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研究業績

RESEARCH WORKS
2017.03.21

ナノテクノロジーの倫理 ワード版(図なし)

「デーミウルゴス」的主体性とその彼方
 ―J.-P.デュピュイの「ナノエシックスの哲学的基礎づけ」をめぐって―

The “Demiurge”-Subjectivity and Its Beyond
Philosophical Reflections on J.-P.Dupuy’s Foundation of Nanoethics

森下直貴*1、河原直人*2、松田正己*3、村岡潔*4、大林雅之*5
*1浜松医科大学 *2早稲田大学 *3静岡県立大学 *4佛教大学 *5東洋英和女学院大学

In this paper we aim at formulating a discussion platform, on which any philosophical thinking on nanoethics could be expected to stand, as commenting on J.-P. Dupuy’s paper devoted to the same theme and making significant points clear. His paper is very important because few deal philosophically with the ‘ethics’ of nanotechnology except him, even though there nowadays exist many conferences as well as numerous papers concerning nanotechnology around the world. It contains the following remarkable points to be taken up: paying attention to the metaphysical premise underlying nanotechnology, and seeing the former as humankind’s ‘self-making’ and therefore its ‘self-overcoming’; taking a positive posture on advanced technologies from the viewpoint of ‘human conditions’, but nevertheless admitting a certain ‘self-limitation’ against human ‘self-making’; looking for the base of ‘self-limitation’ and finding it in Jewish religious wisdom. With regard to his assertions at least two questions must be raised: are there any ways other than Jewish wisdom in order to assure ‘self-limitation’; and is it really right that there are, according to his perspective, our human mind enhanced to the status of ‘demiurge’ or demigod, on the one side, and the mechanical world remade, on the other side. That is why we are now faced with a new reality where there might be neither minds nor machines but mere innumerable things. We conclude that it is needed to construct a new metaphysics.

キーワード:
ナノテクノロジー、ナノエシックス、NBIC収斂テクノロジー、
人間の自然、人間の条件、自己制作者、認知科学、
自己制限、負い目感情、形而上学

付記:この論文は『生存研究B』19:95-117, 2009.3に掲載されている。

はじめに

以下の論考は、ジャン–ピエール・デュピュイ著「ナノエシックスの哲学的基礎づけに潜む落とし穴」(1)をめぐって、筆者らが共同で討議した内容を取りまとめたものである。デュピュイ氏は現在、仏エコール・ポリテクニック政治哲学教授の職にあり、また米スタンフォード大教授を併任されている。なお、管見のかぎり、デュピュイ教授(以下、敬称略)の著作のうち二冊が邦訳されているが、そこにうかがえる彼の考えの基本は本論文でもくり返されている(2)。
 「ナノエシックス」に関する議論は、米国・欧州・日本を見渡すかぎり、かなり進展しているようにも見える。ただし、これまで行なわれてきた議論の大半は、ナノテクノロジーのリスク評価や安全性、ならびにそれへ向けての社会の取り組みに集中しており、「エシックス」そのものの基礎に深く関わるようなものではなかった。例えば、筆者らが関与した議論をあげるなら、数年前に日本で行なわれたG・ハント教授の報告でも、また、ロンドン近郊で開かれた同教授主催の国際シンポジウムでもそうであったし、さらに最近、米ジョージタウン大学で行なわれた会議でも、多少の言及はあるにせよ、基本的にはそうである(3)。
「ナノエシックス」の実情が以上のとおりだとすれば、ここに取りあげるデュピュイ論文は、ナノテクノロジーだけでなく、先端科学技術の全体(NBIC収斂テクノロジー)をも視野に収めながら(4)、本格的な哲学的思考を正面から展開しており、その意味で希有な例であると言える。彼によれば、先端科学技術が「人間の自己克服」をめざして突き進んでいく未来世界にとって、本物の「倫理的」課題となるのは、《作り変えるなかでの自己制限》を可能にするような根拠の探求にほかならない。筆者らはデュピュイの課題の立て方にある意味では同調しつつも、探求の方向に関しては異なる見地を模索している。そこでこの論考では、彼の論文を「倫理」の面に関して検討し、そこに含まれる論点を明確にすることをつうじて、「ナノエシックス」の哲学的基礎づけに向けて議論の足場を固めたいと考えている。
デュピュイの当該論文は三部から構成されている。第一部は「論争を新しい足場に置く」、第二部は「人間の条件は古くさい(obsolete)か」、そして第三部は「自然・倫理・知識の古くささ(Obsolescence)」と題されている。以下、論文の展開に沿いながら要点を摘出しつつ、要点ごとにコメントをつける形で考察を進めていく。なお、哲学思想にあまり馴染みのない読者のために、所々で最小限の解説や文献案内をつけることにした。この論考が専門外の人びとに少しでも理解されることを願っている。

