プロフィール研究業績研究活動社会活動お知らせお問い合わせ

研究業績

RESEARCH WORKS
2017.03.20

デジタル化をめぐる倫理問題 ワード版(図なし)2016年9月

『生存科学』27-1:107-127, 2016.9

〈デジタル化〉をめぐる「倫理問題」
———科学技術倫理学の四つの基本課題———

森下直貴
(浜松医科大学)

はじめに
私たちはメディアを通じて毎日のように先端科学技術のニュースに接している。例えば、タンパク質の立体構造を含めて種々の生体分子情報を解析するオミックス技術や、脳内の振動現象をイメージングする技術、身体の組織・器官の再生・サイボーグ技術、各種のロボット技術、それにナノテクノロジーを挙げておこう。これらは一見(もしくは一聞)してあまりに多岐にわたっているため、たとえどれほど学際的に幅広い専門家であっても、その全貌を捉えることは至難の技であるにちがいない。とはいえ、幸いなことに、先端科学技術の全般には共通する特徴がある。それを足がかりにすることによって、専門家でなくとも先端科学技術の全体動向の一端を把握することができそうである。その共通する特徴とは、コンピュータ技術を通じて相互に連結されている状況、つまりはデジタル化である。
ここで「デジタル化」とは、例えば文字と画像が情報として互換されるように、あらゆる物事が二値(二分コード)でもって一元的に並列化され、相互に転換される事態を指している。詳しくは後述するが、そのデジタル化によって今日、IC タグを装着した人工物や自然物がコンピュータに接続され、そこからビッグデータが収集・管理されるという事態(すなわち「IoT」)が広がっている。いや、物同士の間だけではない。デジタル化による相互接続は、人の心と身体、人と人(人間)、人と動物、人と機械・ロボットの間にまで及んでいる。そしてそのような相互接続の延長線上に、物と人と動物と機械とロボットがデジタルネットワークに組み込まれる世界が到来するものと予想されている。
デジタル化された世界が遠からず到来するとすれば、私たちに要請されているのは、先端科学技術が社会全体に及ぼす影響の効果/負荷について、したがってその影響によって引き起こされる「倫理問題」をめぐって、たとえ大まかではあっても一定の見通しを立てておくことではなかろうか。定量的な予測に加えて種々の知見や多様な経験を織り交ぜつつ、定性的な見通しを大胆に仮構することが許され、またおそらく期待されてもいる学問分野は、「哲学」である。この論文では哲学の立場から、先端科学技術が社会全体にもたらす「倫理問題」を試論的に把握し、それにもとづいて実践的な課題を設定することにする。
あらかじめ一言お詫びしておきたい。以下の内容は、私が編者となって今年初めに刊行された『生命と科学技術の倫理学———デジタル時代の身体・脳・心・社会』の序章の一部を改変(バージョンアップ)し、そこに既出の自著論文の一部を加味したものである⑴。重要な用語はすべてその本に由来しているので、用語の意味が不明な際にはぜひとも参照していただきたい。その例示としてここで「科学技術」を取り上げておこう。
実用性の次元において設計したものを実現するのが「技術」であり、超越性の次元において新たな知識を獲得するのが「研究(科学)」の営みである。両者は異なるコミュニケーション群に属している⑵。それゆえ、両者が相互に絡み合うような複雑な事態に際しては、「科学と技術」、「科学・技術」、「科学−技術」、「科学技術」、「技術科学」、「テクノサイエンス」のように、多様な捉え方が生じることになる。以下では、「産業・政治・科学・教育等の多様な領域(システム)と連結して組織化された技術」のシステムという意味で「科学技術(またはテクノロジー)」を用いる。

1 科学技術システムと「デジタル化」
すべての社会システムを包含する全体社会では、19世紀以降いわゆる近代化すなわち機能分化が進行してきた。この機能分化の中で、それ以前から職人集団の伝統として受け継がれてきた「技術システム」は、科学システム・経済システム・産業システム・政治システム・教育システム等々との連関を通じて、組織化された技術システムすなわち「科学技術(テクノロジー)システム」へと変容してきている。図1を見ていただきたい。さらに19世紀末から20世紀になると、巨大化した科学技術(例えば核エネルギー技術)が、今度は全体社会に対して多大な影響を及ぼすようになる。そして21世紀の今日、例えばバイオ技術に見られるように、その及ぼす影響は量り知れないほどに広がっている。
もちろん、科学技術システムの変容(高度化)がそのままストレートに全体社会の変容をもたらすわけではない。科学技術を変えるのはあくまで科学技術自身である。一般的にいえば、システムの変容はあくまで自己変容であり、すべてシステムの内部で起る。したがって、全体社会が変わるのもあくまで全体社会自身の自己変容によってである。具体的には、機能システム(とこれを担う組織)同士の相互連関における相互影響を通じてということになる。科学技術システムの変容は、ほかのすべての機能システムとの相互影響を通じて、相互連関自体の自己変容と連動している。
話を先に進めよう。科学技術(テクノロジー)が全体社会に対して強力な影響を及ぼしている事態の背景には、種々のテクノロジーの集約がある。集約されているのは例えば、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報技術、人工知能研究、ジェネティクス、ロボット技術、ニューロサイエンス(再生工学)等である(これらは略してNBICやGRAIINと呼ばれることがある)。そしてこの集約化の核となっているのがコンピュータ技術である(これは拡大して通信情報技術CITと呼ばれる)。バイオテクノロジーの場合、DNAのデジタルデータ化によって、遺伝子の発現やタンパク質の合成を操作・改変したり、再生工学と結合して生物が遺伝的にもつ能力の限界を突破したり、人工生命を設計したりすることも可能になっている。コンピュータ技術の原理はいうまでもなくデジタルである。こうして現在、デジタル化によってあらゆる先端科学技術が統合されつつある。
「デジタル化」とは、冒頭でも言及したように、すべての「ものごと」(多様な差異や意味やシステム)が「二値」に変換・還元され、一元化されることである。そしてその上で、多様かつ複雑な「ものごと」としてあらためて構成されることになる。従来、画像と記号、精神と物質、生命と機械、人と動物、人とロボット、あるいは個人と個人、の間には絶対的な区別があるとされてきた。しかし、デジタル化の二値(二分)コードによって、それらの絶対的区別は相対化される。ここで留意すべきことは、デジタル化による還元が19世紀から20世紀にかけて問題にされた物理的還元主義と同列ではなく、物理的区別そのものをさらに二値の区別に還元している点である。デジタル化とは究極の還元主義であり、還元主義の極限なのである。
デジタル化には二つの方向がある。一つはデジタル化による情報環境のネットワーク化である。デジタルネットワーク化を通じて最適環境を自動制御する「ユビキタス社会」が出現している。ここでは何が最適であるかはビッグデータを集積したコンピュータが自動的に計算する。人はそれにすべてを委ねて従うだけである。もう一つはデジタル化による人のサイボーグ化である。人の生命・身体・心がデジタル化されて外部へと拡張される。さらに身体や脳と機械の間がデジタル信号によって接続され、時空的に拡大した新たな組織体(サイボーグ)が形成される。こうして人とサイボーグとロボットとが連続するかのような印象が広まる。おそらく以上の二つの方向はやがて一つに溶け合うだろう。

