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研究業績

RESEARCH WORKS
2017.03.09

生命倫理学とは何か ワード版(図なし)2012.1

シリーズ生命倫理学 第1巻『生命倫理学の基本構図』所収

第1章 生命倫理学とは何か――ゆるやかなコンテクストの創出へ

浜松医科大学教授 森下直貴

はじめに
本巻の総論であるとともにシリーズ全体の巻頭に位置する本章では、生命倫理学の本性と可能性をめぐってあえて一歩ふみこみ、従来の議論では見られなかった新たな視圏と視点を提出する(なお、これまでの通説や議論水準に関しては第2章以下を参照されたい)。今日、生命倫理と呼ばれる領域の拡大・拡散につれて、生命倫理学の「中心の不在」という事態がますます進行している。「不在の中心」を見いだすためには、「生命倫理」の意味を人類史のなかで捉え直すとともに、倫理学の従来の理論枠組みの限界を見極める必要がある。その作業を通じて浮かび上がるのは、最広義の生命倫理の学的反省の可能性が、対立し合う諸理論・価値(テクスト)の新たな出会いを可能にするような、ゆるやかな「コンテクスト」の創出にかかっているということである。その種のコンテクストを創出する鍵は、生命の循環を貫いている「他なるものの協動」という論理に根ざした「物語」の視点にある。そしてこの「物語」は、親密な関係性の次元だけでなく、自己性の次元でも、さらには公共性の次元でも同様に成り立つであろう。

1 生命倫理学の「中心の不在」に直面して

生命倫理学の本性と可能性を考えようとするとき、そこに歴史的な視線を差し向けてみることは、教科書や事典の「定義」をたんにそのまま紹介することより、はるかに意義のあることだと考えられる。そこで考察の手がかりとして、米国バイオエシックスの牽引者の一人であったジョンセンの回顧録をとりあげてみよう。なお、ここでは米国の生命倫理学をあえて「バイオエシックス」と表記しておくが、この理由は後で明らかになる(1)。

ジョンセンの回顧ーー実践化と歴史的視点
ジョンセンがバイオエシックスとの関連で論じている時期は、1947年から1987年までの40年間である。ニュルンベルク軍事法廷から始まった研究倫理への関心は、続く1950〜60年代になって医学・科学の進歩にともなう倫理的問題として意識され、数々の国際会議のシンポジウムを促した。しかし、会議の内容は具体的な政策に集約されることなく、個々の「研究者の良心」に対応が任されていた。ようやく1960年代の後半になって、神学者と哲学者(それに法学者や社会学者)たちの散発的な活動が収束し、末には二つの研究センターに結実する。そして1974年から1983年までの10年間、両センターに支えられて「国家委員会」が活動する。そこでは人体実験、遺伝学、終末期患者のケア、臓器移植、中絶と人工生殖などのテーマが論じられ、多種のガイドラインや具体的な政策が打ち出された。
ジョンセンはバイオエシックスの基本特徴を「学問と対話」にみている。このことは、さしあたり倫理の議論が専門家の内部から市井の人々のあいだに移行したことを意味するが、もっと掘り下げていえば「倫理学の実践化」を含意している。米国の倫理学はそれまで英国の学風を受け継いで「言語分析」に自足していた。バイオエシックスの初期の担い手たちはそうした現状に飽き足らず、リベラルな雰囲気の中で医学研究の状況に敏感に反応した。こうしてエシックス(倫理学)そのものの再生という願いがバイオエシックスの運動に託されたのである。この点はヘースティングスセンターの創始者キャラハンも強調するところである(2)。
「実践化」とともに注目したいのは歴史的な視点である。ジョンセンは「あとがき」の中でエイズ感染を念頭におきながら、バイオエシックスは1987年以降に新たな段階に入っていると指摘している。バイオエシックスは研究倫理(被験者の自律中心)から出発し、やがて医療倫理全般(臨床への展開、患者個人の治療・ケア、自律原則)へと展開してきたが、いまや住民の健康とか、共同体・環境の安全・健康、保険制度・正義を問う「社会哲学」へと移行せざるをえないという。以上の指摘にはバイオエシックスをめぐる理論状況が反映されている。たしかに1990年代のバイオエシックスは理論的・方法論的に多様性と混沌の時期に突入していた(3)。

生命倫理領域の拡大・拡散
しかし、ここで留意しておく必要があるのは、理論上の多様性は生命倫理の領域の拡大によってもたらされたのであり、しかもその拡大はじつはジョンセンが見ている範囲をこえて拡散しているという点である。図1をみていただきたい。この座標図は二つの軸、すなわち「病気からの回復」対「健康への願望」という軸と「制度・ルール」対「身体・自然」という軸によって構成され、そこに四つの領域、すなわち、個々人の欲望、介護や老い、医学研究と公衆衛生、それに医療制度が成り立っていることを示す。これらの領域はこれまで医療倫理の範囲に収まっていたが、今日では医療倫理をはみ出し、それぞれ拡散していることが矢印で表わされている。
このような拡大・拡散の動きの背後では、バイオテクノロジーや、ニューロサイエンス、ロボティクス、コンピュータ技術、ナノテクノロジーなど、多種多様な分野を巻き込んだ巨大なテクノロジーの力が働いている。ジョンセン自身の集合体ベースのモデルでは、おそらくそのような拡大と拡散の動きに対応することはできないであろう。この理由の説明についても後回しにするが、ともかく歴史的観点に立ったとき、2000年代の現在の我々の目に映じてくるのは、生命倫理の領域が拡大・拡散することによって、1990年代の多様性と混沌の水準をはるかに超えて、生命倫理学の学問としてのアイデンティティの散逸、別言すればその「中心の不在」という事態がますます進行していることである。

図1              健康・幸福への願望

保健・年金制度     エンハンスメント
厚生政策 人工化

制度・ルール        医療倫理        身体・自然

公衆衛生対策        介護・リハビリ
医学研究        老い・死

傷病からの回復

ひるがえって日本の事情はどうであろうか。バイオエシックスの導入時、その「自己決定」という「個人」ベースの視点には反対の声もあった。しかし、患者の意向を中心にする見方は1990年代に入って徐々に浸透し始め、今日では現場にもすっかり定着している。そして生命倫理すなわち医療倫理という等値がほとんど自明化してすらいる。ところが、日本ではちょうど同時期、1980年代後半からのポストモダン化を皮切りに、1990年代以降のグローバル化、そしてその後のデジタル化が進行し、これらの動きが相まって従来の家族のかたちや、社会と個人との関係、自己の在り様を大きく変容させていったのである。これらのますます進行する動きはいわゆる近代的なもの(モダン)をはみ出し越え出ている。それに対して、個人の自己決定の原理への固執とは基本的にモダンへの固執である。とすれば、バイオエシックス(生命倫理学の主流)にみられるその種の固執は、世界の現実の動きに逆行するだけでなく、ジョンセンの見通しとさえずれていることになろう。まことに奇妙にねじれたな事態といえる(4)。

