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研究業績

RESEARCH WORKS
2017.03.21

昭和思想史の試み:西田・三木・戸坂 ワード版 2009.7

*この論考は次の共著に収録されている。
津田雅夫編『〈昭和思想〉新論―二十世紀日本思想史の試み』文理閣、二〇〇九年七月

 

第二章 西田・三木・戸坂の思想と〈ものの思考〉―「経験と制度」の歴史哲学への視座―

 

森下 直貴

 

第二章では、西田哲学の後期思想の核心を〈ものの思考〉として取り出し、それが三木や戸坂によって受け継がれ、現代化・日常化されていった経緯を、時代的・世代的な文脈のなかで浮き彫りにする。そのさい、「昭和」という〈現代的近代〉が日本社会のモダニティの全要素を包含・凝縮していること、西田の〈ものの思考〉はその徹底ぶりによって「昭和」を突き破り、国家や制度が成立する以前の人類の原初的な経験の水準にまで届いていること、それはまた今日のそして未来の世代のバーチャルな感覚とも響き合っていること、西田から三木や戸坂を経て今日にまで及ぶ思考線に照明をあてることで、「昭和思想史」が立体的に浮かび上がること、等が明らかにされる。結論として、〈ものの思考〉を「東洋的無」や「アニミズム」に還元してはならないだけでなく、「常識」の行方を見定めるために、歴史哲学的な視座を準備した生きた思想として、二一世紀に引き継ぐべきであることが主張される。

 

はじめに

 

本書で考察の対象としている「昭和」とは、日本社会の近代化にともなう「常識」の変容の全軌跡が、そこに包含あるいは凝縮されている時代である。この意味合いについては後述するとしよう。ともかく、その昭和の初期から中期にかけて、「哲学思想」の中心にいたのは、言うまでもなく西田幾多郎であり、また彼の薫陶を受けた哲学者たちであった。ところが、二一世紀初めの今日、人・情報・ものがボーダーレスに越境し交流する「グローバル化」が急激に進行するなかで(1)、倫理の輪郭が急速に薄れ、思想を語ることの難しい状況が広がっている。思想や倫理の基盤にある「常識」そのものが、すでに「昭和」から大きくはみ出し、根底から揺らぎ始めているからである。
その「揺らぎ」をめぐって現在、「混乱」とか「崩壊」といった、大仰で否定的な言説が飛び交っている。しかし、今日から未来へと続くグローバルな世界を遠望し、翻って、とりわけ一九九〇年代後半以降に登場し、「デジタル・ネイティブ」とも呼ばれる若い世代の「ものの感じ方」に着目するとき、それらの言説には違和感を覚えざるをえない。むしろ、「日本人」の単一とされる「常識」が解体しているのではなく、異なる世代の複数の常識が「混在」し、相互にぶつかり合うなかで、「揺らぎ」が生じていると捉えるべきではなかろうか。
それでは、「昭和」世代とは異なる若い世代の、そしてその延長線上に続くグローバルな未来世代の、常識あるいはむしろ感じ方とはいったいどのようなものであろうか。ここではさしあたり次のように描いておきたい。すなわち、機械と生体とが混交するハイブリッドな「もの」、観念と物質が融合したデジタル情報として時空を超えて移動する「もの」、あるいは、制度という外殻が脱落して身軽になり、複数の役割をバーチャルに切り替える「もの」、そうでありながら誰かとのつながりを求める「もの」、といった感覚である。なお、ここで「バーチャル」とは、仮想とか偽物ということではなく、「リアル対フィクショナル」の枠組みから離脱し、一切のもののリアリティのあいだに強度・際立ちの違いは認めても、真偽や上下の格差をつけない感じ方のことである。これについては後段でも論じることになるが、以上のような「もの」の感じ方を《モノ感覚》と名づけてみたい。
常識の変容を「経験と制度」という大きなテーマのもとで考察するとき、〈モノ感覚〉は重要な示唆を与えてくれるだろう。なぜなら、ものと人あるいは自分との同一視や、「制度」のバーチャルな着脱という〈モノ感覚〉の身軽さを参照点にすることで、およそ制度が形成されつつある最初期の人類のいわば〈原初的経験〉が、〈モノ感覚〉と同型的な経験として想定され、さらに、そのような想定を拠り所にすることで、制度形成後にその内部で成り立つようないわば〈制度内経験〉をも含めて、人類のあらゆる経験を貫いて成り立たせている基本的な経験が把握できるからである。ここで「人類の基本的な経験」とは、社会的な関係を場とし、想像力と言葉に媒介されつつ、具体的な「もの」たちとの身体的な関わり合いのなかで立ち現れてくる、自己と世界の出会いの形の基準(基本構造)を意味している。これを《原経験》と名づけておこう。この意味合いについては「おわりに」で立ち戻る。
〈原経験〉の視座から眺めるとき、人類の「経験と制度」の歴史は、〈原初的経験〉から始まり、〈制度内経験〉とさらに制度を超える制度(国家)のなかの〈国家内経験〉をへて、〈モノ感覚〉に根ざした経験に至るようなプロセスとして展望されるだろう。それはおのずから、「近代的」な歴史的思考を枠づけているヘーゲル流の精神に至る「経験」とは異なり、また、そのヘーゲルに対抗する種々の歴史的あるいは反歴史的思考の「経験」とも異なるはずである。そして、その新たな展望のもとでなら、「昭和」の常識の枠内から乱発される否定的言辞をしりぞけ、むしろ、将来の若い世代の感覚に積極的な意義を見いだすことで、揺らぎつつある「常識」の行方を見渡し、見定めることができるかもしれない。
さて、これから本文で明らかになるように、近代日本のなかで〈原経験〉へと徹底的に肉薄しようとした西田は、とくにその後期思想の段階に到って、従来の解釈からすれば意外なことに、〈モノ感覚〉にきわめて親和的に響き合うような思考にたどり着いていた。その西田独特の思考を《ものの思考》と名づけておこう。そしてその〈ものの思考〉は、最初の弟子と言える三木清によって「現代化」され、さらにもう一人の異端の弟子戸坂潤をつうじて「日常化」されていったのである。本章の課題は、〈ものの思考〉が受け継がれていく経緯を浮き彫りにしながら、そこに時代的・世代的な意味合いを読み取りつつ、〈原経験〉へと迫りゆく三者三様の思考の特質を描き出すことにある。
以上をつうじて見えてくるのは、〈ものの思考〉という〈原経験〉の把握の水準が、「昭和」という時代の〈国家内経験〉はもとより、一切の〈制度内経験〉の基礎にある広義の「アニミズム」さえも突き破って、その底部もしくは地面にまで届いていたという事態である。そこからさまざまな意義を引き出すことができるだろう。本章では「昭和思想」を二一世紀に受け継ぐという観点から、〈ものの思考〉が「日本的伝統」や「東洋的無」に還元されたり、「アニミズム」と同一視されたりしてはならないという点だけでなく、もっと積極的に、「経験と制度」の歴史哲学のための視座を準備した思想として継承され、発展させられる必要があるという点をとりわけ強調したい。
ただし、〈原初的経験〉と〈原経験〉をめぐって、本章で本格的な考察が試みられているわけではない。それは今後の研究に委ねられている。また、「昭和」に関する歴史的な構図にしても、モダニティ論を含めていくつかの仮説群によって支えられている。そのため、本章に試論的な性格がともなうのは避けがたいところではあるが、とにかく一定の限界があることを承知のうえで、本章を始めることにしよう。まずは「昭和」の特徴づけである。

 

第一節 モダニティ・日本社会・常識

 