2 デジタル医療化———第三の医療化
ここで具体例として、人間にとって身近な医療のデジタル化を取り上げよう。20世紀後半から21世紀にかけて、デジタル技術を用いた医療的介入は徐々にその範囲を拡大し、いまや脳のシナプス結合から、遺伝子の組換え、組織の新たな再生にまで及んでいる。この拡大を「デジタル医療化」と命名しよう。デジタル医療化によって狭義の治療とエンハンスメント(能力増強)との間の境界が曖昧になりつつある。
ちなみに、いわゆる「医療化」とは、二分コード(病気/健康または正常/異常)と治療可能性の観点から問題事象に介入する働きかけ(医療)が他領域へと拡張されることを意味する。従来、この医療化には二つのタイプないし段階があった。狭義の「古典的・排除的」な医療化は、正常/異常の医学的な規準によって、異常とされる人々を道徳的または政治的に排除する。精神疾患とされた人々の場合がこのタイプの典型例である。他方、「日常的・包摂的」な医療化では、健康/病気の科学的な定義づけを通じて、個々人の人生のあらゆる局面が全面的に包摂される。T.パーソンズの規範主義的な医療社会学における病人の役割行動がこのタイプの例である。なお、「バイオ医療化」という名称もあるが、これは「デジタル医療化」の分子生物学的な一部である。
さて、四次元の領域図式を用いて「デジタル医療化」を整理してみよう。図2を見ていただきたい。なお、四領域の分割については、前掲の『生命と科学技術の倫理学』序章やとくに⑨論文の説明を参照されたい。
まず、事象性・実用性の次元では、抗加齢医療、美容整形、各種のエンハンスメントが盛況になっており、デジタル技術がそれらをますます推し進めている。次に、時間性・共同性の次元では、「利己心」の抑制や、心のカウンセリング、さらに死のカウンセリングにまで、遺伝子診断をともないつつ医療が及んでいる。こうして例えば「うつ病患者」が急増する。あるいは、社会性・統合性の次元では、自己責任を柱とする健康政策(例えば生活習慣病)が推進され、ワクチン接種や老化防止のための予防的公衆衛生が制度化される。それらを支えるのはエビデンスに基づいた統計学である。そして最後に、反省性・超越性の次元では、確率論的な遺伝子=環境病を前提にして、予防医療の先制化、研究のグローバル化、医学の産業化が進行する。
以上で見たように、医療システムの中にデジタル化した科学技術がますます浸透して影響を及ぼすことによって、治療から、介護、予防、確率情報、サイボーグ化、遠隔医療、情報管理等にいたるまで、あらゆる方面で「デジタル医療化」が進行することになる。これについては後でまた取り上げる。