学としての可能性の中心へ
以上の概観から浮かび上がるのは、現在の生命倫理学には学としてのアイデンティティもしくは中心がないということである。「中心の不在」という事態は日本でも米国でも同様である(5)。とすれば、いまやそうした状況から一歩ふみ出す必要がある。もちろん、部分的ではあるが、すでにそのような動きがないわけではない。バイオエシックスは当初、国家や市場の力と結びついたテクノロジーの力を背景にして、環境問題をも包含する文明論的な学際研究を志向していた。その志向がその後の展開の中で医学研究倫理やそれをモデルにした医療倫理に限定されていったのである。そのような経緯をふまえて生命倫理を反省する動きはいま日本でも米国でも出始めている(6)。とはいえ、それらは現時点ではいまだ未来への展望を描くところまでには至っていないようにみえる。この章ではそれらの動きと同期しつつも、さらに大きな歴史的視野において生命倫理とその学の反省を押し進めることにしたい。

2 最広義の「生命倫理」――「生命をめぐる倫理」

生命倫理という領域が医療倫理を越えてますます拡大・拡散しつつあるとすれば、この領域を実践的に反省する生命倫理学には、それに見合うだけの人類史的な視点が要請されることになろう。この人類史的な視点からながめるとき、「生命倫理」はその最大の幅と奥行きをもって、いわば「生命をめぐる倫理」として浮かび上がるであろうし、「バイオエシックス」はその歴史的な一形態として位置づけ直されることであろう。以下、私見をたたき台として提示することで、そこに浮上する「生命をめぐる倫理」の内実を一歩ふみ込んで把握してみたい。そもそもそこにいう「生命」と「倫理」は何を意味するのであろうか(7)。

生命とは
最初は「生命」の本性である。ここではそれを「滞ることなく流れる循環」として捉えてみよう。物質は個々の断片的な「動き」が集まって成り立つ一定の循環的な動きである。この物質(元素)の循環の一部を一定の回路に引き込むことで生命の循環が生成し、この循環の中からより複雑な循環の構成体が生成する。一連の動きから形が生じ、生じた形はまた動きに戻り、動きを通じて別の形に転じる。形とは差異の中から立ち上がる同一性である。このような動き/形(もしくは差異/同一)の転換を貫いている論理を「他なるものの協動」として把握してみたい。生命の循環を中軸にして、物質の循環から、時々刻々と変化するイメージの循環や、言語次元の意味の循環まで、多次元の循環が交錯し交叉する。生命の中で誕生と死亡があり、性の営みと多様性があり、病気とその回復としての健康がある。このように生命という循環は人間のあらゆる営みを貫通している。

倫理とは
次に「倫理」の本性であるが、これを捉えるにはその基盤である「規範的なもの」に目を向ける必要がある。「規範的」とは何らかの「規準」によって分割されている事態をさす。分割の基本は二項対立(「/」)であり、区分の境界線を引くことである。この観点から世界を捉え返してみると、個々の動きは一定の回路を形成するなかで形(=もの)を成立させるが、ひとたび成立した形(=もの)は個々の動きに対して「同一」なもの、つまり規準としてふるまう。ここに差異と同一とが転換する分割の世界が立ち現われる。この意味では、物質が循環する世界であれ、生命循環の世界であれ、すべてはそもそも「規範的」であってゆるやかに分割されている。
生きもの(生命体)は身体の同一性を不断に維持しながら、多様な動き(行動)を通じて世界を再分割している。とりわけ人間は、身体の中心の高次化として「自己」を感情としてもち、この自己感情を中核にする心の意識的な水準において世界を分割する(8)。人間にとって無数の多様なもの(形)たちは情的な生きものとして立ち現われ、それらとのあいだで言語次元に置き換えられた分割=意味がやりとりされる。分割=意味が人々のあいだでつながり、受け継がれ、受け渡されるというくり返しの中から、一定程度の共通な分割=意味が立ち現われる。「天/地」、「男/女」、「食べられるもの/食べられないもの」、「健康/病気」、「生/死」、「成人/未成年」等がその例である。こうして生きものの分割世界は人間特有の分割=意味の世界に変換される。
ものたちとの交互的なやりとりのうちには、感情の諸次元に沿って、見えないものたちとの恐怖と不安の感情に根ざしたやりとりもあれば、見えるものたちとの好意と敵意の感情に根ざしたやりとりもある。後者のやりとりの中で、個々人または集団のあいだに生じる緊張・対立(とくに女性をめぐる)を背景にして一定の境界線が引かれる。それが「倫理的なもの」である。「仲間/敵」、「殺してはならない/殺してもよい」、「婚姻関係を結べる/結べない」、「自分のもの/他人のもの」がその例である。ここで引かれる境界線は後の制度的な分割と比べるなら、いまだ「ゆるやかで流動的な分割」にとどまっている。
倫理的なものは外部の力によって左右される。まず、部族の内外での争いと国家の形成によって、当初のゆるやかな分割は硬直した不可逆的な分割へと限定される。ここに狭義の「制度的なもの」が成立する。その後も種々の外部の力に取り囲まれ、それらの配置の変化に応じて変容する。近現代でいえば、「国家の力」「習俗=宗教の力」「資本の力」「テクノロジーの力」が絡み合い、「言説の力」を媒介にして「倫理」を変容させてきた。日本社会の場合、明治から昭和の前半まで支配的であったのは「国家の力」と「資本の力」の絡み合いであるが、1970年代以降とくに1980年代以降になると、価値・商品・資本・マネーとしてすべてを平準化する「資本の力」と、数量化・機械化する「テクノロジー(またはテクノサイエンス)の力」とが絡み合うかたちになる。そして1990年代後半やとくに2000年代になって、デジタル・テクノロジーの力が強烈な影響を及ぼし始めている。

生命倫理とは
以上の概述をふまえていえば、「生命倫理」という領域は、「倫理的なもの」が「生命」という広義の「規範的なもの」の基盤に置きもどされ、これと結びついて捉え返されたところに成立する。そして「生命倫理学」とは、そのように捉え返された世界分割の境界線のすべてを再考する営みである。したがってこの学においては、生命に関連するあらゆる境界線が問い直され、引き直される。この引き直しは生命の内部だけにとどまることなく、さらに生命と非生命(物質・機械や文化)のあいだにも及ぶ。
話を医療倫理の分野に限定してみよう。ここにも分割の境界線が縦横に走っている。例えば人工妊娠中絶の場合なら、人間/胎児(人格=対等の資格)の境界をめぐる対立である。この分割は胎児のみならず、受精卵・胚や各種の幹細胞でも同様である。脳死移植の場合では生/死、自己/他者という境界線が問われる。生命の操作の場合では生命/非生命、人間/動物、生体/機械体という境界線が張りめぐらされている。あるいは、専門家の職業倫理としてみれば医療者/患者、医師/看護師/その他のメディカルスタッフ、医療/非医療、治療/非治療などがそうである。そして家族/非家族という境界線は医療に関連するすべての境界線を横断している。

