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2017.03.08

近代日本倫理学と共同性 倫理学年報2013

倫理学年報掲載

近代日本倫理学の〈共同性へのまなざし〉
—特殊性ではなく、《普遍的個性》へ—

森下 直貴

はじめに
現代の「自分」が「近代日本の倫理学」を「反省」するには、比較という操作を必要とする。というより、比較(の比較)という作動そのものが反省にほかならない。この堤題では、まず比較のために二つの観点を導入したうえで、予稿集の中で示した〈共同性へのまなざし〉を和辻倫理学へと絞りこみ、その「人間存在」概念の問題性を指摘する。以上をふまえて、現代日本の倫理学のめざすべき方向が、「特殊性」の純化ではなく、比較の高次化をつうじて避け難く生じる変異・雑融の帯びる《普遍的個性》であることを主張したい。

一 明治哲学と世界的同時代性
比較のための観点の一つは「明治哲学」である。これを展望台として近代日本の思想の継承連関を見渡すとき、アカデミズムに関して『哲学会雑誌』やその後身の『哲学雑誌』に即するかぎり、井上哲次郎の存在が群を抜いて際立っている。この井上から西田へと続くラインの延長上に和辻を位置づけることによって、和辻倫理学の独創性のみならず、明治哲学以来の共通枠組の中での差異性もまた浮かび上がる。
井上はこれまできわめて低く評価され、そして忘却されてきた。最近ようやくわずかに見直されつつあるとはいえ、いまだ評価を変えるまでには至っていない。そうした井上評価は、福沢・大西・三木・丸山という継承ラインが戦後の近代日本思想史観の主流であったことと関連する。この報告であえてアカデミックな倫理学の継承ラインに注目するのは、福沢以下のラインを無視するということではなく、両ラインの対抗関係を視野に入れてはじめて、近代日本思想史の全体が立体的に記述できると考えるからである。
明治期の前半、西洋の近代文明が怒濤のように流入し、東洋的な伝統文化と衝突する中で、深刻な思想上の混迷状況が生じていた。これを打開するために当時の「哲学者」は独自の思索をくり広げたが、そのうちで今日からみて注目に値するのは、世界観・形而上学に関して井上らの世代が唱えた「総合」である。これはいわゆる「折衷」ではなく、異なる伝統を通底する共通なものの捉え方のうちに、自己を培ってきた伝統がおのずから滲み出し、そこに避け難く生じる変異・雑融の帯びる《普遍的個性》への志向であると解せる。しかし、その志向は大正期をへて昭和期になると狭隘化し、やがて日本精神の純粋な「特殊性」へと変質する。
比較のためのもう一つの観点は近代世界における「同時代性」である。この観点によって近代日本の倫理学は、西欧を含めた近代移行期の倫理学一般のうちに位置づけられる。そのとき突出するのは次の二つの対抗軸である。
一つは、個人主義・自由主義・功利主義に対する広義の共同主義(共同一致・共同性)という対抗軸である。後者への偏向は近代日本のアカデミックな倫理学を一貫しているが、実際には、階層身分社会から機能分化した近代社会への移行期に共通する特徴である。やがて近代社会が個人主体の自由主義から、新たな科学革命・組織された産業・帝国主義的競争へと進展するにつれ、対抗する共同主義の側もロマン主義・農本主義から、社会主義・民族主義へと移行する。この動向は欧米の哲学思想に鋭敏に映し出され、それが日本の思想界にも波及する。
もう一つ、アジアにおいて後発的近代化を歩んだ日本の場合、日本対西洋あるいは日本対東洋という対抗軸がそこに重なる。西洋列強の侵略に対抗して日本国家の独立を真っ先に考慮するのは、明治の思想家に共通する発想である。この意味でのナショナリズムは、日本が近代国家の体制を整え、先行する帝国主義諸国と肩を並べるに至る過程で、劣等感から劣等感を反転させた優越感へと変容するが、これまた一般的現象である。