モダニティと日本社会
「昭和」という時代を特徴づける観点はもちろん一つではない。例えば、年号、政治・軍事・外交、経済、文化、社会、世相、民衆など、多様な観点からの特徴づけがありうる。しかし、たとえそのいずれの観点をとろうとも、近代性ないしは近代化(モダニティ)という世界史の動線を押さえておかなければ、共通の枠組みを欠いたバラバラな動きしか浮かび上がってこないに違いない。ここではギデンズ(1990)のモダニティ論を起点にしながら、「昭和」の特徴づけへと向けて論を進めてみよう。
ギデンズによれば、近代社会をそれ以前の社会から分けるのは、時空の拡大・抽象的システム・再帰性といった「推進力」であり、また、国民国家と工業資本主義を支柱とする「制度群」である。まず「推進力」であるが、近代以前の社会は特定の「場所(place)」に貼りつき埋めこまれ、「親族システム」や、公としての「地域共同体」、死生を司って共同性の紐帯となる「宗教的信仰」、それに行動の解釈体系としての「伝統」によって包まれていた。その「場所」を破って時空間(space)が拡大することで、抽象的システム(貨幣などのシンボルと専門知識体系)が形成され、公共性の次元と親密性の次元とが分離されつつ、グローバルとローカルとを結び直すような社会が形成される。そのような「モダニティ」の全般的動向は、再帰的な懐疑精神の徹底という形をとるから、いわゆる「ポストモダン」ないし「ポストモダニズム」もその徹底化の表現の一つである。
他方、近代化(モダニティ)の「制度群」には、国家(統治権力)、市場経済、軍事力、テクノロジーの四つの要素がある。それらが猛烈な勢いで回転して、狭い空間における生活・社会・文化の凝集体の各契機を時間的・空間的に切り離し、そこから離床させ、そのように離床し離散した契機(家族、慣習、伝統など)をふたたび組織化する。このような離散と凝集の高度化の不可逆の進行という合理化の過程が、ギデンズのいう近代化である。それは今日、国民国家・管理監視国家、核兵器・コンピュータを備えた軍事力、国際的協調により管理された資本主義市場(利潤追求の運動)、それにハイテクノロジー(外部自然から内部自然の改造への展開)へと高度化している。
ギデンズの以上のモダニティ論は高く評価できると思われる。なぜなら、合理化・官僚制のウェーバーや、社会分化のデュルケーム、それに資本制社会のマルクスに見られる一次元的な視点に比べると、モダニティの動向の全容が一定の抽象的水準で多次元的に捉えられているからである。しかし、いくつか疑問点がないわけではない。疑問の一つは、ギデンズがモダニティの徹底化を指摘するのみで、その内部の段階もしくは局面の違いを明確にしていない点である。世界史的に見たとき、近代化のうちでも、一九世紀後半の「西洋的(western)」近代の段階、一九二〇年代前後からの「現代的(モデルネ)」近代の段階、そして一九七〇年代以降とりわけ一九九〇年代後半以降の、グローバリゼーションを背景にした「今日的(contemporary)」近代の段階というように、モダニティにも三段階を区別すべきではないかと考えられる(2)。
それでは、世界史のなかで「西洋的」、「現代的」、「今日的」というモダニティの三段階ないし三局面が仮説的に成り立つとした場合、その見地から日本社会の歴史を眺めるならば、それは具体的にはどのように描けるのだろうか。ところが、それへ向けて一歩進めようとした最初の地点で、手強い壁にぶつかる。というのも、尾藤正英(2000)がその種の試みに対して真っ向から反対しているからである。論を進めるためには、尾藤の有力な見解をくぐり抜けておく必要がある。
尾藤は日本史の時代認識に関して、弥生時代以降の「古代国家」、中世後期以降の「日本的近代国家」、それに明治以降の「西洋=近代的国家」という三区分を提唱している。そして「日本的近代国家」のなかで、思い切って単純化すれば、「平等・行」、「役の体系」、「公(共同的連続性)」という「近代的」なものが形成されたと主張する。ただし、その主張の当否はどうであれ、客観的に見るかぎり、「日本的近代」という表記が従来の(尾藤から見れば誤っている)表記と紛らわしいことは否めないだろう。そこで、ここでは尾藤に逆らい、あえて「伝統」というタームを結びつけておくことにしたい。とにかく、尾藤によれば、「日本的近代=伝統」は明治の開国以降の「西洋化=近代化」によって歪められてきたが、しかしそれでも、多少の「崩れ」の兆候を予感させつつ、今日なお持続しているとされる(3)。
尾藤の刺激的な所説に関しては、先の三区分など賛同できる点もあるが、それとともに種々の疑問点がある。何より問題なのは、世界的な視野でモダニティが押さえられていないことである。おそらくその結果であろうが、「日本的近代=伝統」が今日まで一貫しており、明治以降は表面上たんに歪められたにすぎないという見地が押し出されている。しかし、「伝統」が何ら変化することなく一貫しているというのは間違いである。
例えば、伊藤整(1955)によれば、明治から大正時代の中頃まで、人物を挙げるなら逍遥や二葉亭から藤村、白樺派、漱石、鴎外あたりまでは、徳川時代以来の「伝統的」な要素のうちに開国後の西洋仕込みの「近代的」な要素が溶け込んで、渾然一体となったような人生観なり、世間の常識なりが形成されていたという。また、鶴見俊輔(1997a)によれば、年配の世代の郷愁をかき立ててやまない「文部省唱歌」のなかには、じつはスコットランドの民謡に日本語の歌詞をつけたものがあるし、「君が代」という「国歌」にしても、中国由来の雅楽の旋律に古今集の歌詞を無理やり押し込んだものである(内田隆三2002)。あるいは、日本美術史の例では、明治時代になって、それまで未分化だった工芸と美術とが制度上分離され、伝統的な「日本美術」が創設されている(佐藤道信1999、宮武公夫2000)。
要するに、「伝統」とは、異質なものの解釈をつうじてそれ自身がたえず刷新されるような解釈枠組みにほかならないと言えよう。したがって、尾藤が一貫しているとみなす「日本的近代=伝統」も、じっさいには、「西洋的」近代と一緒に溶け込んで一つになった「伝統的」近代として捉えるべきなのである(4)。そこで今後は、あえて事柄の「矛盾」を組み込んで《伝統的近代》というタームを用いることにしたい。

 

現代化と今日化
続いて《現代的近代》の位置づけに移ろう。第一次世界大戦がヨーロッパにとって「現代化」へ向けて大きな転機となったことは、とりわけドイツの現代思想の動向のうちに表現されている。例えば、シェーラーの一連の著作や、ハイデッガーの『存在と時間』、ブーバーの『我と汝』、ルカーチの『歴史と階級意識』などを挙げれば、その時代の激震ぶりの一端が窺えるだろう。留学中に当時の思想動向を肌で感じていた三木清は、後にそれについていくつかの論説を書いているが、それらは時代の優れた証言となっている(5)。日本では大正後期とりわけ関東大震災あたりが転機となって、西洋化=近代化と現代化が同時進行する。それがとくに都市部の日常生活に浸透する点については後述するが、そのなかで経済不況が深刻化し、人心が動揺するにつれて、「大正維新」とか「昭和維新」という言説が広がり、危機意識が掻き立てられていく(荒川幾男1981、橋川文三1994、成田龍一2007など)。世界的にみても一九二〇年代の転機は世界同時現象であり、それがそのまま新旧の対立構図を深めて、一九三〇年代後半以降の総力戦へと雪崩的に突入していくのである(6)。
以上を考慮するとき、一九四〇年前後に流行した「近代の超克」言説の独自性も浮かび上がってくる。その言説が拠って立つのは、〈伝統的近代〉のいう「西洋=近代対日本(東洋)」という特殊な枠組みではなく、それを繰り込んだうえでの、前近代を否定した「近代」をさらに否定するという世界共通の普遍的な枠組みであった。したがって、超克されるべき「近代」とは、〈現代的近代〉に対立する「西洋的近代」であると同時に、〈現代的近代〉そのものにも含まれている否定的な諸現象、とりわけ不況と貧困であり、機械文明の非人間性であった(『文學界』1942)。〈現代的近代〉の特徴づけに関しては、戸坂の現代認識を論じる箇所であらためて言及するが、ここまでのところで、それが少なくとも独自の局面をもつことを認めてよいだろう。
ただし、そうなると、「戦後」の位置づけが問われるに違いない。たしかに戦後は人々の意識・無意識に決定的な刻印を残している。だから、敗戦での区切り線、つまり、戦前・戦中に対する戦後という図式が重要でないはずはない。しかし後述するように、例えば、総力戦体制が戦後の経済成長を支えた枠組みの元にあったと指摘されるように(山之内靖ほか編1995、野口悠紀男2002)、社会のしくみはもとより、政治意識・社会意識においても、戦前・戦中と戦後とは一種の鏡像の関係にあったと見ることができる。事実、戦後の一定期間、戦争と平和、民族と階級、自由主義とマルクス主義といった思想空間が反転されつつも連続していたのである(小熊英二2002)。したがって大きく見るなら、〈現代的近代〉のうちに「戦前」と「戦後」とが一緒に括られても不思議ではないだろう。
最後に、《今日的近代》に眼を転じてみよう。〈現代的近代〉が変容し始めるのは、日本ではアメリカに遅れて一九六〇年代の後半から、とくに一九七〇年代に入ってからのことである(7)。定評のある国民意識調査によれば、社会意識の全般的変化は七〇年代後半にもっとも激しく、そのとき激変した「幸福感」はその後今日に至るまでほとんど変わっていない。全体としてみれば「個人化」そして「快楽」重視の方向に一貫して進んでいる。そのなかで家族関係・男女関係の意識は八〇年代に顕著な変容を見せ、世代間の格差や地域間の格差はますます小さくなる傾向にある(NHK放送文化研究所編2004)。とくに九〇年代の後半になると、IT技術の導入・普及をつうじて、それに不況や政策も加わって、企業の組織形態や人々の仕事ぶりが一変する。
ここで、もっと近接して〈今日的近代〉を特徴づけるために、一九七〇年生まれの評論家・東浩紀(2001)の時代認識をとりあげてみよう。東によれば、七〇年代以降の社会・文化の変容が「ポストモダン」とよばれ、それが一八世紀末から一九七〇年代までの「モダン」に対置されている。ただし、「ポストモダン」の動きは世界的・グローバルであって、すでに一九一四年に始まっており、それが明瞭になったのが七〇年代であり、顕著になったのが九〇年代後半からとされる。一般に、誰しも自分に近いものは詳細に、遠いものは粗雑に描くものである。東の認識もまたその種の欠点を免れていない。「西洋的近代」あるいは日本での〈伝統的近代〉と、〈現代的近代〉とのあいだに、一定の断絶・非連続性を明瞭に想像できないために、一方で〈伝統的近代〉が一九六〇年代まで続くとされたり、他方で〈現代的近代〉の発端に〈今日的近代〉がいきなり押しこまれたりと、混乱がみられる。逆に言えば、〈現代的近代〉の固有の位置づけが欠落しているところに、一九七〇年代生まれ以降の世代の時代感覚をうかがうことができる。
世代とは、特定の時代に多感な青春期を過ごし、特有の体験を共有した人びとのいだく集合意識である。世代に特有な感覚はほとんどそのまま生涯にわたって持続する。そして次の世代は前の世代の肩のうえから出発する。したがって「世代」という概念は、人が青春を過ごした時代・時期をメルクマールにして構成される必要がある。ただし、青春時代の体験の言語・表現はたいてい二〇年ほど遅れ、三〇代半ば以降になることが多いようである。そのため一定のタイムラグを考慮しなければならないだろう(8)。
以上をふまえるならば、一九七〇年代から八〇年代にかけて出現し、史上希有とも形容される消費社会は、一九二〇年代にはじまる〈現代的近代〉の実現・完成であると同時に、それ自身を超える契機、すなわち〈今日的近代〉を孕んでいたと言えるだろう。あえて旧式の表現を用いるならば、東には残念ながら「弁証法的矛盾」の視点が欠けている。それでは、〈現代的近代〉と区別されながらそこに孕まれているとされる、その〈今日的近代〉の感覚とはいったいどのようなものであろうか(9)。