3 人類史における「生命倫理」の三段階

最広義の生命倫理としての「生命をめぐる倫理」は、「制度的なもの」(国家と文明)が成立して以降、宗教と結びつきながら医療の領域でいち早く具体化された。それが専門家の職業倫理を内容とする医療倫理である。その意味では医療倫理が生命倫理の中心に位置するのは当然ともいえる。従来、伝統的な医療倫理はバイオエシックスと鋭く対比されてきたし、さらにそのバイオエシックスが多様な立場から批判されてもきた。しかし、「生命をめぐる倫理」という共通の枠組みを設定するならば、それらはその同じ枠組みの中での差異にすぎないことになろう。そこで以下、「生命をめぐる倫理」を人類史の中に置きもどし、あくまで試論ではあるが、生命倫理Ⅰ、生命倫理Ⅱ、生命倫理Ⅲという三つの段階に区分してみよう。表1をご覧いただきたい。

生命倫理Ⅰ
生命倫理Ⅰは伝統的社会(あるいは近代社会以前)の段階の生命倫理である。これを三つの時期に分けてみよう。最初は原始時代にシャーマンによって指導された集団的な癒しである。そこにはすでに医療倫理を構成するすべての要素が萌芽として出揃っている。すなわち、病む人、心配する縁者、シャーマン(癒しの専門家)、病気と死、回復への願望と技術、である。それらはやがて医療を担う専門家集団の職業倫理にうちに集約され、生命倫理Ⅰの「原型」ができ上がる。西洋の医学史でいえば「原型」はヒポクラテス(そして後のガレノス)に体現される。このような動きを広く見渡せば、宗教思想や哲学思想でいう「軸の時代」に呼応している。また、後のキリスト教世界の修道院ホスピタルも「原型」の一つと見ることができる。そうした動きは西洋世界だけでみられるのではなく、世界各地の文明においても同様にそれぞれの「原型」が形成される。以上の第二期を受けて、17世紀から19世紀のはじめ頃に、医療倫理としての生命倫理は「古典」として完成する。この完成期の例はパーシバルの医療倫理であり、これは近世の身分制国家の中で培われた古典主義(伝統)の表現といえる。日本にも漢方医学の養生法に基づいた医療倫理(仁)があり、その代表者として貝原益軒がいる。なお、この完成期の後半以降は次の生命倫理Ⅱの始動期と重なる(9)。

表1 生命倫理の三段階

生命倫理Ⅰ    生命倫理Ⅱ    生命倫理Ⅲ
1 始動期:萌芽  シャーマン、巫女 ベルナール実験医学   文明論的反省
2 形成期:原型   ヒポクラテス    種々のコード     現在
3 確立期:古典 パーシバル、漢方医学   バイオエシックス      ?
主導原理    養生・仁    個人の権利  他なるものの協動
生命倫理Ⅱ
生命倫理Ⅱは、近代的社会したがって近代国家と近代医学の時代の生命倫理であり、これまた三つの時期に区分できる。その始動期を象徴するがクロード・ベルナールの実験医学の宣言である。彼の著書では「隣人=被験者」の扱いをめぐってヒポクラテス倫理とキリスト教倫理とが緊張しているが、この緊張を解消しようとする研究倫理上の模索は19世末まで続く。次の形成期は20世紀の10年代前後から第二次大戦終結後の倫理コード宣言までである。1920年代にはヨーロッパ文化の危機が鋭く意識され、ダーウィン流の自然科学的な見方とヘブライズムやヘレニズムという二つの伝統との対立が露呈した。その中で科学的精神に立った医学による医療の改革が試みられ、それが研究倫理の規制の動きにも波及した。戦間期には科学的研究の組織化が図られ、1950年代に基礎研究とその臨床応用の華々しい成果がもたらされた。しかし同時に、その研究至上主義に対する歯止めとして各種の倫理コードが宣言された。そこに集約された個人の権利(人権)というモダニティ(近代性)の原理が、生命倫理Ⅱの「原型」である。1960年代末から70年代に確立したバイオエシックスはじつにその原型の完成であった。なお、完成期はさらに1990年代まで続くが、同時並行的に生命倫理の領域の拡大とバイオエシックスへの反省が進行する(10)。

生命倫理Ⅲ
生命倫理Ⅲもまた三つの時期に分けられる。始動期ないし準備期はすでに1960年代後半から1970年代にかけて萌芽的に始まっている。環境破壊とか、エネルギー危機、生物資源の枯渇をめぐって危機意識が広がり、近代に対して(経済体制を越えた)文明論的な問い直しが向けられた。例えばベックのリスク社会論がこの動向を代表する。そのような動向は生命倫理Ⅱの完成期の深部で進行し、1980年代になって顕在化してくるが、これが生命倫理の主流となったバイオエシックスの近代性に疑問を投げかけたのである。その後、以上の動きは1980年代後半のポストモダン化や、1990年代以降に明確となった資本=市場経済のグローバル化、そして1990年代半ばから目立ち始めたデジタル化となって広がり、こうして2000年代の現在につながる。現在は生命倫理Ⅲの「原型」を模索する形成期の入り口にあたる。来るべき完成期の到来が早まるか否かは現在の努力次第というところであろう。なお、表1に生命倫理Ⅲの原理として「他なるものの協動」が書き込まれているが、この点については後で言及する。

