婦であり、加齢とともに鋭い減少カーブを描いていた。ところが二〇〇五年には、離婚件数のピークは三〇歳代前半に移り、その後のカーブも高め傾向にある。ただし、たしかに中高年層の離婚が増えており、一九六〇年代の発生率と比べると四〇歳代で一四倍、六〇歳代で八倍になってはいるが、それでも四〇歳代では千組に一組あるかないかの数に止まっている。

少産・少子化 二〇〇五年の出生数は一〇七•四万人で、一八九九(明治三二)年以降、人口動態統計史上で最低を記録した。合計特殊出生率一•二六も同様である。その後一時的にやや持ち直したとはいえ、一九七三年以降、長期低下傾向にある。この点は欧米諸国でも似た状況にあるが、地球全域で見れば人口増加が続いている。夫婦の平均出生児数(完結出生児数)は一九七〇年代前半から二人っ子志向であり、ほとんど変化していない。しかし、理想子ども数と予定子ども数が二〇〇五年では落ちてきている。少産・少子化の背景には、二〇歳代女性の出生率の低下と若年未婚者の増加がある。子育てや教育に関わる経済的負担や、心理的・肉体的負担と高年齢という理由が挙げられている。
興味深いのは、全出生子中の「非嫡出子」の割合である。二〇〇五年統計で、二七•九%のドイツから五五•四%のスウェーデンまでの欧米に比べると、日本はわずか二%である。明治期の混乱や一八九八年制定の民法による制約のため、九%程度まで上昇した時期もあったが、戦後は急激に減少し、近年ではほぼ二%で一定している。欧米でこの四〇年間に非嫡出子の割合が急増したのは、「事実婚」が社会通念として容認され、制度的に一定の保証を受けてきたからである。第二子の出生から嫡出子となるケースもある。それに対して日本では、「結婚」した「夫婦」というと、法的すなわち正式の「婚姻」夫婦以外には考えにくい。母子世帯もあるから推計は難しいが、子どものある事実婚のカップルは、多く見積もっても二%弱を越えない。それ以外の九八%は法的な「婚姻」夫婦である。ここに日本社会の「結婚」観の表面上は顕著な特徴がうかがえる。

高齢化 二〇〇八年版白書によると、七五歳以上のいわゆる「後期高齢者」は二〇〇七年一〇月に一二七〇万人となり、前年より五四万人増加した。総人口に占める割合は約一〇%だから、国民の一〇人に一人が後期高齢者という計算になる。このまま推移すれば、五〇年後の将来、総人口が九千万人を割り込むとともに、高齢化率も四〇•五%に達し、国民の二•五人に一人が高齢者になる。
居住形態を見ると、高齢男女とも六〇歳代後半までは夫婦のみか未婚子との同居が多く、七〇歳代後半から子ども夫婦との同居が増える。女性では八〇歳を過ぎても一人暮らしをする割合がほぼ四分の一になる。婚姻状態から見れば、男性で配偶者のある人の割合は八割を超え、女性でも徐々に増加して五割近くになる。この背景には離婚率の低さと寿命の長さがある。この四五年間で夫婦揃って高齢期を生きている者が大きく増加した。高齢者の心の支えは「配偶者あるいはパートナー」が、「子ども」を押さえてトップになっている。
ここで見逃せないのは高齢者の意識の変化である。一九八〇年には子どもや孫と「いつも一緒の生活がよい」に賛成する人が六割ほどいた。それがその後ゆるやかに減少し、二〇〇五年には三四•八%にまで落ち込んでいる。それに対して「ときどき会って食事や会話がよい」が四割を超えて一位になっている。意識の変化の背景には世代の交替がある。一九七五年には六五歳以上の高齢者はすべて明治時代かそれ以前に生まれていた。一九九〇年には大正生まれが多数を占めた。一九九五年には昭和一けた生まれが四割を占め、二〇〇〇年には6六割になった。この世代が「ときどき会って食事や会話がよい」を支持している。そして二〇〇五年には、昭和一一年以降の生まれが三割五分を占めるようになった。この世代が「たまに会話する程度でよい」を六•六%から一四•七%へと押し上げている。ここでは世代の区切り方の妥当性を含めて世代論を展開することはしないが、大きく捉えるかぎり世代ごとに家族イメージが異なっていることは明瞭である。
葬儀と墓に関しては、三〇年ほど前から「家墓」へのこだわりが薄れ始め、近年では永代供養墓や、合葬墓、ペットと一緒の墓などに関心が集まっている。墓の必要性を認めず散骨を容認する人も八割に達している。性別や、居住地、学歴、職業などで異なるが、世代ごとで分けるならその傾向はもっと際立ってくるだろう。井上治代(2003)によれば、墓=家の継承権という呪縛から解放されたのは、ようやく一九九〇年代後半からである。これは先に指摘した世代の交替と一致する。最近では、例えば桜葬(自然志向の樹木葬の一種)のような新しい形の弔い・埋葬に関心が集まっている。家族の枠を超えたゆるいつながりが模索されている点は注目に値する。

家族への期待 二〇〇六年の総理府調査によれば、家族のもつ意味に関して「団欒」「安らぎ」「絆」の場というイメージが過半数を超えている。しかし、現実の行動を見ると、家族で触れ合う時間は乏しくなっている。子世代との別居を希望する親世代の声も、一九六九年の一二%から二〇〇六年の三六%へと増えてきた。このように家族離れ・個人化の動きが進行し、理想像と行動とのギャップが広がっている。それだからであろうか、家族への思いはむしろ強まっているようである。統計数理研究所の「国民性調査」によると、一九八三年から「家族」が「一番大切なもの」の一位になり、二〇〇三年には過去最大の四五%を記録した。三〇歳代では五五%、四〇歳代で五三%、50五〇歳代で四九%になる。ただし、「子ども」は別分類であり、一〇%を下回っている。

 

二 家族モデルの不在と複数の常識

ここまで統計資料をいくつかの観点に絞って拾い読みし、「家族」の現在進行形の一面を切り出してきた。全体として見るなら、制度の圧力が弱まって「個人化」の傾向が際立っており、相互の結びつきが緩んできているなかで、「家族」が理念として求められている。とすれば、彷徨する家族の向かうべき方向には、「家族」という共通の目標あるいは夢があるようにも見える。しかし、その内実は単純ではない。じっさいにはむしろ、世代ごとそして個人ごとにかなり異なっている。この点を代理母出産と終末期医療のケースで確認してみよう。ただし、紙幅の都合により、論述の大半を省略し、結論部のみを圧縮したかたちで示さざるをえなくなった不手際をお断りしておきたい(4)。

