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研究業績

RESEARCH WORKS
2017.03.21

井上哲次郎の形而上学 ワード版

浜松医科大学紀要 一般教育 第29号(2015)

井上哲次郎の<同=情>の形而上学
―− 近代「日本哲学」のパラダイム ―−

森下 直貴
(倫理学)

Tetsujirô Inoue’s Metaphysics of “Uni-pathy”
The Paradigm of Modern “Japanese Philosophy”

Naoki MORISHITA
(Ethics)

Abstract:
In this article the structure of “Japanese philosophy” of Tetsujirô Inoue is philologically analyzed and considered. Through illuminating conflicts among views of philosophy in Meiji middle period, and comparing his view with Hajime Ôhnishi’s view concerning philosophy and consciousness, it emerges that the core of Inoue’s philosophy is the unique idea of “sympathy.” This idea means the cosmological activity toward so compassionate unification that it is here expressed as “uni-pathy.” In conclusion, Inoue’s metaphysics of “uni-pathy” had been not only the paradigm of “Japanese philosophy” in the modern intellectual history, but also it remains the same today.

Key words:
Meiji philosophy, Amane Nishi, Hajime Ôhnishi, J.S. Mill, H. Spencer, sympathy


序章 明治期「日本哲学」の研究

 井上哲次郎(1855-1944)は明治16(1883)年に『倫理新説』を世に出した。これはその二年前に東大の学術誌(『學藝志林』)に掲載された「倫理ノ大本」(元は卒業演説)を補正したものである。この本は、『人世三宝説』(明治8(1875)年)を著した西周を「日本哲学」の第一世代とみなすなら、西に続く第二世代による本格的な倫理学書であった。また、内容的にみても功利主義者のJ.S.ミルではなく、自由主義者で進化論者のH.スペンサーに依拠した日本初の倫理学書であった。その意味では、今日ではほとんど忘れられているとはいえ、当時としてはじつに画期的で記念碑的な著作であったといえる。
 実際、直ちに反響があった。植村正久は『倫理新説』を読み、そこに「理想」を受けとめる個人の心理(つまり良心)が欠落していると批評した⑴。たしかに「良心」を抜きにして個人道徳は成り立たない。植村はその批評の後に『真理一班』(明治17(1884)年)を執筆した。井上の文中に「上帝ノ創造説ハ笑ウベキ憶測」⑵とあった(大意)ことも一因であろうが、それ以上に植村ら基督教徒にとって「良心」こそは、新生日本における普遍的な宗教的人格の確立という課題を担っていたからである⑶。
 基督者の植村に対して、この時期の井上にとって焦眉の課題であったのは、日本人としての道徳の基盤となる倫理の原理の探究、すなわち、「西洋芸術」の流入によって「東洋道徳」が崩壊する危機と混乱の中で、改めて思想の基軸を定めて倫理の原理を再建することである。そのために井上らの世代が志向したのは、形而上学の次元に遡り、東洋思想と西洋思想とを新たに総合することであった。これにはスペンサー主義者にしてヘーゲルにも関心をもっていたフェノロサの影響が大きかった(井上はフェノロサの哲学面の一番弟子を自認している)。また、1980年代前半の時代背景として、明治初期の啓蒙思想運動や同時期の自由民権運動に対する体制維持派や伝統保守派からの巻き返しもあった。しかし、東西総合の志向自体はたんなる復古(維新)ではなく、西洋思想をその淵源から捉えて肩を並べようとする点では、啓蒙期よりも哲学を一段と深化させたものであったといえる。そしてそれはやがて近代国家を担う国民的共同性の基礎づけへと向かうことになる。
 ここで世界に目を転じるならば、19世紀中葉の欧米思想における可能性の中心は、コントやJ.S.ミルによって牽引された実証主義、つまりは広義の経験主義にあった。そのさい実証主義による諸学の体系化の要は「心理学」であり、また経験主義に基づく倫理の基礎づけの焦点は「人間本性論」にあった。第一世代の西周はその思想動向を「パラダイム」の水準で受けとめ、生涯をかけて「性理学」にとりくんだ。その西周に続く世代の間で、井上と並んで際立っていたのが早熟の大西祝(1864-1900)である。大西は同志社にて新島襄の薫陶を受け、若くして論壇の中心的存在となった。しかしやがて自由主義神学の見地に立って植村ら正統派の基督教から距離をおく中で、日本の思想課題を明確に捉えつつ、哲学史研究や論理学を開拓し、哲学の方法をめぐる論争を主導した。大西は彼に続く若い世代(姉崎正治、高山林次郎、桑木厳翼、夏目金之助、西田幾多郎ら)にとって輝けるスターであり、精神的支柱であった。その大西が自分の力のすべてを傾注したのが『良心起原論』である(不幸にして大西はそれを公刊することなく、36歳の若さでこの世を去った)。
 大西と井上に関する研究史を今日の時点からふりかえるとき、まずもって驚かされるのはその一面的で単純な二分法である。両者は倫理学や形而上学の研究ではなく、もっぱら『教育勅語』(1891年)をめぐる政治的な対抗の視角から捉えられてきた⑷。例えば、世界市民(大西)対国家臣民(井上)という構図、日本のカント・啓蒙思想家・市民哲学者の大西に対する御用学者・国家主義者・イデオローグの井上という対置、普遍主義的な近代倫理の挫折と継承という問題設定などがそうである⑸。こうした対抗軸を戦後になって最初に打ち出したのは京都学派の高坂正顕である⑹。他方、その高坂とは立場を異にする丸山眞男もまた、福沢諭吉から大西や三木清を通って戦後民主主義へと続く路線を敷き、類似した固定観念を増幅させている⑺。こうして固定した対抗軸に沿って大西だけに光をあてた研究が多く書かれてきたわけである。その結果、明治哲学思想を代表していた井上の業績が正当に論じられることなく、無視されたまま今日に至っている⑻。
 しかし、なぜそのような単純化が生じたのであろうか。その理由として二つのことが考えられる。一つは、いわゆる「戦後思想」のまなざしの一国主義的な偏りである。すなわち、戦前の国家主義・軍部独裁・侵略戦争に対する戦後の民主主義・個人の自由・平和主義といった、単純化された二分法である。加害者の国家・エリートに対する被害者の国民・民衆という図式もその系列に連なる。井上は文部大臣に委嘱されて書いた『勅語衍義』を出版し、それ以降も国民道徳論を主導したことから、暗い弾圧の時代の代表的なイデオローグとされる。しかし当時、近代国家の形成を支える国民統合(共同愛国つまりナショナリズム)という課題は、日本に限らず世界中で問われていたし、現在でも(たとえその限界を露呈しているとはいえ)国家組織の現実が否定されないかぎり同様であろう。そうした時代性と現実性に目を閉ざすとき、ファナティクな後期水戸学と純粋動機主義の陽明学との結合をもたらしたイデオロギーだけが、井上のうちに確認されることになる。その帰結は、イデオローグ井上 ―− それはそれで事実であるが ―− の背後にある哲学思想や形而上学に対する無関心である⑼。
 もう一つは、これまた「戦後思想」のもつ一国主義的な偏りの帰結であるが、明治期の「日本哲学」を「世界哲学」として捉えられない視野の狭さである。西周とコントやJ.S.ミルとの間にはパラダイムの水準での同期性がある。井上とスペンサーやショウペンハウアーとの間、さらに西田幾多郎とジェイムズやベルクソンとの間でも同様である。この同期性(井上の場合の「総合」)はこれまでしばしば「折衷」として揶揄されてきた。しかし、哲学思想の内側に入りこめば、本格的な思索とはすべて、外的刺激をパラダイムの水準で受け入れ、それを意味変換し、自己解釈し、自己変容したものである。明治期の「日本哲学」とは日本語で書かれた世界哲学である。そのようなものとして捉えることができないかぎり、派生的で表層的な対立にのみ目を奪われることになる。
 もとより、その「日本哲学」も大正期から昭和期にかけて変容し、日本本位の「日本精神」へと一国主義的に狭隘化したことは事実である。しかし、この狭隘化をたんに外在的にではなく、内在的に解明するためには、自らの歴史認識への反省を不問にしたまま、後知恵的に過去を眺めて自己確認するのではなく、「日本哲学」と同じ平面に立ち、その誕生の現場に身をおきつつ先の見えない生成と変容を追走する思考、いわば経路依存的なエピジェネティクスの思考を必要とする⑽。いまや明治期哲学思想の見直しが求められている。それが延いては近代日本思想史の読み直しに接続する。
 そのような見直しの一環としてこの論文では、井上哲次郎の「日本哲学」を内在的に解明することを心掛ける。まずは『哲学会雑誌』(1887-1892)をとりあげ、当時の哲学界(哲学会1884-)における思想動向や人物相関を観察することを通じて、いわば生態学的に哲学観の相克・衝突を明らかにする。次に、井上と大西の哲学観を比較した上で、「良心」をめぐる両者の思想を対比的に浮かび上がらせる。以上から両者の共通点と相違点を浮かび上がらせ、従来の研究史の一面性を払拭することをねらう。ここまでが前半である。後半では井上の「日本哲学」の基本構造を明らかにするために、その形成の過程ならびに「日本精神」への変容を跡づける。そのさい独自の形而上学を確立した時期の論文である「利己主義と功利主義とを論ず」をとりあげ、「同情」観念に焦点をあてることによって、井上の「日本哲学」が<同=情>の形而上学によって支えていることを浮かび上がらせる。以上をふまえて最後に、井上の「日本哲学」がいまなお「日本哲学」のパラダイムであることの問題性を指摘する⑾。
 ただし、この論文はけっして井上哲次郎の「日本哲学」研究の完成版ではない。1892年以降の『哲学雑誌』の文献調査はこれから行う予定であるし、1900年前後の形而上学確立期の主要な論文や、反響の大きかった倫理宗教論をめぐる論争も扱っていない。また、国民道徳をめぐって同時期(1886年)に留学したデュルケームと比較するという興味深い計画は未着手であり、1910年頃の生命論や意志論の検討や、加藤弘之の反目的論的進化論との比較、明治思想の一方の陣営を代表する福沢との比較、第三世代の西田の『善の研究』との比較もこれからである。以上に加えて、意識的に通説を括弧に入れることによって逆規定されるまなざしの盲点もある。そのような限界をかかえる途中経過報告として本研究を受け取っていただきたい。

第1章 『哲学会雑誌』における「哲学」観の相克

 『哲学会雑誌』は、明治17年設立の「哲学会」の機関誌として、明治20(1887)年2月から明治25年5月まで毎月発行された。哲学会で行われた講演は原則としてその翌月号に「論説」として掲載されることになっていた。「論説」以外には「雑録」や「雑報」もあり、そこから当時の哲学者たちの活動ぶりを窺い知ることができる。明治25年6月以降は『哲学雑誌』として拡充再出発し、大正元(1912)年で300号を数えた。『哲学会雑誌』は明治中期にあって唯一の哲学専門誌であり、長らく官学アカデミズムの牙城であった。この章では『哲学会雑誌』の内側に入り込み、哲学者たちの生態を浮かび上がらせる。そこから見えてくるのは、「哲学」、「東洋哲学」、「日本哲学」の捉え方をめぐる立場間や世代間の相克である。なお、パラフレーズした部分や引用箇所については号数のみで示す。また、講演名・論説名の表記に関して、同一の論者でも時期によって漢字・カタカナ・ひらがなが混在しており、できるだけオリジナルの復元に留意したが、必ずしも正確でない場合がある(2章以下でも同様)。

1.1 相克の概観
「哲学」、「東洋哲学」、「日本哲学」をめぐる相克は以下の四つのステージにおいて展開された。最初の第1ステージ(明治17年)では、哲学とは世界観であり、宗教・道徳としては西洋哲学も東洋哲学も同じであるという見方が主導していた(井上円了や三宅雄二郎(雪嶺))。そこから西洋哲学と東洋哲学との総合としての新哲学の樹立という目標が打ち出された(とくに井上円了)。思想の基軸が混迷する中で倫理の原理が問われたわけである。ただし、そこにはすでに次の対立の芽、すなわち東洋哲学の論理面の弱さをめぐる論点が出ている(とくに三宅)。
 第1ステージの上に第2ステージ(明治20年)が始まる。ここでは、一方に、東洋哲学もまた宗教・道徳であるかぎり世界観としての哲学であるとする立場があり、他方に、西洋哲学こそ論理をもった哲学でありこれをふまえて倫理を確立すべきだとする立場があり、この両者が相克する。形而上学・世界観としての哲学観に立って東西哲学の総合をめざす機運の中で、倫理としての東洋哲学を優越させる旧守的な(儒仏道の)立場が息を吹き返し、これが哲学の核心を論理にみる明六社の西村茂樹ら第一世代の哲学観と衝突したわけである。後者の立場は現実の社会に対する実践応用を強調する。論理の捉え方が相克の主戦場となった。
 次の第3ステージ(明治22年)では、西村による論理と実践の強調の延長線上に、というより(功利主義者の西周を批判しつつ)それを乗り越えてというべきか、哲学の方法と目的を自覚した若い世代の「批評哲学」が登場する。これを主導した大西らは、西洋哲学の論理と東洋思想の論理を比較し、歴史的比較研究や経験・心理現象から純正哲学(形而上学)の方法論に関心をもつ。同じ批評は基督教にも向けられた。彼らが円了や雪嶺ら第二世代に対して表立った批判をおこなう中で、哲学観をめぐる新たな相克が露呈する。
 最後の第4ステージ(明治23年以降)では、批評哲学を押し立てる大西の立場、実験心理学に基づく科学思想(経験重視と帰納法)を押し進める元良勇次郎の立場、世界観としての東西哲学の総合という志向をもち、最新の方法論に拠って東洋哲学史(とジャパノロジー)の確立をめざす井上哲次郎の立場 ——-−これら三者の間で哲学観をめぐって三つ巴の衝突が起る。なお、加藤弘之の進化論に立つ権利論も誌面を賑わして重要であるが、哲学観としては脇に置く。

1.2 第1ステージ(明治17年)
 第2号の井上円了「沿革 続」によれば、哲学会は円了と井上哲次郎と三宅雄二郎らが相談し、加藤弘之や外山正一ら年配の権威ある関係者に働きかけて設立された。関係者はほぼ網羅されているようである。第1回設立総会(明治17年1月26日)の参加者は29名であった。毎月講演会がある。第2回の講演会(明治17年2月)は、島地黙雷「法の説」と井上哲次郎「支那哲学概論」である。それから第26回までの間、合わせて36の演題があった。演題を筆者が分類したところ、仏教関係15、基督教関係5、儒教・中国関係5、西洋関係8、分類不能・不明2になる。この時期には宗教関係とくに仏教が多い。その中で、第24回の西村茂樹「洛日克 [ロジック―筆者注]と因明との異同」は次の第2ステージを予告する点で注目に値する。
 第1号に戻る。円了(「沿革」)は「東洋哲学と西洋哲学の長所をとりて新哲学を組成」する意気込みを語る。三宅(雪嶺)によれば、哲学とは形而上学(純正哲学)であり、原理を考究し、全体を総括する。しかし、「西洋哲学は明晰」であるが「東洋哲学は曖昧」とされる。つまり、雪嶺は東洋哲学には論理がないとみなしている(この点は雪嶺と円了の間で微妙に異なる)。とすれば、それでも東洋思想は「東洋哲学」といえるのだろうか。これに対して漢学者(儒学者)の島田重礼や島尾小彌太は、世界観(そして倫理および宗教)の意味において「東洋哲学」として受けとめる(第15号)。
 「東洋哲学」という呼称は、西洋哲学が流入する前はもとより存在しなかった。その辺りの事情を補ってくれるのが、『哲学会雑誌』の後継である『哲学雑誌』第1号(通算第65号、明治25年6月)巻頭の「雑誌改良の趣意」である。これは無署名だが、特別委員・文体・用語・内容等を勘案すると、井上哲次郎の執筆であることに間違いない。ここで注目されるのは次の2点である。1点目は、西洋哲学は最初、心理学・倫理学・論理学として受容されたが、やがて純正哲学および哲学史の研究が始まることによって一変し、哲学すなわち諸学の総括という認識が広まり、儒仏道も一種の哲学であることが発見され、「東洋哲学」の名称が興ったと書かれていることである。ここには井上の目から見た、第一世代から第二世代への転換が語られている(これに関連して『大乗起信論』が哲学として受け取られたエピソ―ドが思い出される)。
 しかし、より重要なのは2点目である。井上によれば、再出発した『哲学雑誌』は東洋の哲学・宗教・文学等に関する文系の研究誌であり、「東洋人思想発達の測量器」という意義をもっている。この種の学術誌は西洋世界にも存在しないから、「東西哲学を同化して一つの新趨向」を作り出す役割が期待される。ここに見られる「思想発達」という観点は、復初を旨とする漢学者と井上との間に「東洋哲学」の受けとめ方に関して、当初から微妙な差異があったことを物語っている。