 

〈モノ感覚〉と「虫」のメタファー
人びとの日々の暮らしは、食べ物や、道具と日用品、調度品と装飾品、玩具、音声、記号など、細々としたさまざまな身の回りの「もの」たちによって取り囲まれている。そのことはもちろん今も昔も変わりないはずである。ところが、今日の人工的で高速度の世界では、国家主体を背景にしたテクノロジーをつうじて、思想やイデオロギーが「もの」たちに象られ、織り込まれ、組み込まれるといったハイデッガー風の視点と話法(加藤尚武編2003)によっては、もはや人びとの生活感覚を捉え切れないように思われる。むしろ、それとは逆に、身の回りの「もの」たちが発散する香りや、輝きや、手触りそのものがまさに思想であり、「もの」に付着しそこからにじみ出てくる匂いや、分泌物そのものがイデオロギーであるというように、主客を逆転させた視点と話法がふさわしいのではあるまいか。その場合の主役ないし主体(subject)は、むろん「もの」の側である。
それでは、ものたちに分散し微分化され、そこから発散しにじみ出てくる思想やイデオロギーの正体とは何であろうか。誤解をおそれずに言えば、利便性・効率性や娯楽性・遊び心(「かわいらしさ」)を追求する「快楽への意志」であると考えられる(10)。この「快楽への意志」がものたちにすでに内在し、自己増殖し、周囲に蔓延し、伝染するのである。そのように表現することが許されるなら、今日の世界は「情報ユビキタス(遍在)」をもじって、「快楽ユビキタス」とでも特徴づけられるかもしれない。それはまた、周囲のものたちの内側に多様な監視機能が埋め込まれ、浸透し分散しているような自動制御的な監視世界(監視社会)であろうし、さらに、複数のハンドルネームやアバターやアドレスをもった自己が多重に交わるような(リアルでもフィクショナルでもない)バーチャルな世界でもあろう(鈴木謙介2006)。
「快楽ユビキタス」で「自動制御的監視」付きの「バーチャル」な世界では、ものたちはグローバルにつまり国境を含めたあらゆる境界・制限をボーダーレスに越え、さらには時間をも飛び超えながら、お互い同士で交流しつながり合っている。とすれば、そこに生きる人びとはどのような「自己」感覚をもっているのだろうか。一面性を承知で描くとすればこうなるだろう。すなわち、ナノテクノロジーやバイオテクノロジー、IT、認知科学が収斂するなかで(11)、機械と生体とが混交してそのどちらでもない雑種となった「もの」や、観念と物質とが融合したデジタル情報体として移転・移送される「もの」が周囲にあり、自分もまた「もの」の一つとして、そのような「ものたち」の世界のうちに織り込まれているという感覚である。これを本章の冒頭では〈モノ感覚〉と名づけておいた。じっさい今日、いわゆる「デジタル・ネイティブ」世代では、ネットでの出会いも生身での出会いも区別しないというように、〈モノ感覚〉がすでに当たり前のように生きられ、語り始められているのである。
興味深いことに、無数の〈モノ〉たちのあいだの〈モノ〉という自己感覚は、若い世代に限らず、それ以前の世代の日本人にとっても、どこかしっくりとくる感覚ではある。もとよりそこには「伝統」、ことに「アニミズム」の残存あるいは持続という論点が関わっていて、事柄は単純ではない。しかしそれでも、「草木国土悉皆成仏」とか「虫愛でる文化」にフィットする響きがあることは否定できない。そこで、〈モノ〉の感覚の連続性・広がりを勘案して、「草むらを這う虫」というメタファーをあえて用いてみよう。「虫」あるいは「蟲」とは古来、「生きもの」の「総称」であり「原型」であったし、また宇宙における「ちっぽけな存在」としての自分をも象徴していた(12)。ただし、今日の虫たちは、「隠遁」を志すけなげな虫では毛頭なく、「快楽ユビキタス世界」に生息するいわば《快楽虫》になっている。
この〈快楽虫〉は、「制度」に向かう場合、民族や国家や名誉や記憶や義務などの観念から自由になっている、あるいはそうありたいという感覚をもっている。もとよりここでの「自由」は、「自由主義」のような高邁でだから窮屈な理念などではなく、集団的な思惑・見栄・修辞・修飾といった大仰で多重で厄介な「殻」が脱落して、一匹のちっぽけな虫=〈モノ〉になっている、できればそうなりたいという身軽な感覚である。そしてその延長線上に、誰かと(ケータイで)つながっていないと不安になる感覚や、自己の体型ばかりでなく体調をも維持したいという感覚が、芋づる式に結びついているのである。これらはどれもこれも最小限のちっぽけな感覚であり、またその願いではあるが、後述するように、それこそモダニティの徹底した自己の極限的な形ではないかと考えられる(13)。
〈快楽虫〉はまた、快楽グッズの詰まったバッグを背負って移動することもあれば、他の虫たちと対面したり、ネットでチャットしたりして、グローバルに交流し「共感」し合うこともできる。戯れに言えば、バーチャルなウェッブ世界に住み着いているデジタル虫=バグでもある。ともかく、どの虫たちも平和指向であり、「ひ弱さ」の感覚を共有している。おそらく、グローバルな世界の「自己」の形とは、どの社会であろうと遅かれ早かれ、そのような〈モノ〉あるいは「虫」になるのではないかと推測される(14)。
さて、ここまでのところで、〈今日的近代〉とその延長線上のかなたに、〈モノ感覚〉に根ざすような経験を想定してみた。また、「虫」の文化が暗示するように、〈モノ感覚〉が伝統社会におけるものの感じ方、すなわち「伝統的」な「常識」としての〈制度内経験〉とも、何らかの形で連続している可能性も予想された。しかし、両者の連続性を云々することははたして可能であろうか。かりに可能であるとしても、そのことはいかなる意味をもっているのだろうか。この点を検討するために、その準備としてやや圧縮した説明にはなるが、あらかじめ「常識」の構造と変容について考察しておきたい。

 