1 「倫理」をめぐる方法論

第一部では、「倫理」を考えるさいにしばしば見受けられる三つの「落とし穴」が指摘されている。それらは判で押したような主張と反論のくり返しであって、デュピュイによれば、倫理的評価の性質と対象をめぐる根本的な「錯誤」なのである。
一つ目の落とし穴は、倫理をたんなる「リスク計算」とみなすことである。この「リスク計算」とはいわゆる合理的なリスク・マネージメントのことであり、ここには環境倫理や安全論ではいまや不可欠となっている「予防原則」(precautionary principle)も含まれる。しかしデュピュイから見れば、それは倫理にとって本来の課題ではない。他方、その対極にあるカント的な義務倫理はたしかに倫理学ではあるが、現代のリスク問題に応えることはできない。とはいえ、科学技術の及ぼす影響は実際問題として無視することはできないとすれば、どのような選択肢が残されているのか。デュピュイが注目するのは、たんなるリスク計算ではなく、規範的な評価を可能にするような「賢慮」(実践的知恵prudence)である。その古典的な代表例はアリストテレス的なプロネーシス (phronesis)であるが、デュピュイ自身は後述するような“Ongoing Normative Assessment”を提唱している。
二つ目の落とし穴・錯誤は、倫理を「費用対効用」の経済学的分析に押し込めてしまうことである。第一の錯誤が狭い意味のリスクを対象にしていたとすれば、こちらはずっと広く経済学的なリスク分析に関わる。このリスク計算には、潜在的なダメージの大きさ、発生する程度の確率、尺度としての選好(功利)という三つの要素が含まれる。しかし、目下進展しつつある収斂テクノロジーの場合、いずれの要素であろうと、空間的・時間的な広がりのなかで一義的に確定したり、評価したりすることは不可能である。その種の分析が可能だと錯認する背後には、哲学的に見てより本質的な誤りがある。すなわち、人間の社会では、ちょうど量子物理学におけるハイゼンベルクの「不確定性原理」のように、主体の行為と社会とは干渉し合うのであり、その意味で存在論的な不確定性(偶然)につきまとわれているのだが、このような現実を「知識不足」にもとづく認識論的な「不確実性」(ベイズの主観的な確率論)と混同し、後者に還元してしまうという誤りである。
ここで、倫理は広狭のリスク分析ではないとするデュピュイの主張に関して、最小限のコメントを挿んでおきたい。昨今たしかに安全・安心やリスクの問題に人々の関心が集まり、例えばベックの『危険社会』(法政大学出版局、1998年)などを有力なきっかけにして、安心・安全の技術論が花盛りになっている(5)。デュピュイの批判は、CO2温暖化論議にも見られることだが、それらの表面的な上滑りの議論を冷却するという意味合いをもっている。とりわけ自明のごとく拠り所にされている「予防原則」に対して、彼が哲学的な批判を投げかけている点は注目に値するが、これについても後述しよう。
 三つ目の落とし穴に移る。これは倫理の対象を技術(テクニック)に限定してしまい、テクノロジーに目を向けないという錯誤である。デュピュイによれば、「テクノロジー」とは文字どおり、テクニックをめぐるロゴスを意味する(6)。彼はハンナ・アーレントに倣って、ロゴス=理性の「夢」の重要さを指摘し、SFにもしかるべき注意を向けるべきだという。理性の夢見る内容は、一方で技術の革新を促すとともに、他方で人間の諸条件の変容をも想像させる。そしてその結果として、技術が条件を実際に作り変えることになる。このように、理性=夢と技術と人間の条件とのあいだには、一定の動的な連関が成り立っている。彼が好んで引用するポッパーによれば、「形而上学的な研究プログラム」(理性=夢)をもたないような科学はどこにもないのである(『果てしなき探求』森博訳、岩波書店、1978年、213-217頁)。この点がとくにナノテクノロジーに当てはまるのは、それがいまだに実現されていないからである。
ここでふたたびコメントを挿むなら、テクノロジーを理性の夢と結びつける捉え方は、日本でも一部に見られるとはいえ、自覚的に理論化されてはいないように思われる。ましてや、後述する「認知科学」のように、形而上学的な前提にまで掘り下げて考察されることはまずない。その意味でデュピュイの指摘は重要であろう。ただし、それを一方的に強調しすぎると、「テクノロジー主義」に陥る危険がないだろうか。例えば、社会学者のアンソニー・ギデンズは、近代化をトータルに捉えるために、社会科学の創設者たち、すなわち、マルクスやウェーバーやデュルケームらの陥った単一要因主義を批判して、国家・市場・技術・軍事という諸制度の連関システムを強調している(『近代とはいかなる時代か』而立書房、1995年)。あるいは、サスキア・サッセンはその「グローバルシティ」論のなかで、分散型の情報技術といえども、多様な制度と絡まざるをえないため、かえって特定の空間への集積・中枢化を推進する事態になってしまうと主張している(『グローバル空間の政治経済学』岩波書店、2004年)。このようにテクノロジーは単独で作動しているわけではなく、多様な制度と絡み合ってその力を及ぼしている。もちろん、デュピュイも諸制度との連関をまったく無視しているわけではなかろうが、この論文に関するかぎり一言しか触れられていないのも事実である(p.241)。
最後に、第一部の末尾でデュピュイは、今回の論文ではナノエシックスに関して三つの落とし穴を回避するような完璧な研究プログラムを提出することはせず、ただそれへ向けて示唆するだけに止めると書いている。その点に関する彼の積極的な考え方とは、先に示唆した“Ongoing Normative Assessment”である。これを論じた論文「不確実性と共に生きる」(7)では、線形の時間・自由意志・未来の非現実性を前提にする主観的な確率論とこれに依拠する「予防原則」を批判しつつ、それに替えて、ループする時間・再帰的相互作用・未来の存在の信頼という新たな形而上学に支えられた方法論が展開されている。じつは、ここで取りあげた最初の二つの落とし穴をめぐる批判も、その論文をふまえて書かれており、そこで論じられた内容を念頭におかなければ十分な理解に達しないものである。残念ながら、本論考の主題は倫理的な根拠づけに絞られているため、きわめて重要な方法論の検討は別の機会に委ねざるをえない。それは間違いなく日本における議論の水準を引き上げるはずである。