3 「倫理問題」とは何か———ELSIとの違い
科学技術のデジタル化によって「倫理問題」が発生する。ここでいう「倫理問題」はいわゆる「ELSI(倫理的・法的・社会的問題)」とは異なる。両者はたしかに部分的に重なるが、概念の組み立てがそもそも違っており、「倫理問題」の方がはるかに包括的である。これまた詳しくは前掲書『生命と科学技術の倫理』を参照していただくことにして、ここではその要点だけを示しておこう。
何よりも問われるのは「倫理」の意味である。その意味は、個人のレベル(道徳・修身)から、人間関係のレベル(五倫五常)、全体社会のレベル(組織倫理・社会思想)にまでわたっており、日常的にも学術上でも多義的にして曖昧である。そこで統一的な観点から改めて整理し直し、その意味合いを区別しつつ連関づける必要が生じる。私見では、ここに要請される統一的な観点こそ、<社会システムの内部の「構造」としての「倫理」>である。そしてこの「倫理」を意識システムとしての人の側から受け止めた場合が「道徳」ということになる。
「社会システム」とは、出来事としてのコミュニケーション(すなわち、区別を別の区別でもって指し示すところに生じる「意味」をめぐる解釈のやりとり)のつながり(接続)の回路である。この接続じたいはそもそも偶発的で未決定であるため、個々の接続においてその都度トラブル(矛盾や対立)に直面し、コミュニケーションが停滞・解体する危機に陥る。そのとき、コミュニケーションの接続を安定的に方向づける働き(機能)をするのが「構造」である。この「構造」によって方向づけられたコミュニケーションの接続回路を「システム」と呼ぶ。
話を先に進めよう。「構造」による方向づけがスムーズに行われているとき、その働きは意識されない。これがファーストオーダーの倫理(無意識の慣行)である。しかし、従来の構造の働きではうまく処理できなくなったとき、構造じたいが問題として浮上し、構造のやり直し(再構造化)が必要になる。これがセカンドオーダーの倫理、すなわち「倫理問題」あるいは「問題としての倫理」にほかならない。
ここでいう「倫理問題」は、「倫理的・法的・社会的」と並べられる「ELSI」のように限定されていない。ELSの三項の区別そのものがすでに曖昧である(そもそも「社会的」とはどういう意味であろう)。それに対して「倫理問題」では、全体社会の四つの基本領域におけるコミュニケーション群———すべての機能システム、これを担う種々の機能コミュニティ、さらに家族・地域・国家のような包括的なコミュニティ———が包含され、それらの構造が問い直される。
例えば、科学システムを担う学術組織では、研究不正の発生をめぐって取られるすべての対応、具体的には実験ノートの作成(技術的)・研究者の研修(道徳的)・委員会による監視(規範的)・学術研究の使命と責任の再確認(理念的)という対応のすべてが、すなわち構造の働きであり、したがって倫理なのである。端的にいえば、施設内「倫理」委員会の役割は、研究者個人の良心を正すことよりもはるかに包括的である。図3を見ていただきたい。ここでは組織における構造=倫理の働きがベクトルで表されている。
ちなみに、四つの基本領域とは、産業・経済・テクノロジー・生活といった実用性の次元、子育て・医療・福祉・教育といった共同性の次元、政治・法・行政・慣習といった統合性の次元、科学・芸術(やスポーツ)・哲学・宗教といった超越性の次元を指している。この四領域についても、何度も繰り返すようで恐縮であるが、前出の『生命と科学技術の倫理』やとくに注(1)で挙げた論文⑨の付論を参照していただければと願う。
なお、科学技術に関するセカンドオーダーの「倫理問題」とこれをめぐる論議・言説に対して、これらの対立そのものを問題にするサードオーダーの構造化の水準がある。これを担うのは本論文のような「科学技術倫理学」である。

4 「倫理問題」の四次元の概観
さて、以下ではいよいよ、先端科学技術のデジタル化の進行によって発生する種々の「倫理問題」をめぐって、全体社会の四領域に沿いつつしかもスローモーションのように分解しながら概観してみよう。最初に全体の概観図を掲げる。図4を見ていただきたい。

4.1 実用性の次元
「倫理問題」が最初に発生するのは、科学技術じたいが属している<実用性>の次元である。ここでは科学技術によって実現される利便性の価値が、デジタル化によってますます突出して偏重される。その結果、快適・安全・安心という名の利便性の価値の一元化が進行し、それ以外の多様な価値が消えていくことになる。そこから以下の三つの問題系(パラドックス)が生じる。図5を見ていただきたい。
一つ目は、利便性と引き換えに私的領分(プライバシー)が消え、熟練技能が不要となり、自主的判断(自律)が薄れていくことである。つまり、個人が利便性の受け皿として自立すればするほど、個人の存在は一律化してその価値を低下させる。これが「個人のパラドックス」である。
二つ目は、利便性を志向する科学技術の進展にともなって、科学技術じたいの脆弱性つまり「リスク」が増大することである。テクノロジーへの依存度が高まれば高まるほど、わずかなトラブルが社会全体の機能不全を引き起こす。しかもリスクへの対策はかえって新たなリスクをもたらし、したがって人々を底知れぬ不安に陥れる。これが「リスクのパラドックス」である。
三つ目は、利便性を求める「欲望」の過剰化である。とりわけ欲望の基盤となる健康への欲望(願望)が無際限化する。そのため健康の終着点が見えなくなり、欲望がどこまでも駆動される。これが「欲望のパラドックス」である。さらに過剰化する欲望に対応できる資金や情報やリテラシーの差によって、人々の生活の格差が拡大する。