代理母と終末期医療
「代理出産」の是非を論じた四つの重要な文書(5)には、独特の規制の論理が示されている。まず目につくのは世代感覚の偏りである。前節の統計資料から読みとれた傾向と比較すれば、「家」や「自然さ」が持ち出されているところに世代感覚の旧さが露呈している(6)。「家」との関連で不妊治療の当事者は「周囲の圧力に苦しんでいる」と指摘されているが、大半の場合は「家」が問題なのではない。識者の指摘的によれば、「自分の(血縁上の)子」にこだわるのは、むしろ多分に、子どもを産めない「身体」をめぐる「自己アイデンティティ」の問題である(7)。これは「エンハンスメント」や摂食障害と同じ心理構造である。また、世代感覚の旧さは「国」や「公序」の重たい受け止め方にも表現されている。日本学術会議の委員はみな、女性も含めて法律家・医師・生物学者やそのほかの専門家であり、しかも全員が比較的高齢の世代に属する。判決を下した裁判官も同様であり、世代感覚の偏りは否定できない。もちろん「偏り」じたいが「不当」なのではなく、全体の幅とバランスや将来性を無視していることが問題なのである。
もう一つ目につくのは、「良俗」つまり社会通念(または常識)の変容の軽視である。厚生労働省は二〇〜六〇歳代の男女5千人を対象に国民意識調査を実施している。それによれば、夫婦の受精卵を用いた代理出産(ホストマザー)に関して、一九九九年には、社会として認めてよいと容認する人は四三•〇%、容認できないとする人は二四•二%、わからないとする人は一四•三%であった。二〇〇三年には、容認派は四二•五%、反対派は二四•八%、わからない派は三一•一%であり、無回答が減って決めかねている人が倍増した。そして二〇〇七年には、五四•〇%が容認し、反対は一六•〇%に減少した。このように、過半数が「代理出産」に賛成し、「自分」の場合はともかく、「社会として容認」している。他方、「自分が不妊の場合」には、「利用したい」が九•七%、「配偶者が賛成なら利用する」が四〇•九%、「配偶者が望んでも利用しない」が四八•四%である。ここでも利用する人(五〇•六%)のほうが上回っている。全体として見れば賛成側に徐々にシフトしている。同世代でも個々人の感覚の違いはあるが、今後若い世代が増加することを考えると、「常識」の大局的な趨勢は明らかである。
次に、厚労省「終末期医療」検討会から二〇〇七年四月に「ガイドライン」が出されたが、その基になった二〇〇三年の報告書をとり上げる。そこでは調査結果をふまえ、できるだけ自宅で過ごせるようにすることが望ましいと結論づけている。そのためには、生活する人の視点を大切にし、患者の状況に合わせた相互補完・連携の包括的な体制を整備する必要があり、それがうまく進めば一般国民の希望順位も変わり、自宅が最優先されるだろうと推測している。要するに、自宅=在宅中心の地域連携体制が方針とされているのである。しかし、調査結果の数字に即すならば、そのような方針は医療関係者の選択には合っていても、肝心の一般国民の選択とは食い違っている。一般国民は在宅の療養・介護の非現実さを肌で感じたうえで、自宅よりも専門機関・施設のほうを望んでいる(7)。前節で概観したような世帯の縮小、単身者・独身者の増加、少子化と高齢化、老老介護、女性の就労を思い浮かべるとき、多くの家庭で在宅中心の終末期療養や長期療養が成り立たないことは明瞭である。それにもかかわらず、国民は「自宅」を望んでいるはずだと推断すれば、国民の意識と現実から逸れてしまうだろう。もちろん、「自宅」が望ましいとする憶測そのものは間違っていないと思われる。だが、ここで問題にしているのは、「自宅」の意味であり、また現実を無視してまでそれにこだわる背景である。
以上の二つのケースから浮かび上がってくるのは、現行の制度ならびに専門家の感覚が、一方の代理出産の場面では比較的若い世代世代の感覚に追いついておらず、他方の終末医療の場面では比較的高齢世代の感覚からかけ離れているといった構図である。つまり、家族イメージをめぐる世代感覚のあいだの食い違いであり、異なる家族イメージの混在と葛藤である。その根本の原因は、制度設計に参与する関係者たちが、身に染みついた感覚のせいで、明治以来の「家」モデルやとくに戦後の「核家族」モデルに囚われていることにある。

家族標準モデルの不在
現実の生活も意識もすでに、「家」モデルはもとより、「核家族」モデルからはみ出している。多様な形が少しずつ模索され、それが大まかに世代感覚の違いとして現出している。高齢者層のあいだですら家族イメージの違いが目立ってきている。これから家族を形成する若い世代ではなおさらであろう。とすれば、その点を考慮せずに家族の未来のかたちを想像することはできないはずである。もちろん、そのかたちは三世代の拡大家族でもいいし、核家族形態でもいい。要は、モデルが一つあるのでもなければ、複数のモデルがあるのでもなく、そもそもモデルなしに多様な選択肢があるということ、つまり「標準モデル」の不在である。いや、ひょっとすると、それは「家族」である必要もないかもしれない。
しかし、ここで反論が出されるに違いない。「結婚」の形態について言えば、晩婚・未婚化の傾向にあるとはいえ、圧倒的多数のカップルは法的な結婚すなわち婚姻を選んでいる。離婚が増えているにせよ、再婚もまた婚姻の形態をとっている。「事実婚」をあえて選ぶカップルはわずかしかいない。若い世代でも同様である。とすれば、「家族」のイメージは基本的に変わっていないし、おそらく今後も大きな変化は起こらないのではなかろうか。
右の反論にはこう答えておこう。カップルが婚姻形態を選んでいるのは、制度が意識に対応していないせいであって、それはむしろ対応の鈍い現行制度のもとでの実際的な選択なのである。「事実婚」を選んだときの社会生活上の不便さは、当事者でなければ理解できない壁が多々ある。統計資料から読み取れるように、「核家族」の外形をとっている家族の内部に目を向けるなら、仕事や生活や人生観といったあらゆる局面で、男女・親子とも個人化の傾向は歴然としている。例えば、ブログを読むかぎり、自分の名前のアイデンティティにこだわる女性が増えている。従来の制度的圧力が低下しているは明瞭である。もし日本でも「核家族」モデルに準拠している現行制度が少しでも変わるなら、それは徴税でも年金でもよい、結婚形態にも変化が生じるだろう。事実、スウェーデンで一九七〇年代に「事実婚」が増えた背景には、有給の育児休暇制度とともに、夫婦分離課税方式の導入があった[竹崎 一九九九:二四-二五]。
今日、大まかに見るなら、世代ごとに異なる生活感覚に根ざした複数の常識が並存している。もとより同世代のあいだでも個々人の意見は多様ではあるが、その多様性の幅の大枠を画定しているのが世代感覚である。世代と時代と常識との連関については別論文で詳しく論じているので[森下 二〇〇九a、二〇〇九c]、ここでは家族に関連する範囲で最小限だけ言及しておくことにする。日本社会は、〈伝統的近代〉〈現代的近代〉〈今日的近代〉というモダニティの三段階に対応して、基本的に、〈特定集団のなかの成員の結束〉から、〈核家族を構成する個人の連帯〉をへて、今日の〈薄い私どうしのつながり合い〉へと移っている。ここで「薄い」とは、制度的圧力が限りなく零に接近し、一定の役割や理想によって象られる輪郭が漠然としている状態を指す。社会的関係のうち家族あるいは親密な関係の次元は、そのような基本動向に沿って変容しており、しかも具体的なものたちとの身体的な関わり(例えばテクノロジーや経済)の次元に近接しているだけに、その変容ぶりは速い。それに比して社会組織や制度の次元は、具体的なものの次元から離れているだけに変容が遅れる。両次元のあいだのギャップやねじれが、上述のような代理出産や終末期医療の場面に露出していたわけである。