デジタル化ーー生命倫理Ⅱの本質
さて、ここで生命倫理Ⅲ-2にあたる現在をクローズアップしてみよう。何度か言及してきたように、三つの動きの重なりから生命倫理の領域の拡大と拡散が生じていた。その三つとは、Pポストモダン化(自己の感覚の脱制度化)、Gグローバル化(もの・人・資本の国境を越えた移動)、それにD情報デジタル化(すべての表現のデジタル一元化)である。これらの動きの様相を前述の座標軸上に(直観的だが)位置づけてみたのが図2である。
生命倫理の領域の拡大・拡散は三つの動きのうちでも、とくに広義のデジタル化によって集約され包括されつつある。広義のデジタル化こそは生命倫理Ⅲをもたらす動きの中心にある。サイボーグ化・人工化であれ、介助ロボットの導入であれ、あるいは、個人情報の管理であれ、ユビキタス社会の制度設計であれ、つまり、ミクロレベルの身体デジタル化からマクロレベルの社会情報化にいたるまで、すべてはデジタル化なのである。ここで「デジタル化」とは、すべての形(存在者)が比較・交換・転移可能な情報の束として同一の平面上に並べられることをさす。多様で異質の表現(形)はデジタル化によって同一のものとして処理される。デジタル化とはつまり「微分=合成」化の徹底なのである(11)。
実在(形あるもの、表現として存在するもの)の全面的なデジタル化、とくに身体・脳・心・環境のデジタル的改造は、物質・生命・人間に関する従来の考え方を根本から変容させるにちがいない。具体的には、人間/動物、生体/機械体、生/死、男/女、親/子、大人/子ども(成人/未成年)、自由/必然(人格・意志・理由)、自然/文化など、これまで世界を分割してきた種々の境界線が揺らぎ出すことを意味する。その中で差し迫って問い直しを求められているのは、生命倫理Ⅱの原理を支えている「近代的人格」概念である。この概念の核心は「個人」にあり、これを「意識」「自己」「自由意志」「責任」等の観念がとりまいている。個人から構成される「家族」や「制度」も同様である。

図2     健康・幸福への願望
医療制度・厚生政策             エンハンスメント・人工化
P国家からの離脱傾向     P「新優生主義」の傾向
G制度破綻の危機、国際市場     G海外ツーリズム、国際民法
Dアーキテクチャによる国民管理     D人工化・サイボーグ化
制度・ルール           拡大・拡張             身体・自然
P個人生体情報管理     P「家族」を越える支え合い
G感染症の広がり、国際共同治験     G外国人看護師・介護士
Dゲノムプール、人工細胞作製     D各種の介助ロボット
公衆衛生・医学研究              介護・老い
傷病からの回復

多元的なデジタル化としての生命倫理Ⅲに正面から対応しようとするなら、近代的人格の概念を成り立たせている境界線をゆるめ、より広い概念のうちに位置づけ直すことが必要になるであろう。デジタル化は新たな生命倫理学を要請しているのである。表1に書き込まれた「他なるものの協動」という原理を具体的に説明するためには、その前に生命倫理をめぐる議論の現場に立ち戻ってみなければならない。

4 生命倫理Ⅱの議論状況と「コンテクスト」の不在

生命倫理Ⅱ(バイオエシックス)の原理は「個人の権利」である。訴訟の場面であろうと、欲望やエンハンスメントの問題であろうと、この原理にもとづいて個々人の判断・意思に最終決定が委ねられる構成になっている。とはいえ、議論の構造を全体としてみたとき、個人(被験者や患者)の自己決定が最上位を占めるというのは、あくまで権利の上の話であって、実際には必ずしもそうではない。

常識と倫理学の理論枠組み
個人の判断はそもそも多義的である。そこには少なくとも、愚かな判断(愚行権)、(人生の目標に照らした)真正な判断、まともな(合理的=常識的な)判断の三種が混在している。そのうち最後の「まともな判断」がたいてい採用されることになるが、その「まともさ」とは実質的には「常識」を意味しており、しかも「常識」とは事実上、既存の特定の「共同体の善=社会の福利」にほかならない。他方、「常識」に照らして捉えられている点は「愚かさ」や「真正さ」でも同じである。あるいは、事情は判断能力のない存在者に関わる基準でも変わらない。「最善の利益」を判断する者が依拠するのもやはり「常識」なのである。
このように「常識」は実際の議論の基盤となっているが、その「常識」の背後には倫理学の伝統の中でこれまで培われてきた理論枠組みがある。すなわち、義務論や普遍的人権論のほか、功利主義や個人主義、共同体主義や伝統主義、自然主義もしくは生命主義である。それらに関連する価値理念を大きく捉えるなら、「正義」「幸福」「善」「共生」となる。図3は理論上の諸立場の相関関係を表わしている。座標軸は既述の枠組みを基本的に踏襲するが、願望がどちらかといえば個人に関連し、病気には個人を超えた力が働くことから、健康への願望を個体性に、病気からの回復を集合性に変更している。

図3                   個体性
正義   カント ロールズ  ロック  ベンサム  J.S.ミル  幸福
普遍         自由  個性
平等  権利 公正        利害
義務         安全  快苦
規約性         倫理学の理論枠組み          身体性
徳   信頼      苦しみ 弱さ
家族   伝統     連帯  支え合い
公共体  公民     自然 生命
善    アリストテレス         ヨナス       共生
集合性

倫理学の伝統的な枠組みを背後に抱えている点は、生命倫理Ⅱ(バイオエシックス)の理論でも同様である。例えば、ビーチャム&チルドレスの「四原則」の場合、「自律・自己決定」は「幸福」に、「無危害」は「共生」に、「慈善」は「善」に、そして「公正」は「正義」にそれぞれ対応している。ただし、「自律・自己決定」の位置づけは微妙であって、より正確には「幸福」と「正義」との境界線上にくる。その背景には英米系の哲学におけるカント解釈の偏りという事情が反映されているが、それについてここでは言及しない。あるいはジョンセンの「四分割」の場合、「医学的適用」は医師の専門性が関わるから「善」と「共生」とのあいだ、「患者の意向」は「幸福」と「善」とのあいだ、「QOL」は「共生」と「善」とのあいだ、そして「周囲の文脈」は「正義」と「善」とのあいだに位置しているとみなすことができる(12)。

日本における論議状況
以上を考慮した上で、生命倫理Ⅱにおける議論の状況に目を向けてみよう。そこでは個人の自己決定の観点がたしかに突出しているが、しかしそれは座標軸の上半分をカバーするにすぎない。この上半分の空間(個人ベース)に座標軸の下半分の空間(共同体ベース)が絡み合うことで、生命倫理をめぐる議論の全体が構成され、四つの異なる立場・理念が対峙する状況が生じている。図4をみていただきたい。

図4                 個体性
人権       個人の自由
人間の尊厳      人類の幸福
規約性      日本における論議状況     身体性
共同体の善      生命の尊重
社会の福利        共苦
集合性