1.3 第2ステージ(明治20年)
 純正哲学(形而上学)すなわち世界観としての哲学、そしてその意味で東洋思想も哲学であるという捉え方が、第1ステージを主導した哲学観であった。したがって東西哲学に共通する中心課題は宗教と道徳ということになる。例えば、第5号(明治20年6月)の「稟告」には次の三課題が掲載されている。その大意はすなわち、「我邦の現時の世態にて宗教と道徳の関係は如何」、「徳川時代の儒教の進歩」、「春秋戦国時代の隆盛と漢代以降の沈滞の理由」である。哲学会の講演演題は前述のとおり圧倒的に仏教が多かったが、ここに掲げられた課題をみると、仏教者よりも儒学者の方に時代の危機感が強く現われていることが分かる。
 ところがそこに、東洋哲学も哲学であるとする見地を揺さぶる動きが起こる。第8-9号(明治20年9-10月)にデニングの「日本に於て哲学上急務なる問題」が掲載された⑴。彼が課題として挙げたのは、日本人の精神能力の開発、男女の関係(同権)、言語改良(ローマ字普及)、日本美術と西洋の比較、徳川時代の圧制による影響を脱して新たな倫理習慣を確立すること、「理想」をめぐる在来宗教と基督教との対立を脱することである。おそらく、デニングの論文を訳出したのは学生書記であった大西と考えられる。この論文に関して重要なことは、第3ステージへの伏線となったこと、「理想」というキーワードを含めて後に大西が取り組んだ研究課題のほとんどすべてがここに網羅されていることである。なお、同号「雑報」には、デニングの演説(第31回哲学会同年8月)をめぐって議論が白熱し、「仏教や基督教を論ずるとは別に、もっと一般的かつ実地の問題を論ずべき」と記されている(大西筆)。
 続く第10号(明治20年11月)に掲載された西村茂樹の「質疑」は、東洋哲学も哲学であるとする見地への批判として注目される。西村は基本的に「デニング君の言う通り」とする。そして哲学会を標榜しながら演題が儒仏耶蘇教ばかりでは同一の学問がないと苦言を呈し、そもそも哲学は西洋のみにあって東洋にはないと釘を刺した上で、学会に期待するのは後進を育て、哲学の思考をもって東洋の事物を考究し、東洋人でも新説・新思想を作ることであると言う。ここを見れば、西村がたんなる保守的な道学者ではなく、明治20年刊行の『日本道徳論』が旧来の儒教道徳の復活ではないことが分かる。この西村の疑問に対して第15号で島尾小彌太がこう反論する。道学の点では西洋に対して遜色はなく、東洋「哲学」と号して当然である、と。西村の見地は明六社時代の哲学観、すなわち、西洋哲学は論理的な哲学であるという第一世代の見方である⑵。哲学は論理か倫理かをめぐって二つの哲学観がこの第2ステージで衝突している。なお、同15号の「雑録」には「西周氏の利学第二版」は「誤訳多しとの評あり」とある。これは新世代から第一世代の功利主義に向けられた批判であり、無署名だが大西の筆と考えられる。また、第16号にハルナックの神学紹介やK.フィッシャーの哲学史紹介があるが、これも大西の筆であり、第3ステージへの伏線である。
 哲学観の衝突は倫理の局面だけではなく、論理の局面でも発生した。というより、哲学を論理とする見方からすれば、むしろこちらの方が旗幟を明確にする争点だったといえる。印度仏教論理学(とくにディーグナーガ(陳那))の「因明」論理をめぐっては、このステージだけでなく各ステージを通して衝突が繰り返される。西村「洛日克と因明との異同」が皮切りとなり、第7号(明治20年8月)の雲英晃耀「印度論理 因明緒言」、その後の第28号(明治22年6月)の村上専精「因明とロジックの対照」、第31号(明治22年9月)の雑録「因明に就きて」(無署名・大西)、第41号の雲英「因明論に就きて」と続く。雲英は日用迂遠という理由で陳那の論法を再構成し、改良した新方式を提唱した。これに対して第42号「因明論批判に答える」(無署名・大西)では、雲英の改変はアリストテレスと同じであって新方式とはいえず、むしろ陳那の元形を残した方がよいとする。そしてさらに第44号の論説「因明論再反論」では大西が初めて実名で登場する。ここに見られるように、論理をめぐる論争や大西の論理学研究は哲学観の相克を色濃く映し出している。

1.4 第3ステージ(明治22年)
 第26-27号(明治22年4-5月)に掲載されたG.W.ノックスの「倫理上日本の要するもの」は新たなステージの到来を告げる⑶。そこには、日本はいま道徳空欠の時期(変革期)にあって先例がなく、倫理学が不可欠とされるが、そのためには形而上学が必要であり、宗教と倫理学の関係、学問研究と宗教の関係に決着をつけなければならない。新旧の優劣を争う段階ではなく直ちに倫理問題の解決に向かうべきである。東西の道徳をふまえ、東洋の旧要素(忠君)を新道徳(個人主義)に統合すべし、云々とある。大西はノックスの講義を受けており、おそらくは演説(明治22年3月)の通訳者にして論説の訳者であったはずである。この論説がことのほか重要なのは、後述するように大西の「方今思想家の要務」(明治22年4月)の内容と時期がそれとぴたりと重なるからである⑷。
 ノックスに呼応して注目に値する意見が表明される。それが第27号の「雑録」(明治22年5月)に掲載された、谷本富(「T.T」のイニシャル名執筆)の「日本哲学の現況」である。谷本はこういう。米国哲学や英国哲学と同じように「日本哲学」はあるか。固有の日本哲学はいまだない。釈儒二教は貴族的助力を受け、哲学的に研究されてこなかった。哲学は自由思想の極点であり、批評的歴史的研究が必要である。そこから純正哲学へとむかうべきである、云々⑸。
 谷本の表明を皮切りにして、明治20年ころから伏在していた哲学観の相克が一挙に表面化してくる。第31号(明治22年9月)に井上円了の論説「欧州東洋学流行ノ一班」が掲載された。円了は哲学会の設立当初から組織者にして機関誌の発行人であったが、講演題目に「こっくりさん」や「妖怪」などの独特の軽さがあった。やがて明治17年からは「哲学館」の運営に主力を割くようになり、私学(民間)の哲学運動を全国規模で展開するようになる。その円了が外遊後に日本学・日本主義(日本固有の学問)に目覚め、この上に外国の学問を組み合わせて哲学館の教育を改革する方針を出した。この方針を紹介した同号「雑報」を受けて、第34号(明治22年12月)の雑録「仏教哲学に就きて」(無署名・大西)では、近年「日本学」をいう者があるが、研究法が拙劣であり、西洋哲学の歴史発達研究に則るべきである、云々とある。これは大西による正面からの円了批判、つまりは第二世代の哲学に対する攻撃である。なお、大西はこの年、大学を卒業し、倫理学を研究すべく大学院に入学した。それに伴って書記(編集委員長兼務)を降り、第31号から編集委員になっている。
 同様の攻撃は雪嶺にも向けられた。第34号「雑報」に雪嶺の『哲学涓滴』が寄贈されたことが記録され、これを受けた第36号の「独逸哲学と英国哲学」(無署名・大西)では、雪嶺のヘーゲル主義(フェノロサの模倣)に対して英国哲学を持ち出し、独逸でも近年はヘーゲルから新カント派へ、そしてさらに実験派が優勢になっている、云々とある。また、第37号(明治23年3月)の「雑報」には谷本の「『哲学涓滴』を読む」が掲載された。この中で谷本は、論評にあたって友人大西と計ったとした上で、哲学研究の方法と範囲を明確にする著作が必要であると主張した。また、第38号ではこの頃「批評」が流行している(真の批評精神を分からないくせにと読める)と皮肉っている。さらに第38-39号には、『国民の友』に掲載された論説中のカント解釈に対する批判が続くが、これは大西の筆である。このように哲学をめぐる世代間の対立がにわかに鮮明になっている⑹。
 カント哲学をふまえた批評精神は西洋文明と基督教にも向けられる。第39-40号「雑報」には谷本の「ユニテリアン略評」が連載され、マンチェスターのマルティノーが前提とする「自証的仮定」には同意できないとか、勤王論と忠義論は我が国の社交・政治・宗教上において肝要なのか、各宗教は同源かという問いを出し、漢学者が賛成しているようなユニテリアンの新運動への疑問を提起している。漢学者とは中村正直(敬于)のことであろう。なお、谷本は「耶蘇教」自体に対して批判的である(第69-82、84号)。マルティノーは大西の『良心起源論』第2章の末尾にも批判対象として登場する。
 ちなみに、第3ステージで興味深いのは、『哲学概論』を日本人で初めて執筆した(ただしその第一部のみ)とされる三好文太である。後年の『哲学雑誌』(第69号雑報)によれば、明治17年に同志社英学校から米国のカンバーランド大学に留学し、神学部で哲学博士を授与された後、奨学金をえてスコットランドのグラスゴー大学に留学し、英国新カント学派を代表するE.ケアードの許で勉強したとある。明治22年の帰国後は仙台の第二高等中学の教授として活躍し、哲学会には明治22年12月に入会している。経歴は元良勇次郎や中島力造と似ている。将来を嘱望されながら若くして病没した(1866-1892)。第36号(明治23年2月)に三好の「批評主義緒言」が掲載されている。それによれば、カントの『純粋理性批判』の解釈が分裂するのはカント自身に原因がある。旧来の思考の残滓か、旧来のタームの使用か、思想の方向転換を洞察しきれていないかのいずれかであろう。とはいえ、現象の存在は知識に相関するという知覚論はカント哲学の正面的成果であって、批評哲学こそは純正哲学の真実の方法である、云々。三好はカント哲学を哲学界の基準点とするが、これはケアードやグリーン流のヘーゲル的なカント解釈を受け継ぐものである。三好については井上の哲学観の箇所で改めて言及する。

1.5 第4ステージ(明治23年以降)
 大西の批評が本命の倫理学(大学院にて専攻)に向かうのは不可避であった。第39号では加藤弘之の道徳主義を批判している。加藤によれば、道徳は天然一定ではなく、開明進歩につれて変遷するから、本尊様を立てるのは間違いである。これに対して大西は、そこでの概念が不明であり、加藤は倫理学の学理上の問題に答えていない。歴史的比較的方法では不十分であって、進化・変遷して文明では完全になるというが、道徳の規準はむしろ一定ではないか。そもそも「社会の必要」の概念が不明確なのだ、と手厳しい。ちなみに、加藤弘之は愚直なほどに粘り強く自説を練り上げている。男女の同権、進化論に基づく道徳律、利己心と利他心、強者の権利などをめぐり、一貫して哲学会の論争の中心にいた。加藤の進化論解釈とその応用は当時の哲学思想の一方の極を構成している。
 同様の批評は第44号「倫理学は哲学か将又科学か」において、元良勇次郎の主張(『六合雑誌』第117号掲載)にも向けられた。倫理学は元良のいうような習俗の学ではなく、倫理の大本、道徳の標準、善悪正邪の区別、「かくあり」ではなく「かくあらねばならぬ」を論究する。それに対して第45号で元良は、帰納法でもって倫理を研究していけない理由を大西は述べていないと反論している。ちなみに、元良勇次郎は同志社の一期生であるが、科学に関心があって米国に留学し、実験心理学を日本に初めて導入している。また米国のプラグマティズムを熟知している(第53回例会での講演「哲学新系統」はジョン・ホプキンス大学哲学会での講演したものという)。明治21年10月に大西の紹介で哲学会に入会して以降、第24号「心理学ト社会学ノ関係」を皮切りに「論説」の常連となった。明治22年5月から明治23年11月まで大学の講義録「精神物理学」を連載している。加えて上記のように、自然科学の立場からたえず倫理に関して問題提起を行っている。井上との間では目的論の評価で対立するも、国家・道徳・宗教に関する見解では共同歩調をとっている。他方、倫理学の捉え方では大西と対立するが、個人的には親しい。内村鑑三と大西に同行して一夏を千葉の海岸で過ごしている⑺。大西と井上は目的論的進化論の陣営に、加藤と元良はその反対陣営に属する。
 大西は以上の論争をふまえ、第47号(明治24年1月)に「倫理攻究の方法並目的」を公表し、この中で研究上の焦点が「良心」にあることを宣言する。これと軌を一にするかのように、第48号の谷本「倫理学を如何せんや」でも「良心」の研究が唱えられる。同号の巻頭には井上哲次郎の「性善悪論(上)」も掲載されている。一方に、世界観としての哲学の立場から西洋形而上学の根源を把握する目標を掲げて留学し、学問研究の方法論を現地で直かに学んできた井上、他方に、第二世代の立場を鋭く批判してきた批評哲学の大西、この両者がここで初めて交錯している。両者の関心が期せずして広義の「良心」に向けられたことに、「良心」という主題のもつ特別の位置が示されている。
 第47号から第63号にかけて(明治24-25年)、両者の論説が毎号のように紙面を占めることになる。たしかに、加藤の「強者ノ権利ト道徳法律ノ関係」(第21/22号、第50/54号)、元良の「精神物理学」の連載、中島力造の「良心論」(第42号)・「ヘーゲル弁証法」(第48号)・「カントの批評哲学」(第49/52/54/59号)も掲載されており、両者の独占とは必ずしもいえない。しかし、井上と大西が競うようにして他を圧倒する存在感を示していることは事実である。
                   *
 余録その1。その他の重要な登場人物をとりあげる。外山正一は井上哲次郎の先生であるが、和漢学では立場が逆転する。外山はスペンサーの番人と評された。英語の教科書にスペンサーの著書を用い、加藤のスペンサー理解を批判している。耶蘇教の批判では井上と同じ方向にあり、神代の女性(記紀神話の解釈)をめぐっては井上と論争する。中島力造は同志社出身であり、米国のエール大学に長期留学し、「カント実体論」で学位をとった。明治23年6月に哲学会に入会する。ブッセの紹介にあるように堅実で本格的な哲学史家である(第80号)。英国カント学派を代表するグリーンについて「哲学会」で初めて詳しく紹介した(第69−70、71−72号)。カントやヘーゲルの解釈は、当時の新カント学派(つまりは新ヘーゲル学派)をふまえつつ、観念と概念の混同を批判し、それらとは一線を画している。なお、「良心」の論説(明治23年8月)では、古来の三説をふまえ、知情意からなる行状徳義に関する人生全体の活動とする。夏目金之助は明治24年8月から編集委員となった。姉崎や高山、桑木、西田らと同世代であり、新人類と目された。大西は彼らにとってはスター的存在であり、国家を超える個人主義・自由主義の象徴であったらしい。夏目の『私の個人主義』や『現代日本の開化』は西田の『善の研究』と深く照応する。その西田幾多郎は第56号(明治24年10月)に哲学会入会との記録がある。そのとき選科一年生であった。西田は後年、当時は「惨めな思いをした」と述懐しているが、実際には最新の知識と議論をしっかりと吸収していたようである。徳永(清沢)満之は第1号「哲学ノ定義」に登場する。明治21年に卒業して京都に去って以来、俗世を離れて刻苦精進の日々を送っていたが、明治28年からは再登場する。
 余録その2。『哲学雑誌』第300-304号では、東大助手の伊藤吉之助と宮本和吉が回顧と時代思潮を掲載している(二人とも高山や阿部次郎の同郷の後輩にあたる)。それによると、井上哲次郎は圧倒的存在感を示し、明治時代を通じて学会の議論をリードしていることが分る。宗教と教育の衝突のような学外の論争とは別に、東洋哲学史研究や、自分の形而上学観の提示と洗練、倫理宗教の提唱のように、アカデミズムでの活躍ぶりは著しい。また、学生に与えた研究課題も興味深い。宮本による「時代思潮評」では、井上の頑固保守主義に対して、窒息しそうだとの評があり、「寛容」が要請されている。そこから当時の青年たちが個人主義や理想主義を希求していたことが浮かび上がる。
 余録その3。『巽軒日記(明治33-39年)』からは、井上の講義・研究・講演の充実ぶりや、交友関係・人脈の広さが浮かび上がる。その中に、1900年に大西が逝去し、葬儀に出かけて弔辞を読んだことが記されている。西田も井上宅へ挨拶に出かけている。哲学会での講演と雑誌掲載の件の他に、東大非常勤講師の件もあるが、これは最終的に紀平正美に決まった。出版の紹介や就職の世話の話もある。これらは西田が哲学会で発表した実在論を井上が高く評価していたことの表れである。