4.2 共同性の次元
<実用性>の次元で発生した問題群の影響は、次に、自他の結びつきや一体性をめざす<共同性>の次元に波及する。ここでは、科学技術の利用を通じて自助化と個性化が進行する。また、デジタル化による個性化の裏面は一律化である。以上の結果、他者とのつながり方に変化が起り、知識や経験が乏しい中で、それ以前に形成され蓄積されてきた多様な共助のやり方が貧弱になり、最後は枯渇する。こうして逆に、貧弱化した関係をつなぐためにますますテクノロジー(情報技術やロボット技術)に依存するようになる。ここでの問題点は以下の三点に絞られる。図6を見ていただきたい。
一つ目は、共助関係の解体が人々を孤立させることである。この孤立は互いに監視し合う状況を生み出し、結果として政府・行政(警察)への要求と依存を強めることになる。
二つ目は、科学技術をうまく利用できない人々の排除が進行することである。例えば、デジタル医療化の中で特定の専門組織への囲い込み(縄張り争い)が生じる結果、専門的情報をもたない人々に対して、システムそのものによる包摂と排除(門前払いやアクセス不能)に拍車がかかる。加えて、機能システム同士が連関しているため、一つのシステムから排除された人々はあらゆるシステムからも構造的に排除されることになる(教育システムから排除されると産業システムからも排除され、これがさらに他のシステムにも波及する)。この新たな疎外状況は人々を無気力と絶望に追い込む。
三つ目は、個性化=自助化=一律化を推進する科学技術に対する反動として、<共同性>の価値を突出させる感情や行動、そして思想が生じることである。こうして「家族の絆」や「人間主義」が声高に主張され、反テクノロジーを掲げる「反専門家・民衆の思想」がメディアに登場する。ナショナリズムも同列上にある。

4.3 統合性の次元
<実用性>と<共同性>の次元に起った問題群は、続いて、対立し合う人々や集団の間に正義を導入することによって調整を図る<統合性>の次元に影響を及ぼす。「個人」の無用化、リスクへの不安と脅え、過剰な欲望、生活格差、共助関係の崩壊、構造的な排除、疎外状況の広がり、等々の解決を求めて人々が向かうのは、事後的で限定的な対応しかできない司法の場ではなく、政治家であり、政府(行政組織)である。ここでの問題点は次の三つである。図7を見ていただきたい。
一点目は、国民の規模にまで拡大した欲望すなわち「国民の欲望」に応えるために、国家財政が膨張することである。その結果、財政は破綻の危機に直面し、再配分の不公平感が広がる。ここに浮上するのは、国民の欲望に応えると同時にそれを抑制しつつ、しかも排除された人々をも救済するというトリレンマ(三つ巴の難題)である。しかし、これらの難題に応えるべき政治は、事態の困難さを前にしてなかなか「決定できない」状態にある。その代わりにくり返されるのが、リップサービスであり、対策の見せかけであり、公約の実行の先送りである。期待と幻滅のくり返しはやがて国民をして、「強い政治」への期待を強めることになる。
二点目は、決定する側のエリートとその決定の影響を受ける側の大衆との分離である。このような分離が固定して「民主主義」が空洞化する中で、「決められない政治」に対する人々の不満が膨れあがる。
三点目は、政治的正義をめぐるイデオロギー対立の激化である。社会的合理性(公共的な意思決定とそのさいの基準の設定)をめぐって、それぞれ自閉した集団的なコミュニケーション同士の溝が深まることになる。
結局、強い政治への期待、民主主義の空洞化、イデオロギー対立の激化は、人々をして最大の包括的な(家族類似の)コミュニティである「国家」に対する過度の期待と幻想を抱かせることになろう。

4.4 超越性の次元
<実用性>に端を発し、<共同性>と<統合性>の両次元を巻き込んで複合化した問題群は、最後に、社会の全体性を反省する<超越性>の次元にまで及ぶ。ここでの問題の根本は、人とロボット(機械)との間のデジタル的連続性を唱導する言説が蔓延することによって、世界のもつ複雑性に対するセンスが消滅し、利便性以外の価値が不明瞭になることである。ここにも三つの側面がある。図8を見ていただきたい。
価値の拠り所が希薄になる状況が広がる中で、第一に、共同性への渇望に動機づけられ、従前にもまして自然との一体性や、風土に根ざした文化、人情味溢れる古き良き共同体に着目する伝統的思想が復活する。第二に、イデオロギー対立を解消するために形式的な普遍主義を旗印にして、近代的な人権思想つまり「人間の尊厳」や「個人の自律」もまた強調されるようになる。この人権思想はさらに動物にまで拡大される。そして第三に、反省的な視線そのものの欠如や、価値の拠り所の喪失によって、人々は精神の癒しと人生の究極的な意味を求めて宗教に引き寄せられる。
以上のような<超越性>の次元の変容は、<統合性>の次元に反射して思想上の対立に拍車をかけ、それをますます混迷状態に陥れるとともに、さらに<実用性>や<共同性>にも影響を及ぼすことになる。

5 科学技術倫理学の四つの基本課題
以上で見たように、科学技術のデジタル化が進展して影響を広めるにつれて、全体社会の中で実用性の次元(利便性の価値)が突出し、これと連動して他の次元においても一元化が進行する中で、種々の「倫理問題」が浮上してくる。これらセカンドオーダーの「倫理問題」に対して、先に言及したように、一定の距離をとって観察しつつ媒介的に関与するのがサードオーダーの「科学技術倫理学」である。この視点に立てば、「倫理問題」群を実践的な対応へと向けて次の四つの基本課題にまとめ直すことができる。すなわち、実用性の次元では<過剰化する「国民の欲望」の自己統治>、共同性の次元では<新たな共同関係の創出>、統合性の次元では<正義をめぐる対立の調整>、そして超越性の次元では<新たな人間観の再画定(人・動物・ロボットの間の分割線の再設定)>である。図9を見ていただきたい。以下、四つの基本課題を順次説明していこう。