2 「人間の自然」から「人間の条件」へ

第二部に移ろう。ここでデュピュイは別の重大な落とし穴(合計で四つ目)を取りあげる。すなわち、「人間の自然」と「人間の条件」とを混同する錯誤である。彼によれば、この重大な錯誤のせいで、バイオエシックスばかりでなくナノエシックスに関しても、これまで蓄積されてきた業績が台無しにされてきたのである。ここであえてコメントを挿むなら、「人間の尊厳」一つとってもその表面だけをなぞるような日本の論議状況では、「自然」とか「条件」と指摘されてもどこがポイントなのか、問題の所在すらはっきりしていない。しかしその論点は、西洋文化の根本に触れるとともに、20世紀の現代思想の核心にも関わっており、きわめて重要な意味合いをもっている。
さて、デュピュイはこう言う。西洋文化の場合、人間の「自然・本性(nature)」や「本質(essence)」という観念の背後には、キリスト教の神学的枠組みが控えていた。「神の似姿」というアウグスティヌス以来の人間観である(8)。したがって、社会の世俗化がともかくも進行するかぎり、人間の「自然・本性」や「本質」に関して、従来のようなコンセンサスを期待することはできなくなるわけである。なお、現代のほとんどの科学者は、カントやルソーに倣って、人間の自発性・尊厳・自由という「人間主義」を賞賛している。だから、彼らもたしかに伝統的な発想と同様に「人間」を強調してはいる。しかし、科学者の場合の人間主義は、完成への無限の努力や闘いとか、自然の拘束からの自由を絶対視するものであって、「自然」や「本質」という伝統的な発想とは似て非なるものである。この新しい人間主義の極端な形態は、今日のフランスではサルトルの形而上学(『実存主義はヒューマニズムか』1944年)のうちに見られる。ただし、この形而上学は「人間の自然」を作り変える工学と同じ発想に立っているから、その種の作り変えに対していかなる倫理的制限を課すこともない。
「人間の自然」という本質主義に対して、デュピュイがハンナ・アーレントに依拠しながら押し出すのは「人間の条件」である。この見方によれば、人間は世界を構成しつつ、構成された世界によって条件づけられる。人間はその大部分が、自ら形作るものから形作られ、条件づけるものから条件づけられる(9)。条件づけられているという点では不変であるにせよ、個々の条件は絶対的なものではない。このように「人間の条件」は、人間存在をまさに人間的ならしめる不可欠の特質、すなわち、永遠不変の「自然・本性」や「本質」とは全く別物である。すべての条件とそのもとで営まれるあらゆる活動とを合わせても、「人間の本質」にはけっして届かない。
不断に作り変えられる条件の総体は、「自然なもの(natural)」と「人造のもの(man-made)」とから成り立っている。つまり、「与えられたもの(the given)」と「作られたもの(the made)」との分ち難い「混合」なのであるが、デュピュイによれば、両者のあいだの均衡は脆く、崩れやすい。そのため従来であれば、その危うい均衡を維持するためにそれなりの配慮が払われていたと指摘する。この指摘は彼の立場(後述するユダヤの知恵)を理解するうえで決定的に重要である。ところが今日、「与えられたもの」の一切に反抗(rebellion)し、両者の均衡を破壊するような傾向が顕著になっている。その最たるものが、人間の条件の一部である「与えられたもの」を「克服(overcome)」しようとするナノテクノロジーの夢にほかならない。
すでに1950年代、そのような傾向を予言した一群の哲学者たちがいた。アーレント、ギュンター・アンダース(アーレントの最初の夫)、ヨナスの三人のことであるが、みなハイデッガーの弟子であった。とくにアーレントの場合、その予言(人間の条件の変容を見通す並々ならぬ洞察力)は、時期的に、遺伝子工学の誕生(1973年)や、それ以前の、ナノテクノロジー研究の元祖とも言える物理学者ファインマンの講演(1959年、米国物理学会年次大会)に先立っている。デュピュイはこのあたりで、アーレントの思想をほとんど全面的にふまえながら議論を進めている。ちなみに、彼はこれまで、後に言及するイリイチやジラール、さらには正義論のジョン・ロールズをフランス思想界に紹介する先鞭役を果たしてきた(『秩序と無秩序』序文やウェブサイト情報)。そしてアーレントについても早くから注目していたのである。
そのアーレントが「人間の条件」として挙げているのは、(人間の営みすべての源である)生命それ自体、出生と可死性(という有限性)、(複数の人間同士が関わり合う)多数性、(人工的環境として作り出された)世界性、そしてすべての営みの舞台としての地球(大地)である(『人間の条件』序文ほか)。それらの条件のもとで、人間は思考の営みとともに活動的営み(労働・仕事・行為)をくり広げ、多様な世界を構築・構成してきたわけである。ここでコメントすれば、人間の「自然」から「条件」への転換は、歴史的にみれば、〈伝統的近代〉(16・17世紀に形成され19世紀後半に確立した近代化の第一段階)から〈現代的近代〉(20世紀初期から明瞭な形をとり始めた近代化の第二段階)への転換に対応している(10)。また、哲学・人間学の文脈でいえば、「条件」という表現は、ハイデッガーの『存在と時間』が登場する以前と以後とを切断する、象徴的な合い言葉であったと解することができる。
以上を受けてデュピュイは、人間の条件の一部をなす「与えられたもの」に対する反抗の例として、不死性および誕生をめぐる問題に目を向ける。まず、「不死性」に関して、彼はNBICテクノロジーに関する英米の報告書(11)やとりわけカーツワイル(Kurzweil)のベストセラー(12)に言及しつつ、しかしそこに示された不死の夢を頭から否定することはない。なぜなら、不老不死への夢・願望はナノテクノロジーよりもはるか以前から根深く、十分にリアルなものだからである。そこにもし倫理的問題があるとすれば、その種の夢の解剖をつうじて浮き彫りにされるべきである。このような態度は上述したように、「理性の夢」を重視する彼自身の「方法論」に忠実に即している。むしろ彼が注目するのは、死を「克服されるべき問題」とみなす時代精神であって、これがカーツワイルの本に臆面もなく表明されている。科学と技術によって解決される「問題」というその種の受け止め方は、人間の条件をめぐるこれまでの歴史のなかでも、あまりにラディカルな突出であって、そこにこそ重大な意味・問題が伏在しているとされる。
ここで、デュピュイはかつて共同研究したことのあるイリイチの思想を呼び出す(『脱病院化社会―医療の限界』晶文社、1979年)。イリイチにとって、「すべての痛みが消失することはない」や、「すべての病気を治せるわけではない」、「人は確実に死ぬ」という命題は「人間の真理」である。イリイチ=デュピュイからすれば、倫理の第一の役割は何が善悪かを告げることではない。常識となっている人間の諸条件に関して、あえて不快感をかき立てるような問いを提出することにある。だから、そのようなイリイチの姿勢は、先端科学技術の推進者から見ればいかにも「反動的」に映るだろうが、そこには打ち消すことのできない問いが残っている。すなわち、痛み・病気・死という根本的な事実に向き合い、それらといかに折り合いをつけるのかという問いである。その種の知恵の結晶が「象徴的な健康」という観念であり、これが伝統社会の文化(象徴システム)に織り込まれ、長期にわたって社会の道徳的条件となってきた。そしてそのさい「聖なるもの」が決定的な役割を果たしていた。ところが、近代世界と近代医学はその「聖なるもの」を追い出し、代わりに理性と科学に依拠するようになった。しかし、人間の条件の避けがたい「有限性」を疎外とだけみなし、「意味」の源泉として認めないとすれば、子供っぽい夢の追求のために「限りなく大切なもの」を失ってしまわないだろうかと、イリイチ=デュピュイは問いかける。
もう一つの反抗例は「産まれることに対する恥辱」である。それは死への敵視よりずっと微妙で、いっそう根本的であるとデュピュイはいう。この文脈での典型は「プロメテウスの恥辱」というフレーズである。それはアーレントの最初の夫ギュンター・アンダースの案出であるが、サルトルによって自覚的に「嘔吐」や「自由たるべく呪われている」というテーゼに受け継がれている。両者に共通しているのは「自己製作人」(self-made man)の形而上学、つまり、人間を世界の製作者「デーミウルゴス」(13)の地位に押し上げる思想である。それは今日すでにNBIC収斂テクノロジーのなかで実現されつつある。この工学は、地球上での曲がりくねった自然進化に代えてストレートで効率的な進化を設計し、それを通じて「与えられたもの」の克服を目指している。これと同時に、その科学的な「人間主義」は人間を不断に「古くさいもの」へと貶める。デュピュイによれば、この絶え間のないいわば〈自己克服〉という展望台から事態をながめるとき、「倫理的」と呼ばれる特別な問いが立てられる。そこでは人間の条件の「有限性」だけでなく、「政治」に関わる人間の多数性および一体性(共同性)という条件もまた、攻撃に曝されているからである。そのかぎり、提起される問題はたんなるクローニング技術を超えて、はるかに微妙かつ普遍的な広がりをもっている。