第2章 「哲学」をめぐる井上哲次郎と大西祝

 この章では、『哲学会雑誌』に対する井上と大西の関与ぶりを確認した上で、両者の哲学観を詳しく見ていく。以上から両者の相違点のみならず共通点を浮かび上がらせる。パラフレーズや引用箇所の典拠指示は第1章と同様である。

2.1『哲学会雑誌』における井上と大西
 井上哲次郎は哲学会創立の相談の中心にいたが、『哲学会雑誌』創刊時には留学中であった。そのため、創刊号と第2号に「沿革」を書いた井上円了があたかも哲学会を主導したような印象を与える。多くの研究者がそのように受けとり、円了をこの時期の哲学者の代表とみなしてきた。たしかに円了は組織者・発行人として有能ではあったが、哲学の内容や後継の『哲学雑誌』をみれば、それは少なくとも偏った受けとめ方だといえる⑴。井上哲次郎は不在ながらも、第3号「萬國東洋学会景況」、第6号「書翰」、第20-23号「佛國哲学の概況(1〜3)」を寄稿し、他の追随を許さない圧倒的な存在感を示している。そこには、自信たっぷりで断定的で、東洋代表を自負し、西洋の学者にけっして負けていない井上の姿がある。「独逸には哲学の体系なし」と言い返し、外国の学者の「神道」評価をけなしている。そして帰国後、大西と並んで独壇場のような活躍を見せ、毎号のように論説を掲載する。例えば、第47-48号の「性善悪論」、第51-54号には「再ビ性善悪ヲ論ジテ併セテ内田周平君ニ答フ」、第57号「三好哲学講義を読む」(三好批判)、第61号「朱子ノ窮理ヲ論ズ」(内田批判)といった華々しさである。
 他方の大西は、同志社英学校神学科卒、明治17(1885)年9年の東大入学であり、在学中は3年生の慣例として書記(明治21(1888)年9月以降)になり、大学院生になってからは編集委員(明治22年9月-24年8月)を務めた。大西は明治22年からは署名付きで登場した。それ以前の「雑録」や「雑報」の多くは、誌面の穴を埋めるのも書記の仕事の1つということもあったが、「西洋哲学小史」の連載をはじめ大西の筆によるものだった。井上が直接現地で講義を聴き、一流の学者と対話し、国家間の生存競争や差別意識を膚で感じたのに対して、大西の方は西洋の著作・論文と思想動向を書物や宣教師を通じて知った。この違いは世界情勢の現実認識にとっては大きい。井上に比べて理想主義的で観念的たらざるをえなかった大西は、だからこそ留学を切望していた。明治25年4月20日の哲学会の総会では、雑誌改革の特別委員の選出が行われ、外山、大西、井上、元良、中島の5名(得票順か)に決まった。これは大西に対する若手世代からの期待の反映といえる。

2.2 井上哲次郎の哲学観
 井上は既出の『哲学雑誌』(明治25年6月)巻頭の「雑誌改良の趣意」において、哲学は諸学の総括にして世界観・形而上学であり、東西哲学を同化して1つの新趨向を作り出すと書いている。これは第二世代の哲学観のくり返しのようにみえるが、前述のようにじつは哲学会創立時の見解とは微妙に違っている。それは井上が留学中に明確な研究方法を得たからである。この点では円了や雪嶺との間に隔たりが生じており、むしろ大西の認識と軌を一にする。帰国後の井上は西洋の歴史的・批評的方法を用いて「東洋哲学」を歴史的に再構成する。彼にとっての東洋哲学つまり日本哲学は、中国哲学史、印度哲学史、仏教史、日本儒教史、神道史として展開される。なお、この節の記述は『井上哲次郎集』第9巻に拠る。
 明治13(1880)年卒の井上哲次郎は留学前、「東洋哲学史」を編纂しつつ、東大の助教授として「東洋哲学」の講義をもち(これを円了や三宅が聴講している)、さらに仲間と創刊した『東洋学芸雑誌』に「泰西人ノ孔子ヲ評スルヲ評ス」を発表してもいる(第1巻第4号、明治15年)。ただし、東洋哲学史の研究は井上が自発的にとりくんだものではなかった。自由民権運動に火をつけたスペンサーと英国哲学に対する政府の覚えが良くなかったため、東大の加藤総理と相談して決めた結果である。明治14年の政変のために英国に留学できない不満を井上は漢詩で晴らしている(『巽軒詩鈔』)。学生時代から和漢学の才能があり、漢学者や国学者との交友関係も広かった。政府の当局者から留学先を独逸に変更するよう求められる。送別会は和漢学者たちが中心になって催してくれたという(『井上哲次郎集』第8巻所収の『懐旧録』)。
「伯林東洋学校ノ景況」(明治22年)では、自国のことを知らずに外国のことばかりを学ぶ風潮を批判し、日本学の振興を唱えている。ということは、今日のジャパノロジーの創始者の一人が井上ということになる。日本学とは広くいえば東洋学の歴史の研究である。また、「井上哲次郎氏の宗教論」(大阪毎日新聞記事、明治23年10月)には、儒教も老荘も仏教も哲学であり、プラトン、カント、ショーペンハウエルは釈迦の教えに近いとある。あるいは、「東洋史学の価値」(明治24年9月の講演、『史学雑誌』明治24年11月掲載)では、東洋の歴史をとくに日本人の力で西洋に知らせることは「日本人の急務」であり、国学ではなくむしろ日本学というべきにして、比較宗教の観点から東洋の思想(一種の哲学)の発達の歴史を描くことが自分の仕事であると言う。さらに、「支那哲学ノ性質」(明治25年)では、西洋と東洋(日本在来の儒学)は倫理の点では共通しているが、日本にあって西洋にないのは忠孝、家族であるから、日本(東洋)哲学、東洋の倫理学をけっして廃すべきでない。自然に変化するのは構わないが、殊更一朝一夕に変更すべきではないと主張する。そして、「東洋の哲学思想に就て」(明治27年)ではこういう。世界の本体すなわち真実体を捉える先天的唯心論として、ヴェーダのブラフマンや仏教の真如が典型であるが、カント、ショウペンハウアー、プラトン、ドイツ観念論、スピノザ、E.ハルトマンも帰するところそれらと同じである。しかし、自分の哲学上の見解はある点ではそれらと相接するが、必ずしも同一ではない、云々。
 研究方法論を見ておこう。留学中に師事した学者は当時一流の顔ぶれである。例えばベルリン大学のインド語学大家アルブレヒト・ウェーバー、パリ東洋学校の梵語教授フーコーがいる。さらに各国の東洋研究者とも交流している。その成果の一端は「宗教の研究法に就いて」(明治26年1月)に窺うことができる。井上はいう、支那人は徒に古風に拘泥し、日本人だけが科学的研究法を用いる。歴史的・批評的方法が必要である。しかし従来の仏教研究は、『哲学会雑誌』に登場した島地や吉谷のように、批評的精神を欠いている。批評的精神はカントに由る。日本では富永仲基がいる。平田篤胤は富永に及ばない、と。また、「仏教の研究に就て」(明治27年)では、歴史的方法、比較的方法、批評的方法、それに宗教的観念(宗教的精神)をもって哲学宗教を研究する方法が列挙されている。井上は以上のような方法論を自家薬籠中のものとし、支那哲学の研究、インドのバラモン・ヴェーダ哲学の研究、仏教の研究⑵、日本儒学史三部作⑶を進めた。
 以上から分るように、円了や雪嶺に対する大西や谷本らからの批判は、井上哲次郎には当てはまらない。円了の『真宗哲学』を井上哲次郎も方法論欠如として批判している。他方、『勅語衍義』に対する雪嶺の井上批判に対して、井上は直接反論しない方針をとったが、井上に同調して雪嶺に反論した「論説」を井上の序言付きで掲載させている(出版社の催促で何でもいいから難癖を付けてやれというふざけた雪嶺の態度に対して、この反論は「溜飲が下がる」と記す)。とはいえ、第二世代同士の間では大まかな意味で哲学観が共有されている。実際、雪嶺は300号特集でも記念講演者の一人であり、ジャーナリズム界の重鎮として一目置かれている。円了の哲学館事件は井上の弟子の中島徳蔵が出した試験問題が発端である。ともかく『巽軒日記』を見るかぎり井上は終生、円了や雪嶺と親密な交友関係を保っている。
 方法論だけではなく井上の学識も他を圧倒している。自他ともに許す「当代一の学者」である。東洋哲学史のみならず、西洋哲学史の知識や西洋哲学の事情通でもあり、後者に関して井上と辛うじて肩を並べるのは文献読みの大西ぐらいといえる。大言壮語にして当意即妙、西洋の学者に対して堂々として負けていないし、断言的で相当の自信家である。東洋(日本)を背負っているという自負がみなぎっている。
 第3号「雑録」の「萬國東洋学会景況」(明治20年4月)によれば、ドイツでは新カント派(「カント語学」とある)の新進の哲学者エルドマン(同名哲学史家とは別人)と対談し、『純粋理性批判』の第1版と第2版の違いを論じ合い、ドイツでも「哲学体系なし」と残念がってみせる。万国東洋学会では、『古事記』を訳したパリ東洋学校のロムニーに対して「神道は哲学者ノ信ズベキニアラズ」と言い放つ。ライデン大学のシュレーゲルに対して「和服は美麗だが不便」という。伊藤総理の紹介でウィーンのシュタイン教授を訪問したが、「東西哲学の異同を論じ」、「東洋にも法律(荀子やマヌ法典)はある」、「スタイン[まま]は哲学上の知識に乏し」と手厳しい。二度目の会談では、「東洋にも論理(公孫やニヤーヤ)あり」「西洋にもヘーゲルの如く論理とは言えぬものあり」と反論し、「東洋哲学を知らずして妄想ばかり」と批判している。
 また、第20-22号の「佛國哲学の概況」(明治21年9/10/12月)では、テーヌや、ルナンのキリスト教起源史を紹介し、ラヴェッソン(人格神、神の意匠)、ルヌヴィエ(理想論、万有意匠、人性具有せず)、クザン派(有神論)のポール・ジャネらの説を概説する。面白いのは、フランス人に対してドイツ哲学事情を説明していることである。ドイツではヘーゲル派から新カント派への転向があり、さらにカントから経験学派へと動いている、唯物論に反対するのはビュヒャー、ハルトマン、フッサール、それにヴントである、と。そして日本の哲学について問われると、江戸時代の儒者から説明している。フランスでは当時、クザンの唯心論、カントの先天論、スペンサーの経験論に分かれているが、そのうちで経験学派とくに「スペンサー派が蔓延」しているとある。ただし、スペンサーについては「博物館の如く広く事物を収集するのみ、哲学上が未だ深奥の域に達せず」と手厳しい。これが文部省を意識した言及かはともかく、井上自身の哲学的な成長を感じさせる。
 しかし、以上の方法論的自覚や、豊富な学識、それに後述する独自の形而上学の見地には目を見張るとしても、自説の強引な正当化が目立ちすぎ、哲学的反省の水準としては問題がある。その例証として三好を再びとりあげる。第57号(明治24年11月)の三好「論物」は、「このもの」という現象を論じ、そもそも物を知るとはどういうことかと問う。カントの知識と物の相関説では、同一の事物が主観的に見れば知、客観的に見れば物となるが、これは言葉遣いの問題である。すべては心性ということ(唯心論)ではなく、対象は知としての物であり、客観的にして主観的現象である。このように三好はカントの認識論の上に立って「現象」をめぐる哲学的考察を試みている。
 同号の巻頭には、三好の論説に先立って井上の「三好文太氏の哲学講義を読む」が置かれている。その中で井上は、27歳(47と読めるがこれは誤植か)の若さで『哲学概論』とは恐れ入ったとしながらも、終始、揚げ足取りをしている。例えば、三好はヘーゲルの「理性的は現実的、現実的は理性的」をモットーに掲げるが、ヘーゲルの言の後半は不合理である。また、哲学を「万有の実相、物の原精の探究」と定義するが、これは創見ではない。そもそも現象との関係なくして本体はない、三好は二元論か。あるいは、フィロソフィーの起原がソクラテスからかどうかは問題であり、「不変不化」を求める心が哲学とするが、ヘーゲルでは哲学は嗜好ではない、云々。
 井上は自分の学識を出しながら大人気なく一方的に非難している。内心では三好の学力に驚愕しつつ、第一人者としての見識を示しておく必要があると判断したのであろうか。井上はなるほど自分の形而上学を確立しつつあったが、それを前提に疑問を呈するだけであり、議論になっていない。このように正当化のために諸説を整理する姿勢は、すでに「性善悪論」や「朱子ノ窮理ヲ論ズ」にも出ている(これに関して中国哲学者の赤塚忠は儒学者よりも井上の方が視野は広いと評価しているが、井上が嫌われる所以であろう⑷)。