 

三 「生殖レストラン」と「純粋な関係」

ここに至ってようやく冒頭の問いに正面から向き合うことができる。「核家族」モデルが消失するなかで、「薄い私」どうしの親密な関係は今後どのようなかたちをとるのだろうか。それを具体的に思い描くには、生殖テクノロジー全般の利用や、生殖と切り離された性=セクシャリティの行方について一定の見通しをもつ必要がある。そこで二つの書物を取りあげてみよう。生殖テクノロジーに関しては動物学者でサイエンスライターのロビン・ベイカーの『セックス・イン・ザ・フューチャー』、セクシャリティの行方に関しては世界的に著名な社会学者のアンソニー・ギデンズの『親密性の変容』である。

太古以来の衝動と生殖テクノロジー
ベイカーによれば、人類も進化の過程で生物の「太古以来の衝動」を受け継いでいる。すなわち、男性は気軽にセックスをし、女性はより慎重である。また、男性にとって自分の子である確信を持てないが、女性にとっても子育てに協力してくれる男かどうか見定めるのは厄介である(ベイカー 三〇〜三一頁)。こうした男女の性の違いを背景に、夫が妻の浮気を阻止するよう自然発生的に出来上がったのが「核家族」である(五九頁)。しかし、その「核家族」も遠からず消滅するだろう(五八〜五九頁)。その動きは欧米ではすでに一九六〇年代に始まり、九〇年代前半には米英両国を合わせた母子世帯数が、子のいる全世帯の五分の一に達している。七〇年代のじつに三倍である。
母子家庭が抱えている問題の核心は、子育てに男親が関与しないことではなく、むしろ経済的な格差と貧困なのである。欧米各国は一九七五年以降、母子家庭を救済する対策を立て始めた。もっとも熱心に取り組んだのが北欧諸国である。英国でも一九九一年に児童支援法を成立させ、同じ遺伝上の親を持つ子は全員、親の収入と資産に関して平等の権利を有するという原則を立て、同居していない親に対して費用負担の義務を課し、政府機関をつうじて母親に支払うしくみを作った。他の国でも同様の対策が取られている(三三頁)。
さて、肝心の話はここからである。右の扶養義務制度(子ども税)を公正かつ効率的に運用するために、父子鑑定のさいDNAデータベースを利用したり、妊娠可能な時期を正確に予測できたりするようになると、「核家族」はどうなるかである。ベイカーの答えは「核家族」の消滅のますますの加速である(六六〜六七頁)。扶養義務を課すことで男性が母子を見捨てることを防ぎ、核家族の崩壊をくい止めようと導入された制度は、その狙いとは反対の結果をもたらすことになる。なぜなら、子ども税による経済的保証があれば、情熱が消えた後も男女が共に暮らす理由はなくなるからである。こうして「太古以来の衝動」は制度やテクノロジーと結びついて、単親家庭と利便性優先の男女関係に基づいた社会を促進するだろう。単親家庭や単親家庭どうしの共同生活が、二一世紀前半には社会の主流を占めるに違いない(七二頁)。
その間にも生殖テクノロジーの進展は止まらない。現時点でさえ、体外受精と代理出産を組み合わせるなら、女性に原因のある不妊の九九%は解決すると言われている。二一世紀半ばになると、残り一%の不妊も代理卵巣やクローン(人工双子化)の利用によって解決されるだろう(一一三頁)。男性も同様に顕微授精法や代理精巣のおかげを蒙ることだろう。これらのテクノロジーの利用に対して反対運動は起こるだろうが、それは、一九三〇年代の人工授精や一九七〇年代の体外受精へのそれと同様であり、また人工母乳に対して示された反感と大差はないと、ベイカーはどこまでも楽観的である(一七八頁)。
不妊を克服した世紀後半には、男女関係と社会の様相は大きく変わることになる。生活水準の向上と乳幼児死亡率の低下によって、「少子化」は女性一人あたり約二人まで進行する(一九二頁)。女性の就労が当たり前になり、地位と経済的安定を得てから子づくりする傾向が広まるだろう。リスクはあるがそれを上回るメリットがあるからだ。初産年齢も四〇歳代まで伸びるだろう。そしてそれまでの期間、確実な避妊法が求められる。そこに登場するのが「ブロック・バンク」である(二〇四頁)。ブロックとは精管や卵管の切断もしくは結紮のことであり、バンクとは配偶子の凍結保存を意味する。政府の管理下でそのシステムが信頼されるようになると、男女とも若いうちにブロック・バンクを受けるようになるだろう。それは安全かつ簡便であって、男性にとっては意図せざる扶養義務から解放してくれるし、女性にとっても魅力的である(二〇九頁)。こうして生殖とセックスは完全に切り離される。
子づくりをする時期がくれば生殖パートナーを選ぶ必要がある。そのための「精子卵子取引所」として、配偶子のメニューから好みのタイプを選ぶことのできる「生殖レストラン」がある(二二八頁)。ただし、それには費用がかかるから富裕層しか利用できない。そうでない階層はやむをえず、従来の避妊法が取り揃えられた「避妊カフェテリア」を利用するほかない(二〇九頁)。なお、「生殖レストラン」のメニューの選択には、男女の産み分けや、劣性遺伝子の忌避、個人的な好みといった、問題含みの志向が反映されるだろうが、生殖とはそもそも常に相手を選ぶ優生学的な行為であるとして、ベイカーはさほど意に介さない(二一九頁)。やがては同性どうしの子づくりや(二七〇頁)、更年期と死をのりこえた生殖活動が広まるだろうとすら言っている(三〇六〜三〇九頁)。
こうして未来の家族関係はあらゆる点で複雑になっていく。生殖ビジネスはますます巨大化するだろうし、生殖手段をめぐる社会的格差も残るだろう。しかし、それでも当事者たちにとっては、セックスと生殖は精神的にも分離され、「嫉妬」という感情は残るにせよ、性的行動や性の喜びが減退することはないだろう(三二六326頁)。そしてなによりも、「生殖レストラン」が正しく利用されるなら、「望まれて生まれてくる赤ちゃん」の数は現在以上に増えるに違いない(三一三頁)。
ベイカーのストレートな予想は刺激的であり、そこには考慮すべき側面がないわけではない。しかし、それ以上に種々の疑問がある。まずはテクノロジーに対する楽観主義である。生殖テクノロジーの実際や展望とリスクについて、それなりに突っ込んで考察されてはいるが、何でも反対する宗教家や倫理学者を批判する狙いからか(一〇、三一〇頁)、リスクの受けとめ方が意図的に楽観的であり、そのため倫理的な葛藤がじつに軽く処理されている。次に、男女の性心理が「太古以来の衝動」からじつに単純に捉えられている。もちろん、霊長類社会を背景にした行動パターンに依拠するのは大局的には間違っていない。とはいえ、人類の群れから制度が発生して以来、人間の社会と文化ははるかに複雑になり、とりわけ近代社会に到ると、性心理の面で繊細さと屈折度を深めてくるはずであるが、その点がまったく考慮されていない。さらに、今日の若者世代の「薄い私」の感覚にも注意が払われていない。そのほか、動物学出身だから仕方ないとはいえ、社会制度全体への目配りも欠落している。そのため、家族を含めて将来の社会的なつながり合いが浮かんでこないのである。結局、男=セックス=本能、女=愛情=打算というベイカー(つまり現代英国の中年男性)自身の「常識」が、そのまま過去と未来に投影されているようにしか思えない。