3 「人間の条件」にともなう曖昧さ

コメントに移る。デュピュイの考えの筋を追うかぎり、彼は「人間の自然」を退けて「人間の条件」という見方に立ちながら、その先で二つの道を対置させている。一方に広がるのは、「与えられたもの」の一切に対して反抗し、不断に作ること(making)へと続く道である。その方向を進んでいくなら、病気や死は「克服」できるはずである。他方に見えるのは、作り変える営みの内部に「自己制限」(自制self-limitation)を設ける細くて険しい道である。デュピュイが進むのはむろん後者の道であるが、そのとき問われてくるのは、自己制限を可能にする根拠である。ところが、前節で見たように彼は、「中世の思想家」との評のあるイリイチに同調しつつ、「聖なるもの」や「意味」といった、まるで(古くさいどころではなく)古色蒼然とした中世の道具を持ち出しているのである。だが、作り変えられた現実のうちのどこに、それらの道具を支える基盤が見いだされると言うのであろうか。その基盤に関してより根本的にいえば、「人間の条件」というアーレントの考えそのものに、ある種の曖昧さが含まれているように思われる。
アーレントの『人間の条件』(原著は1958年)(14)では、人間の諸条件を一定としたうえで、そのもとで営まれる「活動的生活」の諸次元が歴史的に分析されている。そのなかで人間の条件の変更可能性が考慮されているのは、「プロローグ」と第1章の初めの部分だけである。しかしそこで、二つの道をめぐって立ち入った考察が試みられているわけではなく、たんに「思考なき被造物」(レプリカ?)への危惧の念が語られ、それに対して公共領域での言論=行為という「政治」による方向づけが示唆されているにすぎない。
アーレントはなるほど「人間の条件」を「絶対的」(邦訳、13ページ)とはみなしていない。そこが「人間の自然」との決定的な違いである。もしそうだとすれば、(多数性に関連する)条件が変わる可能性も排除できないはずであろう。そしてその条件が変わってしまえば、言論による政治は存続できないということになる。そうした事態を嫌い、変わってしまう前にそれを防ぐべく言論の力に頼ろうとしても、蟻地獄のなかにいるかのように言論の足場が崩れつつあっては、それも手遅れにならないだろうか。あるいは、作り変えられるにつれて、「思考の営み」を強調するアーレントほどは言論行為に執着しない人間が徐々に誕生してくるかもしれない。なお、デュピュイのほうは、前節の末尾で言及したように、「言論による政治」の条件の消失をある程度まで視野に入れてはいる。いずれにせよ、諸条件の何がどこまで変わるのかという点に関して、アーレントの洞察には曖昧で不徹底なところがある。
おそらく、その不徹底さの核心にあるのは「自然なもの」の可変性であろう。アーレントもデュピュイもそれ以上言及していないが、いくつか挙げられている諸条件の根源にあるのは「生体」であり、「生命」のはずである。有限性や多数性や世界性は生命の営みから発しており、地球もまた生命にとっては不可欠の環境(あるいは共進化のパートナー)である。とするならば、アーレント=デュピュイが「人間の条件は作り変えられる」というとき、「生命」に関してそれがどこまで作り変えられると考えていたのか、その点に本質的な曖昧さがあろう。アーレントは「人間の自然」という見方をいわば「神学的な本質主義」と同一視して批判していたが、今日の眼からみれば、本当の論敵はむしろいわば「自然科学的な本質=普遍主義」者のはずである(15)。NBIC収斂テクノロジーによる「人間の自然」の変更・消去を論じるためには、その前に「自然科学的な本質=普遍主義」の位置づけを考えておくべきではなかろうか。