2.3 大西祝の哲学観
 まず、大西の著作を概観しておこう。書記のころの著作には、明治20年7月から連載して「ソクラテス前のギリシャ哲学(完)」(明治27年)に完結した「西洋哲学小史」(無署名)、「西周の翻訳に関して誤訳多しとの評」(明治21年4月、無署名)、「神学上の大著述(ハルナック)」(明治21年5月、無署名)、「宗教学について」(明治22年6-7月、無署名)、「因明について」(明治22年7月、無署名)以来の一連の論争がある。以上は『哲学会雑誌』掲載分であるが、有名な「方今思想界の要務」は『六合雑誌』(明治22年4月)に掲載されている。
 大学院入学(明治22年9月)の前後の時期から論争が活発化する。この時期の著作は上述した通りである。主なものとして、第34号「仏教哲学に就きて」(明治22年12月)では円了の日本主義を批判、第36号「独逸哲学と英国哲学」(明治23年2月)では雪嶺を批判、第39号「道徳主義に就て加藤博士に問う」(明治23年5月)では歴史的比較的方法だけで道徳の基準が捉えられるかと加藤を批判、第44号「倫理は哲学か将又科学か」(明治23年10月)では元良勇次郎を批判している。
 教育勅語が渙発されたのは明治23年10月、同月に井上哲次郎が帰国する。この時期の著作に、第47/49号「倫理の攻究の方法目的(1)(2)」(明治24年1/3月)や、第49/51号「良心とは何ぞや(1)(2)」(明治24年3/5月)、第60/62/63号「心理説明」(明治25年2/4/5月)がある。「心理説明」ではジェイムズやヘルベルトらを論じ、心念に関する心理上の説明は生理上の説明と分離できないが、連関させつつも区別して用いるべきとする。
 『哲学会雑誌』が『哲学雑誌』に切り替わった時期、大西は東京専門学校講師(明治25年9月から東京高等師範学校講師就任の明治30年11月まで)、『六合雑誌』の編集委員(明治27年)、福沢の関係するユニテリアン「先進学院」の教頭(明治27年)になっている。この時期の著作は以下になる⑸。「忠孝と道徳の基本」(『宗教』明治26年1月)、「私見一束(教育勅語と倫理説、耶蘇教問題)」(『教育時論』明治26年3月)、「方今の衝突論」(『教育時論』明治26年6-7月、進歩派と保守派の対立を論じる)、「批評的精神」(『六合雑誌』明治27年4月)、「良心の意義を論ず」(『六合雑誌』明治27年10月)、「道徳的理想の根拠」(『六合雑誌』明治28年3月、これは全集版『良心起源論』第二章に挿入される)、「国家主義の解釈(教育の方針)」(『六合雑誌』明治28年6月)、「倫理研究の性質」(『哲学雑誌』明治29年1月)、「社会主義の必要」(『六合雑誌』明治29年11月、これに関連した内容は『哲学会雑誌』に英国雑誌から訳出している)、「祖先教は能く世俗の基礎たるべきか」(『六合雑誌』明治30年9月、穂積八束批判)。見られるように、倫理学の研究と社会的発言が突出している。ただし、井上に対する言及は少なく、しかも学問的に抑制されている。
 次に、大西の哲学観に目を転じる。大西の哲学上の問題関心はリベラル派の英国国教会宣教師だったデニングの論説にほとんど重なる。また、哲学の中心課題を論じた「方今思考界の要務」の内容はプレスビタリアン宣教師のノックスの論説に酷似している。
 「方今思想界の要務」(『六合雑誌』明治22年5月)は、カント『第一批判』の序文補注の引用でもって始まり、批評主義を宣言した上で、倫理の根本に関わる二つの課題を提示する。その一つが伝統宗教の特殊主義(保守派)と基督教の普遍主義(進歩派)との間の相克の調整であり、もう一つが西洋文明内部の宗教的世界観と自然科学的世界観との間の対立の調停である。以上から分るように、19世紀の哲学的課題はカントの批判哲学が敷いた路線上にあった。カントをふまえる点は井上も基本的に同じである。井上と大西の間に違いは、現象と物自体の関連のさせ方、すなわち、同じ不可知論でも実在から経験へと向かうか、経験から実在へと向かうかのアプローチの差異に求められる。なお、大西の批評主義の源泉の一つとされるマシュー・アーノルドについては、井上が『倫理新説』の中ですでに言及しているから、フェノロサの講義に由来すると考えられるし、同時にノックス由来と考えても矛盾しない⑹。
 哲学観の衝突がはっきりと露呈したのは、既述のように第二世代の円了や雪嶺に対する方法論批判を通じてであった。そのさい大西の方法論を支えたのは、一方ではK.フィッシャー等の哲学史研究であり、他方ではハルナックの宗教史解釈である。とりわけ後者の影響は顕著であり、それはたんに方法論の面だけでなく、大西の思想全体をも方向づけていたと考えられる。ハルナックの『キリスト教の本質』は自由主義神学の代表的著作である。その特徴は次の三点、信仰の歴史の批判的研究、宗教的経験の源泉としての確信の源泉、世界の局面を変えるための社会主義にまとめられる⑺。そして大西の思想の柱もまた大まかにいえば次の三つ、すなわち、宗教・キリスト教を歴史的・批評的にとらえる方法論、良心を現象に即して捉える経験からの出発、そしてキリスト教と社会主義を結びつける世界主義からなる。
 ちなみに、大西は同志社で神学を学んだが、東大在学中に福音主義正統派から離れて自由主義神学に肩入れする。自由主義神学はドイツに限らない。三位一体を否定するユニテリアンもその陣営に属する。当時の米国ハーバード神学校はユニテリアンの拠点であり、福沢はそのユニテリアンと密接な関係をもっていた(慶応大学に神学部を作ってハーバード大のような国際大学にする計画を秘かに練っていたとされる⑻)。大西はそのユニテリアンの先進学院の教頭を務めている。
 他方、論理学への関心も既述のように重要である。大西は科学方法論を考慮し、事実と法則との飛躍的関連を意識している。加藤や元良との論争では、概念の明確さや、事実と規範の次元差を主張する。後述する『良心起原論』の第二章では、法則は事実から演繹されても独自の普遍性をもつとし、「ある」と「あるべし」との次元差を堅持している。そこにはカントの立場とともに元良経由のプラグマティズムの影響も見られる。
 以上をふまえて書かれたのが、明治24年1月の記念碑的な「倫理の攻究の方法並目的」である。方法論の例証として少し詳しく見ておこう。大西は経験を重視するが経験主義を批判する。倫理は社会の客観的事実であり、それが心に反射すると道徳の観念が生じる。そのような倫理研究の方法には5つがある。最初は「挙例分類的」から「比較沿革的」をへて「縁由説明的」まで進む。ここまでは歴史的である。子どもが大人になると「ある」と「あるべし」が分離し、「理想」をもつに至る。そこで「理想推究的」方法が必要になる。ただし、心理は経験に由来し、理想も社会的に承認されて継承される。したがってその「理想推究」には、承認されてきた理想に関する歴史的攻究が組み込まれることになる。ここで社会的性情・慣習分析の「最も肝要」な点が「良心」である。これは善悪正邪の区別にして義務・当為の心識である。それゆえこの段階に至って「純理哲学的」攻究が要請される。「法界(事物世界)全体の理想が個々人の心に分有・実在し、それらが相合して一となれるか(大実有者の存在)、あるいは、全法界の根本の傾向と個々人の理想とが一致するか、そのいずれかの仮定が必要」とされる。次の段階は実行であり、実践応用して改良されることになる。
 以上、大西の理路を辿ってみたが、経験論的考察の上に純理的考察を立てるというスタイルはカント的である。課題も方法も全体として、本格的な意味でカントの批判哲学をふまえていることが分かる。ここで打ち出された枠組みは後の『倫理学』講義録や『良心起原論』にそのまま持ち込まれている。

2.4 両者の比較
 歴史的比較的方法について井上と大西は類似している。当時としては両者とも群を向いて高い水準にあるといえる。大西は文献や講義を通じてフィッシャーやハルナックの方法論を吸収し、時代の先端にいた。対する井上は留学先で一流の学者と直接対話し、イエス解釈に関してはルナンの合理主義的解釈を熟知している。その意味では両者はほとんど対等といってよい。
 それにもかかわらず、例えば、基督教は非国家主義であるという井上の指摘に対して、大西はその依拠する聖書解釈の一面性・固定性を批判しているが(「私見一束」)、これを根拠にして大西の方が圧倒的に優位に立っているとされる。しかしこれは多分に党派的な偏見といえる。井上は(別の文脈で)聖書解釈の多様性をもって基督教会の正統教義を批判している。井上も歴史的比較的方法を熟知しており、解釈の水準を問わなければ、どちらも解釈であることには変わりない。
 哲学的反省の水準ではどうか。全般的にみれば両者ともカント哲学をふまえている。とはいえ、「実在」をめぐって後述するように、「仮説」や「統制的原理」の受けとめ方が異なっている。井上には最初から自明の前提があり、認識論もその正当化のために用いられている。それに対して大西は、事実と価値・規範の関連を問い詰めており、自明性を問い直す点で一歩先んじているように見える。ただし、大西の純正哲学(形而上学)でも何らかの本体(神)が想定されている。例えば、随思随録「理想」「生物」「進化」(『六合雑誌』明治26年5月)では、哲学(実在の知)と道徳(実在の実現)と宗教(実在への憧れ)の三位一体に対する信念(信仰)が吐露されている。哲学の反省にも終着点があるとすれば、両者の差は五十歩百歩であるともいえるかもしれない。

第3章 「良心」をめぐる井上哲次郎と大西祝

 『倫理新説』は井上の「日本哲学」の出発点であり、その後の展開は(方法論の導入を除けば)基本的にそこで定まった方向を洗練させたものである。他方、大西の『良心起原論』は早熟であった大西の思索の到達点である。これは断続的に加筆修正され、その一部が雑誌に掲載された。未完であるが基本的に出来上がっている。以下では井上から先にその内容を分析する。ただし、井上に関しては全般的に考察し、大西の場合は良心の「根拠」すなわち「純理哲学的な仮定」の箇所を集中的にとりあげる。

3.1 井上哲次郎の『倫理新説』
 既述のように本書の元は「倫理ノ大本」である。それを補正した本書について「目下、東洋哲学史の編纂のため多忙ゆえ、叙述に不備が残る」(緒言、大意)と弁明しているが、たしかに論の展開には飛躍と不備が散見する。以下ではスペンサーやダーウィン等の著作にも目を配りつつ、解釈を交えた要約を試みる。なお、頁づけは『井上哲次郎集』第1巻に拠る。
 井上によれば、倫理の捉え方には二種ある。一つは紀律(守るべき規範)であり、もう一つは天地間に現象する倫理の根底である。当然、井上の関心は後者にあり、道徳の基址あるいは善悪の標準を問う。しかしこれにも二途ある。一つは標準なしとする立場であるが、これは主観的相対的で可変的である。もう一つは標準ありとする立場である。これには、神意(基督教)、君意(ホッブズ)、理性(カドワース・クラーク・プライス)、道念(モラルセンス)、自利、功利、というように多様である。その中で井上は、「化醇主義ニ本ヅキ、化醇ノ規律ニ遵ヒ、完全ノ域ニ達スルヲ以テ道徳ノ基址トス」という立場に決然と立つ(緒言)。
 ここでの「化醇」には注釈が必要である。この当時(明治13-16年)の井上は、「化醇」でもってダーウィンやスペンサーのいう「進化」を指している。ただし、その意味内容はフェノロサ経由であり、スペンサー主義とドイツ観念論(ヘーゲル)に基づいている。すなわち、ラマルク主義にも通じる目的論を内在した進化思想である。なお、明治17年の「進化論の進化」では、「自然選択」の偶然性を強調するダーウィン流の進化論を進化思想の一つとして捉え、易経由来の「化醇論」(例えば山鹿素行や二宮金次郎)から区別している。そこにはダーウィンに反対したルイ・アガシーの名も登場する。日本にダーウィンの進化論を導入したモースは、ハーバード大学でアガシ―の助手であったが、進化論の評価は正反対である。「目的」を介在させるか否かが分かれ道である。
 さて、倫理の大本はなぜ習慣に従うのか、なぜ幸福が目的であるかに理由を与える。しかし、理由の「正シサ」の基準は何か。そこで井上はまず、拠り所となる真理の標準を探る(が、この辺りの論の運びは分かりにくい)。こうして例えば、デカルトの意識、フィヒテの同一命題、ミルとスペンサーの真理観を検討する。しかし、方今の化醇論によれば意識も変化するから、スペンサーの説(「不可以為不然」つまり無矛盾性の基準)も、カントの説も標準にはならない。ヘーゲル、ベークレー(バークリー)など諸説あるが、結局、「真理トハ何カハ未ダ知ラレズ。」
 そこで井上は一転、あらためて古来の倫理教を討尋する。そしてそこから、倫理の大本はみな同一であり、それは「幸福」であり、これを得る方法のみが異なるという結論を引き出す。大本は「幸福」であるが「各一偏局シテ支派トナル」(13頁)。例えば、アリストテレスからミルでは幸福が人生の目途である。あるいは、ダーウィンとスペンサーでは倫理の観念が進化し、己の苦楽が本にあるが、そこには義気もあり、化醇律に従って順応し、完全なる生命へといたる。カントとドイツ観念論、孔子、朱子の天理、陽明、道家(老子)の天命、荘子、釈迦、モハメッド、キリストの天日、神道(これには一定の教義がなく六根清浄にして天神地祇を崇敬する)、というように分岐しているが、大本は同一である、云々。なお、行論中、利己(主我)主義と利他(愛他)主義の両立は不可能とするシジウィックを批判し、スペンサーの『倫理学原理』(1879年)に依拠しつつ両立可能としている。これは後の「日本哲学」における「同情」との関連で注目される。
 獲得方法はなるほど異なるが、「幸福」は「人生の正鵠」である。とすれば、その核心は何か。西周は「人生三宝説」において、最高善にふむ込むことなく「健康・知恵・富有」の次善で満足した。井上はそれとは逆の道を突き進み、最高善の核心は暗に「理想ニ向ケテノ鋭進」に似ているとする。それはどういうことか。「理想ニ達スルコトハ本分」だからである。そしてこの「本分」に倫理の大本があるという。この辺り、幸福から理想への推移はいかにも唐突であるが、この直観を説明するのが本書の中心であり、ここから論が転換する。
 宇宙は不思議である。空間・時間は限りがないし、人間の由来や命数も、存在理由も知れず、人も不思議である。広大無辺の勢力(パワー)を背景にして行為が成り立つ。「勢力は万世に亘、殺滅せず、東西に異ならず、永遠、森羅万象を統括する」(26-27頁)。「物ノ実体(リアリティ)ハ幽奥ニシテ常ニ現象ノ裏面ニアリ」(27頁)。我々の感覚は物の形色と性質のみに関わり、感覚も心の発動であるが心の実体を知らず。「外物モ我ガ心モ彼ノ勢力ト同ジク不可思議ナリ。今、不可思議ナル人、不可思議ナル心ヲ以テ、不可思議ナル物ガ接シ、不可思議ナル勢力ニ由リテ不可思議ナル宇宙ニ生息スル」(28-29頁)。森羅万象に安静なものや変更しないものもない。「コノ状、最モ著名ナルハ社会」である(30頁)。このような感慨は後年の形而上学確立期の井上でも同様である。まさに「不可思議」のオンパレードであり、明治人と現代人との間の懸隔を感じさせる。
 ところが近年、宇宙の奥義はダーウィンとスペンサーの化醇論によって解明された。これを機縁として諸学問が興隆し、論争が激発している。論争の背景には化醇論と基督教の対立がある。とはいえ、井上からみると両者ともに謬見がある。基督教の「絶対者」は哲学者のいう霊妙と異ならない(36頁)。井上はマシュー・アーノルドのいう「知識上では非難しても、倫理上では非難すべきではない」に同意し、他の宗教と同じく基督教にも多少の真理が含まれるという。スペンサーは「不可知論」によって科学と宗教の媾和を意図した(『第一原理』1862年)。ところが浅学者だけがすべてを化醇論で解釈しようとする。
 井上はスペンサーと同様に「不可知論」の立場をとり、認識できないが宇宙の本体の実在を前提にする。宇宙の客観・現象は「万有成立(universal existence)」の表象であり、空間・時間・勢力はみな無限の一部分である。それらは万有成立の存在を明証する。「万有成立」の名称は古今東西で異なる。例えば、太極、無名、そのほか多々ある。しかしすべてそれを奉教し、人類を越えて一種特別の万有成立を信じてきた。それゆえ、もしも「万有成立」に拠って倫理の大本を講じるなら、万国の公教につながるのではないか。スペンサーもそれを追究している。それは一種高等宗教であり、チャニングのいう「万国普遍」の宗教である。社会が家族から種族、邦国をへて万国へと至るように、宗教もまた「一統教(universal religion)」に向かうだろう、云々。ここに吐露された井上の希望は後年、普遍的な「倫理宗教」として洗練される。
 しかし、井上の不可知論はスペンサーとぴったり同じではない。宇宙の本体は人智を超える。上帝の創造説も「笑」止の「憶測」(50頁)にすぎない。万有成立は宇宙の本体であり、人はその表象の一部を見るのみである。とはいえ、現象・時間・空間・勢力は「万有成立」の含意表識(symbolic expression)、つまり象徴である。そのかぎりそれは「本体ノ案内人」になる。その案内人とは「勢力ノ趨向」であり「化醇ノ紀律」である。松子は松になり、瓜子が瓜になるように、宇宙の本体の原質の中に包含された種子が、化醇の規律に従って漸漸展舒し、発達する。包含と化醇とは両立する。包含した種子を全成させることが化醇の紀律である。宇宙の化生は止まらない。あらゆる生物生命は日に月に化醇して純全の域に接近する。これが適者生存の理法にほかならない。順応しないと死滅する。それだから自ら改良して勢力の趨向に順応する必要がある。ここでは象徴論によって儒教的化醇論とスペンサー進化論が融合されている。
 良く改良する者のみが生存する。社会状態も「平称点」に到達する。聖人とは一言一行といえども順応した者の謂いである。しかし、とここで井上は、万有成立の意匠に順応することに対して二つの疑問を投げかける。一つは、自由意志(努力と改良)である。「勢力ノ趨向」が必然であれば自由意志は不要ではないか。井上の答えは、無数の因果系列の内から選択するためには必要である。勉強すれば立身出世し、懶惰になれば零落する。責任は人間にある。もう一つは、何をもって「勢力ノ趨向」を知るのか。井上は「理想」と答える。理想とは「現在ノ状態ヨリモ善ク、勢力ノ趨向ニ順応スルコト」である。理想は遠くではなく眼前にある。聖人とは特異の性(本性)を具するからではなく、勢力の趨向に順応しようと努める者、理想に達することの切要を体現する者である。「嗚呼、天地ノ間ニ自己ヲ改良スルヨリ切ナル者アランヤ」(61頁)。「孜孜トシテ学問思弁ノ功ヲ積ムベキナリ」(61頁)。
 以上が『倫理新説』の概要である。井上の考えの基にはスペンサーの進化論があるが、これはダーウィンの自然選択による地味で漸進的な進化とは異なり、同質部分の不安的な平衡状態から異質な部分の関係への分化を通じて最終的に平衡状態に達するという、壮大な宇宙論である。その背後には不可識の神がある。その宇宙の中で生命も進化する。スペンサーによる「生命」の定義は「外的関係に対する内的関係の適応」である(『生物学原理』)。人間は生物として状況(外部)に対して能力(内部)を適応させることを通じて、その都度の適合(完成)をくり返しながら進化する。人類の社会も軍事社会(外部優位のシステム)から商業社会(内部優位のシステム)へと進化する。そして最終的に行き着くのが個人の自由の権利が平等に保障される社会状態である(『社会静学』1850年、邦訳名は『社会平権論』)。要するに、スペンサーは典型的な自由主義者なのである(だから帝国主義と社会主義の時代には早晩、忘れ去られる運命にあった)。
 井上の場合、山鹿素行や二宮尊徳の儒教的化醇論がスペンサー解釈のベースにある。宇宙の本体(万有成立)、その現象としての化醇の紀律(進化の法則)、与えられた環境における適応という課題(理想=完成)、適応への不断の改良(努力)が、井上の倫理学を構成する要素である。井上の後年の展開のほとんどすべてがすでにそこに出ている。それにしても、現状の不断の改良がはたして倫理の基準になるのだろうか。植村は主体的に受けとめる個人意識がそこに欠如していると批判したが、この批判は当たっていない。むしろそこには個人の意識的努力しかないというべきであろう。この時点での井上の枠組みでは、完全へと向かう傾性しかなく、めざすべき理想としての社会状態はブラックボックスである。努力一辺倒に対して目標は外部環境との関係からそのつど設定される。つまり、時代環境と境遇によって決まってくる。
 スペンサーでは最初から自由主義社会という明確な目標(理想)があったが(『社会静学』)、井上の場合の目標は近代国家日本の自衛独立であり、そのための国民統合になる。そしてこの目標(理想)と一体化すべく自ら徹するのが「良心」である。それはなるほど国家を超えてその是非を論じるような良心ではない。しかし、歴史を超越することはできず、すべての視点は内在的であるとするかぎり、その渦中での努力しかないともいえる。事実、21世紀の現在でも「国家」という組織は包括的であり強固であり続けている。とすれば、現実主義的で状況主義的な良心という井上の捉え方も一概には否定できないということになるのであろうか。