「常識」の構造と変容
まず、「常識」を「倫理」との関係で位置づけてみよう。「倫理」には三つの側面がある。一方に、秩序維持を目的として「規制」する側面があり、他方に、新たに発生した問題の解消をめざして「調整」する側面があって、さらに、この両側面のあいだの緊張を「妥協」させる基盤的な側面がある。時間の次元で言えば、「規制」が過去から現在を秩序づけ、「調整」が現在から未来へと進むとすれば、「妥協」はそれらを重ね合わせて束ねる現在に位置している。そして、この現在的な「妥協」を不断に生み出しているのが「常識」である。規範が規制を支え、技術が調整を生み、そして常識が妥協をもたらす。
では、「常識」(コモンセンス)とは何であろうか。アリストテレス以来の「共通感覚」の系譜をさしあたり除外するなら(15)、その主要部は、後述するような〈基本的次元〉から構成される社会的な世界の場で、特定の行動や方針を価値づけ決定し導くような「まともな判断」ないしその規準である。これを戸坂に倣って〈見識〉と呼んでおこう。この〈見識〉あるいは価値センスが社会の大多数の人びとによって日々承認され、拠り所となって実践されるとき、そこに《共通見識》つまり常識(コモンセンス)が出現する。
そのさい、人びとの承認・実践の共通性は次の二つの条件によって支えられている。一つは、〈見識〉を裏付けるだけの一定の共有された「知識」(つまり意味世界)があることであり、もう一つは、〈見識〉が「モデル」(歴史的人物や寓話等のメタファー)にまで図式化・具象化されて人びとの感覚に訴えることである。その結果、くり返し承認され実践された常識は、「自明」で「当然」で「自然」なものと感じられ、持続性をもった慣習となる。ただし、「知識」では専門的知識と一般知識とのあいだの違いがあり、「モデル」では感受性・血肉化の深浅の違いがあり、さらに「自明性」では反省・批判意識の程度の違いがある。したがって、それらの混合具合に応じて、個々人の〈見識〉のあいだにも多少の振幅・高低・濃淡が見られるだろう。ともかく要するに、〈意味世界を背景にして、人びとによって日々共有され、慣習化された、社会的行動の規準のメタファー世界〉、それが〈共通見識〉としての常識なのである(16)。
さて、〈共通見識〉の中核にあるのは、もちろん、「まともな判断」における「まともさ」である。これは「中庸」とか「黄金の中間」と言われるように、特定の場での「ふさわしさ」とか「適度さ」といった価値的な真ん中・中点を意味する。日常的にはその「まともさ=中点」はたいてい「ふつう」という言葉で表現されている。この「ふつう」は通常の表面的な印象とは裏腹にダイナミックな動きをする。すなわち、一方では、異例なものを異常として排除し、周縁化し、正常へと回収する規範の働きをする。他方では、平凡・退屈さから個性・独自性・新奇さを求めた挙げ句、陳腐化して凡庸に堕するか、緊張の末に疲れ果てて目立たなさを求めるかして、ふたたび元の平穏・平凡に回帰する。このように「ふつう」は二重の循環運動を描きながら、特定の場でのものごとの中点=バランスを求めて振動する。この「ふつう=中点=まともさ」の周りを日々たえず回っているのが、「ふつうの人びと」の日常生活にほかならない。
人々の日常的な暮らしでは、一定の生理的条件を土台にして、まず①具体的なものたちとの身体的な関わり合いがあって、その関わりを②想像力と言語が媒介し、さらにそれらを③社会的な関係が包みこんでいる。この三重の条件は、発達段階によって内容上の違いを生じるにせよ、人類の最初期から根本的に変わらないと考えられる(17)。アーレント(1958)とはいささか趣を異にするが、本章ではそれを人類の《基礎的条件》と押させておきたい。社会的な関係のなかにいつでも包み込まれているという意味で、人類は最初から「社会的存在」なのである。
三つの条件からはそれぞれ、技術的な意味世界、概念的な意味世界、社会的な意味世界が自立し、一定程度の自立水準で相互に連関し合うとともに、相対的な自律性を保つことになる。とはいえ、最終的な審級は、社会的な意味・価値の世界、とりわけそこで生成した社会的ルールにある。そしてこの社会的ルールに基づいて「制度」が形成され、そうやって形成された「制度」によって今度は、社会的な意味世界が秩序づけ(再意味・価値づけ)られ、さらにこの秩序づけをつうじて、その他の意味世界も秩序づけられる。ひとたび成立した「制度」は、制度を超える制度である「国家」へと転形し転倒するなかで、人びとの観念を決定的に方向づけ、「ふつう」したがって常識を背後から不断に再生産するのである(18)。
人類の歴史をふりかえるとき、諸々の社会集団の制度と常識が空間的に多様化し、時間的に変容してきてはいることは確かである。しかし、その多様性と変容にもかかわらず、それらを貫いて変化しない一定の「構造」を想定できないことはない。社会的な関係のなかで、想像力と言語に媒介されつつ、「もの」と身体的に関わり合うという、人類普遍の〈基礎的条件〉を考慮するならば、常識の構造を構成するいくつかの次元を抽出できるように思われる。それらを《基本的次元》と名づけてみよう。
構造の中心にくるのは、ⓐ実在する具体的な「もの」たちとの身体的な関わり合いの次元である。これは広義の〈技術文化〉と言えるだろう。そこから奥方向に、自己と他者の次元や、ⓒ生と死の次元(死生観)が続き、究極的にはⓓすべての「もの」を包み込む宇宙の次元(存在観)に至る。翻って、ものとの具体的な関わり合いの手前方向、すなわち社会的な諸次元に目をやると、ⓔ親密な関係性(家族)と精神的な不安に関わる次元(広義の宗教性)や、ⓕ人々の結合のしかたに関わる次元(組織編成)が続き、最終的にはⓖ社会全体の秩序づけに関わる公共性の次元(政治や法)が迫り出してくるだろう。以上をまとめるとこうなる。

 

ⓖ社会全体の公共性に関わる次元
ⓕ人々の結合のしかたに関わる次元
ⓔ親密性と精神的な不安に関わる次元
ⓐものとの身体的な関わり合いの次元
ⓑ自己と他者(ひと・もの)に関わる次元
ⓒ生と死(生者・死者)に関わる次元
ⓓすべてのものを包摂する宇宙の次元

 

ここで重要な点は、広義の技術文化の次元が中心となって、常識全体が構造化されていることである。したがって、技術文化の次元の変化が起点となって、そこから一方では自己観や死生観の、他方では家族観の変容がもたらされ、さらにそれらがその他の次元に波及することで、常識全体がゆっくりと変容することになる。そのさい、技術文化に近い次元ほどその影響を強く受けて急速に変容するが、遠い次元ほどゆっくりと変容するか、往々にして見られることだが、短期的には変容に対してブレーキをかける役割を果たすだろう。

 

伝統的な「常識」と〈モノ感覚〉
技術文化の次元の基軸性こそ、常識の構造と変容を捉えるさいの鍵である。この点をふまえつつ、先述した尾藤が提示する日本史からの素材を思い描きながら、試みに、西洋的な近代化を蒙る以前の日本の伝統社会の「常識」を具体的にイメージしてみよう。それは根層・中層・天層の三層構造として構成することができる。
まず、日本の伝統的な「常識」においても、その底辺にあたる根層には、他の社会のそれと同様に、食べ物、道具、生活用品、装飾品といった「もの」たちとの日常的な関わり合いが位置を占める。ただし、その内容は独特のものであって、「無差別的な平等」とともに、心身一体の実践「行」が強調される。つぎに、根層のうえの中層には、社会的な関係のさまざまな原理・ルール、集団の規律や徳目などが位置するが、ここでもその内容は「役の体系」、「身分」、「イエ」、「一族」といった特徴をもっている。そして最上部の天層には、社会全体を覆って秩序づける公共性・国家の観念が位置し、「共同体的連続性」とか「無限抱擁性」という特徴をもつ。なお、天層と根層とは奥方向で相通じていて、神仏または死者の世界であると同時に、生命の源の世界を形づくり、三層からなる生者の世界と裏表一体になって一個の意味の宇宙を構成している(黒田日出男1986)。以上を図で示せば次のようになる。

 

天層:公の観念(共同体的連続性、無限性、天皇、天下、カミ)
中層:組織紐帯の観念(役の体系、集団内外の競争、身分、差別)
根層:具体的なものとの身体的関わりの観念(無差別的平等、行)

 

「国家」という制度に焦点を合わせるとき、日本社会では大きな転機は二度あった。一度目は古代国家が解体・再編されて近世国家が形成されたときであり、その過程で古代的な氏社会の常識が変容し、一定の明瞭な形をもつ家社会の「常識=伝統(日本的近代)」が形成された。そのさい、以前の構造に外来の新たな要素が混ぜ合わされ、溶かし込まれながら、新たな内実が形成されている。それと同様に、二度目の転機である幕末から明治の開国以降、近代国家が形成し確立される過程で、元となる「伝統」に外来の「西洋的近代」の要素(とくにテクノロジー・文物・制度)が浸透することによって、〈伝統的近代〉が形成された。そしてそれが〈現代的近代〉へと変質し、さらに〈今日的近代〉へと転形したのである。その結果、今日の日本社会では、テクノロジーと経済というものの次元の絶え間ない変容を基軸にしながら、一方では人々の自己や生死の感覚が大きく変質し、他方では家族関係とくに性的関係や結婚をめぐる規範意識が著しく流動化している。これらの次元の変容に比べると、組織の人間関係の観念や、なかんずく公の観念の変容のほうは、底層から離れている分だけ、表面上はそれほど大きな変化を見せていないようにも思える。
それでは、以上をふまえて、伝統社会から今日までを通覧するとき、種々の転変・変容をつうじて、常識のうちに何らかの持続する感覚を見いだせるだろうか。直観で言えば、ものとの身体的な関わり合いの感覚の深層には、自己と他者をめぐる感覚や、生と死をめぐる感覚、ものたちの充満する宇宙の感覚の諸次元を貫いて、ものたちのあいだの根源的・無差別的な平等という感覚が、したがって、人もまた一つの「もの」でしかないといった感覚が、ひそかに息づいているように見える(19)。そしてこの感覚が磁場のように働いて、その他の次元の感覚や観念を励起しているように感じられる。
〈ものたちの根源的・無差別的な平等〉という感覚、あるいは、〈ものたちのなかのものの一つ〉という自己感覚は、通常「アニミズム」と一括され、日本人の「伝統的」なものの感じ方と等置されることが多い。となれば、そのような「もの」の感覚は、未来のグローバルな世界に生きる人々の感覚、すなわち〈モノ感覚〉とも連続しているのであろうか。これが先に提起された問いであった。ここで推測に推測を重ねて、断定的な答えを出すわけにはいかないが、それでも少なくとも次のように応じることはできるかもしれない。
すなわち、身体から遊離した何らかの「精霊」を実在視する「アニミズム」(20)は、定住・初期農耕社会の〈制度内経験〉の水準にあると考えられる。仮にそうだとすれば、それが霊魂・身体の二元的感覚であるかぎり、「もの」との出会いの経験の質において、古代社会よりはるか以前の、国家どころか制度すらいまだ明確には形成されていない段階での人類の生死の相対的な経験、すなわち〈原初的経験〉とは、重なり合いながらも微妙に違っていることになる。したがって、同様に、国家という制度の重い殻が脱落して身軽になり、どの制度であれバーチャルに生きるような〈モノ感覚〉とも、それはまたおのずから微妙に違っているであろう。
そのように両者の違いを押し出すにせよ、日本的な常識の「伝統」の深部に横たわる「もの」の感覚が、制度以前の原始的な段階に想定される経験や、制度をバーチャル化した未来で想像される感覚に、どこか「似ている」と実感されることは、おそらく否定しがたい事実であろう。しかしそれは多分に、古代国家が成立した後でも「アニミズム」が長らく保持・利用され、そのように保持・利用されてきた「アニミズム」のうちに、〈原初的経験〉が色濃く反映しているからだと考えられる。ただし、何らかの重なり合いとか反映とかがうかがえるにせよ、両者が歴史的にも哲学的にも水準を異にすることには変わりないと、現時点ではひとまず言っておこう(「おわりに」で再説する)。
ここまで少々、前提となる枠組みにこだわりすぎたきらいがある。そこで、あらためて問い直したい。「昭和」とはそもそも何か。そして、なぜいま「昭和思想」なのか。