これは日本の医学研究(生殖幹細胞利用)の審議会の例である。闘争タームをあえて用いるならば、(現行の集団・制度を念頭においた)「共同体の善」(=共同体の福利)と「個人の自由」(=人類の幸福)の連合軍に対して、「生命の尊重」と「人間の尊厳」の連合軍が対峙する構図になっている。ただし、このような価値理念上の対立はどこまでも平行線を描くことから、政策・方針そのものは政治的な力関係で決まることになる。別の例を出そう。安楽死をめぐる議論の例では、患者の自己決定(「個人の自由」)に対して「生命の尊重」と「共同体の善」の連合軍が対峙している。そのさい「人間の尊厳」は双方の立場から友軍とみなされる。動物実験の例では、「生命の尊重」に対して「人類の幸福」と「社会の福利」の連合軍が対峙する中で、「人間の尊厳」は沈黙している。
日本の生命倫理の議論状況から二つの問題点を取り出すことができる。一つめは、倫理の価値理念がお題目化し、儀礼化し、形骸化しつつあるという傾向である。この傾向がとくにあてはまるのは「人間の尊厳」である(13)。同様に「生命の尊重」もまた漠然としているだけに宙に浮きがちである。二つめは、「個人の自由」もしくは「個人の(集積としての人類)の幸福」が単独で肯定されることはほとんどないということである。臨床では少なくとも建て前では患者の意向の尊重が強調される。ところが、事柄が家族や社会といった集合体に関わるとき、そこに「個人」の観点はほとんど反映されない。その理由は、個人の判断の基盤に「常識」があり、この「常識」においてとりわけ「家族=絆」という観念が根強いからだと考えられる。「個人の自由」を批判するさい、一般に「善」「徳」「共同体」「自然」「脆弱性」などの観念が持ち出されるが、これらは日本では「家族」や「差別」との関連でことのほか強い力を振っている。

膠着状況を越える方向
さて、ここから話を一歩進めたい。ここまで生命倫理Ⅱの議論状況、つまりは四すくみの膠着状態を浮き上がらせてきた。とすれば、そのような膠着状況をどうやって切り抜ければよいのであろうか。各人や各グループが自分の立場を原理主義的にぶつけ合うなかで、特定の方針を押しつけ合うことが議論であろうか。バイオエシックスの主流にいるジョンセンはそうは考えない。議論の目標は「中間コース」を見つけてコンセンサスを形成することにあり、そのために妥協する姿勢が不可欠であるという(14)。この考え方は、一定の条件を設定された範囲内で個々人の多様な選択を許容することを意味する。しかし、条件を厳しくすれば選択が狭まるであろうし、逆に条件をゆるめすぎるとほとんど無規制に近くなるであろう。しかもいずれの場合であれ、両極端の少数意見は切り捨てられることになる(15)。
生命倫理Ⅱの議論にみられる膠着状況は、コンセンサスどころかそれ以前に、議論を成り立たせる共通の場としての「コンテクスト」がそもそも不在であるところから由来する。そしてその根っこはそもそも倫理学の枠組みじたいにある。倫理学の理論同士あるいは価値理念同士が排他的に対立し合う構造は根深い。このような状況でまず登場してくるのが「相対主義」である。これは実質的に理論上の棲み分けであり、分断の固定化を意味している。バイオエシックスの中でそれに一番近いのは、形式的な普遍主義と実質的な多元主義とを同居させるエンゲルハートの立場であろう(16)。しかし、「多元的世界」だから相対主義が当たり前だということにはならない。その「多元的世界」そのものがじつにデジタル化によってすでに変質しつつある。あるいは、実質的な一元化(デジタル化)と実質的な多元性(多様な文化)との新たな総合の段階に移行しつつある。そうであるかぎり、相対主義では生命倫理Ⅲのデジタル化に対応できないであろう。それとは別の方向を構想できるか否かが生命倫理学の理論上の最大の急所である。
生命倫理Ⅲではデジタル化の進行につれて種々の境界線がすでに越境され、拡散し漠然としてはいるとはいえ、新たにデジタル的コンテクスト(サイバー世界)が形成されつつある。生命倫理学の「中心の不在」という事態もじつにそれと連動している。そうであるなら、生命倫理学の側においても、現実の動きに対応するようなコンテクストを創出する必要があるのではないか。従来の倫理学の枠組みは、国家・家族とか、普遍(理性、人権、平等)、個人・個性・幸福、弱者・支え合い・自然といった、種々の固定した境界線によって取り囲まれてきた。ここで求められている「コンテクスト」は、諸々の理論・価値・文化(つまりは諸々のテクスト)の境界線、つまり、「正義」とか、「善」、「幸福」、「共生」という固定した境界線をできるかぎりゆるめて、新たな出会いとつながりを生み出すような場でなければならない。次節ではその具体的な内実を医療倫理に限定しつつ探ってみよう。

5 親密な関係性としての「身近な他者たちの協同作業」

生命倫理Ⅱの医療倫理を象徴する言葉は「インフォームド・コンセント」である。医療の現場における関係者の範囲にはふつう患者とその家族と医療者が入る。そこでインフォームド・コンセントの概念では、患者と医療者、患者本人と家族、家族と医療者、患者・家族と医療者というように、「二者関係」もしくは「二項関係」が基本として想定されている。

「二者関係」という一個の閉鎖的な集合体
ところが、よく考えてみると、そのような想定は生命倫理Ⅱだけに限られるものではなく、じつは生命倫理Ⅰでも(その初期を除けば)同様である。「家族」が患者と一体の当事者として医療者(医師)と向き合うかぎり、生命倫理Ⅰでも「二者関係」が基本となるからである。とすれば、医療倫理を成り立たせてきた境界線は、個人/共同体というより、むしろ二者関係/それ以外ということになろう。つまり、生命倫理Ⅰと生命倫理Ⅱのあいだの差異は、「二者関係」という共通の土台の上での差異(個人/共同体)にすぎないということである。
「二者関係」に焦点を合わせたとき、外部の第三者の追加ということは本質的ではない。なぜなら、その種の追加では新たな二者関係(二項関係)が生じてしまい、「二者関係」という枠じたいは変わらないからである。したがってむしろ、「一個の閉鎖的な集合体」という単位を画する境界線にこそ目を向けなければならない。この境界線によって、一定の関係を構成する二項がそれぞれ一個の閉鎖的な集合体として固定されつつ、関係じたいもまた一個の閉鎖的な集合体として固定される。このような二重の意味で凝固した閉鎖的な集合体という単位同士の関係が、医療倫理に潜在するいわば「深層構造」にほかならない。同様の構造は生命倫理の全体をも貫いている。
二者関係という固定的な「一個の閉鎖的な集合体という単位」は、患者本人と医療者の関係だけにあてはまるのではない。患者(病む人)=自己自身においても、家族でも、さらには医療者にも同様にあてはまる。時々刻々と変化する多様なイメージを同一なものとして統合する「自己」という殻であれ、強固な絆としての「家族」であれ、あるいは特定の閉鎖的な「専門職」同士であれ、いずれの単位も固定した閉鎖的な集合体であることには変わりない。自己性の次元や公共性の次元は末尾で言及することにして、以下では話の焦点を「家族」という集合体の単位、すなわち、親密な関係性の次元に合わせてみよう。