5.1 過剰化する「国民の欲望」の自己統治
今日、「健康」の意味は主観的にも、また客観的にも混迷の度合いを深め、曖昧になっている。健康の原点はもとよりいつの時代でも個々の人の主観的な感覚にある。健康の感覚ががんらい漠然としているのは個人性に由来する。ところが、機能システムの分化にともなって「科学システム」と連関する「医療システム」が新たに形成されると、健康の意味の客観化が求められ、科学的基準に拠る「正常/異常」の数値に対する依存が進むようになる。その結果、健康のもつ曖昧さが消えていく中で、科学的とされる数値を通じて人々は自分の健康を確認するという逆転した現象が生じてくる。とはいえ、客観的とされる基準自体も種々の関心に応じて変動したり、専門分野の観点の違いによって対立したりする。それに加えて、現代における多レベルの社会システムの交錯も混乱に拍車をかけている。全体社会があたかも健康であるような「健全な社会」という表現が、そうした交錯の一例である。
しかし、話はここで終わらない。以上で指摘した事情にも増して「健康」の意味を曖昧にしている要因がある。それがすなわち「際限のない」欲望にほかならない。そしてその欲望を背後から駆り立てているものこそ「デジタル医療化」なのである。いうまでもなく、医療の原点は傷病を抱えて苦しむ人に介入して回復をめざすことにある。この特殊な介入は「治療」と呼ばれる。日本を含めた先進工業社会では、1980年代ごろから医療が狭義の治療をはみ出し始める。いわゆる「バイオ医療化」の始まりである。当時は消費ブームの最中にあり、瞬間的な快楽を充実させる個性化への欲望が煽られ、社会全体に蔓延していた。その中で身体への関心が突出し、外見からさらに脳や遺伝子にまで及ぶようになった。その延長線上で現在、前述のようにより一般的な「デジタル医療化」が進行している。
「デジタル医療化」の具体例として、確率情報に基づいた治療選択を取り上げよう。医療は呪術の段階に始まり、古代から近世にかけて伝統医療として成熟した後を受けて、近代的な医療システムの段階に到った。医療システムは意味の二分コード(病気/健康)によって自己完結的な意味世界を構築する。この二分コードの意味づけが変容するにつれて、システム全体も変動する。19世紀後半における典型的な病気モデルは「急性病」であった。それが20世紀半ばになると「慢性病」に移った。そしてデジタル化が広がる21世紀の現在、リスク要因によって確率論的に構成される「遺伝子=環境病」が病気のモデルとなっている。この病気モデルはもはや個々人の好調・不調の感覚にはつながらず、「現在の個人」単位をはみ出し、空間的にも時間的にも不可視で不定なものである。この不定な病気に対する不安に押され、ますます先制化する予防医療によって煽り立てられる中で、人々の健康への欲望は際限なく膨らんでいく。
「欲望としての健康」はほとんど幸福への願望に重なる。しかも今日、それは個人単位をこえてすでに国民全体の欲望、すなわち「国民の欲望」になっている。「国民の欲望」は「医療化」と連動しつつ際限なく膨らみ続ける。そうなると、人口減少・超高齢社会の未来は暗澹たるものになるだろう。それを避けるためには、国民の欲望に発する要求には一定程度までは応えるとしても、同時にその過剰化を押さこむような工夫が必要とされる。しかもそれと同時に、包括的な構造的排除の下にある人々をも救済しなければならない。国民はこのようなトリレンマの解決を国家とエリート集団に期待する。しかし、すでに指摘したように、政治家やエリート層がとりうる方策は限られており、解決の先延ばし以上のことは基本的にできない。解決と称する政策・対策が次々と新たな難題をもたらすからである(「解決のパラドックス」)。
トリレンマの解消(実際には力点の移動)へと向けて必要とされるのは、個人レベルの自助・自己責任による対処というよりも、むしろ「国民の欲望」に対応する全体社会の再構造化である。しかし、これは困難極まりないものである。再構造化を促すためにはおそらく、以下で探り当てられる他の三つの領域における新たな視点(老人世代の社会的再関与、対立を媒介する倫理、自己生成システム論)を束ねて立ち向かう必要があろう。