 

 

第二節 「昭和」と西田・三木・戸坂の哲学

 

モダニティの凝縮としての昭和
昭和に関してこれまで、敗戦を転機にして前期と後期に区分する捉え方が一般的であった。この捉え方では、戦前と戦後、戦争と平和、全体主義と民主主義、暗い時代と明るい時代といった対照が、敗戦を折り返し線にして強調される。しかし、そこで描かれる「昭和」に関していくつもの問題点を指摘できる。まず、昭和に先行する大正後期と昭和の初期とは、時代の現象や人々の感覚の面で連続している。つぎに、先述したように、戦前・戦中期と戦後期とは、時代の課題・問題意識・イデオロギーの面で、評価はたしかにひっくり返っているにせよ、連続した同型の思想空間にある(21)。さらに、戦後期といっても一様ではなく、政治的には五〇年代後半あたりが、あるいは、経済的・文化的には六〇年代の後半あたりが転機になって、七〇年代以降とりわけ八〇年代には異質な時代感覚・思想空間が生じ、そしてそれがそのまま、九〇年代半ば以降のある種の転換を含みながら、平成の今日まで地続きでつながっているのである(22)。
これらの難点を考慮するかぎり、従来の二区分を捨て、むしろ昭和を三区分した方がうまく説明できそうである。三区分とは、大正時代の半ばあたりから一九三〇年代半ばまで続く昭和初期、敗戦を折り返し線として両側にまたがる戦中から戦後にいたる動乱の昭和中期、そして六〇年代後半以降から始まり七〇年代をくぐり抜けて八〇年代に到来した消費社会の昭和後期である。このような三区分を採用するなら、第一項で描いた世界史レベルのモダニティの三段階ともうまく整合し、昭和をそっくり〈現代的近代〉に当てはめることができるだろう(23)。
そのように捉えた場合、一方で、〈伝統的近代〉の制度や感じ方は昭和初期にも濃厚に残存していたし、他方で、昭和の後期は〈今日的近代〉の段階にそのまま接続している。したがって、「昭和」という〈現代的近代〉の時代には、モダニティのすべての段階が包含されていることになる。それだけではない。〈伝統的近代〉をつうじて、その基盤にある〈伝統〉もまたそこに織りこまれ、さらに、〈今日的近代〉はそのままグローバルな未来につながっているのである。その意味で「昭和」という時代には、モダニティの前後を含めて、その転変のすべてあるいはその全軌跡が凝縮されていると言えるだろう。
ただし、昭和に深く溶け込んでいた〈伝統的近代〉が希薄化するのは、親密性や死生観の次元で見るなら、ようやく昭和も後期に入ってからであり、それがほとんど消失するのは昭和を通り越した一九九〇年代後半からである(井上治代2003)。明治維新前後から大正の前期にかけて、「西洋的近代」の決定的な衝撃に対する必死の強迫「神経症」的な対応から形成された常識(世間)は、それほどまでの規定力と持続力をもっていたのである。それだからであろう、今日の変容する現実を、相変わらず「日本対西洋」という枠組みから捉えようとする固定観念が、いつまでも根強く残ることになる(24)。この点は次節で取り上げる西田哲学にも関わることなので、その持続力の特徴についてもう少しこだわっておこう。
日本は明治の開国以来、「西洋化=近代化」路線を猛追し、国民国家の体制を整えつつ、大局的に見れば、近代社会の方向に進んでいった(〈伝統的近代〉)。そして大正の後期あたりから、今度はモダニティのいわば第二波である〈現代的近代〉が、「大衆」や「世界」の観念をともなって都市部に浸透するようになる。こうしてその時期、〈伝統的近代〉と〈現代的近代〉とが同時進行するのだが、その都市部とりわけ当時の東京ですら、人力車と電車が共存していたし、人々の日常の衣服も圧倒的に着物であった(25)。事情は昭和に入ってからもほとんど変わらない。ましてや農村部となると、近代化の影響を外からまた上から蒙りつつも、ものの感じ方の面では依然として、明治維新以降に再編された「旧来の慣習」に包まれていたのである。
日本では一九二〇年代から三〇年代あたりまで、いや、ずっと遅く戦後しばらくの間ですら、都市部に比して農村部に圧倒的多数の人口が暮らしていたし、たとえ都市部に出てきても人びとは心理的に故郷とつながっていた(神島二郎1961)。その意味で、近代日本社会の農村は、基本的に、〈伝統的近代〉の内部における「特定の場所に埋め込まれた共同体」(ギデンズ1985)だったのである(26)。しかも、三〇年代後半から強まった軍国主義政策によって、以前よりもいっそう疑似共同体の精神がグロテスクなまでに強化されたのである(不幸なことに、その種のグロテスクさは、戦後民主主義のオピニオンリーダーであった丸山真男の思考パターンを枠づけ、いつまでも呪縛することになる)。
近代化が農村部を直撃し、本格的に浸透し浸食するのは、ようやく戦後のとくに高度経済成長期になってからであり、その結果、日本社会は人々の暮らしやものの感じ方のレベルで大きく変質することになる。この変質の意義については、南北朝から戦国時代にかけての大転換に続く第二の大転換だったという解釈も十分に成り立つだろう(網野善彦1991、内藤湖南1955)。したがって、かりに既述のような三区分が概念的には妥当するとしても、日本社会の「近代化」の総体を経験のレベルから捉えるためには、都市部と農村部との落差ならびにその解消のプロセスを考慮しなければならないのである。
以上をふまえたうえで、あらためてこう要約しよう。「昭和」という名をもつ日本社会の〈現代的近代〉の時期は、〈伝統〉を基盤にした〈伝統的近代〉を重く背負うと同時に、グローバル化する〈未来〉につながる〈今日的近代〉をも抱え込んでいるがゆえに、日本社会のモダニティのすべての段階を包含するとともに、モダニティの前後も含めたそのすべての要素を凝縮しているのである。

 

昭和思想と西田哲学
「昭和」という〈現代的近代〉が、日本社会におけるモダニティのすべての要素を凝縮しており、そこに〈伝統的近代〉から〈今日的近代〉にいたるまでの「常識」の全軌跡が包含されているとすれば、その反映であり反省である「昭和思想」を窓口にすることで、日本社会における常識の変容を一望できるはずである。これが、なぜいま「昭和思想」なのかという疑問に対する答えである。
もちろん、昭和期の思想ならどれを取りあげても、同じ眺望が約束されるわけではない。一番の眺望を確保するためには、それにふさわしい窓口を慎重に選びだす必要がある。ここではとくに、昭和の初期から中期の前半にかけての思想、いわゆる戦前の思想に注目してみる。なぜかと言えば、哲学的思考の水準という点で比べるとき、残念ながら、戦後よりも戦前のほうがはるかに高く、また豊かだと考えられるからである。
その中心にいたのが、言うまでもなく西田幾多郎である。西田の哲学は戦前の哲学的思考にとって、とりわけ京都の哲学者たちを中心とした思想サークルにとって、いわば磁場のような存在であり、あるいは触媒のような働きをしていた。彼の独創性と弟子たちの創造性に比べるなら、戦後の哲学思想の、外見華やかだが、実質的な貧弱ぶりは明白であるように思われる。戦後思想世代より後の世代の一群の哲学者たち(例えば中村雄二郎1979、坂部恵1986)が、西田をはじめ和辻哲郎や三木清などに対して並々ならぬ関心を寄せ、そこから一定の刺激を受けているという事情もそのあたりにあるのだろう。とはいえ、もちろん西田哲学にも特有の難点があり、また、戦前の哲学を評価する近年の思想傾向に対しては、徹底的な批評が加えられてしかるべきである。だが、ともかくも西田哲学は「昭和思想」を象徴する存在であり、「日本哲学」の枠組みを作ったことによって、哲学思想にたずさわる者にとって自己を映しだす鏡となり、自分の実力と位置を測定し比定する尺度となっている。
しかし、それにしても、である。「西田哲学」のどこがそれほどまでに評価されるのだろうか。西田は明治後期から大正期および昭和初期にかけて活動した知識人であり、西洋の文化が怒濤のように流入した明治一〇年代に青春期を送ったという環境から、ちょうど夏目漱石や森鴎外によく似た独立不覊の精神を体現している人物である。したがって、モダニティとの関連で位置づければ、彼は基本的には〈伝統的近代〉の表現者であったと言える。じっさい西田自身は、例えば後述する三木清のように、前近代・近代・近代の超克といった〈現代的近代〉の枠組みで思索したわけではなく、大局的には「西洋対東洋(日本)」という枠組みの内部で思考している(藤田健治1993)。ところが彼の哲学は、西洋文化との出会い・葛藤のなかで、西洋の論理を徹底的に引き受け、さらにそれを突き抜けることによって、一個の普遍的個性の域に達しているのである(27)。
西田はその後期思想において、「ポイエシス的身体的自己」の「行為」の立場にたち、しかも、個人的自己を越えて無数の個物たちが織りなす世界(「作られたものから作るものへ」の客観的実在)にシフトした。その内容については後に検討することになるが、ここで先回りして言えば、その後期思想こそは、本章の冒頭で注目した〈ものの思考〉によって貫かれているのである。先に「西田は一個の普遍的個性の域に達した」と記したさい、念頭にあったのはまさにこの後期思想にほかならない。本章の見地からすれば、それ以前の初期や中期の思想は後期にいたる中途段階にすぎず、それだけでは普遍性を云々できないことになる。
それではいったい何が、〈伝統的近代〉の世代の西田の背中を押して後期思想へと歩ませたのであろうか。それは間違いなく、〈現代的近代〉という時代環境であったと考えられる。昭和中期前半の社会を揺るがした未曾有の暴力的な激動と緊張が、本質的にはどこまでも自己の奥底に座り込もうとする西田を押し流して立ち上がらせ、ものを作ること・歴史的現実・リアルな世界へと駆り立てたのである。そしてその方向をとりわけ挑発した人物こそ、〈現代的近代〉の世代の二人の弟子、三木清と戸坂潤であった。