自己アイデンティティと「純粋な関係」
続いてギデンズの見解に移ろう。彼の理論的枠組みでは(9)、モダニティの拡大によって、「家族」に関連する範囲で言えば、自然現象である「生殖」が専門的システムによって囲い込まれ、公的領域の内部に取り込まれる一方で、「家庭」は私的領域へと閉じ込められる。その結果、性が生殖から分離され、可塑的な「セクシャリティ」として放出される(四五〜四七頁)。モダニティが進展する世界では、伝統社会におけるように倫理的な意味づけが外部から与えられることはなく、型にはまった日々の営みのなかで個々人がそれを自分なりに見つけ出すほかない(二五八〜二五九頁)。こうして「自己アイデンティティ」の探求が現代人の内省の中心を占めるようになる(五一頁)。そして自己の表現である「身体」がしだいに内省の焦点になり、身体に関連する「セクシャリティ」(広義の性的なもの)が、自分の「ライフスタイル」の選択にとって決定的な意味をもってくる(五三頁)。
セクシャリティと結びつくのが愛情である。ギデンズは「ロマンティック・ラブ」という「女性化された感情」に注目する(六四〜六五、六九頁)。それが「母性」の理想化と結びつくなかで(六八〜六九頁)、女性は「親密な関係(intimate relationship)」に没頭し、それを豊かに開発するようになる(七〇頁)。さらに、愛情が「婚姻」から切り離されることで、愛情=情緒的なきずなを自己目的とする「純粋な関係(pure relationship)」が際立ってくる(九〇頁)。この「純粋な関係」は、「親密な関係」を再構築していくための重要な要素であり、婚姻に代わって愛情とセクシャリティとをいっそう強く結びつける働きをする。ただし、同じ感情的秩序でも、「純粋な関係」に特有の「一つに融け合う愛情(confluent love)」は、平等な対人関係のもとでの相互の気持の通じ合いにともなう感情であって(一九四〜一九五頁)、永遠・唯一にこだわる「ロマンティック・ラブ」とは異なる(九五頁)。
ところが、女性と違って男性の場合、「自己アイデンティティ」の達成に感情の再構成がともなうことを理解できない(九四頁)。そのため、暴力的な性支配と性的能力に対する不安との板挟みで悩むことになる(一七六〜一七七頁)。その背景の一つは男女の性心理の違いである。ギデンズによれば、男の子は母親の影響から自立する点で困難を抱えており、母親・女性に対する依存心を隠蔽・抑圧することによって、権力的に歪んだ性器セクシャリティに固執してしまう(一七二〜一七五頁)。もう一つの背景は女性の所有という社会制度の影響である。モダニティ以前の伝統社会では、男女が分離され、権力的な関係のなかで女性が保護されていた。しかし、モダニティの進展につれて権力的=保護的な男女の分離が消えてしまい、その結果、性暴力が表面化するようになる。性暴力は男性のいだく不安や無気力に起因し、権力的な関係の弱まりに対する破壊的な反応である(一八二〜一八三頁)。もちろん多くの男性が他者に対する気遣いを示せないわけではないが、それは権力的に下の者や同僚・仲間に向けられた場合に限る(一九六頁)。
このように男女のあいだにはたしかにギャップが存在する(一八七、一九五頁)。しかしギデンズによれば、多様な自己探求における焦点は疑いもなく「純粋な関係」である。これを維持するためには相互の信頼感が不可欠であって、「相手に対する細やかな思いやり」をもった気持の通じ合いと関係の平等化によって醸成される(二〇六、二二二頁)。「核家族」であっても、離婚・再婚をつうじて新たに多様な親族のきずなを形成することを迫られるが、そのさいに細やかな思いやりを必要とする(一四六頁)、この点はいかなる親子関係でも同様である(一四九頁)。
今日、婚姻や生殖から解き放たれた「セクシャリティ」に「純粋な関係」が結びつくことによって、「異性愛婚姻」も多様なライフスタイルの一つにすぎないという感覚が生じている。とはいえ、制度の対応の遅れや男女の心理の複雑な交錯のために、その感覚はなかなか広まっていかない(二二九〜二三〇頁)。しかし、「純粋な関係」がライフスタイルの「模範」になれば、事態は変化するだろうとギデンズは考える。それまでの間、「純粋な関係」に接近していない異性愛婚姻は次の二つのタイプのいずれかになる(二三〇頁)。その一つは、性的な没頭や感情的きずなの度合いは低いが、対等な立場と相互の思いやりをかなりの程度まで組み込んだ友達タイプである。もう一つは、婚姻関係を安心できる環境として利用し、パートナー双方とも相手にほんのわずかな感情しか投入しないような、いわば生活基地タイプである。これは感情的なつながりの比重がきわめて軽い点で、旧来の標準モデルから区別される。ただし、そのいずれであれ、やがては「純粋な関係」に転じ、男女の感情的対立が消えて融和が実現するだろうと、ギデンズは予想する(二三一頁)。
要するに、ギデンズの考えでは、私的領域における親密な関係の核心に「純粋な関係」があって、これにともなう「一つに融け合う感情」に包まれることによって、「自己アイデンティティ」の課題である「自立」や他者に対する「気遣い」が促進されることになる。とくにセクシャリティに関して言えば、「一つに融け合う感情」がエロティシズム(=身体をつうじた快感のやりとり)と結びつくなかで、非破壊的な感情を育むための倫理的枠組みが形成されるだろう(二九六〜二九七頁)。
それだけではない。「純粋な関係」で貫かれた「自己アイデンティティ」こそは、ライフスタイルと社会の組織・政治を「民主的」に変える原動力となるに違いない(二七一、二七七頁)。一方のライフスタイルでは、例えば「男らしさ」の拒否は、性的アイデンティティ(もっと広く「自己アイデンティティ」)を、他者に対する気遣いに結びつける倫理的行為である(二九二頁)。他方の公共的領域で民主制を支えるのは「自由で対等な関係」である(二七二頁)。そのうち、「自由」の観念の中心には自覚的な自己決定能力としての「自立」の理念がある(二七三、二七八頁)。また、権力の「平等」を押し進めるのは他者に対する「敬意」とともに「気遣い」である(二七九頁)。このようにギデンズは、モダニティの公共的・日常的な世界ではすでに消えてしまった倫理的な拠り所の復活を、「純粋な関係」に託しているのである(二九〇、二九七〜二九八頁)。
以上のように、「親密な関係」に関してギデンズは、ベイカーの単純さとは対照的に、自己をめぐる倫理的課題をはじめ、愛情の重要さ、セクシャリティの焦点化、男女の性心理のギャップ、社会構造との連関、ライフスタイルの倫理、政治と民主制の理念などの多様な論点を考慮しつつ、それらをすべて「純粋な関係」における「自立と細やかな思いやり」に集約している。しかし筆者の見方では、問題はまさにその感情化された「自立」の理念にある。この感情=理念は、西洋の伝統的=近代的な理性を感情レベルに置き直したものであり(二九三〜二九六頁)、その意味で西欧的「自己」をいっそう徹底化したものではないだろうか。それが言い過ぎだとしても、少なくとも「純粋な関係」がきわめて理念的な性格をもたされていることは疑いない。とすれば、個人化へと向けて変容しつつある今日の家族にとって、むしろギデンズが中間形態として描いている二つのタイプ、すなわち友達タイプと生活基地タイプのほうが目標としてふさわしいのかもしれない。今日の若者世代の脱力した「薄い私」にとって「純粋な関係」は、前の世代に映ったほどには魅力的でな句なっているように思われる。