5.2 新たな共同関係の創出
日本社会はいま、人類がこれまでかつて経験したことのない「超高齢化」の時代へと足を踏み入れつつある。現象面からみれば、一方に元気で活動的な老人たちが大量にいる。しかし他方で、老老介護の末に殺人事件を起こしたり、病院や施設をたらい回しされたりする「下流老人」もまた少なからずいる。そして現状が変わらないかぎり、階層二極化(格差の拡大)は老人世代の間だけでなく、全世代的にますます進行することだろう。
それにしても、世界的に見ても豊かな部類に入る社会にあって、かくも酷薄で悲惨な状況が広がっているのはなぜであろうか。戦後に作られた既成のセーフティネットの仕組みが50年経過する中で、変動する現実にもはや対応できなくなっていることがその一因である。戦後日本社会のセーフティネットの基盤は、周知のように自助(家族と貯蓄)+互助(企業年金・福利)+公助(年金や生活保護等)の三本柱であった。そのうち企業内の互助は一部の労働者にしか当てはまらず、しかも最近ではそれすら消えつつあるため考察から外す。そこで公的年金に目を向けると、それは老後の生活を単独で支えるようには設計されていない。そのように貧弱な社会保障(公助)制度の下、老人がひとたび病気になるとなけなしの貯蓄(自助)をとりくずすことになる。そのとき残るのは家族による支えである。問題は、この最後の頼みの綱であった家族が1980年代以降、とりわけ1990年代半ばから大きく変容し、その<共助>機能を大幅に弱体化させてきたことである。
「家族の変容」とは、家族という名の「共同体としての求心力の緩み」である。あるいは積極的にいえば、個と個の多様な結びつきを許容する幅の広がりである。とはいえ、問題の核心は「緩み」や「許容の幅」にはない。そもそも核家族の比率は戦後から現在までほとんど変化していない。そうではなく、核家族化や多様化する結びつきの中で、「家族の高齢化」が急速に進行していることが、問題の核心なのである。その結果、最後の頼みの綱であるはずの家族の支える力(したがって介護力)が急速に劣化している。
家族の高齢化は家族以外のコミュニティのあり方にも波及する。一般に「コミュニティ」とは「顔の見える対面的コミュニケーション」のつながり合い(ネットワーク)を意味し、大別すると機能限定的なコミュニティと機能包括的なコミュニティに分かれる。共助機能を中心となって具体的に担ってきたのは包括的な地域コミュニティ(自治体・町内会)である。しかし、このコミュニティの共助機能が現在、「家族の高齢化」と連動して弱体化している。包括的コミュニティ(家・地域・国家)のあり方を歴史的に振り返ってみよう。図10を見ていただきたい。
日本列島で形成されたコミュニティの起点はもちろん原始の共同体である。原始社会では親族単位の集落が自足自給的に点在し、相互に交易を通じて結びついていた。次の古代社会では部族の連合を通じて国家が形成され、文字やシンボルによって氏族単位の集落(郷村)が支配された。転換は中世に起った。古代の村落がなし崩し的に変容し、新たなコミュニティ(惣村や町)が日本列島の津々浦々で形成された。ここに形成されたコミュニティがその後も長らく存続するいわゆる伝統的な町や村である。それは近世の幕藩体制を通じて閉鎖的になることでいっそう強固にされ、さらに近代国民国家の中で中央集権化と機能分化を編成原理として再編された。そして今日、親族集団の「家」が三世代家族から核家族へと縮小し、これがさらに変容して高齢化する中で、「おひとりさま」や「単独世帯」が大量に出現している。
現在、大都市の団地であろうと、過疎の奥地であろうと、被災した仮設住宅であろうと、老人たちが孤立し無縁化しつつある。ただし、単独・単身・孤立は老人だけ現象ではない。若者や中高年世代の人々を含めて単身世帯が急増し、全世帯の3割にまで達している。伝統的なコミュニティの外殻は残ってはいるが、その成員をつなぎとめる求心力はもはやほとんど風前の灯といえそうである。
孤立や無縁化という現象は、たいてい、第一の転換によって形成された伝統的な家族・地域コミュニティが解体・崩壊した結果として否定的に眺められている。しかしそれとは逆に、新たな家族・地域コミュニティが形成される萌芽として肯定的に受け止めることはできないだろうか。そのとき問われるのは、新たなコミュニティを再生・創成する担い手であり、しかもそのような再生を通じて世代の継承という意味での持続可能な社会を実現する担い手である。そこで私がとくに注目するのは元気・長寿・大群の老人世代である。つまり、彼ら自身が「老人世代の生き方」を問い直す中で、ふたたび同世代や異世代に関与することを通じて共助機能を補完するという可能性である。そのためには機能的コミュニティを地域コミュニティへと組み込むことが必要となろう(これに応えるのが論文⑨<老成学>である)。このような動きは同時に「国民の欲望」に対する内側からの自己統治につながる可能性を蔵している。

5.3 リスクをめぐる正義の対立の調整
科学技術の効果/負荷は、社会システムと人間システムに対して「利便・安全・安心」をもたらし、欲望を掻き立てているが、それだけではない。それは同時に「リスク/危険」をまき散らしては人々を不安に陥れてもいる。それによって煽られる不安の集団心理は、デジタル化されたテクノロジーであろうと、副作用をともなうワクチン接種であろうと、原子力発電所のようなデジタル化とは直接には関係しない巨大テクノロジーであろうと、基本的にはすべて類似している。そのいずれも、確率計算、個人単位を越える広がり、多因子による複合的な低負荷、長期的な影響、将来の発症といった、「不定性」と「未知」とを共有している。
人々が欲望によって衝き動かされ、リスク/危険の情報を通じて不安を煽られる結果、社会コミュニケーションの各レベルにおいて対立状況が生まれている。それらの一部は司法の場にもちこまれたり、政治の舞台で華々しく衝突したりしている。そこで基本的に対立しているのは、リスク/危険について語る二つの異質なコミュニケーションである。すなわち、一方に決定する側の人々の間のコミュニケーションがあり、他方に決定の影響を被る側の人々の間のコミュニケーションがあって、この両者が対立しているのである。
前者は、専門家や政策の決定者・遂行者同士のコミュニケーションである。そこでは専門用語が用いられ、事象の特性とその人体への影響をめぐって計算や予測がおこなわれる。これに対して後者は、市民・非専門家・被害者の間のコミュニケーションである。そこでは安心と不安の両極を揺れ動く感情を基盤として、安全か危険かの二者択一の言葉が用いられる。その結果、決定する側に対する過剰な反発や、救済論的な絶対的現在の感覚、過激な原理主義的な主張が生じやすくなる。
両者のコミュニケーションが交流する可能性は基本的にはほとんどない。それどころか、不定な危険事象が日常化するにつれて、両者の間の亀裂はますます深刻化し、拡大する傾向にある。このとき、深刻な亀裂を修復して対立状況を解消しようとして登場するのが、全体社会をトータルに視野に収める「思想」である。思想を四次元に沿って配置してみよう。図11を見ていただきたい。
まず、<実用性>に軸足をおくのは「専門家・実務家の思想」である。ここには、科学的合理主義、技術的対応論、コスト・ベネフィット論、自己責任論などが含まれる。次に、<共同性>を足場にするのは「反専門家・民衆の思想」である。ここでは例えば、民族やジェンダーや障害者などの種々のアイデンティティや、犠牲者への連帯、家族・親密圏のきずなが強調される。他方、<統合性>をめざして政治論議(国民の合意形成という言説)を牽引しているのが、(専門家/反専門家を超える)「普遍的公民(市民)の思想」である。この典型例は理想的コミュニケーションを担う討議主体(市民)に期待するJ.ハーバーマスの立場である。そして最後に、<超越性>に依拠するのが「無差別者の思想」である。ここには、伝統的な宗教思想や、「いのち」というマジックワード、東洋思想の「無」や「空」、差異化の運動を強調する論者たちがいる。
思想のそれぞれの立場は、四次元のうちの一つだけに依拠して全体を捉えようとする。その結果、コミュニケーションの二つの側の間の深刻な対立を乗り越えるはずの思想そのものが、分裂するという事態が生じる。この分裂は全体性の原理を争うかぎり不可避ではある。しかし、科学技術の利便性・有用性・効率性の価値が突出し、それ以外の価値が消失する一元化が進行する今日、思想が自身の分裂状況を解消しつつ、デジタル一元化をコントロールする方向を打ち出すことが要請されている。そして、思想上の対応はさらに、個々人や社会運動や組織の動きを考慮しつつ、争点をめぐる論争の場面へと具体化されなければならない。それを可能にするようなモデルがはたしてあるのだろうか(これが<両側並行モデル>である)。