 

西田哲学と三木および戸坂
後期の西田哲学の「最も根本的な物の見方考え方」(『哲学論文集 第三』「序」)は、これから明らかにされることであるが、〈ものの思考〉で貫かれている。しかし、かりにそうだとして、その後期思想はそもそも、本章で焦点になっている常識論もしくは社会哲学、あるいは一般的に「経験と制度」の歴史哲学にとって、どのような意義をもっているのだろうか。いや、その前に確かめておくべきことがある。常識論とか社会哲学という問題系が、はたして西田哲学において成り立つものなのかどうかという点である。何となれば、西田哲学の最大の弱点は社会哲学・国家哲学にあるとか、少なくとも西田哲学の長所はそこにはないといった評価が、論者のあいだでいわば常識になっているからである。
そのような評価の先鞭をつけたのは、ほかならぬ戸坂である。戸坂は『無の自覚的限定』中の「私と汝」を念頭におきながら、社会理論の終局が我と汝の関係になるようでは、現代社会の特色・矛盾・動向を説明できないと批判し、「西田哲学は社会思想をほとんど全く欠いている」と断言している(「日本イデオロギー」『戸坂潤全集』第二巻、三四七、四〇八頁)。戦後では中村雄二郎(1998)が、「場所の論理」を宗教的な方向へと掘り下げる西田の思考に関して、カオス的な「述語的世界」を切り開くという意味で評価しつつも、そこには制度論的思考の点で弱点があり、三木に比べると制度の疎外面の認識が欠落していると評している。さらに近年のより若い世代の論者(檜垣立哉2005)では、西田の「歴史的生命の論理」が現代フランス思想の生命論に重ねられて評価されてはいるが、社会哲学の面は最初から視野の外にある。
このように、一定の距離をもって西田が論じられる場合、社会哲学の問題性が否応なく目に映るか、無視しても問題にすらならないと考えられているようである。他方、上田閑照のように西田に親炙し密着する場合でも、西田哲学の中心は宗教論・人生論にあるとし、社会哲学の方面にはほとんど触れないか、やむをえず触れるにしても、「世界文化」に関する西田の言及を持ちだして時局的に弁護する程度にとどまっている(上田閑照2002、大橋良介2001)。ともかく、親疎いずれの場合であれ、西田の特徴は社会哲学にはないという点でほぼ一致しているとみてよい。
ところが、西田の後期思想では、いわゆる述語主義ないし場所の論理がそのまま歴史的生命の論理とされ、歴史的社会の論理になっているのである。「歴史的社会的現実世界こそが唯一の実在である」とは、後期の西田がくり返し強調したテーゼである。そうだとすれば、宗教論や生命論は評価できるが、社会哲学や国家論は駄目だということにはならないはずであろう。むしろ、社会哲学や国家論にこそ西田哲学の長所と限界のすべてが含まれているのであって、宗教論と生命論と国家論とがトータルに論じられるべきではなかろうか。
社会哲学の側面では一般に、西田に比べて三木のほうの評価が高い。しかし、「作られたものから作るものへ」という論理の基本は、三木(「作られて作る」)と西田ではまったくと言っていいほど同じである。というより、事実は、三木のほうが西田を下敷きにしているのである。当時の学会はもとより、弟子たちのあいだですら、西田の後期思想がどこまで理解されていたかは、「まったく理解されていない」と嘆く西田の絶筆(「私の論理について」『西田幾多郎全集』第十二巻、二六五頁)に暗示されている。その点、一九三〇年代半ばの段階でいち早く、西田哲学の本質を現実世界の論理と喝破した三木の理解は、断然光っている(「西田哲学の性格について」『全集』第十巻、四一〇-四三四頁)。
西田哲学を理解する鍵がその後期思想、つまり歴史的社会的現実の論理把握にあるとみなす場合、もっとも重要なテキストは『日本文化の問題』である。これは一九三八年に京大で行われた講演をまとめ直し、その二年後の一九四〇年、三木の『哲学入門』などと一緒に、岩波新書の一冊として出版されたものである。西田はそのなかで「日本文化」をめぐる意味の「争奪戦」を遂行していると評されることがある(上田2002、藤田2007)。たしかに、家族主義や偏狭な日本主義への批判に着目すれば、おそらく本人の自覚ではそうであったかもしれない。しかし、西田流の「日本文化=世界文化」の水準にとどまって、特定の思想的立場からあれこれと評価することは(26)、いまあえて西田哲学を問い直すことの意味を見失わせることになるだろう。政治的あるいは時局的な深読みではなく、問いは西田の思考の核心に真っすぐ向けられるべきである。
ところで、三木は前述のように、西田の後期思想をほとんど唯一理解し、それを高く評価することで、後述するように、自分の思想の隘路(『哲学的人間学』の理論的袋小路)を切り開くきっかけにした。しかしそうでありながら、最後の最後にいたるまで、西田哲学との「対質」の必要を考えていたのである(入獄前の最後の書簡『全集』第一九巻、四五三頁)。西田と三木とのあいだに横たわる溝は、「日本文化」の本質とされる「東洋的現実主義」対する距離の取り方にある。この距離の意味合いを掘り下げて考察するなかで、西田哲学の後期思想に含まれる時代的・世代的な限界とともに、西田を越え、さらに西田を越えようとしたその三木自身をも越えて、〈ものの思考〉が引き継がれ、展開される必要があろう。
そしてもう一人、〈ものの思考〉の展開においてとりわけ重要なのが「唯物論者」戸坂である。戸坂はたしかに唯物論の立場から西田を批判した。しかし、その徹底した批判をつうじてかえって西田の〈ものの思考〉を引き継いでいるのである。ただし、そのようないわば弁証法的な継承関係は、〈ものの思考〉の眼をもって眺めたとき、はじめて浮かび上がってくるだろう。しかも日常性と風俗に向けられた戸坂の「物」への視線は、西田はもとより三木の思考の底部をも突き破って、今日のグローバルな〈モノ感覚〉にほとんど届いてすらいる。それを可能にしたのは「思想」と「哲学」の立ち位置の転換であった。

 