 

四 家族の「多様性」と「基本的条件」

一方のベイカーは現代英国の中年男性の感覚に依拠し、他方のギデンズは西欧的な「自己」の理想にこだわっているように見える。もしそうであれば、時間的・空間的により広い人間社会の展望のなかで、両者の視点を相対化する必要があろう。そのために二つの本を取りあげることにする。一つは、既述した家族論シリーズの一冊、文化人類学者の原ひろ子編『家族の文化誌―さまざまな形と変化』であり、もう一つは、社会人類学者のロビン・フォックスによる当該分野の優れた教科書、『親族と婚姻』である。

核家族とヘアー・インディアン
『家族の文化誌』の末尾におかれた論考「人類社会において家族は普遍か」のなかで、原ひろ子は家族の現在と未来に関する認識を示している。巻頭論文「ヘアー社会における『テント仲間』と『身うち』」の論述で補いながらその内容を追ってみる。
それによれば、一九八〇年代に「家族の危機」が論じられた背景には、「核家族」という西洋近代的な家族の理念へのこだわりがあった。欧米の家族は多様な形態を模索しながら、すでに「核家族」を基に作られた制度をはみ出し始めている。「危機」意識は、直接的にはこの動きに制度が対応できていないというズレを反映しているが、根本を言えば、多様な動きをあくまで「核家族」の理念に無理やり回収しようとするやり方から生じているのである(二八九〜二九〇頁)。ともかく「核家族」はもはや現実と合わなくなっている。
日本社会も同様にこれまで「核家族」を目標にしてきた。しかし原ひろ子の考えでは、日本の家族の場合の危機は欧米社会のそれとは違っている。日本では家族が「集団」(二九四頁)として自明視されてきた。「核家族」も同様である。「家族」をめぐる病理現象(例えば親子心中や家庭内暴力)は、「核家族」そのものに起因するというより、むしろ「家族」を孤立・閉塞した「集団」とみなす日本人特有の思い込みから発生している。
そのうえで原ひろ子は、「核家族普遍説」が成り立たないばかりか(二九八頁)、人類社会の全体を見渡すかぎり、「家族」の定義は多様でなければならないと主張する(三〇一頁)。実際、人類の「家族」は幅広い可塑性を示している。その一例が北米の極北の地に暮らすヘアー・インディアンである。一般に「世帯」は持続的な居住集団を意味し、国民統計や現地調査では基本単位となるものであるが、この常識が彼らの社会では通用しない。そこに存在するのは「世帯」ではなく、誰でも気の向くまま一時的に寝泊まりするだけの「テント仲間」なのである(一一頁)。夫婦や親子といえどもその場の気分で、一緒に居たりバラバラになったりする。気の合っている間だけ同棲し、子育てに関しても育てられる者が育てればいいと考えている(一五〜一六頁)。そしてもう一つ、狩猟移動の季節になると、「テント仲間」が一時的に一緒になって「キャンプ仲間」を作る(一一頁)。このようにヘアー・インディアンの社会では、厳しい環境を生き抜くために「個人主義」が貫徹しているのである(一六頁)。
ただし、「身うち」という意識はある(一九頁)。それは「われわれ一同」ではなく、個人と個人の二者関係としてのみ意識され、自分(エゴ)を中心に同心円上に広がる(二〇頁)。「身うち」意識を支えているのは、近親相姦や、遺体埋葬、月経と妊娠に関するタブーである(二一〜二三頁)。これらのタブーに死霊や守護霊(原ひろ子によれば「超自然な力」二一頁)が結びつけられ、さまざまな「運」あるいは「不運」が説明されている。なお、原ひろ子を離れて言えば、タブーや精霊の存在は、今ではほとんど痕跡のようになっているがそれでも微かに働いている「制度」によって、彼らの社会が成り立っていることを物語っている(二七頁)。
以上をふまえて原ひろ子はこう結論づける。ヘアー・インディアンの家族や親族の在り方は、人類の「初期」の特徴の残存でもなければ、通文化的な「プロトタイプ」でもなく、人類の「家族」の幅広い可塑性を示す一例にすぎない(三〇一頁)。世界各地の社会でこれまでも「家族の実験」は続けられてきたし、これからも続けられるだろう。人類の人口の大部分が子どもを生まないと宣言しないかぎり、家族は消滅しないのである(六頁)。
ここでコメントをすれば、たしかに、ヘアー・インディアンの事例は親族システム=制度における一つの極を示しており、そこから家族の多様性の実像を知ることができる。彼らの親密な関係を貫く「個人主義」は、ベイカーほど打算的でも情熱的でもないし、ギデンズほど自覚的でも純粋でもない。それは厳しい自然条件下での適応である。しかも興味深いのは、今日の若者世代の「薄い私のつながり合い」を彷彿とさせることである。しかし残念ながら、原ひろ子の論述からは人類の家族の多様性の幅やそのなかで占める彼らの位置が見えてこない(三〇一〜三〇二頁)。それを見いだすためには一定の理論的枠組みが必要であろう。