3.2 大西祝の『良心起源論』
 『良心起原論』は未公刊である。なぜ公刊されなかったのかという問いにここで直接に答えることはしない。さっそく解釈込みで著作の概要に赴こう。テキストは堀孝彦の校訂本を用いる。頁づけも同書第Ⅱ部の草稿版に拠る。
 序文では、第1章の経験的考察をふまえ、第2章で純理的考察へと飛躍することが予告されている。序論では良心という現象が心理的に説明され、経験的(いわば現象学的)アプローチから良心現象の核心を絞りこんでいる。良心には「あるべし」の義務感覚から善悪の基準意識まで含まれる。以上は『哲学会雑誌』掲載の「良心とは何ぞや」そのままである。第1章に入ると、欲求・感情に依拠する二つの説、すなわち、利己的感情に対する外圧からの説明(ホッブズや加藤弘之)、ならびに利他的感情を基盤にする説明(ダーウィン『人間の由来』)が内在的・論理的に批判される。その他、良心本能説のスペンサーやヴントも批判される。以上を受けていよいよ第2章で自説が展開される(131頁以下)。
 大西の考えでは、「理想」の観念を作り出すのが「良心」である。そして行為の理想(善・悪や義務・当為の心識)とたんなる想像とを区別するのは「本来の目的」の有無である。ここから『六合雑誌』掲載の「道徳的理想の根拠」が始まる⑴。元の草稿と「根拠」論文を比較すると、草稿にあった「本真の性」、「仮有の性」、「復する」といった儒教的(宋学的)表現が「根拠」論文では消えている。その代わりに採用されているのが、アリストテレス的ともカント的ともいえるような用語や語句である。いずれも目的論的思考であることに変わりない。
 さて、目的はいかなる行為にも不可欠であり、人事、社会現象、倫理・道徳を目的の観念なしには説明できない。とはいえ、目的をもつのは人間だけではなく、万物でも同様である。そして以下の文が続く。「法界を組成する諸物は個々皆独立のものにあらす、互に相待つの関係を有す」、「法界は個々の部分の相関連する一団体」、「諸物が其全体に対して各々それぞれに充たすべき所を有す」(134頁)、「各部分なくば素より全体なし、然れども全体なくば其個々の部分もなし」、「全体は個々物に先立たず、個々物もまた全体に先立たず」(135頁)、云々。
 この辺りには注目すべき事柄が含まれている。その一つは諸物同士の相関性である。生物の相関関係に関する記述は、ダーウィンの『種の起源』(第3章「生存競争」)に類似している。ただし、大西の受けとめ方は支え合いの側面(あえていえば儒教的な善性)に力点があるように読める。「本分」もそこに結びつけられている。もう一つは個物と全体との交互性である。これは後述するように、全体性を専ら強調する井上との決定的な違いである。
 大西の思考は人類と社会に及ぶ。物理現象(煙や水)にも目的はあるが、生物の場合の目的はなお一層進んでいる。例えば、桃の種子は生長して桃の樹になり桃の花をつける。それが桃の「性」である。とはいえ、自分の目的を自覚できるのは人類だけである。心識を具え自覚を有する生物が人間である。そして個人の生長とともに人類も社会も生長する。社会は一機体(有機体)であり、人類も一団体である。人間の「憶測予想」は生長進歩の動力であり、その過誤は現実の生長に影響を及ぼす。ただし、根本の大本の傾向は常に「本来の目的」に向かう。したがってその中でたとえ過誤に陥っても自らを是正していく、云々。
 以上をふまえて大西はこういう。「本来の目的」を「予想」できるまでに心識が発達した時期に「理想」が生まれる。そして「理想」が生まれた時期に「良心」が発生する。人間(吾人)とは道徳的生物であり、「本来の目的」を「憶測想念」できる性能を有している。ただし、人類の発達の何らかの時期に良心が発生したとしても、個人についても人類に関しても、その時期を指定することは困難である、と。この辺りに出てくる「憶測」が井上の場合と違って中立的に用いられているのは、実験心理学者の元良経由のプラグマティズムの影響であろうか。
 大西は続いて理想と現実の関係に論を進める。社会の組織は人間の生活理想が具体化したものである。制度・風俗を社会の形骸とすれば、理想はその精神である。理想が変われば社会も変わる。それでは理想はどうやったら変わるのか。それは、人間の生長の衝動つまり「本来の目的」に向かう傾動が、当の制度・法律・慣習に満足できなくなったときである。不満足から社会の改造が起る。ただし、新理想といえども旧理想に根ざしており、旧理想が新たな方向の起点となる、云々。
 そのような理想と現実の関係を大西は科学方法論に連関づけ、法則と物的現象の関係とパラレルとみなす。大西はいう、法則は応用される中で説明がうまく行くか否かが証明される。うまく行けば満足され、そうでなければ不満足になる。個々の事象を起点としつつも法則が超越するように、現実を起点としつつも理想も超越する。法則と同様に、生活の理想もまた人間の生長進化のために使用される憶説である。そして理想の完全さ不完全は人間の生長・衝動を永く満足させるか不満足にするかによって決まる。ただし、法則と違って人間自らが生長進化して不完全と感じるようになると、理想も改造される。理想は現実を変更する力をもつ。現実の変更が理想を変更し、理想が現実を変更する、云々。この辺りの大西の説明はヘーゲル的というより、むしろジェイムズ流のプラグマティズムの見方に近い。
 理想はそもそも、吾人の「我本来の目的」に向かって生長しゆく傾動、つまり「性具の傾向」から生じる。そして理想に向かうことによってその傾動が満足させられる(145頁)。そのような理想に対して義務の衝動の心識が起り、良心の不安・咎めや善悪の判別(感別と識別)が伴う。ここに至って序論で分析された良心現象の根拠が説明される。「本来の目的」は人類の進化の経過の中で漸漸に吾人の心識に発現する。「此世界に於て、此生物の界に於て、此人間の社会に於て、種々の経験を積み、種々の境遇に接して」、「幾多の過誤失敗をも為す中に於て漸次に明瞭なるものとなる」(147頁、153頁)。
 大西によれば、以上はあくまで「純理哲学上」の仮定である。この法界の成り立ちや変遷に対して「目的」を仮定しているが、それは必ずしも有心識ではなく、また法界全体の進行に一大目的を仮定するものではないという。たんに「此法界の中に現れたる個々の者は或有様に至るべき為に現れたり」という仮定にすぎない(148-149頁)。個々の関係の中にそれぞれその存在の目的を有すことを仮定するのみであり、この法界の全体すなわち絶対者がその存在の目的を有すことの仮定とは違う。目的は人間では有心識となって、道徳・良心という現象を生じる、云々。
 大西は「本来の目的」という用語について、機械論的な説明では法界を説明できないから目的論的進化説をとると注記している⑵。また「法界の自然の構造」についても(木工の構造物ではなく)「組織又は成り立ち」を意味するという。しかし大西は、純理哲学上の仮定をめぐって「仮定と見做さずして論定じ得るの道ある乎、将た(カントの語を仮れば)道徳的心識のポストラート[要請(Postulate)]と見るより外に断定するの道なき乎」(150頁)と自問する。そして、「法界の真実体」より見れば、純理哲学上の大問題に関してここでの陳述は不十分であると結ぶ(153頁)。
 大西はここでカントの『第三批判』を意識している。大西にはダーウィンやスペンサーの進化思想の影響はほとんど感じられない。目的論的進化思想という場合、それはアリストテレス的伝統を包含したかぎりでのカントであり、カントの歴史哲学を組み入れた『第三批判』である。しかし、大西はカントに止まれないものを感じている。そうかといって、基督教信仰と哲学との間で揺れ始めている。おそらくその辺りに生じた迷いが『良心起原論』の公刊を躊躇させた背景にあろう。

3.3 両者の比較
「理想」や「良心」の捉え方の大枠は井上でも大西でも共通している。両者の背景には儒教的化醇論がある。井上はその上にスペンサーを取り入れ、大西はカント哲学を全面的に受け入れる(なお、スペンサーの哲学とカントの哲学はともに二元論的であり「不可知論」的である点で共通する。実際、ロックやスコットランド啓蒙学派を介してつながっている)。しかもどちらも目的論的である。とはいえ、両者の間には重大な相違点が少なくとも2点ある。
 1点目は理想と現実との関係である。井上の場合は「現実の中の理想」である。対して大西では、理想が現実を批判して現実になり、これがまた新たな理想と対立して乗り越えられるかぎり、「現実に対抗する理想」である。ただし、どちらも理想=目的が未規定であることには変わりはない。現実(状況・環境)との間の一致・不一致は、井上では「完全・不完全(適合・不適合)」として捉えられるが、大西では「満足・不満足」の主観的感情として意識される(そもそもベースが「衝動」である)。ということは、理想の内容を規定するのはどちらにあっても、外的現実(時代環境)の主観的な受けとめ方次第ということになる。井上では理想が国家目標と一体化して固定する。大西では理想が人類に拡散して漠然とする。
 主観的な受けとめ方を理論的に左右するのが次の2点目、すなわち個人と社会の関係である。井上の理想は社会から個人の内面へと収斂する。井上では一面的に個人は社会の部分だからである。それに対して大西の理想は、個人の意識と社会との往復運動の中で生成する。社会との関係が交互的だから、個人から社会的関係への方向づけが生じる。ここでの違いは、福沢と井上の間の根本的な対立点にも関連するが⑶、後述するように「日本哲学」の基本構造を決定する上できわめて重大な意味をもつことになる。

第4章  井上哲次郎の「日本哲学」

 この章では、最初に明治期の「日本哲学」を世界哲学として特徴づけた上で、その第二世代である井上の「日本哲学」の形成を辿り、その基本構造を詳らかにした後に、日本哲学から日本精神への変容を跡づける。基本構造の解釈に当たってはとくに「利己主義と利他主義とを論ず」論文をとりあげ、「同情」の概念に照明をあてる。以上を通じて井上独特の<同=情>の形而上学が「日本哲学」の支柱であることを浮かび上がらせる。引用は『巽軒論文集(二)』(『井上哲次郎集』第3巻)に拠る。

4.1 世界哲学としての日本哲学
 19世紀の欧米ないし西欧の哲学は、従来の日本思想史研究においては、たんに一括して扱われるか、日本の哲学者と個別に対応づけられるだけであった⑴。この種の一国主義的なまなざしはこれまでの近代日本思想史研究の弱点であったといえる。そこで改めて英米を中心にして欧米の思想潮流を概観してみよう。19世紀の前半から中葉にかけて現状保守派としてもっとも有力だったのは、「不可知論」に基づくW・ハミルトンらの「コモンセンス」学派である。1830年代から1850年代にかけてそのハミルトンの哲学に正面から対抗して登場したのが、コントの実証主義に共鳴したJ.S.ミルの経験主義である⑵。その後、1860年代から1880年代にはスペンサーの社会進化論が一世を風靡する。ドイツの新カント派やショーペンハウアーもこの時期である。この辺りは井上や大西の活動ぶりを紹介したさいに既述している。そして1890年代から1900年代になるとW・ジェイムズやベルクソンらの反カント主義的思想が流行する。時代はすでに社会主義と帝国主義に移行している。
 コントの「実証主義」の登場は、17世紀以来の第1次科学革命がようやく生物学、医学、心理学、そしてさらには社会科学にまで及んできたことを物語る。そこで問われたのが諸学の統一であり、物理・生理と心理・社会との関連づけの問題である。焦点は心理学であった。ちなみに、心理学は1880年代以降、伝統的な心(soul)の哲学から科学的心理学(mind)へと転換する。他方、心理学はまた倫理と道徳にとっても中心の位置を占めていた。この場合は「人間本性論」と呼ばれる。ホッブズ以来、利己心と利他心(愛他心)の関係は近代社会を支える倫理と道徳の核心となり、それをめぐって「契約」、「モラルセンス」、「同感」、「自律的意志」、「教育的介入」、「賞罰制度」、「立法」など、種々の解決法が提案された。その中で争点となったのが「同情もしくは共感(sympathy)」である。その本性上の位置づけ(先天的か後天的か)、発達方法(感情か知性か)、到達目標(権利の対等な尊重か人類愛か)をめぐって論争が持続する。19世紀の中葉から後半にかけて論争の中心にいたのが、J.S.ミルであり、遅れてスペンサーである。
 留学先オランダのフィッセリング教授による献身的な解説を通じて、以上のような欧米思想の動向を始めて本格的に受けとめた日本人が、西周と津田真道であった。とくに西周は、コントやミルを咀嚼しつつ、コントを超えて諸学とくにモラルサイエンス(心理・社会科学)の体系化をめざした。それが彼の「性理学」である。コントを越える意気込みと努力の跡は『生性発蘊』や『生性箚記』等に刻まれている。「性理学」は人間本性論であり、伝統的東洋思想の根幹(とくに徂徠学)をふまえつつ、心理・社会科学の体系の基礎づけを意図したものであった。それはまた、自己の目的の実現を押し進めるための道徳だけでなく、人間社交の倫理(秩序)を支える強制力をも提供した(『百一新論』や『人世三宝論』)。西の「性理学」は当時の日本の思想界にとっては革命的であったし、さらに当時の欧米の水準を超える契機をすら含んでいた。
 ここで佐久間象山の「西洋芸術、東洋道徳」を借用すれば、実用から制度まで含めた広義の「西欧芸術」の導入の仕方には3水準があったといえる⑶。すなわち、個々の成果を別々に受け入れる「ピース(piece)」、原理から方法までを体系的に移植する「パッケージ(package)」、原理の前提にまで遡る「パラダイム(paradigm)」である。そのうち「パラダイム」の水準で「西洋芸術」を受けとめたとき「哲学」が誕生する。その意味でいえば、西周こそ<日本語で書かれた世界哲学>としての「日本哲学」の創始者である。
 ただし、「性理学」による生理と心理の架橋の試みは晩年には放棄されたようである。その結果、通説によれば、心理学に関しては心理の基礎となる単純情念の構造連関の分析が残っただけである(「心理説ノ一斑」)。それは省察(内観)にもとづく伝統的な情念論の焼き直しであり、ジェイムズのように科学的心理学をふまえた哲学的研究ではなかったとされる。他方、論理学の研究にしてもJ.S.ミルの『論理の体系』(“A System of Logic”)における「逆演繹法」(BookⅢ,Ch.10)を咀嚼する水準までには達しなかったとされる(「理の字の説」)。これらの点に関しては若干の異論もあるが、本筋から外れるので元に戻る⑷。
 西周は明治10年、東京大学開学の記念行事の一環として「学問ハ淵源ヲ深クスルニ在ルノ論」と題する講演をおこなった⑸。そこでこういう。スペンサーは『心理学原理』の中で社会組織の有無が文明の差をもたらしたとする。その点では日本は欧州に遅れており、さしあたりは模倣もやむを得ない。しかしその中にあっても哲学上の見解は不可欠である。そのための方法には「実験」と「淵源」の二つがある。実験を通じて科学の深遠な理にいたる。他方、心理上の学術(道徳や法律)の本源は人性にあり、これには淵源の探究が必要である。後者に関しては本邦にも親鸞や白石・徂徠や古医方の先例がある。後生に新理の発明者を期待したい、云々。
 井上哲次郎は当時、東大哲学科の一期生として「淵源」講演を聴講した(か、その論説を通読した)はずである。淵源とはつまりパラダイムの探究である。井上の関心は最初から形而上学(世界観・実在観)に向けられていたから、西の「日本哲学」は井上に引き継がれたことになる(『懐中雑記』)。当時、井上のベースになったのはフェノロサ経由のスペンサーである。その後の井上はスペンサーを(ショウペンハウアーを支えにして)さらにふみ越え、彼なりの形而上学すなわち「現象即実在論」の見地に到達する。そして後年、その井上を越え、ジェイムズやベルクソンを受けとめつつ実在の内在主義に突き進んだのが、井上の弟子で日本哲学の第三世代の西田幾多郎である。