4 認知科学の理念とそのパラドックス

第三部「自然・倫理・知識の古くささ」に入ろう。これは「人工的自然」、「脅かされる倫理」、「製作に還元される知識」の三節からなる。ここで全体を主導するのは、NBICのうちでもC、すなわち認知科学である。認知科学はサイボーグ研究の起源(サイバネティクス)となったが、最初から科学である以上に哲学的なプロジェクトであった。したがって、NBIC収斂テクノロジーにとって、Cはポッパーのいう「形而上学的な研究プログラム」にあたる。しかしデュピュイは、そのような「研究プログラム」には途方もない「パラドックス」が潜んでいるという。第二部とのつながりでいえば、その末尾で人間の「自己克服」という思想、つまり「自己製作人」の形而上学がNBICテクノロジーによって実現されつつあると指摘されていたが、ここ第三部ではCの展開をつうじてその形而上学のもつパラドックスに焦点があてられる。
まず、「人工的自然」について。元来、認知科学は一元論(monist)を志向していた。その場合の一元論とは、当初、実体(substance)の一元論ではなく、組織化(organization)の原理の一元論である。すなわち、「自然」であれ、「生命」であれ、あるいは、思考する「知性的精神(mind)」であれ、すべては同じ組織(あるいはシステム)だという見方である。そのさいのスローガンは「知性的精神の自然化」であるが、これは自然的世界の内部に生命と知性的精神をおき戻すことを意味していた。しかし、規則にしたがう演算順序である「アルゴリズム」がすべての存在の唯一のモデルであったかぎり、組織化とはじっさいには「機械化」を意味した。つまり、認知科学の正体は唯物論的(materialist)一元論であることがはっきりしたのである。ところが、この段階でどんでん返しが起こる。生命に書き込まれた遺伝子情報(これまたアルゴリズム)に直面するやいなや、それは意図・設計の存在を想像させることから、今度は突如として唯物論から精神的(spiritual)一元論へと変身したのである。人間が自然であるのは、自然がもともと人間による産物だったからだというわけである。ただし、この場合の一元論者、すなわち「人工的自然」(作られた自然)の製作者=「デーミウルゴス」は、もはや神ではなく、人間なのである(詳しくは『知性的精神の機械化』で展開されている)。
 続いて「倫理」について。「人工的自然」という捉え方には、「倫理」的にみて重要な意味合いがある。その点をデュピュイは反対論を通じて吟味する。しばしば持ち出される反論に、「神を演じる」こと(playing God)を冒瀆とみなすものがある。しかも、その種の反論の背景は「ユダヤ・キリスト教」であると見なされている。ところが、デュピュイによれば、そのような見方はタルムードとキリスト神学を完全に誤解したものである。神を演じることへの批判は、元々は人間の傲慢さ(ヒューブリス)を諌めるギリシア的な発想であって、それが後にキリスト教のうちに混入した結果なのである。聖書はむしろ人間を世界の「共同製作者」とみなしている。ジラールやイリイチに依拠したデュピュイの解釈では、キリスト教は西洋の近代化の母胎であったが、生み出された近代化のほうがキリスト教の真意を裏切り、壊してしまったのである。彼の解釈はM.ウェーバーのいう「合理化」つまり「脱魔術化」とも呼応している。世界の「共同製作者」という方向で聖書を引き継ぐ正嫡は科学である。科学とユダヤ・キリスト教とは軌を一にしている。そして19世紀以来、その方向(自然と自由との二世界論)はカント主義者によって正統とされてきたのである(16)。
かりにデュピュイの解釈が成り立つとすれば、そのどこに倫理的な問題があるのだろうか。彼によれば、まさしく、「宗教と科学が手を携えて(joint)共進化」したことによって、道徳的な限界・制限づけという観念が消えてしまった点にある。いかに自由で自律的な社会といえども、自己制限(self-limitation)という原理に基づかないような社会は、(たとえそれが超越的権威に由来するものであったにせよ)どこにも存在しない。カントやとりわけルソーの思想では「外部性あるいは他者性」という観念が支えとしてあった。ところが、その観念は自然を人工化する理性の夢では完全に消失している。この「自己制限」という倫理的問題は、あれこれの認知能力のエンハンスメントといった特殊な問いよりもはるかに重いものである。責任はますます増大するのに、倫理的資源(外部性)のほうは枯渇する一方である。外部性の消失という事態のなかで解決はいよいよ困難になっている。
自らを機械化する知性的精神は、そうやって機械化された自身に対して、二つの実体のあいだのたんなる外的・シーソー的な関係にあるのではない。知性的精神はすでに、たんに操作するだけでなく、自らの意図に従って自身を作り変えコントロールするという、これまでいかなる心理学も揮いえなかったほどの力を保有するまでになった。となると、いまや「何をすべきでないか」に関して規範を設定できるのは、人間主体自身でしかない。そのとき頼りになるのは「意志」とか「良心」といった補助原理だけである。こうして新しいテクノロジーそのものが(バイオエシックスの「自己決定」のような)洗練された倫理を要請することになる。
しかし、ここで倫理や意志や良心について語ることは、人間主体の勝利を意味するのだろうか。それともむしろ、主体の消滅のほうであろうか。認知科学をみればその答えは明白である。巨大なコンピュータのなかの一つの機械にほかならない人間は、何の名あるいは誰の名でもって自身に規範を設けるというのだろうか。知性的精神は自然のどこを探しても見あたらない。意志や選択能力といった補助原理はすでに宙ぶらりんの状態になっている。けっきょく、人間の知性的精神を自然化しようとする認知科学の試みは、自分を生んでくれた自然的世界の外部に自分自身を追放することで終わっている。そしてこれこそが、冒頭で言及した途方もない「パラドックス」の正体なのである。それはまた、ルイ・デュモン(17)が指摘するように、「神の意志に等しくなった人間の意志はこの世界にとって疎遠で余分な存在である」という逆説的な事態の典型例である。このように、人間=「半神」(demigod)が認知科学の結末であるかぎり、それをいつまでも唯物論とみなして攻撃することほど的外れな行為はないと、デュピュイは批判している。
最後に、「知識」について。最近までヴィーコの「verum factum」(真理と製作とは交換される)という原理(『新しい学』1725年)は、「人は自ら作ったもののみを知りうる」という方向で解釈され、自然科学の「実験」の重要さが強調されてきた。その頂点がNBIC収斂テクノロジーである。ただし、この場合の実験は自然を真似たり、モデルにしたりはしない。なぜなら、自然というものはもはやどこにもなく、すべては「作り直される」(remaking)からである。ここではすでに技術的知識(いかに)と製作との意味の違いは消えている。アーレントが危惧する「思考なき被造物」という事態が倫理的問題として浮上してくるのは、デュピュイによれば、まさにそこなのである。

5 ユダヤの宗教的な知恵

以上のように、第三部では、自然と倫理と知識が決定的に古びていく様子がいわば黙示録風に描かれている。そのシナリオを読むかぎり、人間が「デーミウルゴス=製作する知性的精神」へと上昇する進行は、避けがたい必然であるように見える。とすれば、そのどこに「自己制限」のための拠り所を見いだすことができるのか。デュピュイはその問いに答えて、最終部で二つのユダヤ的な物語を差し出し、そこにこそ《作り変えるなかでの自己制限》を考えるためのモデルがあると言う。それらはあたかも黙示録の世界に射し込んでくる一筋の光のような印象を与えている。
物語の一つは、強制収容所から辛うじて一緒に生還したものの、妻をほどなくして亡くして嘆き悲しむ若い寡夫の話である。ウィーンの有名な精神科医フランクルは、彼と面談をした後で、亡き妻とそっくり同じのレプリカを作ろうかと提案する。しかし、その寡夫はしばらく考えた末、その申し出をきっぱりと断り、やがて新しい生活を始めたという。デュピュイはその話を、ギリシア神話の「アンピトリュオン」、すなわち、夫と瓜二つに変身したゼウスと一夜を共にした妻の話に重ねる。そしてそこから、愛する大切な人を完全に同一の性質の束に還元することはできないという教訓を引き出してくる。
もう一つは、預言者エレミアに関する13世紀のタルムードの物語である。預言者になるための修業の最終課題は、人間のレプリカ(人造人間「ゴーレム」)を製作することであった。この話をデュピュイは、サイバネティクス創成期の或る科学者の姿に重ねている。さてエレミアは、神の作品と自分の作品との見分けがつかなくなることを恐れ、悩んだ末に、ゴーレムを作ると直ちにそれを破壊することにしたという。そこからデュピュイは、完全な知恵の達成とその実行の差し控えとは両立できるという教訓を引き出している。
デュピュイの立場は科学研究をストップさせるものではない。テクノロジーと歩みを共にしながら、一方で、過去と未来とがループする(過去が未来から到来する)時間のなかでその影響を評価・改善しつつ、他方で、一定の自己制限を反省的に組み込もうとしている。その意味で、二つのユダヤ的な物語は彼の考え方を知るうえで決定的に重要である。それを要するに、《作ることができたとしてもあえて作らない》という知恵にほかならない。