親族システムの論理とその前提
フォックスの『親族と婚姻』では、社会人類学の多様な事例の羅列ではなく、理論的枠組みと論理的な考え方に力点がおかれている。そこから三つの重要な論点を取り出してみよう。
第一に、人類が独自に進化した理由を、集団どうしを永続的で相互依存的な関係にするように仕向ける機構、つまり社会「制度」の創出に求めている点である(三一九頁)。ただし、後述するように、人類進化のきっかけとしては、社会的関係における動向だけが独立に働いたわけではなく、それ以外の領域(身体・道具ならびに象徴・言語)における動向と連動するなかで、制度の創出に至ったと考えられる。しかし、そうした留保をつけたうえでも、彼が制度創出のもつ人類学的な意義を強調した点は重要である(10)。
第二に、人類の親族組織が多様で複雑な形態をもつにいたる形成・展開のプロセスを、理論モデル(理念型)を用いることで(三〇頁)、論理的にきわめて巧みに構成している点である。そのさい、対立する二つの理論モデル(フォーテス流の出自・補充モデルとレヴィ=ストロース流の連帯・交換モデル)がうまく両立させられている(三一八頁)。ここその骨組みだけでも概観しておくならこうなる。
女性と子どもに男性が加わった集団が大きくなって分裂するとき、自然環境や生活と居住形態の違いによって(一三〇頁)、異なったコースに分岐していく。最初の分岐点は、共通の縁者を共有する「エゴ中心」か、出自集団をもつ「祖先中心」である(二二八、二三六、二四〇頁)。例えば、ヘアー・インディアンの社会は前者のコースを進んでいる。後者のコースでは、分岐した集団どうしで共通の出自を確認し、それを象徴化し、分類名称を付与し、儀礼や外婚制を作り上げる。そのさい、居住形態の違いとともに、女性と子どもを帰属させるやり方の違いに応じて、共系のうちから母系・父系の区別が生じる(一六五〜一六七頁)。さらに、互恵性の心理に支えられた交換の方式が、補充のやり方と組み合わされることで、多様で複雑な規則をもつ親族システム=制度が創り出される(二九〇頁)。こうして集団の個別化と集団間の連帯とが同時に進行し、世界のどの地域でも類似した多様な形態を見出すことができる(三一五頁)。
第三に、フォックスの枠組みのなかでもっとも注目に値するのは、親族システム形成の論理的構成それじたいよりも、それを可能にしている理論モデルの前提にある考え方である。前述のように原ひろ子は、ヘアー・インディアンの社会について、原始的な「初期」の形態の残存でもなければ、通文化的な「プロトタイプ」でもなく、たんなる多様な形態の一つにすぎないと述べるに止まっていた。それに対してフォックスは、多様性の水準を超える「普遍性」を、多様な形態からの抽象でもなければ、特定の形態の一般化でもなく、特異な形態を含んだ多様性の幅を枠づける「基本的条件」として捉え(八五頁)、それを支えにして「モデル」を設定する。
「基本的条件」には以下の事柄が含まれている(ただし、自然環境や、それに対応した生活環境、居住形態の違いは除く)。まず、「性交渉と出産と死」という人生の三つの基本的な「出来事」である(三一〜三二頁)。本章でも同じ側面に着目しているが、これらの出来事によって個々人と集団の生活にリズムが生まれる。次は、「二つの異なる性」という生理学的事実を支えとして(四五頁)、基本的な出来事を枠づける四つの基本的な「原則」である。これには、ⓐ女性が子どもを産むこと(妊娠・出産)、ⓑ男性が女性を受胎させること、ⓒ男性がたいてい集団を統制すること、ⓓ近親者は性的関係(近親相姦)をもたないことが含まれる(三七〜三八頁)。
右の「基本的条件」から成り立つ多様で複雑な親族関係を分解していったとき、それ以上はもはや分解することのできない「要素的」単位に行き着く(四七頁)。それはいわゆる「核家族」ではなく、ⓐに支えられた「母子のきずな」である(四八頁)。地上の霊長類社会では「群れ」が大きな単位としてあり、そのなかでオスの順位組織と母子の結びつきが実質的に働いている。このような構成を人類もまた進化の過程で共有している。しかし、家族および親族という社会的関係が登場するためには、要素的単位としての母子の結合に男性=父が補充されなければならない。このとき焦点となるのは子の帰属である。オスの順位組織に由来するⓒ「男性による統制」をつうじて、子の帰属先を異にする父系または母系の「婚姻」結合が「制度」として創設される(五二〜六一頁)。母子のきずなが必然であるのに対し、婚姻によるきずなは多様である。母子の結合に婚姻による結合が付け加わってはじめて、「父親」や「婚姻家族」が生じるのである(五一頁)。
フォックスの理論的枠組みは次の三つの水準から成り立っている。すなわち、多様で複雑な親族システムという全体、親族システムを構成する「要素的単位」、そして親族関係の単位(とその全体)を成り立たせる「基本的条件」である。逆から言えば、生理的事実を背後にもつ基本的条件、この条件から成り立つ要素的単位、それにこの単位から構成される全体システムとなる。この枠組みを検討することによって、後の展開ための地ならしをしておこう。
まず確認しておくなら、人間の存在=世界経験を成り立たせる条件には、社会的関係の次元以外に、身体的道具的行動の次元と言語的象徴的意味づけの両次元がある。これら三次元が連関し合うことで人間の世界経験が成り立っている。ところが上述のように、フォックスの枠組みの焦点は「社会的関係」であり、そのかぎりの「基本的条件」である。内容の検討に入ろう。「基本的条件」として、生命のリズム(生と生殖と死)、異なる二つの性、そして四つの原則が挙げられている。ここで起こる疑問の一つは、霊長類の群れから受け継いだ「四原則」がそのまま導入されていることである。しかし、人間の社会的関係を、動物学的事実とその背後の「二つの性」という「生理学的」事実に還元できるのだろうか。フォックスの枠組みは全体として「バイオグラマー」の発想に貫かれている(11)。もう一つの疑問は、「基本的条件」が固定されていることである。しかし、ベイカーの予見を考慮すれば、生殖テクノロジーの利用によって「基本的条件」が変更される可能性は十分にある。ひょっとすると、「基本的条件」そのものが変質し、さらには消えてしまうかもしれない。あるいは、ギデンズの見通しを考慮するなら、「男による統制」は男女対等の「純粋な関係」に転じる可能性がある。
「要素的単位」では、「基本的条件」から「母子の結合・きずな」だけが導出され、しかも固定されている。この点は「母子世帯」を強調する同じ英国人のベイカーでも同様である。こうなると、父子結合や、子なしのカップル、同性カップル、同性カップルと子、単身者などの「単位」が最初から排除されてしまうことになる。しかし、「基本的条件」が変容するなら「要素的単位」も変容せざるをえないだろう。同様に、「要素的単位」が変化すれば「多様な全体」もまた変容するだろう。彼の枠組みでは(原著出版年は一九六七年、教科書という性格もあって)一九七〇年代以降今日にいたるまでの親族と家族の変容が十分に考慮されていないし、欧米の「核家族」がヘアー・インディアン社会のそれと同列に扱われてさえいる。実際には、制度的圧力が減じて、家族の個人化あるいは「家族」離れが進行し、「家族」のモデルが消えているのである。