4.2 井上「日本哲学」の形成
 井上の問題意識の中心は、思想混迷の中で基軸を立て直し、倫理の原理を探究するために、形而上学(世界観)の次元に遡り、その基礎の上に(比較東洋哲学史を包括する)「日本哲学」の確立にとりくむことである。ところが、長期留学から帰国した直後、井上を待っていたのは『教育勅語』の解説であった。近代国家日本の独立自衛のための国民統合という課題は、哲学エリートとしての井上にとってはもとより留学前から意識されており、さらに留学中には肌身をもって痛感されていたはずである(例えば、明治22年『内地雑居論』にうかがえる)。しかし、形而上学(日本哲学)の研究・確立と国民道徳の方向づけ・育成という二つの課題が、直接的に結びついていたわけではなかった。それが具体化したのは『勅語衍義』が最初である。それ以降、この二つの課題は絡み合いながら展開する。この節では、そうした絡み合いを背景におきつつ「日本哲学」の形成の過程を概観する。依拠するのはおもに『井上哲次郎集』第9巻所収の講演や短文である。
 『衍義』(明治24年8月)は、国際政治の熾烈な環境の中で日本国が自衛・独立するためには、忠孝悌親の徳のみならず、とりわけ「共同愛国」の徳が必要とされる「何故(理由)」を縷々解説したものである。忠孝梯親を含めてすべての徳は民心の結合に集約されるというのがその主眼である。共同愛国の徳は欧米諸国では普通に論じられているが、東洋では未だ存在していない。たしかに『教育勅語』は当時でも、また今日でも、もっぱら「忠孝」の日本的特殊性にアクセントをおいて読まれている。井上の解説はそれらと一線を画し、近代国家にとっての共同愛国(つまりナショナリズム)の普遍性を指摘する。
『衍義』を補うのが「社会に対する徳義」(明治25年)である。ここでは個人的徳義とは異なる「社会的道徳」が論じられる。個人的な忠君とは異なる愛国が第一であるが、それ以外にも徳は多々あり、とりわけ公衆道徳に関しては西洋の方が日本より進歩している。公共心は国の華であり、その欠如は国の恥である、云々。
 『衍義』より少し前、帰国後の慌ただしさの中で最初に発表された論説が「性善悪論(上・下)」(『哲学会雑誌』明治24年1/2月)である。これは留学前から準備され(東大での「東洋哲学史」講義)、留学中に「萬國東洋学会」で発表された原稿の日本語版である。従って内容的には『倫理新説』と重なる。井上はいう。「良心」は「本然の性」に相当し、朱子の論は自分の「現象即実在論」の先駆であり、カントと朱子という東西の哲学者は符合する。そしてダーウィンの『人間の由来』にも言及しつつ、人間は不完全であり、善悪は素質として性に内在するが、境遇の違いによって種々発達する、云々。ここで注目すべき点の1つは、カントの『理性の限界内の宗教』の「素質」論の援用である。井上は欧米学者向けの説明だからというが、留学中にカント哲学を咀嚼したことが分かる。もう1点は、伝統的な漢学(儒教)との決定的な差異である。朱子学の復初の思考と漸進的な(エピジェネティクな)発達の思考とは決定的に異なる。事実、井上による朱子学の換骨奪胎は漢学者との間で激しい論争をもたらした。
 やがて井上はスペンサーとカントを越えて独自の形而上学(世界観)の樹立に邁進する。「我世界観の一塵」(明治27年6月講演、『哲学雑誌』第89号)の後、明治28年9月から「哲学概論」としてカント哲学の講義を開始する。このカントの批判的な読み直しの成果が「現象即実在論の要領」(明治30年1/2月講演、『哲学雑誌』第123/124号)となった。ただし、「十有余年の研究の成果だが、根本主義についてはなお途次」と井上は記している。
 時代はすでに日清戦争後である。当時、井上は印度哲学史の中で原始仏教の講義をおこなっていた。「仏陀論」(明治30年)では、仏教の悟りの境地つまり心中は「倫理学」でいう「良心」にあたり、バラモンのブラフマン、陽明の良知、カントの理念と同一であるといい、その核心は「混沌未分、麗朗円明の一理体」の発現とする。ここで井上はカントを自分の世界観に引きつけて解釈し、倫理学を西洋倫理学と同一しているが、注目すべきは「混沌未分」という見方である。これが宇宙の本体(実在)に対する井上の直観である。
 哲学と宗教の根源は井上にとって同一であった。その意味で宗教観も見逃せない。「宗教革新に於ける日本の位地」(明治30年)は、特殊宗教の並存状態から世界普遍の宗教への移行を論じる。井上によれば、諸宗教の共通点を熔錬して統一的新宗教を建設すべきであって、懇親目的で一堂に会することは謬見である。背景として宗教界の腐敗と我邦過渡の時代を指摘する。「過渡」であるのは、外来の宗教思想によって国内の宗教が擾乱され、外来宗教思想も科学的批評によって窮しているからである。当時「宗教革新」が必要とされていたことが分かる。
 あるいは、「宗教革新ノ時機」(明治30年4月西村の弘道館にて講演、翌年掲載)では、「宗教」は新語・翻訳語であり、特定の団体の宗派や宗旨が世間に種々に並立しているから、広義の宗教概念が必要であるという。西洋では宗教といえば基督教を指すが、広義の宗教は人格神もそうでないものも包摂する。ただし、原始人(未開人)の信仰を宗教とはいわず、そこから発達したもののみが該当する。ここから分るように井上の宗教とは、基督教やバラモン教や儒仏道教などの高級な世界観のことである。それは西洋人の宗教史研究を東に拡張したものにとどまる。したがってこの時期の井上では神道は宗教に入らない。
 さらに、「教育上の世界主義を論ず」(明治30年)ではこういう。「世界主義」にも積極的(仏教や基督教)と消極的(ショウペンハウアー、国家主義の冷笑)の二種がある。積極的な世界主義は、まず、理論上の価値をもち行為の理想となるが、実行できない。なぜなら自愛が他愛に先立つ人間の心理を無視しているからだ。家族から国家、社会一般へと広げるのが順当である。次に、世界の現状は生存競争であり、愛国は自衛の道である。ただし、その愛国は偏狭な愛国主義であってはならず、愛国と人類愛とは並行する。人類的情誼と並行する愛国が公徳の最大である。無差別的人類愛にもとづく非国家主義(一切の戦争の反対)では、国家の福祉を増進できない。いかなる人も国家の分子である、云々。ここでは愛国の主軸は変わらないにせよ、そこに「世界主義」が組み込まれている点が目新しい(これは『教育勅語』を世界主義の方向に改正する西園寺公望らの政治的な動きに対応したものと考えられる)。
 明治30(1897)年、第11回万国東洋学会に日本代表として出席した井上は、翌年に「萬國東洋學会の概況及び東洋學研究の方針」(講演大要)を公表している。それによれば、日本哲学のうち儒教についてのみ説明する、真の日本の哲学は古学の山鹿素行に胚胎する、素行は進化説のごときものを唱導している、日本の哲学はおおむね実験主義に傾きて唯心論理想論である、理気の不離合を特徴とし、現実によって思想が束縛される傾向があるが、これは国土自然の形勢の感化か、今後はこれを進んで矯正する方針が必要である、云々。この当時、井上は『日本儒学史』三部作を執筆していた。その成果がその方針に生かされている。
 明治32年から33年にかけて、井上の形而上学樹立の努力がようやく実を結ぶ。「認識と実在の関係について」および「倫理と宗教の関係について」がそれである。それぞれ認識論に裏打ちされた形而上学であり、形而上学(宗教)を基礎とする倫理学である。両論文は明治期「日本哲学」の金字塔であり、これを収めた『巽軒論文集(二)』は井上の主著といえるが、タイトルが地味なためか主著とは目されていない。ここでは主著の諸論文ではなく、これをふまえた講演「宗教の将来に関する意見」(明治32年10月、『哲学雑誌』同11月掲載)に対する批判への反論、すなわち「余が宗教論に関する批評を読む」をとりあげる。
 その第一部は明治35年1月から6号に渡って『哲学雑誌』に掲載された。井上はおおよそ次のようにいう。新宗教は歴史的宗教を基礎とするのではなく、宗教というものの根底を執って成り立つ。その根底とは道徳である。新宗教は道徳に実行の効力を付与し、各個人の中心に確乎たる一種の所信を与え、安心立命の地位を得させる。生きた宗教は生きた胸中の所信にも本づく、云々。さらに、第二部の「余が宗教論に関する批評を読む(2)」(明治35年4月)ではこういう。世界の知的解釈ではその根本は「実在」であるが、これを実行の規範として倫理的にみるとき「活動する我即大我」となる。対して各人の経験的自我つまり統覚は「小我」である。小我は「大我即理想」へと不断に無限漸進的に進化発展する。小我と大我は倫理的である点で共通する。ただし、大我を人格化してはいけない。世界万有的実在はあくまで不覚無識である。比較的完全な人格が霊格であり、各人の中に天与の分子(実在)がある。これを自覚して道徳的行為の理想となし、もって漸次的にこれを拡張し発展させていけば、大我である理想に接近できる。大我そのものは善でも悪でもなく、すべての相対的観念を超絶し、倫理を越えているが、小我に対してのみ倫理的に現われる、云々。
 見られるように、実在は不可知とされながらも一歩ふみこんで倫理的に「大我」とされ、これがさらに「理想」と同一視されている。『倫理新説』の理想は、スペンサー流の状況・能力の適合・不適合をベースとして状況主義的に捉えられていたから、明らかに違ってきている。とはいえ、その「大我」の内実はここからだけでは窺い知れない。それを把握する上での格好の論文が「利己主義と功利主義とを論ず」である。