「昭和思想史」の立体像
ところで、西田哲学を中心に「昭和思想」を語るさい、三木や戸坂のほかに逸してはならない重要な人物がじつはもう一人いる。和辻哲郎である。西田の文化論のある面は和辻の風土論と人間の学をふまえていて、それらを西田が高く評価していたことは疑いない(『全集』第十二巻、三五九頁)。他方、和辻もまたその倫理学のなかで、西田の無の論理に依拠している旨を書いている(和辻哲郎1934、一七九頁)。とはいえ、西田の「絶対無」と和辻の「絶対空」とのあいだには微妙なずれがある。じっさい、和辻が依拠した西田の論理は中期思想の段階のものであった。
その和辻は三木との対立関係を明確に意識していたし、逆に三木もまた同様である(『哲学的人間学』対『人間の学としての倫理学』)。「風土=文化=民族=国家」の立場にいる和辻や『民族の哲学』の高坂正顕らに対して、三木は一貫して「自然=人類=世界=個人」の立場に立っている。その両者を(西田・田辺をも含めて)批判したのが、唯物論研究会をリードしていた戸坂である。このように、歴史・社会哲学に関連する多様な論点(例えば、日本文化、東洋的現実主義・自然主義、日常性、大衆など)に焦点を合わせるとき、西田と三木や戸坂に和辻を絡めることで、昭和の初期から中期にかけての思想の相関関係を線ではなく、平面として描くことができるだろう。ただし、和辻の思想は〈ものの思考〉とは異質であるため、本章で論じることはしない(29)。
それでは、昭和中期の後半から後期にかけての思想についてはどのように描けるだろうか。三木と丸山真男との共通点は明瞭である。試みに、三木の例えば「日本的性格とファッシズム」(『三木全集』第十三巻、二四一-二六七頁)を、丸山の有名な『日本の思想』と比べてみればよい。そこには驚くほどの類似性がみられ、丸山が基本的に三木を下敷きにしていることがわかる。ただし、宗教論一つとっても三木の思想的な幅は丸山よりは広い。他方、和辻に対する丸山の対抗意識は広く知られている(刈部直2006)。ただし、丸山は内容的には和辻の解釈を踏襲しつつ、個々の評価をひっくり返しているとみなすこともできる。ちなみに、和辻の『続日本精神史』における「重層性」や「無形式の形式」等の視点は、丸山にかぎらず、昭和思想空間の共通の前提になっている(例えば三木の前掲論文、二五七頁)。また、丸山や大塚久雄といった戦後の思想家を批判する後の世代(昭和後期)の人びとに(さらに加えて歴史学者の尾藤にも)、西田や和辻が影響を与えていることは前述のとおりである。
簡略ではあるが、以上のような対抗関係を念頭におくならば、昭和思想史を貫く三本の継承線が浮かんでくるだろう。すなわち、一本目は、明治前半の福沢に端を発し、昭和の初期・中期前半に生きた三木清をへて、丸山=戦後思想(昭和中期後半)へと継承される線である。二本目は、明治・大正期から昭和中期前半まで生きた西田の中期思想や大正期以降の和辻や田辺元から、戦後思想批判=昭和後期思想へと引き継がれる線である(中村雄二郎1998、中沢新一2001)。そして三本目が、西田の後期思想から始まり、三木や戸坂をくぐり抜けて、昭和以降のグローバルな世界の感覚へとつながっていく〈ものの思考〉の線である。前の二つの線についてはこれまでもしばしば指摘されてきた。しかし、最後の線は本章で初めて提出される。西田と三木と戸坂とを貫く思考線に注目し、これを際立たせることによって、昭和思想史が平面ではなく、立体となって立ち現れてくるだろう(30)。

 

 

第三節 西田の〈原形の思想〉

 

西田哲学の後期思想
西田は自らの思索の歩みを自著の「序」のなかで明確に跡づけている(『西田幾多郎全集』第九巻、三-七頁)。それを要約すれば、彼の思索は「純粋経験」から出発し、「自覚」の悪戦苦闘をへて「場所」(「無の場所」)に到り、さらに「弁証法的一般者」への深まりをとおって、最終的に「絶対矛盾的自己同一」の立場に落ち着いている。考えてみれば、驚くべき変貌とも言えるが、そこにはひたすら「自己」を掘り下げようとする一貫した意志(「そこからそこへ」、「根本的な物の見方考え方」)を見てとることができる。
西田の後期思想は、一九三四年の『哲学の根本問題 続編』、とりわけ三六年の「論理と生命」あたりから明瞭な形をとりはじめ(「序」)、一九三九年の『哲学論文集 第三』で終局に達した(「序」)。「これまで行為がまともに考えられてきたことはなかった。マルクスですらしかり」と豪語した西田だが(一九三三年『哲学の根本問題』の「総説」、『全集』第七巻、一七三頁)、その翌年には、「自分の考えはまだ不十分であった。行為を問題にするにしても個人の視点からではなく、世界から行為を捉えるべきである」と書く(同上、二〇三頁)。じつにこの「世界」という視点から実在の論理化を突き詰めたのが、西田哲学の後期思想なのである。ここに到って、歴史的社会的な現実の世界こそが唯一の真なる実在であり、世界の自己形成の論理が「作られたものから作るものへ」として捉えられる。ついに熟成した考えに達した西田の思考の息づかいを感じてもらうために、ここであえて、一九三八年に書かれ、『哲学論文集 第三』に所収された論文「人間的存在」の冒頭部分を引用しておこう。

歴史的現実の世界は制作の世界、創造の世界である。制作というのは我々が物を作ることであるが、物は我々によって作られたものでありながら、どこまで自立的なものとして逆に我々を動かす、これに加えて我々の物を作る働きそのものが固より、物の世界から生まれるのである。物と我とはどこまでも相反し相矛盾するものでありながら、物が我を動かし我が物を動かし、矛盾的自己同一として世界が自己自身を形成する、作られたものから作るものへと行為直観的に動いていく。我々は制作的世界の制作的要素として、創造的世界の創造的要素として、制作可能なのである。しかしてかく我々が歴史的制作的なるところに、我々の真の我というものがあるのである。::(『全集』第九巻、九頁)

ここに見られるように、個々人の「我」つまり自己は、西田初期の意識的自己から行為的自己をへて歴史的社会的な現実における制作的自己へと具体化されている。物(もの)を制作する自己は、世界における無数のもの(個物)たちのなかの自己であり、世界を映し出す一観点としての自己であり、自己形成する世界の創造的要素としての自己なのである。そして、「世界」の無限に広がる平面上で「自己」は一つの物(もの)の資格で無数の物たちと働き合う。要するに、西田の後期思想が歴史的社会的な実在の論理=具体的論理であるのは、そのような「物=我」という視点から世界が眺められているからにほかならない。とすれば、先に、〈モノ感覚〉との親和性を直観して、〈ものの思考〉と名づけた理由も了解されるだろう。
西田は、無数の個物たちの働き合いとしての世界の自己形成を、すべての実在のしたがって人間社会のあらゆる特殊な論理や文化の「原形」(『全集』第十二巻、二八三頁)とみなしている。例えば、論理の面では、それは「原論理」となる(同上、二八七頁)。この「原形」というタームはゲーテの「原動物」から着想をえたものであり、すでに初期の『善の研究』にも登場する(『全集』第一巻、八六頁)。西田は時にそれを「原型」(『全集』第十二巻、二八五頁)と言い換えることもあるが、意味に違いはない。そこで以上を考慮して、〈ものの思考〉を核心とする後期の西田哲学の全体的な特徴を、《原形の思想》と名づけておきたい。もっとも、西田を離れて言えば、「原理」というタ-ムのほうが一般的であるかもしれない。だが、「ポイエシス」や「行為的直観」、「形から形へ」、「作られたものから作るものへ」という具体的な物(もの)に密着する思考にこだわる西田にとって、一般性を喚起する「原理」というタ-ムくらい不適切なものはないだろう。
西田は実在世界の「原形」を把握したのち、ようやく一九三五年あたりから哲学の体系化を企てる。それは認識論・科学論から始まり、実践論・国家論や芸術論に広がって、晩年の最後の完成原稿となった宗教論(「場所的論理と宗教的世界観」)にまで及んでいく(ただし、死の直前の絶筆原稿は「私の論理について」であった)。そしてそのような体系化の一環に、ここで焦点となる『日本文化の問題』も位置している。この本には「日本文化」あるいは「日本精神」に関連して、〈原形の思想〉がとくに濃縮された形で示されている。

 