 

五 〈規範システム〉と〈とも〉感覚

本章冒頭の問いは、「家族」の未来のかたちであった。それを思い描くには、フォックスが言う「基本的条件」以外の重要な条件を探りつつ、多様な社会形態に対して「制度」という視点を強調し、さらに「要素的単位」の変容を考慮すべきではないかと考えられる。いささか簡略ではあるが筆者なりの見通しを立てることで、冒頭の問いに応えてみたい。

〈規範システム〉と二者関係
人間の「基本的条件」には、社会的関係を焦点にするかぎり、フォックスが挙げた条件よりもさらに重要な条件として、同じく霊長類の群れから受け継がれ、人類において著しく発達した「互恵性」すなわち〈好意の返し合い〉の感覚がある。この〈好意の返し合い〉をつうじて、敵対・反目でも無関心・無視でもない「親愛の関係」が二者のあいだに生じる。そしてこの「親愛の関係」が重なり合うことによって「仲間」が形成される(12)。ただし、「親愛の関係」は二者同士の内部においても、あるいは、外部の群れ=競争相手の暴力によっても、脆く壊れやすい。しかもその不安定さは群れの規模が大きくなるほど高まるにちがいない。
その種の本質的な不安定さを解消・軽減するには、二者間の「好意の返し合い」がはらむ潜在的暴力を抑制し、さらには共同=仲間意識をもたらすような超越的な仕組みが不可欠である。ここに不可避かつ不断に要請され産出される仕組み=禁止こそ、人類の群れを人間の社会として成り立たせ、多様な社会全体をいつでも同一の社会形態とさせる〈規範システム〉にほかならない。このシステムが多様な規範=制度を具体化しつつ不断に産出するのは、親密な関係と敵対の関係とのあいだの中点、すなわち〈友好な関係〉である。M・モースが注目した恩恵への感謝とお返しの義務の感覚もそこに根ざしていると考えられる。なお、ここに要請された〈規範システム〉は、ひとたび創設されると、集団の凝集力の上昇につれてますます超越化することだろう。
「要素的単位」とは、〈規範システム〉と諸制度の下で成り立つ特殊な社会形態を支える基礎的な結合であると同時に、「親密な関係」の担い手でもあるような、「家族」にほかならない。これはこれまで「親族」から「拡大家族」をへて「核家族」にいたるまで多様な形態をとってきたが、その最小の形態は、フォックスの指摘するように、たしかに「母子結合」に「男=父」が加わったものであろう。しかし、それが当てはまるのはあくまで「制度」内部での話であって、制度が発生する以前には好意を返し合う「二者関係」とその重なり合いだけがあったと考えられる。それと同様に、制度の圧力が弱まった今日では、前節まで概観し確認してきたように、一種の水平的な「二者関係」が新たに出現し、やがては未来でそれが主流になるものと想像される。このとき〈規範システム〉の下に出現するのは、「バーチャルな制度と輪郭の薄い私同士の関係とのカップリング」であると考えられる(13)。いずれにせよ、母子結合には還元されない二者関係こそが最小の要素的単位となるだろう。
今日から未来にかけて主流になると予想される二者関係、すなわち「輪郭の薄い私同士の関係」を、〈誰かとのつながり〉と形容してみよう。〈誰かとのつながり〉は「核家族」や「純粋な関係」や「母子結合」よりもさらに基盤にあって、たんに「誰かとつながっている」、「誰かが気にかけていてくれる」、「誰かを気にかけている」といった、ただそれだけの内実をもつ。その「誰か」は人でなくてもいい。ペット(コンパニオン)でも、極端な話、植物でも、ロボットでも構わないかもしれない。そのような「誰か」とのつながり合いもまた、もとより〈友好な関係〉をめざしており、場合によっては「親密な関係」に傾くことがある。〈誰かとのつながり〉にともなう感覚=センスをここでは〈とも〉感覚と呼ぶことにする。

〈とも〉感覚と多様なつながり
話を今日の若者世代につなげてみよう。彼らは日本でもスウェーデンでも同様だが、概して一様に平和を志向する心やさしい青年たちに見える。とくに男性の場合はいくぶんオタク的で、最近の言い方だと「草食系」動物になりつつある。彼らの〈薄い私どうしのつながり合い〉は一面、他人との関係に深く関与することを好まない。それは「家族」のきずなの薄れ、自己の輪郭の薄れ、生死の境界の薄れに対応している。しかし他面では、家族の垣根を越えて社会的に薄く広がる。例えば、ケータイの闘病記をきっかけとして、ケータイだからつながる輪ができ、各地でコンサートも開かれたりもする。あるいは、肩書きも年齢・性別・国籍も関係なく、ネットをつうじてグローバルにつながり合う。さらにネット内のつながりがネット外にも連続する。
このような今日の若者世代の感覚は、筆者の目には〈とも〉感覚の先取りのように映る。不足している面があるとすれば、苦しみやストレスに耐える力、独立する逞しさ、勇気と荒々しさであろうか。ともかく、彼らの薄いが広がりのある社会的なつながり方を肯定し、その社会的な感覚に〈とも〉感覚という明瞭な表現を与えることで、自信を持って未来へと前進するよう背中を押してあげることが必要であろう。そして今日の若者世代の延長線上に未来の世代が登場する。それでは、彼らにとって親密な関係はどのようなかたちをとるのだろうか。これが冒頭の問いであった。
まず、輪郭の薄い私を中心にして親密な関係のかたちはますます多様化する。事実婚、母子家庭、父子家庭、三世代家族、核家族、同性愛カップル、同性カップルどうしの子ども家族、などなど――そこには標準となるモデルはない。共通の土台となっているのは〈とも〉感覚だけである。セクシャリティと愛情をともなう〈とも〉関係もあれば、セクシャリティと愛情抜きの〈とも〉関係もあろう。広く薄い多重のつながりだけの場合もあれば、その広がりのうえでの特定の狭く濃い関係もあろう。セクシャリティと愛情の面では、権力・競争志向の暴力的な男性は少なくなり、激しさや荒々しさをともなうエロティシズムも〈とも〉感覚に裏打ちされるだろう。
子どもに関して言えば、子どもを産みたいカップルもあれば、欲しくないカップルもある。産むか産まないかの選択は、制度的な圧力よりも「自己アイデンティティ」の有り様が大きく左右するだろう。産みたい場合に生殖テクノロジーの利用は避けられない。大切なことは、社会の宝=共有財産としての「子ども」という見方であり、社会と文化の担い手としての「子ども」という視点である。それが社会の共通の目標になって、テクノロジーの利用と制度が方向づけられる必要がある。少数の生まれた子どもを大事に育てるのは親だけではなく、周囲の大人たち全員なのである。〈とも〉感覚を共有し、親とともに親をこえて周囲の大人たちが援助する。それをバーチャルとはいえ国家の制度が多様な形でバックアップする。ここでも社会の目標を実現するのは〈とも〉感覚である。
高齢者ではどうか。すでに今日、墓に関し家族を超えてつながり合う中高年世代の動きがある。あるいは、高齢者世代どうしで助け合って暮らす動きもあれば、自宅とか病院といった固定した空間にとらわれず、自分の「居場所」を確保しようとする地域の試みもある。いずれにせよ、〈とも〉感覚を共有しつつ、残された日々を過ごし、看取り看取られ、見送り見送られるのである。