4.3 井上「日本哲学」の構造―−「利己主義と功利主義」論文
 この論文は主著『巽軒論文集第二』(明治34(1901)年)の巻頭におかれている。井上が哲学会で実際に講演したのは明治33(1900)年11月のことである(そしてその数日後、大西の追悼会に赴いて追悼の辞を述べている)。前述したように利己心と利他心の関係は近代倫理学の中心的な争点であった。この論文を解釈込みで概括することによって「実在=大我=理想」の内実を探り、「日本哲学」の構造を明らかにしてみよう。
 「叙」において注目に値するのは、旧道徳は崩壊したが新道徳は未確立の混沌・過渡という時代認識である。その中で種々の道徳主義(これは道徳原理を意味する―筆者注)が輸入されたが、井上がとりあげるのはそのうちでもとくに「利己主義」と「功利主義」である。井上は言及していないが、功利主義についてはすでに西周の著作がある。なぜ改めてここでとりあげるのか。井上によれば、「道徳上にありては内容の動機がもっとも重要」だからである。ここから判明するのは、樹立した形而上学の見地から井上が改めて「動機」を位置づけ直そうとしていることである。
 問題提起はこう始まる。利己心と利他心のどちらが原本的であるか。利己心が原本的であって利他心はそこから派生するという考えを井上は否定する。人類においては相互の関係があれば利他心が「胚胎」する。相共に一致する例として、「同情」、「献身の精神」、「母子の情」が挙げられた上で、スペンサーの説が持ち出される。『倫理学原理』(第1篇第12章)によれば、利他心は、自然的(本能的)段階から自発的(習慣的)段階をへて意識的段階へと発達する。スペンサーは利己心と同じく利他心も原本的であるとみなしている。これを井上は「論旨洵に明然、事実に徴すべきものあり」(8頁)と評価する。ただし、後述するようにスペンサーとまったく同意見ではない。
 井上によれば、人類は「社会的生類(social being)」であり、たんなる集合体ではなく有機的団体である。しかも高等動物のうちで「同類意識」がもっとも顕著である。もちろん「利己的行為」はあるが、それはあくまで生存・生殖のための経営であって、他人を害さないかぎり人間の「権利」といえる。ただし、その種の生理的な行為はむしろ「利他的行為」というべきではないか。かえって各自の健全な発達や同類相互の利益をもたらし、共に組織する社会の進化を促すからである。これに対して「真の利己」とは他人を害しても己の一身を利するものである。それゆえ、生存・生殖の生理的な利己的行為は、動機からすれば間接的に利他的なのである、云々。
 しかしそうなると、井上のいう「利己」的な行為や心は事実上存在しないことにならないか。「利己心」は幻なのか。ここで問われるのが「我」の観念である。井上によれば、常識は「まったく独立した個人」を想定しているが、それは「捏造憶測」の類いである。個々人は祖先子孫を連結する無限の連鎖の一部分であり、また相集まって組織された社会的有機体(より大なる我)の一部分でもある。「細胞の身体」のごとく「己というものは縦横無限に連続せり」(16頁)。しかし、ここで再び疑問が起る。肉体は別個の個体ではないのか。これに対して井上はこう答える。肉体は「比較的の個体」であり、真の我は認識する主観である。肉体はその「我中の非我」であり、精神こそが我である。精神は無形にしてその本体は現象を超絶する、云々。ここに見られる全体と部分の関係は、前述のように井上の「日本哲学」にとって重要な意味をもつ。
 それでは「我の本体」と何か(これが問題の核心である)。それはたしかに認識できないが、「徴」を通じて推理し、直観することはできると井上は考える。実在(宇宙の本体)は活動として現象する。それが個々人の心の衝動であり意志である。生存・生殖等の生理レベルの利己的行為は活動であり、活動こそが生命の徴である。ちなみに、後年のことになるが、大正4(1916)年の論文集『哲学と宗教』所収の「生命に伴う五種の特徴」によれば、生命一般は「運動(活動)」、「(自己)統一」、「目的」を本質とする(ちなみに、人間の場合はさらに二つの特徴が加わる)。ここをみると生命観と実在観がパラレルに捉えられていることが分かる。
 さて、以上をふまえて井上は決定的な一歩をふみだす。活動はすべてを貫いて原本的であり、この大本は「平等無差別」である。言い換えれば「自他の融合」である。これこそ我の本体であり、道徳の根本である、云々。認識論的に「実在」といわれるものは、道徳的に見れば「大我」である。大我こそ真我であり「理想」である。「無差別」の実在が顕現する現象界は「差別」の世界である。利己主義者はその差別的な「小我」の見地に固執している。しかし、崇高なる理想なくして道徳は成り立たない。その意味では、社会的幸福(福祉)を目的とする利他的功利主義は、社会的幸福を利己のために企画する利己主義の小我に比べれば、比較的の大我であるという。
 続いて井上は「功利主義」に関して、国家経済主義としては好いとしつつ、個人道徳主義としては不可とする。道徳が他律的では心法を養成できないからである。そしてその観点から、多様な側面にわたって功利主義を批判する。すなわち、利用主義、結果主義、幸福に関して漠然たる主義、数量主義、主観主義、快楽主義、確実なのは我欲主義(この点からJ.S.ミルの『功利主義』の理想主義=高尚主義が批判される)、感情を無視した知性主義というように。以上の結論として、快不快は生理上の事実であるが道徳の基礎にはならないとし、基礎になるのは「純粋無垢の精忠心」つまり動機の高貴さだけとする。
 井上はいう。知識は倫理の方向づけとしては重要だが、実際に人を導くのは「天真自然の情」である。これは「一己を利せんとする知識に反抗し来たる道徳心」(39頁)であり、この「胸中に光を放ちて生じ来たる道徳心」は一切道徳の淵源にして「生生存続の主義」(39頁)である。道徳心は「大我の意志の発表」であり、人類の「普通的の性質」にして一切人類を包括する。道徳心の中では「彼我の区別」はなく「一視同仁」(39−40頁)である。そしてこういう。道徳心の本源は「同情」にある。「同情」は盲目的であり、共同の関係を有する同類の交互的感情であり、「自他を融合する」。それは個人の目的を越えた大我の目的であり、宇宙的に遂行されている(40頁)。大我の目的は「幸福」ではなく「完全」にある。「完全」とは自他の完全な発達であり、完全な理想である、云々。
 最後に井上は道徳教育に言及する。無意識の同情を有意識的に養成し、発達させるのがその目標である。道徳教育には知的道徳と情的道徳があるが、人を善くする徳教としては情的道徳が優る。つまり情が知に優位するという見地に立つ。ちなみに、これはコントを批判したスペンサーの見地でもある⑹。
 以上が「利己主義と功利主義」の概要である。何よりも印象的なのは、井上が「利己」したがって「個人」の存在を「利他心」と「共同性」の方向に引っぱり、あまつさえ解消している点である。たしかにコントやJ.S.ミルもまた「人類愛」を最終目標にした。「個人の自由の権利の相互承認」の社会を究極的な平衡状態としたスペンサーとの違いが、そこにあった。ただし、コントと違ってJ.S.ミルは発展を二段階とし、賢明な利己心をふまえた共同意識の上に個性の尊重と両立する人類愛の社会を構想した⑺。しかし、それでも彼ら三者には共通点があった。井上のように「利己心」を骨抜きにし、「個人」を「共同性」に解消しなかったことである。このような井上の「共同性」への傾斜はたしかに伝統思想に由来するものである。しかし、井上の場合、それは欧米哲学との挌闘をくぐり抜けた上での伝統の革新を意味していた。そしてその核心となるのが、独特の意味づけをされた「同情」にほかならない。
 「同情」という観念は、M.シェーラーの分析にもあるように多義的である⑻。しかし、確実にいえるのは、井上の「同情」が、想像力を通じた立場交換による比較という知的操作を特徴とするA.スミスの「同感」とは対極に位置することである。井上の「同情」は、コスモロジカル(メタフィジカル)な融合化の感情であり、宇宙全体と心と社会を貫いて「自他の融合」または「平等無差別」をめざす活動である。そこで通常の「同情(sympathy)」から区別するために、あえて<同=情(uni-pathy)>と表記しよう。この<同=情>こそが、井上の形而上学の核心(つまり現象と実在をつなぐ「即」の内実)であり、井上の「日本哲学」のいわば本体なのである。
 『倫理新説』の段階における「良心」は、伝統的な復初の循環運動(朱子学者元田永孚の教学)から離脱し⑼、状況主義的な理想を掲げて漸進する活動の担い手であった。この点で明確に伝統を革新していた。ただし、そこでの理想=目的はそのつど外部から与えられざるをえなかった。実際に与えられたのは、思想の基軸の探究という内発的だが形式的な課題を除けば、近代国家を支える国民統合という外在的な課題であった。したがってそこには実質的で内発的な目的が欠如していたのである。いまやその目的は<同=情>によって充たされることになる。それはもはや伝統的な「未分」ではなく、分離をくぐり抜けて到達されるいわば活動的な同一化としての「平等無差別」であり、「自他の融合」である。井上が実践としてとりくんだ国民道徳の焦点はその<同=情>を涵養・養成することである。こうして心の動機(至誠)がひたすら要求されることになる。
 井上の「日本哲学」は、「実在=大我」と「心=個我」と「縦横無限の連関(タテヨコの共同性)」とを<同=情>が充満しつつ結びつけるところに成り立つ。純粋動機主義者にして国家主義のイデオローグとみなされている井上哲次郎の思想 ―− それはまた「戦前思想」のエッセンスと受け取られているが ―− の奥底を覗きこむとき、そこに透けて見えてくるのは<同=情>が充満する動的なコスモロジーなのである。

4.4 日本哲学から日本精神へ
 井上の「日本哲学」は最終的には「日本精神」に行き着く。それは日本を本位とした精神活動である。橋渡しとなったのは神道の研究であった。第一次大戦中、姉崎は恩師の井上について「最近は神道ばかり」だから「ハーバード大との交換教授の推薦の件で相手側が難色を示した」とこぼしている⑽。それにしてもなぜ神道なのか。ここで想起する必要があるのは、井上が長らく神道を宗教としても、ましてや哲学としても認めていなかった点である。日本精神は日本哲学の突然変異体なのであろうか。戦前の多くの思想家が後に辿った軌跡を反省するために、先導者井上のうちにその理路を探ってみよう。なお、用いるのはここでも『井上哲次郎集』第9巻である。
 まず、「宗教以上の道徳」(明治41年)にいう。真の道徳は理想の実現であるが、国民の理想より社会人類の理想の方が強大であり、後者が善悪正邪の規準となる。道徳に適っている宗教が良い宗教である。道徳は人間同士の表面的な関係ではなく根幹である。それは理想の実現であり、良心に照らしてこれを知る、云々。この論説は井上の基本的な考え方から外れているようにみえる。「世界的社会」という言葉は井上らしくない。時代背景として列国との交際・和親を明示した明治41年の「戊申詔書」が考えられるが、推測の域を出ない。
 次に、「儒教の長所短所」(明治41年)にいう。儒教の長所は実際的であり実業界向きであり、自然科学と矛盾しない。その短所は独立自尊の人格が不明瞭であり、権利に乏しく哲理の説が少ないことである。これに加え、修身道徳のみで、創意なく、公徳心や衛生思想を欠いている。ただし、それらの批判は今日の視点からの要求であって、「天」の尊信は立派な宗教の証しであり、『教育勅語』の趣旨とも一致すると補う。なお、日本人の公徳心の欠如は井上が一貫して指摘するところである。
 また、「陽明学の大意」(明治43年)にいう。陽明学の第一の特徴は宇宙の本体が我々の自性に備わっているとすることにある。その自性が「良知」であり、これは宇宙の大意識・大精神の一部である。そのかぎり倫理学の「良心(conscience)」のように低く浅いものではない。二番目の特徴は自律的で知行合一であることにある。これは今日流行のプラグマティズムに似ている。意志の力を強め、断固として実行するからボランタリズムでもある(それに対して朱子は知性主義)。一元論(理気渾一)であり、唯気論、エネルギスムスでもある。特徴としてはそのほか、速成的、教育的、反功利主義的である。他方、短所としては、まず主観的であり、自分の心の中に善悪の基準がある。また、元がきれいな鏡であて、後に曇っていくから曇る原因を取り除いていくと考えることである。進化思想から見るならむしろ漸次発達と捉えるべきである。全体を要するに、とにかく陽明学は日本人によく合う。単刀直入で、直裁簡易なところは武士道と似ている、云々。ちなみに、明治41年(1908)に陽明学会が組織され、井上はその主席評議員に就いていた⑾。井上にかかれば陽明学も武士道もすべて似てくる。
 さらに、「儒教の宗教観」(明治45年)にいう。儒教には活々とした天の信念があり、天と一体し、徳行に優れる。好例は二宮尊徳である。尊徳では、至誠心が天と一体であり寸毫も天を欺かない。また天が人格的と同時に運命的に捉えられている、云々。
 続いて「教育勅語に関する所感」(明治44年)にいう。天壌無窮の神勅と『教育勅語』が数千年隔たっても前後照応し、前後一貫している。『教育勅語』は封建時代の道徳とは異なるが、さらに一歩進めて今日の時勢に適応させることが大事である。国民道徳はあくまで国家主義的だが、個人主義も相対的なものならそこに一致させることができる、云々。この辺りは前出の宮本和吉「思潮評論」と合わせると興味深い(第2章末尾、余録その2)。また、『教育勅語』では徳目は不足していない。国憲を重んじ国法に従うという正義があれば細部は不要である。仏国の国民教育は宗教を離れて徳育を位置づけるが、これは無理ではないか。権威あるものが必要である、云々。この辺りはフランスの道徳教育を担ったデュルケームと比較すると興味深いはずである。なお、「国民道徳」への直接の言及は、明治39(1906)年の「日本における徳教の位置」辺りから目立ち始める。それらはやがて大正元(1912)年の『国民道徳概論』に集約される。また、井上監修の修身教科書の改訂も度々行われている⑿。
 井上の神道研究は明治末から始まる。その成果が「神道と世界宗教」(大正4(1916)年の講演)である。井上によれば、神道には八つの特徴がある。すなわち、人道教(神とは優れた人のこと)、精神教(誠意誠心・真心を徹底させた者が神になること)、自力教(良心が頼りで独立自尊していること)、包括教(教条が少なく大綱目のみ、天壌無窮の神勅は皇室中心、宝の鏡は皇祖中心、祝詞は国家主義・帝国主義を象徴すること)、醇化教(段々善く為していく、つまり大義名分である建国さえ壊れなければ、あらゆるものを取り入れてその粋を醇化していくこと)、実現教(誠意誠心を発揮して人格を実現すること)、平和教(日本民族の平和的発展、広くいえば世界の平和的発展のために奮闘努力すること)、統一教(皇室中心に植民地から他の民族にまで拡大すること)である、云々。井上は何事に対してももっともらしく特徴づけることを得意としている(これがイデオローグの資格といえる)。ここに見られるように、井上の普遍的な倫理的宗教は、人即神(真心・至誠の徹底の人格化)を媒介にして「神道」に具体化されている。逆にいえば、神道を自分の日本哲学の具体化として解釈し直している。
 井上は続ける。神道に対して二つの誤解がある。その1つは神社と神道の関係であるが、無関係とするのは正確ではない。神道は「日本を本位として発展していくところの精神活動」であり、大きく分けて「國體神道」、「神社神道」、「宗派神道」、「実行神道」の四つになる。そのうち前二者が神道の主要な部分である。それに対して「宗派宗教」は神道の端くれであり、原始神道のうちの自然神道が残存したものにすぎない。「神社神道」にも自然神道はいくらか残るが、大部分は崇祖神道である。もう1つは神と人の関係であり、両者の間を厳密に区別しないのが本来の精神である。人は誰でも神になれる可能性をもつ。非常に優れた人の場合、神として祭られる(例えば松陰神社―−筆者注)。神とは優れた人であり、神代も人代もない、云々。
 その上でこう言う。日本民族を中心として世界統一を行うべきである。模範は日蓮である(当時、日蓮宗が流行していた―−筆者注)。神道を本位として仏教基督教ほか何でもその中に摂取し、消化して、世界統一の精神を鼓吹しなければならない。「日本民族が古来の精神(=神道)を日本の国威の発展とともに世界に普及させ、さらに日本の国家を通して広く感化を及ぼすことが必要」(14頁)である、云々。第一次世界大戦中のこの時期、井上は日露戦後に採っていた世界主義と並立する国家主義(つまり世界の中の日本)の見地から、いまや日本中心主義へと踏み外そうとしている。この論文では検討していないが、研究書によれば、その梃となったのは「國體」を再解釈して強調された仁政の普遍主義とされる⒀。この「仁政主義」はいうまでもなく<同=情>の統治的表現である。
 最後に、「道徳上より観たる神社問題」(大正6年)および「神道大蔵教の編纂の必要に就いて」(昭和2年)ではこういっている。神道は日本民族の精神の産物である。日本の研究は日本固有の神道の研究だから、ぜひとも大蔵経にまとめる必要がある。中でも「國體神道」が我が国の中堅である。これによって国民として進化発展し、原本的活力を保ちつつ、連綿として今日に至る。日本の勢力が広く世界に及んでいるのは「國體神道」の結果である。哲学的な水準が低いという批判は一概に否定できないが、研究の価値がある。いまや神道哲学が求められている、云々。この辺りになると大正14年の『我が國體と國民道徳』や昭和7年の『日本精神の本質』ともはや変わらない。
 ここまで、世界哲学としての意気込みをみせた「日本哲学」が、日本本位の精神活動を誇示する「日本精神」へと変容する過程を辿ってきた。この変容を促した要因としては、国際政治環境における日本国家の立ち位置の変化や、「國體」の仁政主義的な再解釈など、いくつか考えられる。しかし、思想内在的に突っ込んでみれば、「神即理想的な人」という神道の捉え方に注目せざるをえない。そしてもちろん、この捉え方の前提には、平等無差別への活動である「実在」を倫理的に具象化した「大我」があり、これを理想とする「小我」の没我的な活動を軸とする<同=情>の形而上学がある。とすれば、井上の場合、「日本哲学」と「日本精神」とを隔てているのは、その種の具象化の徹底における程度のわずかな差ということになろうか。