5.4 人(間)観の再画定(人・動物・ロボット・物体の間の再分割)
「もの」はこれまで種々の分割線によって区切られてきた。近代社会を支える倫理の基盤にある古典的・伝統的な人(間)観もまた、その類いの分割線である。しかし今日、デジタル化(すなわち二値的一元化)の浸透によって、それは根底から揺さぶられている。
近代欧米の倫理学の土台はカント倫理学と功利主義倫理学である。まず、理性の普遍主義の見地に立つカント倫理学の前提には、理性をもつ「人=目的=尊厳」と、これに対する非理性的な「物体=手段=価格」という区別がある。そこから人と物体は異種のカテゴリーに振り分けられる。これを<縦二分割>と呼んでおこう。ここでは動物はデカルト以来の伝統に従って物体の側に入れられる。カント的な理性主義は19世紀から20世紀の前半にかけて、近代社会の倫理を支えてきた。しかし20世紀の半ば以降になると、カント的伝統を受け継ぎつつもその普遍的な理性に依拠しない倫理学が登場してきている。その一つが対話(討議)における理想的な言語コミュニケーションを基礎にしたJ.ハーバーマスの言語的普遍主義である。ただし、この立場の普遍性の根拠は究極的には人類のDNAの同一性に求められる。したがって、これまた種カテゴリーによる<縦二分割>といえる。
他方、カント的伝統と拮抗してきたのが、英米系の功利主義(広義には経験主義)の見地である。功利主義にとって倫理の基礎にあるのは、西洋神学由来の普遍的な理性ではなく、環境と関わるかぎりでの生物の経験的な快・不快の感覚である。そしてこの感覚の有無が基準となって、存在するものが区切られる結果、例えば犬や馬のような動物のほうが、人の無脳症児よりも価値が高いということになる。ここでの区切り方は種間を横断するから、種カテゴリーで区切る<縦二分割>(したがって「種差別」)に対して、<横二分割>と名づけることができる。この分割の仕方は、創唱者のベンサムから現代の生命倫理学者P.シンガーにいたるまで一貫している。
表層的に見るなら、理性・言語の普遍主義と快・不快の経験主義という二つの理論は、たしかに対極にあって対立している。しかし実のところ、根底では共通しているとみなすことができる。事実、19世紀英国の代表的思想家にして二つの考え方を総合したJ.S.ミルでは、理想とされる「個人」が志向するのは知的・精神的な快楽を味わう「個性」であるとともに、普遍的な「人類愛」であった。考えてみれば、そもそも<横二分割>を遂行するのは、普遍的な視点をもつとされる立法者であり、哲学者である。西洋近代の二つの理論を通底しているのは、中世以来の「宇宙における人(間)の特別さ」にほかならない。
20世紀の「哲学的人(間)学」が(ニーチェやフロイトの影響を受けつつ)挑戦したのは、まさに西洋的人間観を貫通している「人の特別さ」であった。とはいえ、衝動/精神の二元論に固執するシェーラーはもとより、不確定な「欠陥生物」観に依拠するゲーレンにしても、そしてさらに、「シンボル動物」として人間を再定義したカッシーラーにおいてすら、「人の特別さ」は形を変えて今日まで生き延びている。
以上で概観した西洋思想に対して現今、過剰ともいえる期待が「東洋思想」に寄せられている。東洋思想を特徴づけるのは、イメージや言語による分割を超えた「無」や「空」の境地であり、「無差別」の見地である。しかし、そこにはなるほど「人の特別さ」は見当たらないとしても、「流出」等の直観に依拠して無差別から差別世界へと展開するだけに止まり、およそ生成の論理なるものが欠落している。東洋思想もしくは東洋哲学では、西洋思想とは対照的に人と動物や物体との間を区別することができない。
要するに、デジタル化が進行する現在、古今東西の人(間)観を成り立たせてきた分割線が根底から問い直されている。<縦二分割>でも<横二分割>でもなく、あるいは、無差別化でも、もちろん二値的一元化でもなく、「もの」の間を新たに区別しつつ連関づけることによって、宇宙の中にあらためて人(間)を位置づけ直すことが要請されている。全体の問題構図については図12を見ていただきたい。
問題の核心にもう一歩迫ってみよう。人(間)観を再考する際、焦点の一つになるのは人とロボットの関係である。人工知能を搭載した機械体としてのロボットは、物体と機械体と動物(生物)と人の間のどこに、どのように位置づけられるのだろうか。欧米人のロボット観では<実用性>の次元が主要であり、ロボットはあくまで機能限定の道具とみなされている。そしてこの延長線上でロボットである奴隷が反乱を起こしたり、恋をしたりする大衆向けの物語が紡ぎ出される。それに対して日本人のロボット観では、<共同性>の次元が際立っている。例えば、人に似せた「ヒューマノイド」が好まれ、仲間としての共感が強調される。しかし、欧米であれ日本であれ、ロボットの「心」という肝心の点が問い詰められることなく、棚上げされている。実際、哲学者たちの多くは「みなし」論に甘んじている。
そうした中で、人の「心」とくに「自我意識」の哲学的考察をふまえ、ロボットにその「自我意識」を実装しようと試みたロボット学者たちがいる。例えばそのうちの一人、故喜多村直は自我意識に関して5個のテーゼを立て、快不快の感覚をも組みこんだ多階層フィードバックモデルを考案し、これをピアジェ型ロボットと名づけた。あるいは、若手の谷口広大はボトムアップ記号創発の視点から、意味を解釈するプラグマティクなパース型ロボットを考案している。とはいえ、両者の試みにはそれぞれ難点がある。喜多村では快・不快の感覚が情動レベルまでは届かず、言語的コミュニケーションを行う必然性が考慮されていない。他方の谷口ではコミュニケーションを通じて意味解釈が共有される集団形成の視点が弱く、情動システムが位置づけられていない。
人(間)のコミュニケーションでは、身体表現の延長線上にある情動記号を用いたコミュニケーションと、身体表現から切り離され物象化された物記号を用いたコミュニケーションとが、重層的に交錯し連動している。ロボットと人の間の区別と連関を捉えるための鍵は、まさに情動システムと意味解釈システムとの交錯・連動にある。この点を考慮して人と動物とロボットの間、さらには胚と成体との間を区別しかつ連関づけるための統一的な原理が求められている(これに応えるのが<自己変容システム>理論である)。

