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2017.03.21

古茂田宏君追悼文

古茂田君追悼文 2011.4.29

47文Ⅲ10Dのクラスメイトの君へ

森下直貴

いま一枚の写真を見ている。建物の入り口扉の前の二本の柱のあいだの、低い四段の階段の上に、少し緊張気味の若者たちがコートを着て、傘を手にして立ち並んでいる。彼らの手前には四角い板のプラカードが一本足の棒で支えられ、案山子のように立っている。そのいかにも手作りの黒っぽいプラカードの中央半分を占めている白い紙には、少しぼやけてはいるがリンゴのマークが書いてあり、これを取り囲むように「47文Ⅲ10D」という文字がうっすらと見える。
向かって中央右側の、顔を少し右前に傾けているのが僕だ。学生服を着ている。写真を撮る前の自己紹介のさい、「これからも学生服を着てきます」と宣言したのだが(なぜそんなことを言ったのだろう)、その後二度と着ることはなかった。僕のまわりを見回すと、忘れていたがたしかに見覚えのある顔が並んでいる。ジョン・レノンそっくりの格好をした男もいる。君はどこだろう。あっ、いた、いた。僕の左斜め上の一番後ろだ。トレードマークの髪型はそのままだが、少し不安げな顔をしている。
君の訃報を耳にし、葬儀に列席して以来、時間はひたすら過去へ向かって動き出している。そしてその動きはやがて一枚の写真で止まり、そこで渦を巻いている。それが、この入学式のクラス集合写真だ。あれは雨の日だった。しかも学園紛争の余波で、在校生が主催するしょぼい自主入学式だった。何とも心細い気持がしたのをいまでも鮮明に覚えている。とはいえあのとき、君の印象はない。まさか、クラスメイトの中で一番長い付き合いになるとは、そのときは君も僕も知らなかった。
第一本館二階の正面から見て左側奥近くの部屋が僕らのクラスルームだった。フランス語担当の滝田教授の最初の授業のことはいまでも忘れられない。文法の教科書の説明をしたとき、黒板にいきなりフランス語で ” structuralisme” と書き、口を尖らせてなにやら発音し、この言葉を知っている者はいるかと訊ねてきた。「構造主義にもとづくフランス語」という副題をもつ教科書の著者の一人は丸山圭三郎だった。構造主義? 何だ、それ。図書館に行って本を探してみたが、文化人類学の難しい専門書しかなくそのまま書架に戻した。生協書籍部の入り口の平台には吉本隆明の本が山積みされていた。1972年とはそんな時代だった。
君を意識し始めたのは、4月か5月のある日、フランス語の授業の後にクラスの何人かが集まって、芝生に座って話をしていたときだ。「入学式の自己紹介のとき、学力がないから文Ⅲに来たと卑下した者がいたが、自分はそうは思わない」と、その男はぼそぼそとしゃべり始めた。それを言ったのはじつは僕だった。正直、穴があったら入りたいと思ったが、同時に、この男は自分を持っているなと羨ましかった。田舎から出てきてコンプレックスの塊だった僕が、精神的にようやく大学生になり、内省の道へと引き込まれていったのは、君のあの一言だと本当に思っている。
そうそう、こんなこともあった。上妻精先生が非常勤で社会思想史の講義をもっていた。その日はスピノザがテーマだった。授業終了後、教室を出たとき君と一緒になった。そこで僕は「スピノザという男は面白いね」と語りかけた。「うん、僕はスピノザが好きだ。重要な哲学者だよ、ルソーと並んでね」という答え。その大人びた返答に、思わず君の顔を見返したのだが、その君が「哲学研究会」のメンバーだとはそのときは知らなかった。
僕は悩みに悩んだ末、内省の延長線上で本郷の倫理学科に進学した。相談したわけではないが君も一緒だった。それ以来というもの、学部、大学院、生協活動、そして政治活動において、就職して東京を離れるまでのあいだ、ほとんどいつも一緒に行動していた。ただし、僕より君の方がつねに一歩先にいた。僕はいつか追い抜くつもりで、君の後ろを必死に追いかけていた。そしてようやく最近、追い抜く自信を持てるようになった。以前のように話を聞いてもらって、議論をしたいと思うのだが、それもいましばらくはできない。
その腹いせというわけではないが、今度いつか会ったとき、しかるべき弁明を聞かせてもらいたいことがある。大学院生のころ、車に乗せてもらって一緒にスキー旅行に行ったときのこと、君は途中で車を降りてポップコーンを買ってきた。僕自身はポップコーンを好まない。それでも後部座席に並んでいる僕に「どう、君も食べるかい」ときっと訊ねて来るだろう、そのときはどうやって断ろうかと考えていた。ところが君は一人で黙々と食べているではないか。弁明?「人間ってのは、執念深いもんだね」と、さらりとかわすんだろうな。