焦点としての家族
日本における生命倫理の議論では、前述のように「自己」の主張に対して冷ややかで厳しい論難が目立つのであるが、そのさいの拠り所はしばしば「家族」に求められる。「自己」に対してとは対照的に、「家族」は一種の甘美な幻想に包まれ、あらゆる矛盾を吸収するような「ブラックボックス」の役割を担っている。
ところが、現実の動向をみるなら、その要となる当の「家族」のかたちが今日、大きく変容しているのである(17)。伝統的な三世代家族はすでに少数派に転じ、いわゆる「核家族」ですら多数派ではなくなり、すでに標準とは言えなくなっている。このような状況の変化は「墓」をめぐる状況に端的に映し出している。その辺りを詳述することはできないが、ともかくここで注目したいのは、多様なかたちの家族が登場しているだけではなく、同時に、例えば「ドナー」や「介護者」のように、いわば「顔の見える他者」とでも形容すべき(外部でありつつ内部であるような)人々の関与も増大していることである。人々の親密な関係はすでにそれまでの「家族」という枠をはみ出す方向に広がっている。
しかし、それにもかかわらず、生命倫理学の議論におけると同様に、医療の現場や行政・制度でも「血縁の性別役割分業付きの核家族」という標準モデルがいまなお幅を利かせている。そしてこのモデルへのこだわりが、人々の実際の意識や関係とのあいだにギャップやトラブルを生み出している。もちろん三世代家族や核家族というかたちが消えることは今後もないであろうが、それらが標準モデルに留まることはもはやありえない。標準モデルというものは存在せず、あるのは多様な家族のかたちだけである。従来の標準モデルに根ざした「家族=絆」の幻想に依拠しつづけるかぎり、生命倫理の議論が現実の動きから取り残されることは必然だといえる(18)。

身近な他者という視点
「多様な家族のかたち」と「顔の見える他者の存在」とは裏表一体の関係にある。この点を考慮して親密な関係性を動的に捉え返すならば、「身近な他者たちの協同作業」というイメージが浮かび上がるであろう。ここで「身近な他者」という境界的な存在者は「ゆるやかな(分割)境界線」上にある。それは「一個の閉鎖的な単位」ではないし、そのような他者からなる関係もまた「一個の閉鎖的な単位」ではない。これに対して、生命倫理の議論における一方の共同体ベースの立場では、親密さは直ちに隔たりのなさを意味する。その結果、境界線の隠蔽とか、一方的な親密さ、あるいは信頼の押しつけが生じる。他方の個人ベースの立場では、隔たりの固定が特徴であって、そのような硬直した分割の上に患者医師関係の種々のモデル(聖職者/エンジニア/サービス提供者/友人)が成り立っている。
おそらく今後、ゆるやかな分割(つまり適度で流動的な隔たり)の上に成り立つ関係が広がるものと考えられる。「身近な他者」同士は直接に関わり合う顔見知りの関係にある。そこには区別(立場の違い、役割分担)はあるが、それが固定することなくゆるやかに柔軟に流動している。「身近な他者たちの協同作業」を具体的に把握するために、次節では代理懐胎・出産(以下では代理出産)を例にとってみたい。

6 テストケースとしての代理出産

生殖補助医療における「身近な他者」とは一般に生殖細胞や生殖器官の提供者を指すが、見落としてならないのは、妊娠・出産の話合いの場に当事者として登場していないにせよ、「生まれてくる子」もそうだということである。その生殖補助医療の中でも「代理出産」は特別な位置を占めている。一般に生殖細胞等の提供者が背後に隠れているのに対して、代理出産では「代理母」という丸ごとの身体が直に登場することによって、他者の介在という生殖補助医療の本性を目に見える形で露呈させているからである。日本にはいまだ統一的な生殖法は存在せず、学会の会告や審議会報告書のガイドライン案があるに止まるが、代理出産に関するかぎりそれらはすべて「原則禁止」という方針で一致している(19)。

議論状況とその偏り
図5は代理出産をめぐる議論状況である。ここには四つの価値理念が対立している。すなわち、子どもや代理母の安全性・リスク=共生、代理母の人権および子の福祉=正義、依頼者の願望=幸福、それに現行の家族制度=善である。
議論の状況に立ち入ってみよう。代理出産反対の主な論点としては、「他者が道具にされている」、「他者にリスクが押しつけられる」、「遺伝子が異なることで子の発生異常のリスクが高まる」、「母性の未発達にともなって子の成育に困難が生じる」などが挙げられている。それらに対して以下のような反論が提出されている。例えば、道具になるかどうかは代理母の意向や代理出産の条件次第という側面があるのではないか(じっさい日本国内の実施例では実母や実姉妹や義姉妹が代理母になっている)。「リスク」を強調すれば、代理出産だけでなく子どもを出産すること自体を止めなければならないことにならないか。発生異常の高い確率や母性の未発達にともなう問題点は、世界各地ですでに実施された出産例である程度まで検証できるのではないか。「子の福祉」に関して完璧を求め出すなら、むしろ一般の子どもの状態(虐待に到らずとも劣悪な環境)の方を問題にすべきであって、そうなると子を持つことじたいを止めることにならないであろうか。

図5                 個体性
子の福祉
代理母の人権    依頼者の願望
規約性                     身体性
現行の家族制度    子や代理母の
安全性・リスク
集合性

一見して分かるように、代理出産に対しては一般の出産の場合に比べて過度に厳しい条件が課されている。その理由は、意識に上ることは滅多にないが、議論の背後で特定の価値理念が磁場のように作用しているからである。その価値理念とは「現行の家族制度」である。これが不動点として固定されているため、一方では、代理母の人権や子の福祉あるいはリスクへのこだわりが生じるとともに、他方では、依頼者の願望が身勝手な欲望として貶められる結果になる。代理出産以外の場面では個人(依頼者)の意向が基本的に尊重されているにもかかわらず、ここでは依頼者の願望は既存の「公序良俗」を乱す恣意的な欲望とみなされ(ほとんど資本主義的な「強欲」として扱われ)、糾弾され、切り捨てられているのである。