6 〈製作する知性的精神〉とその彼方

総括的なコメントを試みよう。くり返せば、デュピュイはナノテクノロジーやその他のテクノロジーを否定していない。そうではなく、作り変える活動に沿いながらも、その内部から制限を課そうとしているのである。そしてその「自己制限」の根拠は、ユダヤの宗教的な知恵に求められている。それを筆者らなりに補って解釈すれば、「与えられたもの」(最愛の妻や夫、神の作品=人間)を「贈られたもの」(かけがえのない贈り物)とみなすような負い目=感謝の感覚と表現できるだろう。この感覚を生き生きと保つことをつうじて、「作り変えること」と「差し控えること」との両立、あるいは、「与えられたもの」と「作られたもの」とのあいだの均衡、つまり、《作り変えるなかでの自己制限》が実現される、ということなのである。
以上のように解釈できるとすれば、デュピュイによる倫理的課題の立て方と解決の仕方は、たしかに、「ナノエシックス」の「哲学的基礎づけ」という名にふさわしい内容を備えていると言えるだろう。しかし、それを認めたうえで、筆者らには二つの疑問が生じてくる。一つ目の疑問はユダヤの知恵に関わり、二つ目の疑問は〈製作する知性的精神〉の世界疎外という、認知科学の例の「パラドックス」に関連する。
 一つ目の疑問とはこうである。ユダヤの話のような「自己制限」が可能になるのは、「神」あるいは哲学的な表現では「超越的他者」が背後に控えているからではないか。しかし、かりにその種の存在を持ち出さないとすれば、人間は何を拠り所にして、「贈られたもの」という負い目感覚を保持し、自己制限を働かせるのだろうか。それは一神教の「超越的他者」以外の宗教的伝統にも求められるのだろうか。あるいは少なくとも、何らかの超越性に依拠しなくては自己制限が不可能なのであろうか。さらに、自己制限という一種の精神主義だけで、「自己製作」する社会の制度群(国家・市場・軍事・科学技術)の連動に、はたしてどこまで介入できるのだろうか(たとえこの私が作らなくても、けっきょく他の誰かが作ることになろう)、等々。
 少し考えてみれば判るように、「作り作られること」または「作り変えること」であれ、自己克服としての「自己製作」であれ、あるいは、「作り変えるなかでの自己制限」であれ、その拠り所としての「ユダヤ的な知恵」つまり「超越的他者」であれ、それらすべてを貫いているのは、〈製作する知性的精神〉の主体性である。この主体性が世界製作者「デーミウルゴス」に具象化され、さらに人格神=創造する造物主や、神との共同製作者としての人間といった一連の観念を生み出しているのである。そして、それはデュピュイの発想の底にも抜き難く横たわっており、彼の「自己制限」の考え方を枠づけ制限している。(18)。それを喩えて言えば、小さな「デーミウルゴス=人間」の背後・外部から、大きな「デーミウルゴス=超越的他者」が不断に見つめているという構造である。
西洋文化の淵源を遠望するなら、デュピュイも強調していたように、〈製作する知性的精神〉のもつ〈デーミウルゴス的主体性〉は、近代的なものの見方をはるかに越え、さらにその背景にある西洋の伝統的思考をも越えて、その母胎になった一神教の宗教的な感性にまで遡る。いや、一神教以前の多神教的なものの感じ方にまで遡ると言えるかもしれない(例えば、木村凌二『多神教と一神教』岩波新書、2005年)。ともあれ、そのような根源を見届け、そこから〈製作する知性的精神〉の主体性の生成(発生・形成の有り様)を見極めないかぎり、そこに由来する特定の感性・発想から自由になって柔軟に思考することはできないであろう。
そのさい、以下の点には考慮すべきである。今日の日本社会の思想状況では、〈製作する知性的精神〉の主体性を「西洋的」思考と簡単に押さえたうえで、それに対置する形で、例えば「日本的伝統」とか、「東洋的自然」、「自然崇拝」、「ユーラシア的アニミズム」、「霊性」などの観念が安易に持ち出されている。しかし、いわゆる「アニミズム」もまた、霊魂の分裂(操作する思考と操作される感情)もしくは霊魂と身体の離反といった、素朴な二元的思考を特徴としているかぎり、本質的には「多神教」と違わないはずである。というより、事実はむしろ多神教の母胎である。それゆえ、西洋的な多神教の根源だけでなく、それと東洋的な「無為自然」との共通の根源、つまりアニミズム(やマナイズム)まで射程に入れたその根源、すなわち、身体から霊魂を分離しない一元的な「アニミズム・マナイズム以前」へと立ち還ることで、その同じ一つの根源から二元的な複数の発想の生成と差異を照射すべきではなかろうか。
 二つ目の疑問に移ろう。デュピュイのいう認知科学の「パラドックス」とは、知性的精神としての人間が自身を人工化すればするほど、人工的世界の外部へと疎外されざるをえないという、人間の自己分裂であった。しかし、今日起こっているのはその種のパラドックスとは別の事態、すなわち、機械でも精神でもない別の新たな「もの」の生成という事態であって、これをデュピュイは捉え損なっているのではなかろうか。
 例えば、「情報」というデジタル存在体は、いわゆる観念でも物質でもなく、両者が一体化したものである。あるいは、「サイボーグ」という存在体では機械と生体とが融合しているが、たんなるハイブリッド(雑種・混合)ではない。電子的デジタル信号という共通の土台のうえで、生体の神経系とコンピュータとがつながり合い、そこから新しい機能・能力が成長・発達するように、むしろ、今まで存在したことのないようなものである。さらに、コンピュータネットワークの端末につながることで、身体がバーチャルな世界に拡散・拡大し、そのなかに織り込まれているかのような感覚が生じてくる。
 要するに、新たに出現しつつある世界とは、一方に旧知の知性的精神が中空のどこかに浮かんでいて、他方にこれまた旧知の機械の連結システムがあるというような二元的世界ではなく、ネットワーク化する「もの」たちの多重なつながり合いがあって、個々の人もそのなかの「もの」の一つとして織り込まれ、他のものたちと働き合っているという世界である。それは組織化の一元論でもなければ、唯物論的一元論でも、精神的一元論でもなく、まったく新たないわば「もの」一元論の世界である。そうだとすれば、デュピュイの課題設定が最初から的外れだったことにならないだろうか。〈制作する知性的精神〉など、世界の内であろうと、世界の外であろうと、最初からどこにもいないのである。
 それでは、「もの」たちの世界のなかでどうやって「自己制限」が作動するのだろうか。「超越的他者」が未来世界に存在しないとすれば、「かけがえのなさ」もしくは「贈り物」という感覚を支える拠り所はどこに見いだされるのだろうか。あるいは、そもそも「自己制限」など本当は必要ないのだろうか。おそらく、いま求められているのは、人類の原初的な世界経験へと立ち還りつつ、そこからナノレベルをも包含する「もの」の形而上学を形成し、その地平に立ちながら、無数のものたちの働き合いの内部から「かけがえのなさ」の感覚を不断に生み出すことをつうじて自己規制を可能にするような、21世紀の本格的な哲学的思考ではなかろうか(19)。