 

謝辞
本稿をまとめるにあたり、短期とはいえスウェーデン社会で暮らした日々は、比較のための有益な物差しを私に与えてくれた。そのさい以下の方々からは特別の恩恵をいただいたので、ここに記して感謝したい。スウェーデンでセミナーを設け、シンポジウムに招待し、インタビューに快く応じてくれたリンシェーピン大学・健康社会研究部のスタッフの皆さん、とりわけ、私を招聘して御自宅で歓待までしていただいたノルデンフェルト教授夫妻、そして、現地で私の案内役となり、親密な関係をめぐって議論をした大学院生で医師の大槻朋子さん、また、彼女をつうじてスウェーデンで出会った若い世代のグローバル人たち。彼らとの楽しい語らいの時を忘れることはないだろう。

 


(1)これについては森下直貴(2009c)の第一節で論じている。
(2)家族または親密な関係の次元の変容をテーマとする本稿は、自己の生死の次元の変容を論じた森下直貴(2009a)の姉妹続編である。本稿の趣旨を理解するために併読していただければ幸いである。
(3)ここに列挙した映画作品の一部は、森下直貴(1999)の序章で詳述されている。
(4)元の論述は以下のホームページに掲載されている。浜松医科大学→大学案内→各講座案内→倫理学(http://www.hama-med.ac.jp)。
(5)旧厚生省の審議会の専門委員会報告書「精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療のあり方について」(二〇〇〇年)、日本産科婦人科学会の会告「代理懐胎に関する見解」(二〇〇三年四月)、代理母をめぐる二〇〇五年の東京高裁判決および二〇〇七年の最高裁判決、それに日本学術会議「生殖補助医療の在り方検討委員会」の報告書(二〇〇八年四月公表)である。なお、『法律時報』七九巻一一号掲載の座談会「生殖補助医療の規制と親子関係法」は参考になる。
(6)日本学術会議「生殖補助医療の在り方検討委員会」の報告書、一二、一四頁。
(7)『法律時報』七九巻一一号、一四頁。
(8)二〇〇八年の神奈川県や二〇〇七年の青森県の保険医協会の県民意識調査でも同様の結果が出ている。
(9)とくに森下直貴(2009c)の第一節で言及している。
(10)なお、H・E・フィッシャー(1982)では、男女の間のコミュニケーション(睦まじい会話)に人類進化の原動力が求められているが、それも互恵的な相互行為の一部に含まれるだろう。大局的には集団関係に照準を合わせたフォックスの捉え方がより本質的であると思われる。
(11)「バイオグラマー」についてはタイガー&フォックス(1971)。また、森下直貴(1992)の七一〜七二頁で概述している。
(12)R・フォックス(1967)でも、「良心」(九一頁)や「互恵主義」(二四七頁)と「贈与」(二八〇、二九頁)に言及されているが、単発的である。
(13)森下直貴(2009c)の第一節では〈輪郭の薄い私〉をメタフォリカルに「虫」と命名している。

 

文献
井上治代(2003)『墓と家族の変容』岩波書店。
A・ギデンズ(1992)『親密性の変容』松尾精文・松川昭子訳而立書房、1995
L・タイガー/R・フォックス(1971)『帝王的動物』上・下、河野徹訳、思索社、1975
竹崎孜(1999)『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』あけび書房、一九九九年
原ひろ子編(1986)『家族の文化誌―さまざまな形と変化』弘文堂
H・E・フィッシャー(1982)『結婚の起源』伊沢紘生・熊沢清子訳、どうぶつ社、1983
R・フォックス(1967)『親族と婚姻』川中健二訳、思索社、1977
R・ベイカー(1999)『セックス・イン・ザ・フューチャー』村上彩訳、紀伊國屋書店、2000
森下直貴(1992)「エトスの生成と身体―ゲーレンの制度論をめぐって」『思想と現代』三〇:
六一-七五
――――(1999)『死の選択―いのちの現場から考える』窓社
――――(2009a)「無形のものたちのリアリティ―日本人の死生感の現在」、『死生学研究』特集号
「東アジアの死生学へ」五七-七九、東京大学大学院人文社会系研究科
――――(2009b)「『デーミウルゴス』的主体性とその彼方―J.-P.デュピュイのナノエシックスの
『哲学的基礎づけ』をめぐって」、『生存研究』B:九五-一一一、生存科学研究所
――――(2009c)「西田・三木・戸坂の思想と〈ものの思考〉」、津田雅夫編『〈昭和思想〉新論―
二〇世紀日本思想史の試み』文理閣、第二章
湯沢雍彦・宮本みち子編(2008)『新版 データで読む家族問題』日本放送出版協会

要旨
人間の「家族」はこれまで、「親族」から「拡大家族」をへて「核家族」にいたるまで、多様な形態をとってきたが、その要素的単位は「母子結合」に「男=父」が加わったものである。しかし、人類史の広がりのなかでその成り立ちと行く末を展望するとき、「家族」を取り囲む境界の自明性が揺らいでくる。規範システムと制度が発生する以前には、好意を返し合う「二者関係」とその重なり合いだけがあった。他方、制度の圧力が弱まった今日では、母子結合に還元されない二者関係、すなわち「輪郭の薄い私」同士の関係が広がっている。おそらく、この関係がやがては未来で主流になり、それを核として、親密な関係や出産・子育てや看取りの場面で、多様なつながりが生じるだろう。結局、家族と社会の「崩壊」を徒に嘆くのではなく、むしろ若者世代の感覚を肯定的に受けとめることで、「社会的連帯」の新しいイメージを持ち、多様なつながりを受けとめる柔軟な倫理的枠組みを構想する必要がある。