身近な他者たちの協同作業
以上の議論状況は、結論(賛否)ではなく構造としてみるかぎり、偏っていると言わざるをえない。偏りを是正するためには、「現行の家族制度」を固定している見えざる境界線(「一個の閉鎖的な集合体」)を明るみに引き出し、これをゆるめ流動化してみる必要がある。そこで試みに、議論を構成する四つの価値理念の境界線をすべてゆるめ、それらに同等の重みを与えてみよう。これは重要なテストであって、賛否を性急に問うものではない。すると、「一人の子を大切に育てる」目標を共有する「身近な他者たちの協同作業」という関係性が浮かんでくる。
この「協同作業」では、子どもを願う人、そのパートナーや家族が一方にいて、いろいろな種類の提供者、その家族、そして仲立ちをする医療者やそのほかの関係者が他方にいる。これらの「身近な他者」たちは、一個の生命の継承に関わる産みと育ての営みを一緒に見守るなかで、産みの前から育ての後まで濃密につながっている。それだけではない。生まれてくる子もまたそこでは重要な「身近な他者」である。自分の最善を配慮して誕生から成長までを見守り続けてきた協同作業のことを、後に子自身が知ることで、自分もその協同作業に参加している当事者であることを感じることができる(おそらくこのような視点が「出自を知る権利」の定着には不可欠となろう)。
「家族」のかたちが変容し多様化しつつある今日、代理出産だけでなく、人工授精や体外受精(胚移植)などを含めた生殖補助医療全般に要請されるのは、依頼者カップルはもとより、代理母・ドナーや医療・行政・司法関係者が、「一人の子をみんなで産み育てる」という目標を共有する「身近な他者たちの協同作業」というイメージではなかろうか。「性別役割分業付きの夫婦と子ども二人の核家族」というかつての「標準モデル」にこだわるかぎり、その種の「協同作業」が存在する余地はない。しかし、前述のとおりじっさいには、三世代家族はもとより核家族もまた「家族」という名の多様なかたちの一つになりつつある。そして生殖補助技術を利用して子をもつ家族もあれば、そうでない家族もある。前者であることを恥じ隠す必要はまったくない。

医療倫理全体への展開
ここまで生殖補助医療の場面に限定して「身近な他者たちの協同作業」の内実を描いてきた。ここでその限定を外してみよう。おそらくその種の協同作業は、産みと育ての場面だけでなく、日常生活における支え合いの場面から、老いと看取りの場面にいたるまで、つまりいわゆる生老病死のすべての営みにおいても要請されるのではなかろうか。親しい人たちに迎えられ、さまざまな人々やものたちと関わり合い、そして親しい人たちに見送られる。その親しい人たちのうちには、肉親や身内のみならず、医療者や介護者やソーシャルワーカー等を含めた顔の見える人たちが、濃淡の差はあれ、同じ「身近な他者」として含まれる。
「身近な他者たちの協同作業」では、家族/非家族という境界線がゆるやかに引き直されている。生命倫理とくに医療倫理の議論における「家族」の重要な位置を考慮するかぎり、家族/非家族という境界線のゆるやかな引き直しは、医療/非医療、男/女、医療者/患者、医師/看護師、自己/他者、意思/非意思、人間/非人間、人格/無人格、人間/動物、人間/機械、生命/非生命、等々、医療にとどまらず生命をとりまくあらゆる境界線の全面的な引き直しにつながることであろう。

7 「他なるものの協動」にもとづく「物語」

特定の場面における「協同作業」にふさわしい「目標」とは、その特定の場面にだけ限定され、参加者が個々に有するイメージ同士の核心部分でのみ重なり合うような「最小限の目標」である。さしあたり「協同作業」はその一点だけで支えられた機能的な関係性である。とはいえ、その類いの目標が共有され、これと結びついて個々の作業やその担い手たちが意味づけられるとき、そこに「協同作業」が「物語」として生成する。そしてこの「物語」があくまで機能的な「協同作業」に「ゆるやかな共同性」という情的な凝集力を与える。

患者の自律の陥穽
例に挙げてみよう。柳原和子は『がん患者学』という本を書いて有名であった。その本に描かれていたのは自律した賢く強い患者像である。ところが、がんが再発したさい、彼女は自分の病巣画像を見ることを拒み、「優しさに包まれたい」と願った。彼女を知る医師たちはそのような矛盾した言動に戸惑った。そして、現代の医学では治らない以上その恐怖に一人で立ち向かうべきだとか、最期まで矜持を捨てないで欲しいと言うばかりだった。けっきょく、「嘘でもいいから、治るといってほしかった」彼女は、がんに対する挑戦を一緒にやろうと言ってくれた医師のいる病院で短期の治療を受けることにした。彼女が亡くなったのはそれから二年後のことである。
彼女のケースから何を読み取るべきであろうか。患者の視線と医療者の視線とは本質的にギャップがあるということであろうか。それとも、患者にもいろいろな人がいて一律ではないということであろうか。そのような受けとめ方が間違っているとは言わないが、決定的なところで的を外している。患者(病む人)が主体として賢くふるまうことは、事柄の一面ではあってもそのすべてではない(20)。病む人は自律を願いつつも心の深い部分で、病気と最期まで積極的に向き合いたいという自分の気持を受け止め、温かく支え、どこまでも同行してくれる誰かがいる、という「物語」を求めている。周囲もそして彼女自身もまた、そのような心の奥底の襞をうまく掬い上げることができなかったため、必要以上に戸惑い、悩み、苦しむことになったのである。

共有される物語と三つの次元
「身近な他者たちの協同作業」という「物語」は、終末期医療の場面だけでなく、生殖医療の場面ではもちろんのこと、さらに臓器移植の場面でも同様に重要であろう。「ナラティブ」は患者だけのものではなく、「協同作業」の参加者・担い手のあいだで共有されるべきものである。この「物語」の視点からみたとき、本人・患者の権利であれ、家族の絆、ドナーの人権、生まれてくる子の福祉、あるいは、医療者の専門性や責任、市場や効率の観点であれ、それらはいずれも「協同作業」の一面を抽出したものとして現われる。
医療倫理をこえて生命倫理全般に話を広げてみよう。一つひとつの「物語」は「生命を受け継ぎ、受け渡す」という「生命の循環」の物語につながっている。既述のように、生命の「滞ることなく流れる循環」の中で動き/形が生じ、動き/形は「他なるものの協動」という作動原理(論理)によって高次の循環を複雑に形成し、そしてそこに「ゆるやかに分割された世界」を現成させる。「身近な他者たちの協同作業」とは、その「他なるものの協動」と「ゆるやかに分割された世界」が、医療倫理の親密な関係性の次元に具現したものにほかならない。とすれば、動物実験などの動物との関係の場面でも、同様の論理に基づく「物語」を想定できるのではなかろうか。それは実験(あるいは食用)動物を「身近な他者」として遇する物語である。あるいは、生命倫理Ⅲにおけるデジタル化をふまえてロボットやサイボーグを考慮すれば、ロボットも人間にとって「身近な他者」になりうるし、そもそもサイボーグは「機械体と生体との協動」としても捉え返されるであろう。
最後に、親密な関係性以外の次元に言及しておきたい。人間の意識的な心は三つの次元に広がっており、ここまで論じてきた親密な関係性の次元のほかに、自己性の次元と公共性の次元がある。そしてそれぞれの次元に特有の「物語」が結びつく。自己性の次元では多様な自己(記憶)を束ねるような「私」の物語が必要になるが、その「私」は「死」を織り込まないかぎり「物語」として完結しないであろう(21)。もう一つの公共圏の次元では、例えば健康保険や年金といった社会保障制度のように、多なる「世代」を平等につなぐ持続可能性が不可欠であるが、それを支えるのは「国民」の物語である。もとより、ここでの「国民」は特定の限定された最小限の目標を共有するかぎりの「ゆるやかな共同性」をもつにすぎないが、それでもそのような「物語」なしにはコンセンサスの形成へと向かう論議は成り立たないであろう。「国民」の物語が公共的(政治的)なコンテクストを創出するのである(22)。