結章  近代「日本哲学」のパラダイム

 井上哲次郎の「日本哲学」の主柱は<同=情>の形而上学である。この<同=情>の核心にあるのは、個々人を分子的結節点とする「縦横無限の連関」としての「共同性」に対して、その本能的な基盤となると同時に自覚的な動機ともなるような「平等無差別」もしくは「自他の融合」の感情である。このような「共同性」と「感情」とのコスモロジカルな結合をどのように受けとめればよいのか。最後に、次の2点を示唆して本論考を締めくくることにしたい。
 1点目は、「共同性」の「感情」的一体化という思想は、なにも井上だけの特異で奇怪なものではないということである。それはむしろ、近代「日本哲学」のパラダイムであったといえる。例えば、「日本哲学」の第三世代である西田幾多郎の哲学の場合、初期の「純粋直観」から後期の「行為的直観」までにいたる実在観のうちに、それは内在主義的に引き継がれている⑴。他方、井上を毛嫌いした大正世代の和辻哲郎の倫理学では、その「間柄」の基盤である「風土的身体的感受性」の観念のうちに、それはいっそう身体化されて受け継がれている⑵。もちろん、「日本哲学」には西周や福沢諭吉や中江兆民のように、井上とは異質な思想家群がいたことはたしかである。しかし、「共同性」に過度に傾斜し「感情」的一体性を強調するスタイルが、少なくとも近代日本思想の主流の特徴であったことは否定できないように思われる。しかもそれは今日、「関係主義」や「共感主義」という薄まった形で蔓延しているとみることができる。
 2点目は、「共同性」とその「感情」的強化というパラダイムのもつ問題性に関わる。端的にいって<同=情>のどこが問題なのか。「思想」について考えてみよう。思想とは全体社会の構造を原理的に問い直す理念的コミュニケーションである。これには四つの次元、すなわち、状況に対応して解決を模索する<実用性>の次元、自他の一体性に力点をおく<共同性>の次元、自他の間に正義を導入する<統合性>の次元、解決・一体性・正義に対して再帰的なまなざしを向ける<超越性>の次元がある。これら四次元の間のバランスをとりつつ、重点の置き所を異にすることから思想上の立場の違いが生じる。その四次元のうち、人間が自律的であると同時に他者によって支えられもする存在であるかぎり、後者の側面を延長して自他の一体性に力点をおく<共同性>は、いうまでもなく倫理にとって不可欠である。しかし、<共同性>が他の三次元との連関から切り離され一面的に強調されるとき、それは人々の間に潜んでいる分裂、対立、矛盾、差異、差別といった現実を「一致」や「同一性」の名の下に覆い隠すことになる。しかも、覆い隠していることに気づかせないようにする。井上の<同=情>が問題とされるのは、抽象的にいえば、その種の<盲目性>を極限的に徹底化しているからである。
 以上の<盲目性>を具体的なコンテクストに当てはめてみよう。近代「日本哲学」が問い直される理由の一つは、「近代日本」の歴史認識をめぐるイデオロギー対立とその克服に関わっている。序章で言及したように、反戦・反国家を掲げる「進歩」思想の側も、欧米帝国主義に対する自衛を強調する「歴史修正主義」の側も、「植民地を抱えた黄色の帝国主義日本」という現実の一面だけを見て評価しており、その全面を受けとめた上での反省にまで徹底していないように思える。そこから ―— 戦後の「平和国家」という現実をも含めて— 一歩抜け出すとき、「帝国主義化しない国家」あるいは「他者を尊重するナショナリズム」の可能性をめぐる問いが提起されるはずである。しかし、井上の「日本哲学」が「共同性」の「感情」のコスモロジーによって「共同愛国(国民的共同性)」を正当化するかぎり、国民(臣民)が、そして井上自身がそのような疑問を提起し、自分で考え抜くことを原理的に遮断しているのである⑶。
 結局、井上哲次郎の「日本哲学」は、近代だけにとどまらず、現代においても「日本哲学」の隠然たるパラダイムであり続けているといえるかもしれない。井上の名前はたしかに表面上消えているが、彼の哲学は戦後になって底流では生き延び、今日でも「関係主義」や「共感主義」として日々再生産されているのではないか。とすれば、「日本哲学」は明治から戦中・戦後をへて現在にいたるまでほとんど変容していないことになる。いまこそ「日本哲学」の<自己変容>が待たれる所以である⑷。

謝辞 本論文は名古屋哲学研究会(日本思想史部会)や日中国際シンポジウムにおける報告をまとめたものである。津田雅夫氏や他のメンバーの方々には、筆者の長大な報告を辛抱強く聞いていただき、研究の励みになる貴重なご意見をいただいた。ここに記して感謝したい。なお、本論文は、平成23〜25年度挑戦的萌芽研究:明治期「日本哲学」の可能性をめぐる研究(課題番号:24652003、研究代表者:森下直貴)の成果の一部である。


序章
⑴『倫理新説』漫評(上)、『六合雑誌』第39号、明治16年。
⑵『倫理新説』、『井上哲次郎集』第1巻所収、50-51頁。
⑶ ちなみに、渙発された「教育勅語」をめぐる内村鑑三の「不敬事件」を契機として「宗教と教育の衝突」が起こるのは、『倫理新説』刊行からほぼ10年後のことである。なお、井上の対基督教観としては、外山正一の本を書評し、耶蘇教の問題点を政治的・社会的・学術的な観点から指摘した「耶蘇弁惑序」(明治17年)がもっとも早い。それは井上の終生変わらぬ耶蘇教観の原型といえる。
⑷ 例えば、『明治思想集Ⅱ』、松本三之介『明治思想史』、『国民道徳論の道』。
⑸ 平山『大西祝とその時代』や堀『大西祝「良心起原論」を読む』など。
⑹ 高坂正顕『明治思想史』(洋々社、1955年)。進歩主義対保守主義、普遍主義対特殊主義という対置には明治哲学の主流から京都学派を区別しようとする意図が透けて見える。大島康正「井上哲次郎」(『日本の思想家2』朝日新聞社、1963年、96-101頁)中の「不毛の留学6年」という評もその流れを受けている。
⑺ 丸山眞男「福沢諭吉の哲学」(1947年)ほか。
⑻ 例えば、小坂正継『明治哲学の研究』岩波書店、2014年。
⑼ 例えば、『近代日本の陽明学』。なお、舩山信一は「唯物論対観念論」という対抗軸で井上を論じ評価しているが、これは別の意味において問題を含む。『明治哲学史研究』(『著作集』第6巻)こぶし書房、1999年、『日本の観念論者』(『著作集』第8巻)こぶし書房、1998年。
⑽ この指摘は「戦後思想」に与する「進歩」「リベラル」「左翼」派だけでなく、「歴史修正主義」に関与する「保守」「右翼」派を含めて、すべての立場に対して向けられる。ちなみに、「靖国」をめぐるイデオロギー対立の本質は日本の近現代史をめぐる歴史認識の対立である。筆者はこれに関して<対立を媒介する倫理学>の視点から関心をもつが、これについては終章でも言及する。
⑾ 本稿では「個人道徳」と「倫理」をあえて使い分けている。筆者の捉え方では、倫理とは個人の意識レベルの構造化(道徳)を含めて社会システムの構造化一般を指している。詳しくは近刊の『生命と科学技術の倫理学』(丸善出版、森下直貴ほか編著)の「序章」を見られたい。
第1章
⑴ ちなみに、デニング(1846—1913)はリベラル英国国教会宣教師であったが、霊魂不滅説に異議を唱えて解任され、1885年に文部省英語嘱託となった。その後ジャパン・ガゼットの主筆。1895年に再来日。
⑵ 西村茂樹は第一世代のうちでは井上哲次郎の発想にかなり近いといえる。弘道館の講演から分るように、両者の間の協力関係は後年まで保たれている。
⑶ ノックス(Knox,1853-1912)は米国カルヴァン派長老教会の宣教師。1886年の一時期(3ヶ月間)、フェノロサの穴を埋めて東大で哲学・審美学を講義する。再来日後の1888年11月入会。慶応でも講義しており、来日宣教師の中では有数の学究派であった。
⑷ この事実を指摘するのは大西の「天才ぶり」を貶めるためではない。思想に関して「天才」はいない。大西が時代の中で一頭地を抜いているのは、デニングやとりわけノックスらの考えを吸収し、咀嚼して自分のものとしているからである。
⑸ ちなみに、谷本富(とめり、1867-1946)は帝大選科生出身であり、大西と共同戦線を張り、三宅や円了ら旧世代の哲学観を一蹴する。無著名の場合、書いた内容の区別が大西とつかないほどである。後に教育学者となり、ヘルバルトの教育思想(教育学の目的は倫理学、方法は心理学、管理・教授・訓練の三要素をもって、道徳的品性と多面的興味を育成する)一辺倒をへて、新教育論(エレン・ケイ『児童の世紀』の自発的な学び、児童中心)へと転換する。乃木批判によって京都文科大学教授(1905-1913)を免職された後、ジャーナリズムで健筆を揮う。
⑹ この背後にはフェノロサの後任として明治20年1月に来日したブッセの影響が感じられる。ドイツ人の招聘は政府の方針であった。ブッセが祖述したロッツェの哲学では、カントの二元論が目的論的に統一され、価値の妥当領域に独自の存在性を認める。なお、明治25年11月に離日したブッセの後任が、ヘーゲル流哲学史家のK.フィッシャーと、ロマン主義的な汎神論的進化主義者のヘッケルとに学んだケーベルである。したがって、ヘッケルと加藤弘之はケーベルを介してつながる。
⑺ 渡辺和靖「元良勇次郎における自然と人間 ―− 明治における科学的精神の軌跡」(『愛知教育大学研究報告人文科学』30号、139-155頁、1981年)に詳しい。
第2章
⑴ 舩山信一の『明治哲学研究』や『日本の観念論者』。円了の哲学については改めて論じたい。
⑵ 起源論ではいわゆる異種族論を唱え、クシャトリア出身からさらに非アーリア系のサカ族へと遡る。今日の水準から見て中途半端だとしても、歴史的研究であることは間違いない。
⑶ 古学派の発見評価は井上に始まる。立花均『山鹿素行の思想』。
⑷ 大島晃「井上哲次郎の『性善悪論』の立場:「東洋哲学研究」の端緒」、『ソフィア』42(2)、1994年。
⑸『大西祝とその時代』に拠る。
⑹ この点は平山の解釈と異なる。
⑺ ちなみに、啓蒙期の合理主義的神学(理神論)に反発して神との直接的心情的対話を強調したのがプロテスタント諸派の福音主義である。例えば、ピエティスムスや、メソジスト、クエーカーがそうである。そこからキリスト教根本主義(ファンダメンタリズム)が勃興する。日本のメソジストは植村正久がおり、これが正統派となる。正統派福音主義と根本主義の両者に対してシュライエルマッヒャーを始祖とする自由主義神学が生まれ、アルブレヒト・リッチェルやアドルフ・ハルナックに受け継がれる。
⑻ 土屋博政「なぜ福沢諭吉はユニテリアンに関心を失ったのか―−ナップの手紙が明らかにする新事実」、『慶応義塾大学日吉紀要』41号、2002年。
第3章
⑴ 元の草稿と全集版とを比較校訂した堀孝彦によれば、全集版『良心起源論』には「道徳的理想の根拠」が挿入されているが、この挿入に関して編集者からの説明は一切ないという。
⑵ この指摘は「日本哲学」を考える上できわめて重要である。この論考の末尾でも注記するが、機械論的思考と目的論的思考の対立を越えないかぎり「日本哲学」(そもそも哲学)の自己変容はないと考えられる。その鍵は「意味コミュニケーションシステム」論が握っている。
⑶ 福沢もまた「一国の独立」を立論の大前提にする点では井上と同じく「国権主義者」といえる(『通俗国権論』『民情一新』『脱亜論』ほか)。しかし、両者の間の最大の違いは「社会」と「国家」の捉え方にある。井上は「社会」を「有機的団体」、そして「国家」をその最大とみなす。それに対して福沢は「社会」を「人類同朋の交通往来」とし、その往来の頻繁さの度合い(文明)を推進するのが個人の「一身独立」とみる。「一国独立」の基盤は「一身独立」にあり、また「一国独立」のはるか先に文明社会を想定する(『痩我慢の説』1885年)。なお、福沢に対する井上の批判は「独立自衛主義の道徳を論ず」(1900年)で展開されている。
第4章
⑴ 例えば、西周に関しては小泉『西周と欧米思想との出会い』がある。
⑵ J. S.ミル『コントと実証主義』、同『W.ハミルトンの哲学の検討』。
⑶『江戸後期の思想空間』。
⑷ 西周の晩年の評価には再検討が必要かもしれない。「理の字の説」は三段論法を用いて政治主義を相対化し、富国強兵とナショナリズムの目標を方便と捉えている。なお、『三宝説』には組織論とシステム論の発想がある点も興味深い。他方、「心理説ノ一斑」では、井上のように情がいきなり道徳論につなげられていない。『三宝説』の段階では「靄然の情」と「自利」の対立は「天の和諧」によって調和されるだけで、強者弱者の共存に関わる彜倫学は未展開に終わっていたが、情の分析にはそれを展開する契機が含まれている。
⑸「學藝志林」第二冊巻頭に掲載。
⑹ コントは利他心の発達に対しては知性主義したがってエリート主義の見地に立った。J.S.ミルもまた教育では知性を重視するがエリート主義はとらない。それに対してスペンサーは社会の集合的な感情状態を重視する。三者の差異に関しては『コントと実証主義』に詳しい。
⑺ 前原直子「アダム・スミスの「同情」概念」(『ヴィクトリア朝時代の文化と思想』所収)。ただし、「同情」に関する前原の解釈には異論がある。
⑻ M.シェーラー『同情の本質と諸形式』(『シェーラー著作集』第8巻、1977年)。
⑼『国民道徳論の道』。
⑽『近代日本における知識人と宗教 ―− 姉崎正治の軌跡』。
⑾『近代日本の陽明学』。
⑿ 井上の『中学修身教科書』が中国の蔡元培によって翻訳されたという事実は、近代における知の制度化という観点から興味深い。
⒀『国民道徳論の道』。
結章
⑴ 西田については、津田雅夫編著『<昭和思想>新論』(文理閣、2009年)の第二章(森下直貴執筆)を見られたい。
⑵ 和辻については、森下直貴「近代日本倫理学の<共同性>へのまなざし」、『倫理学年報』(第63集、2013年)所収を見られたい。和辻では、井上の「縦横無限の連関」が「人間」における「空の弁証法的運動」に、また<同=情>が「存在=実践的行為連関」としての「風土的身体的感受性」に変換されている。この変換はじつに斬新であったが、本質的には<共同性>の次元における「国民的共同性」の理念的・身体的な基礎づけにほかならない。
⑶ 朴裕河の『和解のために』(平凡社、2006)や『帝国の慰安婦』(朝日新聞社、2014)によれば、日本側と対立する韓国側にとっての課題は、普遍的人権の問題に逃げるのではなく、「帝国主義日本における植民地性」を屈折のまま全幅で受けとめ直すことである。
⑷ この自己変容については、近刊の『生命と科学技術の倫理学』(丸善出版、森下直貴ほか編著)の「序章」および「結章」を見られたい。自己変容の鍵を握るのは、個人と社会を接続する「意味コミュニケーションシステム」論である。

テキスト
『哲学会雑誌』創刊号-第66号、1887−1892年
『井上哲次郎集』第1巻-第9巻、島薗進ほか監修、クレス出版、2003年
『巽軒日記 ― 自明治三三年至明治三九年 ―』東京大学史史料室編、2012年
堀孝彦『大西祝「良心起原論」を読む』第Ⅱ部、学術出版会、2009年
『明治思想集Ⅱ』筑摩書房、松本三之介編集、1977年
『西周全集』第1巻、大久保利謙編、宗高書房、1961年
『日本の名著 西周 加藤弘之』中央公論社、1984年
J. S.ミル『コントと実証主義』木鐸社、1978年
H.スペンサー『第一原理』春秋社、1928年
Ch.ダーウィン『種の起源』上下、光文社、2009年

研究書(直接関係するものに限る)
島根県立大学西周研究会編『西周と日本の近代』ぺりかん社、2005年
小泉仰『西周と欧米思想との出会い』三嶺書房、1989年
小島康敬『増補版 徂徠学と反徂徠』ぺりかん社、1994年
前田勉『江戸後期の思想空間』ぺりかん社、2009年
富永健一『思想としての社会学』新曜社、2008年
(本書にはスペンサーの『社会静学』の部分訳や『社会学原理』の解説がある。)
冲永宣司『心の形而上学 ―− ジェイムズ哲学とその可能性』創文社、2007年
(本書にはスペンサーの『心理学原理』の解説がある.)
平山洋『大西祝とその時代』日本学術センター、1989年
山下重一『近代日本とスペンサー』御茶の水書房、1983年
P. J. ボウラー『チャールズ・ダーウィン』朝日選書、1997年
挟本佳代『社会システム論と自然』法政大学出版局、2000年
(本書にはスペンサーの主要著作の解説がある。ただし、解釈には異論がある。)
有江大介編著『ヴィクトリア時代の思潮とJ. S.ミル』三和書房、2013年
(本書には前原直子のミルの共感論と大久保正健のハミルトン哲学の解説がある。)
磯崎順一・深澤英隆編『近代日本の知識人と宗教 ―− 姉崎正治の軌跡』東京堂出版、2002年
磯崎順一『近代日本の宗教言説とその系譜』岩波書店、2003年
小島毅『近代日本の陽明学』講談社、2006年
渡辺和靖『明治思想史 ―− 儒教的伝統と近代的認識論』ぺりかん社、1978年
森川輝紀『国民道徳論の道』三元社、2003年
八木公生『天皇と日本の近代』上下、講談社、2001年
関口すみ子『国民道徳とジェンダー』東京大学出版会、2012年
渡邊與吾郎『シモン・フィッセリング研究』文化書房博文社、1985年