おわりに
ここまで「哲学」のサードオーダーの立場から、デジタル化する先端科学技術(テクノロジー)の影響によって生じる「倫理問題」(セカンドオーダーの倫理)を先取り的に概観してきた。さらにその上で、科学技術倫理学(サードオーダーの倫理)の視点から多種多様な「倫理問題」を四つの基本課題にまとめ直してみた。以上で概観された「倫理問題」の構図ならびに実践的に設定された基本課題に対する私なりの解法は、行論中に何度も参照をお願いした『生命と科学技術の倫理学』の結章で論じられている。読者諸賢の忌憚のないコメントを切望する次第である。


⑴ 関連する単著・共著論文は以下である。
①森下直貴:病気/健康———<滞ることなく流れる循環>という視点、シリーズ生命倫理学第2巻『生命倫理学の基本概念』第6章、丸善出版、2012。
②森下直貴:病と健康(主題別討議報告)、『倫理学年報』第61集、58-70、2012。
③森下直貴:「子育て」に今日的意義はあるか———<身近な他者たちの協同作業>という視点、『都市問題』第102巻第12号、44-52、2011。
④森下直貴:「健康」を哲学して「老成社会」の提唱に及ぶ、『人間会議』夏号、18−23頁、2014。Cf. Naoki MORISHITA, Reconsidering “health” from the perspective of “system”: Health as desire and way of life for people of advanced age. Journal of Philosophy and Ethics in Health Care and Medicine, No.8, 27−42, 2014.12.
⑤森下直貴:《雑融性》としての「成熟」———「若者世代」論から《規範的なもの》の考察へ、『哲学と現代』(名古屋哲学研究会)26号、42-87、2011。
⑥森下直貴「家族」の未来のかたち———結婚・出産・看取りをめぐる人類史的展望、古茂田宏他編『21世紀への透視図』第3章、青木書店、2009。
⑦森下直貴:「家族の変容」から見た代理出産と終末期医療の未来、『浜松医科大学紀要(一般教育)』第24号、1-21、2010。
⑧森下直貴:倫理学の視点から見たリスク論、『臨床環境医学』23巻2号、75-84、2014。
Cf. Naoki MORISHITA, A View of Risk from the Perspective of Ethics. Formosan Journal of Medical Humanities, 15&16:65-84, 2015.9.
⑨森下直貴:<老成学>の構想———老人世代の「社会的再関与」によるコミュニティ再生への展望、『浜松医科大学紀要(一般教育)』第30号、1−43、2016。
⑩ 西川哲・森下直貴:実験動物慰霊祭参列者の意識調査———アンケートの結果から、『実験動物技術』第46巻2号、67-72、2011。Tetsu NISHIKAWA and Naoki MORISHITA, Current Status of Memorial Services for laboratory Animals in Japan: A Questionnaire Survey, Exp. Anim. Vol.61 (2), 177-181, 2012.4.
⑵森下直貴編著『生命と科学技術の倫理学』(丸善出版、2016年)、13−19頁。