(1)Jean-Pierre Dupuy (2007), Some Pitfalls in the Philosophical Foundations of Nanoethics. Journal of Medicine and Philosophy, 32:237-261.
(2)2007年に立命館大学の招きで来日され、京都と東京の早稲田でそれぞれセミナーをもたれた。近著に認知科学を哲学的に展望した『知性的精神の機械化』があり、これは本論文の第三部で取りあげられている。邦訳は『秩序と無秩序』および『ジラールと悪の問題』(それぞれ1987と1986、ともに法政大学出版局)である。ちなみに、多数の要素からなる自律システム(生物と社会)は不可避的に、その外部・超越・他者(第三項性)によって補完されざるをえない、というシステムにおける内/外の相補的構造の見地が、デュピュイの思想の基本である。
(3)Geoffrey Hunt教授関連の講演・会議とは、2003年7月生存研究会、2004年4月ロンドン近郊の国際会議、2006年11月静大および東大のセミナーである。他方、2008年10月ジョージタウン大学主催の会議については、河原直人による詳細な報告がある(『生命倫理科学ニュースレター』Vol.6、No.1、pp.8-13)。
(4)ナノテクノロジー(Nano)は現在、バイオテクノロジー(Bio)や、情報技術(Info)、認知科学(Cogno)と結びついて、巨大なNBIC収斂convergingテクノロジーを構成している。この収斂テクノロジーのなかで、「人工化」という理念をかかげて全体を導いているのは認知科学(Cognitive science)であるが、その理念をもっとも純粋かつストレートに(地球型進化による偶然の産物ではなく)実現しているのはナノテクノロジーである。例えば、自然界に存在しない「ナノチューブ」の創成がそれにあたる。デュピュイが論文の題名に「ナノエシックス」を冠しながら、論文中でナノテクノロジーに言及することが少ないのは、以上のような位置づけを考慮しているからであろう。とすれば、「ナノエシックス」の成立可能性に対して投げかけられる疑念にはこう答えることができるかもしれない。すなわち、かりにバイオテクノロジーのエシックス(狭義のバイオエシックス)が成り立つとすれば、「ナノエシックス」もまたそれと同程度か、もしくはそれ以上の重みを持って成り立つはずである、と。ちなみに、昨今話題の神経科学と「ニューロエシックス」も、このNBIC収斂テクノロジーのなかに含めることができるだろう。
(5)例えば、堀井秀之編『安全安心のための社会技術』東京大学出版会、2006年。
(6)「テクノロジー」の英語 ‘technology’ の初出は17世紀初期である(OEDに拠る)。SF小説『ニューアトランティス』を書き、現代の科学技術立国を先取りする構想を描いたF.ベーコンを思い起こすとよいだろう。人類(あるいは国民)の繁栄・幸福のために、「テクニック」と「実験科学」とを結びつけて「体系的な組織化」を図り、もって産業を興すこと、これがそのタームの含意である。したがって、デュピュイ=ポッパーのいうロゴス=理性=夢=構想のつながりも間違ってはいない。その辺りが邦訳の「テクノロジー」ではスマートすぎてニュアンスがぼやけてしまう。むしろ「科学技術」のほうがまだしも益しと言えるかもしれない。時代が下って19世紀後半のドイツ(後進国)になると、その同じタームが、「テクニック」と「科学技術」とを含めて「技術」全体を原理的に考察する学問、すなわち「技術論」ないし「技術哲学」になる。なお、「技術」は、もともと物体・身体・魂・制度のすべてに関わる人間の根源的な営みであって、たんなる「テクニック=手法・手段」という断片的かつ貧弱な捉え方をすべきではない。理工科学校出身のデュピュイもまた同様の貧しい捉え方を共有していないか気になるところである。
(7)Dupuy, J.-P. & Grinbaum A. (2004), Living with Uncertainty: Toward the Ongoing Normative Assessment of Nanotechnology. Techné, 8(2), 4-25.
(8)明治時代のお抱え外国人教師チェンバレンによれば、当時の日本には「性質」「万物」「天然」はあっても、キリスト教特有の「自然」という言葉はなかった(『日本事物誌Ⅰ』(高梨健吉訳、東洋文庫131、平凡社、1969年、54~55頁)。
(9)例えば、西田哲学の後期思想には、アーレントと一見して類似した表現、すなわち「作られたものから作るものへ」が見られる(『哲学論文集第三』1939年、および『日本文化の問題』1940年)。ただし、アーレントでは人間の「精神」が作るのであるが、西田では、人間は「もの(個物)」となって無数の物たちと働き合うなかで、作られつつ作るのである。両者の懸隔は深部ではきわめて大きいと思われる。
(10)近代化(モダニティ)の三段階については、森下直貴「西田・三木・戸坂の思想と〈ものの思考〉―「経験と制度」の歴史哲学への視座」(『〈昭和思想〉・新論―二〇世紀日本思想史への試み』第二章、津田雅夫編、文理閣、2009年6月)で論じている。
(11)President’s Commission for the Study of Ethical Problems in Medicine and Biomedical and Behavioral Research (1982, November): Report on the Social and Ethical Issues of Genetic Engineering with Human Beings. Roco, M.C. & Bainbridge, W.S. (2002): Converging Technologies for Human Performance, Washington, DC, National Science Foundation.
(12)カーツワイルの共著『夢のような旅』(Kurzweil, R. & Grossman, T (2004), Fantastic Voyage: Live Long Enough to live Forever. Emmaus, PA: Rodale)。翻訳本に『ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき』(日本放送出版協会、2007年)、『スピリテュアル・マシーン―コンピュータに魂が宿るとき』(翔泳社)がある。
(13)原義はデモス(大衆)+エルゴン(仕事)である。職人・工匠とも訳される。後期プラトンの『ティマイオス』に登場し、イデア=型に基づいて質料から宇宙を製作する神のことである。この製作する知性的精神の宇宙的造形・神格表象は、後世の西洋の宇宙論に多大なインスピレーションを与えた。なお、本論考では、デュピュイの拠り所を「ユダヤの宗教的な知恵」と押さえながら、他方ではギリシア的な「神」を表象するタイトルを用いている。その理由は、プラトンが自らの神話的宇宙観を「エジプトの神官」から伝えられた話として紹介しているように、一神教的な背景には、肥沃な三日月地帯=レバント地域に発するオリエント的・地中海的な多神教があり、この多神教の土壌が「製作する知性的精神」の主体性を強調する方向に傾斜しているからである。
(14)翻訳は志水速雄訳、中央公論社、1973年。なお、1994年にちくま学芸文庫で復刊。
(15)言語学でいえば、言語の学習理論に対するチョムスキー言語理論がその好例である(『生成文法の企て』岩波書店、2003年)。チョムスキーやとくにその弟子ピンカー(『言語を生みだす本能』日本放送出版協会、1994年)に比べるなら、アーレントは今日の「社会的構成主義者」にはるかに近いように見える。ちなみに、神学から離れた自然科学的な本質主義のうちにも、人間と動物との対比や、精神性の強調にみられるように、「人間」の優位性を強調する神学的な本質主義の観念が入り込んでいる。その典型は、ハイデッガーと同時代人であり、哲学的人間学の創始者とされるM.シェーラーである。ただし、シェーラーを否定したゲーレンの「欠陥生物」説にしても、虚無からの構築という思考や無神論の場合と同様に、神学が裏返しの形で影響を及ぼしていると見ることができる。
(16)科学がキリスト教を「裏切った」という見方には疑問があるが、キリスト教と科学の背景には「製作する知性的精神」の主体性が共通しているという点には同調できる。その主体性の基礎のうえに、全知全能のほか、意志、第一原因、あるいは、怒り・復讐、愛、知的直観などの特徴が歴史的に堆積して、「神」観念が作り上げられている。これらのイメージは、フォイエルバッハが指摘したように、人間の自己理解・自己感情の拡大投影(あるいは人間の社会集団の鏡像)であると言える。そのさい、人間の自己理解は、社会的関係の複雑化のなかで、とりわけ農耕・定住の集団形成のなかで、知性的精神が身体・心と密着した水準から身体・心から離脱し対置される水準へと進展する。この二元的な水準は一神教では極限まで拡大されるが、その母胎となった多神教をも貫いており、さらに多神教以前のアニミズム・呪術でも同様であろう。
(17)ルイ・デュモンはインド学・インド文明論の泰斗であり、名著『ホモ・ヒエラルキクス』(みずず書房)のほか、独自の視点から西洋近代文明を相対化した『個人主義的論考』(言叢社)がある。
(18)哲学思想に不案内な読者のために、試論的な見取り図ではあるが、本論考で取りあげたデュピュイの考え方を広く現代の西洋思想のなかに位置づけてみよう。西洋思想の場合、(13)や(16)でも言及したように、心身と精神=知性との峻別、知性重視の方向が目立っており、そこから、「神々」がアニミズムを抜け出し、デーミウルゴス的主体性・製作性をもって世界に向かうという特徴が迫り出してくる。その基盤のうえに、愛・意志・理性などの特徴が歴史的に重なって、神の観念およびその似姿である「人間の尊厳」の観念が構成されている。そしてその意味での「人間主義」が今日に至るまで西洋思想を太く貫いているのである。今日のハイテクノロジーをめぐる文脈でいえば、その「人間主義」を原点にして、〈超人間主義―アンチ人間主義〉のX軸と、〈人工的―自然的〉のY軸とからなる座標面上に、四つの思考パターンが位置づけられる。そのうちでデュピュイは「超越的他者」の立場を表現していると考えられる。なお、それぞれの立場の特徴と関連文献は以下のとおりである。また、本論考で言及されたり、日本でも論じられることの多かったりする哲学者・思想家についても、併せて座標面上に配置してみた。参考にしていただければ幸いである。