結語ーーゆるやかなコンテクストからコモンセンスへ
いま、生命倫理学にとってもっとも肝要なことは、法律や政策やそのためのコンセンサスを性急に求めることではなく、その前に、諸々のテクスト(ないしはコンテンツ)群がゆるやかに出会えるようなコンテクストを創出することである。そしてコンテクスト創出の鍵は、生命の「滞ることなく流れる循環」を貫いている「他なるものの協動」という論理に基づいた「物語」である。コンセンサスを生み出すコモンセンス(生命倫理の文化=常識)は「物語」群がゆるやかに出会う中からやがて姿を現すことであろう。それが生命倫理Ⅲ-3にほかならない。

注および文献
(1) ジョンセンの本は『生命倫理学の誕生』(細見博志訳、勁草書房、2009年、原著1998年)である。これは1992年の時点での回顧であり、その後も2010年に米国で回顧の動きがあった。また、ジョンセン以外の論者による証言や回顧録や未来を論じた本があるし、ジョンセンの回顧に対して批判もある。例えば、Fox and Swazey : Observing Bioethics, Oxford UP, 2008;Brody: The future of Bioethics, Oxford UP, 2009。とはいえ、ジョンセンの本は大方の研究者から妥当な水準にあるとみなされている。詳しくは香川論文。
(2) D. Callahan, The Hasting Center and the Early Years of Bioethics. Kennedy Institute of Ethics Journal Vol.9, No.1, 53-71,1999.
(3) 多様な方法論については樫論文。例えばJ.モレーノによれば、バイオエシックスにはもともと原則・標準などはなく、違いは政治・政策との関連から作られることになる。Moreno et al. eds.: Progress in Bioethics, The MIT press, 2010. この政治主義的な見方に対して、政治からの一定の距離を保ち、人間や生命の原点に立ち戻って議論のボキャブラリーを豊かにすることこそバイオエシックスの役割だという批判が、リベラル・カトリックの一部から出されている。Carol Taylor et al. eds.: Health and Human Flourishing, Georgetown UP, 2007。見解の相違はまた世代間の対立とも重なる。
(4)このねじれの結果として、生命倫理学の内部の分裂もしくは棲み分けがあり、これが典型的には臓器移植の論議に露呈している。
(5)ジョンセンによれば、欧州では医学哲学の伝統の中で医療倫理の議論を独自に積み重ねてきたが、宗教的生命倫理学と世俗的生命倫理学という二つの系統は平行したままであり、米国と違ってそこには接点がないという(ジョンセン前掲書471-473頁)。詳しくは松田論文および小出論文。
(6)小松美彦・香川知晶編『メタバイオエシックス』(NTT出版、2010年)、Fox and Swazey前掲書、ラフルーア『水子』(森下直貴他訳、青木書店、2006年、原著:1992年)。詳しくは今井論文。
(7)これらのテーマは第2巻の第1章と第2章では別の筆者によって、同第6章では私自身によって論じられている。言うまでもなく解釈は一つではない。
(8)この点については第2巻第6章を参照されたい。
(9)詳しくは藤尾論文、関根論文を見られたい。
(10)以上についてはジョンセン『医療倫理の歴史』(藤野昭宏・前田義郎訳、ナカニシヤ出版、2009年、原著2000年)に詳しい。
(11)実在世界に散在する表現の一切を、情報データとしてデジタル化して取り込むところに、ネット上に存在するサイバー世界が存立する。そこではすべての情報が一元的に存在する。身体(生体情報)と心(イマージュ)と意識的な心(言語的集合的意味)とがデジタル合成されることで、生命と文化という異質な世界は同型位相的に接続する。集合的意味世界=文化のデジタル化、アーキテクチャ環境のデジタル化(自動制御環境)、心のデジタル化(BCI)、身体のデジタル化(サイボーグ化)がつながることで、デジタルユビキタス世界が現出する。さしあたり東浩紀・浜野智史篇『ISED』倫理篇・設計篇(河出書房新社、2010年)が参考になる。
(12)詳しくは樫論文。
(13)この点は日本だけではなくドイツの議論でも窺える。松田論文を参照されたい。
(14)ジョンセン『生命倫理学の誕生』頁
(15)バイオエシックスの指導者の一人、ペンシルベニア大学のA.カプランによれば、米国ではP.シンガーの立場がその極端な例に入るという。
(16)Engelhardt, H.T. Jr. ed.: Global Bioethics, M & M Scrivener Press,2006. 池澤論文に言及がある。
(17)森下直貴(2009):「家族」の未来のかたち―結婚・出産・看取りの人類史的展望(『シリーズ哲学から未来をひらく』第1巻、古茂田宏ほか編、青木書店)、および、森下直貴(2010):「家族の変容」から見た代理出産と終末期医療の未来、『浜松医科大学紀要(一般教育)』24:1-22。
(18)家族の問題は韓国の生命倫理学にとっても重要である。渕上論文に詳しい。
(19)森下直貴(2010)前掲論文。
(20)長岡論文が突っ込んで考察している。
(21)最近この点を強調しているのは一ノ瀬正樹『死の所有』(東大出版会、2010年)である。本書に対する私の論評は「図書新聞」(3006号、2011年3月12日)に掲載されている。
(22)「国民」の物語に関しては、例えば盛山和夫『年金問題の正しい考え方』(中公新書、2007年)が例示的である。なお、生命倫理に関して統一法や政策を形成するためには次の三つの条件が必要である。一つめは論議のための資料の蓄積・共有である。私自身の米国調査をふまえていえば、日本ではサイバー空間に生命倫理資料館を集約することが現実的である。二つめは政治的決定のしくみの工夫である。この辺りは例えば原子力政策をめぐる次の研究が参考になる。松本三和夫『テクノサイエンス・リスクと社会学』(東京大学出版会、2010年)。そして三つめの条件が、法律や政策を方向づける倫理的な価値理念である。本章の考察はもっぱらこの最後の条件に照準を合わせている。