二 和辻倫理学の「人間存在」
和辻倫理学の場合、近代日本倫理学を一貫する〈共同性へのまなざし〉は、A民族=国民(人倫)、B人間存在、C風土的身体的感受性、という三水準の共同性構造に具体化する。ここでBの「人間存在」は「間柄」および「実践的行為的連関」の二側面から構成される。「人間」に対応する「間柄」の側面は全体性・個人性の二重性をもつが、その根源はA「国民」の理念に求められる。他方、「存在」に対応する「実践的行為的連関」の側面は、マルクスとハイデッガーを下敷きにしており、「日常的表現の了解」を通ってC風土的身体的感受性に帰着する。
ニーチェから出発した若き和辻は、真情の結びつきを求め、精神文化への関心と類い稀な解釈センスをもって、世界文化の延長上に古代日本文化を発見する。そこから「国民」の立場にジャンプするさい、決定的な事件が二つあった(「地異印象記」ならびに「一つの私事」、『和辻全集第二三巻』所収)。前者は「我なる我々、我々なる我」という国民(人倫)の理念を彼に着想させ、後者はその理念を象徴する天皇(皇室)への尊崇の念を深化させた。
和辻の「民族」(国家との連関では「国民」)はヘーゲルのいう「人倫」である。この民族または国民の視点が、「人間存在」における「人間」すなわち「間柄」の解釈に映し込まれる。全体性・個人性の二重性における個人とは、全体を映し出す個人であり、井上のような有機的団体の一成分である個人に比べると、自覚の度合いがはるかに深く、理念的で感情的に共同一致を志向する。このような個人は国民したがって人間であることを離れては存在しえない(以上は主として「国民道徳論草稿」より)。
他方、「人間存在」における「存在」は主体的な「実践的行為的連関」である。これが和辻では直ちに「日常的表現と了解」として把握されるが、その下敷きとなっているのはハイデッガーの「世界内存在」である。両者に共通するのは“Vorhandenheit”と“Zuhandenheit”の区分であり、前者を後者の抽象とみなす視点である。同じくハイデッガーの区分を受け継いだ三木が後年、西田の後期哲学に沿って“Zuhandenheit”を身体的制作的な主体性の方向で解釈したのに対して、和辻は風土的身体的な感受性の方向を選んだ。この場合、日常的表現の「意味的連関」は直ちに了解されるが、それは「表現の海」にはそもそも意味の多義性が存在しないからである(以上は主に「国民性の考察」ノートより)。

三 意味的連関と《普遍的個性》
和辻倫理学の問題性はひとえに〈区分する視点〉の無自覚に基因する。例えば、個人主義/共同主義という対抗軸は、社会に結びつかない個人/個人のいない共同態という対立ではなく、個人の社会/共同態の個人という対立であり、両者の基盤にある「意味的連関」を区切るさいの視点の違いにほかならない。しかし、この事態が和辻には見通せていない(同じことはおそらく、和辻倫理学を否定する側にも当てはまるだろう)。
意味的連関の起点は〈視点〉、しかもつねに特定の誰かの〈視点〉である。その視線(まなざし)は区分(distinction)を指し示す(indication)。〈指し示す区分〉が〈指し示された区分〉を指し示すところに「意味」が生じる。区分のこちら側だけを指し示し続けるとき、システム(自己)が成立すると同時に、向こう側である環境(外部)も成立する。
コミュニケーション(そしてそのシステムとしての社会)とは、自他の意識のあいだで意味の解釈(理解)が接続することをいう。この接続の回路にとって自他の意識そのものは外部に留まる。そのためコミュニケーションはいつでも、受け手側の意識における理解の多義性に左右され、偶発的な選択に翻弄されることになる。
比較する視点もまた、あくまで自己の内部において、直観された自分の解釈と観察された第三者の解釈とのあいだを往来する。その帰結として選ばれた意味は、コミュニケーションの中で多数の他者による理解の変容をつうじて共有される。しかし、ここが重要な点であるが、共有された意味の「一致」は、それを求めてひたすら接続しつづける(客観化の)作動のうちにしかない。無数の誰かの視点(主観的意識)が、意味の共有をもたらしつつ、同時にそれをたえず変異させるからである。
和辻倫理学の「人間存在」はたしかに意味的連関そのものに肉迫してはいる。しかし、「くにたみ」すなわち「土地を基盤とする民衆」(全集二三巻、三七七頁)という、理念的な国民の視点によって区切られた「土地」に拘泥した結果、その核心に届くことはない。とすれば、現代日本の倫理学のむかうべき方向は、「国民」によって制約された「特殊性」ではなく、比較の高次化によって不可避に生じる変異・雑融じたいが帯びる《普遍的個性》ではあるまいか。