 トランスヒューマン:「人間主義」の知性・身体の能力をさらにもっと向上・強化させる方向を推進する。神=人間という理想の追求し、NBIC収斂テクノロジーを積極的に活用する立場である。レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』井上健監訳、NHK出版、2007年。ラメズ・ナム(Ramez Naam)『超人類へ!』西尾香苗訳、インターシフト、2006年。
 超越的他者:知性的精神自身の自己制限(人間主義による自己制限)を強調する。テクノロジーを否定することなく、隠れた根拠からの賜物として「人間的自然」の「かけがえのなさ」を重視する立場。
根源的自然:「人間主義」の前提にある意識主義/二元論を批判し、身体一元論、根源的自然、生命のつながり、などに立ち戻ろうとする立場。メルロ–ポンティやとくに後期ハイデッガーに代表される。Drew Leder (1990), The Absent Body, University of Chicago Press. Margrit Shildrick (1997), Leaky Bodies and Boundaries, Routledge. ハイデッガー『「ヒューマニズム」について』渡邊二郎訳、ちくま学芸文庫、1997年。渡邊二郎『ハイデッガー「第二の主著」『哲学への寄与試論集』研究覚え書き』講座近・現代ドイツ哲学別巻、理想社、2008年。
 ハイブリッド:テクノロジーを積極的に活用しつつ、物心二元論あるいは精神一元論的な思考、さらに自然と文化の対立を乗り越えようとする立場。テクノ文化と生命・肉とを結合するD.ハラウェイが典型。Donna J. Haraway(1989), “A Cyborg Manifesto: Science, Technology, and Socialist-Feminism in the Late Twentieth Century”. ハラウェイ+グッドイナフ『サイボーグ・ダイアローグ』水声社、2007年。巽孝之編『サイボーグ・フェミニズム (増補版) 』水声社、2001年。G.マイアソン『ダナ・ハラウェイと遺伝子組換え食品』須藤彩子訳、岩波書店、2004年。

  図1
                      人工的

          ハイブリッド    トランスヒューマン
          D.ハラウェイ     〈P.シンガー〉     R.カーツワイル
    
     アンチ人間主義   〈G.ドゥルーズ〉 人間主義 〈H.アーレント〉   超人間主義
      
         M.ハイデッガー     〈H.ヨナス〉     J.-P.デュピュイ
          根源的自然               超越的他者

             自然的

(19)この方向は森下前掲論文で着手されている。関心のある方はぜひともご参看いただきたい。