『日本文化の問題』の主張
この本に示された西田の主張は以下のように概括できる(『全集』第十二巻、二七五-三九四頁)。日本の歴史はこれまで孤立した単一の世界(島宇宙、主体即世界)で成り立っていた。ところが今日、そのような孤立が許されないような(講演では「レアールな」『全集』第十四巻、三九六-三九七頁)「世界」が成立している。とすれば、従来の孤立へのこだわりを脱して多なるものからなる世界に積極的に進出し、そこで自らの特殊性を明らかにするなかで、世界の創造的要素の一つになるべきである。それは日本に限らない。それぞれの社会が自己の特殊性を知るための共通の尺度こそ、西田のいう「歴史的世界の自己形成」すなわち〈原形〉である。特殊な文化形態(孤立・独善)から、歴史的世界の自己形成(根底)に立ち還り、そこで自己を否定して「物の真実を知る」こと(つまり特殊性の客観的把握と欠点の克服)をつうじてこそ、世界の創造的要素になることができる。それを国家・民族の文脈で言えば、国際社会の一員として世界の安定に貢献できる民族になるということであり、文化の面で言えば、「世界文化」の一つになるように日本文化を普遍化することである。
西田は自分のことを「徹底的客観主義者」(『全集』第十二巻、二九八頁)と規定する。そこに西田の後期思想の根本姿勢が表現されている。たしかに発想の基本は『善の研究』以来のものであり、その当初の段階でもすでに、「純粋経験」の方向に個人的意識・個人的自己が越えられていた(「経験あって個人ある」『全集』第一巻、四頁)。しかし、その方向は根底的意志までにしか進まず、世界=意志主義に止まっていたのである。それはいわば「座る」なかで見える世界であり、見えるなかで動き出す意志であった。中期でも「身体」や「行為」が柱になるにせよ、基本は同様である。ところが、ここ後期に至ってそれが決定的にのり越えられている。同じく身体的に見ることではあっても、「座る」ことから「作る」ことへとシフトし、しかも、そのポイエシス的身体は、無数の個物=身体たちの働き合いをつうじて作られた客観的実在(過去の文化・制度)から作られる(創造される)のである。この「作られたものから作るものへ」、「作られること」と「作ること」との「絶対矛盾的自己同一」という視点こそ、「徹底した客観主義者」たる所以なのである。
無数の物たちがひしめき合い、せめぎ合う直中で、ポイエシス的・表現的・身体的な個物たちは「行為的直観」的に働き合う。「行為的直観」とは言語的・意識的な意味づけ以前の働きを意味する。意識の手前あるいは向こう側(とにかくその外部)でくり広げられる働き合いをつうじて、「作られたものから作るものへ」、「形から形へ」と世界は自己を形成していく。だから、西田のいう「物」ないし「個物」は、いわゆる精神・心・意識に対立する「物体」とか、思考の産物たる「物質」「素材」「質料」などではない。むしろ、そのように限定される以前の、まさに〈もの〉としか表現しようのないものである。それゆえ本章であえて〈もの〉と表記する所以である。そして、〈もの〉たちのうちでとくに自己を内的に限定する〈もの〉が、「個物」(あるいはむしろ「個体」)である。西田哲学を理解するうえで決定的な分岐点になるのは、無数の〈もの〉たちの働き合いをつうじて形成される無数の〈形〉の生成過程として、〈原形〉を捉えることができるか否かにある。それができるなら、そこに〈ものの思考〉を読み取ることは容易であろう(ただし、事柄がそう単純でないことは後に示される)。
西田のいう「世界」では、個物たちの世界から、単一の社会・民族・国家の世界(この世界が具体的な形=実在である)へ、そこからさらに諸民族からなる世界史的世界(レアールな一つの世界)へ、そして最終的にはその外部に広がる無限定の世界へというように、個物的自己の「永遠の今」を中心にして、一つの平面上を多数の世界が同心円を描いて広がっている。それぞれの世界のなかで形ができ、形が崩れ、また別の形ができる。それはあたかも一点から広がる無数の波紋が相互に干渉し合っているかのような印象を与える。ちなみに、海の波形の連続は、北陸の海を眺めて育った西田の心象風景の原点であったと云われている(上田2002、藤田2007)。
〈もの〉の〈原形〉の思想をもつことによって、「日本文化」に対する西田の視線は、たんなる「情の文化」を射し貫いてその根底にまで届いている。それゆえ西田は本の冒頭から、小林秀雄=宣長的な「原理拒否」という見方に抗し、島宇宙の範囲で実現された限りでの「原形」はあると反論するのである(『全集』第十二巻、二七九-二八〇頁)。このような西田の「原形」をめぐって、鈴木大拙や道元の見方を論理化したものにほかならないという言い方がされることがある。しかし、それはあくまで事柄の表面にすぎない。
まず、道元との関係で言えば、西洋哲学を深く受け止め、さらに突き抜けたという点で、それはどこまでも〈伝統的近代〉を表現したものであって、中世に生きた道元の〈伝統〉と同じではありえない。他方、盟友・鈴木とは同時代者であるから、鈴木のいう「無心」(同上、三四四頁)、つまり「即非の論理」とはもちろん深く呼応するところがある。とはいえ、鈴木には見られない「学問的精神」の捉え方を考慮するかぎり、これまたまったく同じとは言えないはずである。一般に、いわゆる対象認識的な「科学」とは現実の複雑さを数学的に抽象する手続きのことである(「実験系」「理想系」「変数問題」等のタ-ムを想起されたい)。西田は「無心」を掘り下げるなかで、対象認識とは水準を異にする現実認識の論理にまで達している。西田が「科学的=物の真実に行く」という場合の「科学」ないし「学問」とは、対象認識とも、また解釈学的な認識とも違って、それら両者を派生的な現象形態として位置づけるような〈原形〉的な認識なのである(31)。

 

〈原形の思想〉の問題点
ここまで西田の思考の特質を積極的に押さえてきたが、だからと言って、『日本文化の問題』には何ら問題点がないということではない。事柄は「技術」の捉え方に関連する。
西田によれば、「技術」は個物たちから成る「民族」が特定の「土地」で生きることを可能にする。技術の媒介によって「社会」という形が自己維持的に形成される。この自己維持作用・自己生産作用がさらに「人間形成」につながるとき、そこに「文化」という形(イデア)が見られる。つまり「人間形成」が「文化」の核心なのである。その意味で「神話」も「制度」(トーテムとタブー)も「文化」の一つである。文化をもつ(イデアを宿す)こと(つまりは反社会的本能を抑制すること)をつうじて、社会もまた「道徳的主体」としての「国家」になる。だから、国家も文化である(文化的社会=国家)。それに対して「政治」は社会全体を維持する社会技術である。このように、西田ではすべてが「技術」(制作)として捉えられている。そしてその働き方や形の違いから、大きく「政治」と「文化」とに分かれ、「文化」の大枠のうちに神話や制度や国家がすべて収められている(同上、三二七-三三二頁)。
しかし、「国家」という存在を「人間形成」・「道徳」・「文化」の文脈へと流し込むことには疑問がある。西田が講演した当時(一九三八年)、和辻の人倫的国家観や田辺の道義的国家観が当然のごとく唱えられ、国家=道徳という見方が広まっていたが、狭義の「神話」や制度そして道徳の本質は、第一義的にはむしろ、社会秩序・法や政治に結びついているはずである。講演および本書のテーマが「日本文化」であり、そして文化=実在という立場を西田がとる点を考慮したとしても、政治以外のすべてが文化に流し込まれた結果、ものたちの働き合いの世界が、技術による形の形成一般として一元化され、平板なものになっている。
西田が「無心の境地」を学問的論理(真の学問的・科学的精神)へと突き抜けた点は、既述のように、たしかに独創的であると認められてよい。それはまさしく歴史的実在を把握する根本論理であった。しかし、その論理だけではあまりに大まかすぎて、社会の制度やその倫理的土台になる常識の構造を捉えるには、道具立て・ツールが決定的に不足している。そうだとすれば、「社会思想がまったく欠けている」という戸坂による前述の指摘は、中期思想だけでなく、後期思想にも妥当すると言わざるをえないだろう。
その種の大まかさの背景についてはいくつかの要因が考えられる。その一つは歴史認識・世界認識の水準である。日本のみの世界性から東洋と西洋にまたがる横の世界性へと、世界が一つに連関したという認識をじっさいに西田はもっている。しかしその認識は、基本的には一九世紀の〈西洋的近代〉(帝国主義的世界)の延長上で考えられていて、三木や戸坂のように、〈西洋的近代〉から二〇世紀の〈現代的近代〉へと転形した縦の世界性の水準にはない。その意味で旧世代の思考枠組みにとどまり、社会の高度な複雑化に対応できていない。
もう一つは日本社会の常識の反省水準である。既述のように、日本の伝統社会の常識の「根層」には、身体性・日常性・事・行にかかわる独特の感じ方・考え方がある。西田はそれをさらに掘り下げて、ポイエシス的身体的自己(行為的直観)の制作行動として捉え返し、しかも無数の個物の働き合い・相互限定としてつかみ直すことで、〈ものの思考〉を核心にする〈原形の思想〉、すなわち、歴史的社会的実在の論理へと彫琢した。ところが、常識の「中層」にあたる社会構成・組織結合の原理(関係の結び方、家族、地域共同体、集団の役)や、さらにその「天層」にある公の観念(皇室、共同性的包摂、無限抱擁、無限定性)に関しては、ほとんど反省されることなくそのまま残されているのである。その結果であろうが、社会における全体と個人の関係では、個々人の独自性の強調とともに、社会形態の変革・刷新とか新しい人間像への傾斜が目につくとはいえ、これまた一般論にとどまっている。
例えば、「無心=伝統的な憧憬」「皇室=世界=公」「簡単明瞭・易行化」「客観的表現」「概念的思惟」といった、「直観性」に関する一連の表現を取り出してみよう(同上、三四六-三四七頁)。これまで西田の本のなかで論議を呼んできたのは、そのうちのとくに「皇室=絶対無」という見方である。これはなるほど尾藤のいう伝統社会の「常識」の要素(公の共同体的連続観)には違いない。しかし、この点を鋭く反省し、それなりの距離をもって臨まないかぎり、「作られたものから作るものへ」の論理も、間違いなく、直観的な「無限抱擁」のうちに包まれてしまうだろう。
とはいえ、西田が本の全体にわたって、日本の歴史的発展の制約を勘案しつつ、帝国主義や、非独創性、神秘主義・非論理性、家族主義等に対して批判的な見地に立っていることは、そのような視点から深読みするかぎり、端々の口調から伝わってこよう。おそらくそれは、(講演会で官憲が目を光らせている)当時の時勢で可能となるギリギリの姿勢であったと考えられる。とすれば、彼の皇室観をめぐる評価も一筋縄では捉えられないわけであるが、しかし、それを認めたうえでもなお、皇室が「絶対無」として包む位置にあることには変わりない。したがって問題は、たんなる歴史認識・世界認識の水準や、常識の反省の水準にあるのではなく、もっと根深く、西田の思考の根本に関わっていると見るべきであろう。言うまでもなく、その根本にあるのは彼の宗教観である。〈ものの思考〉はそこでどのように働いているのだろうか。

 

宗教観と〈自覚の思考〉
西田にとって宗教は一貫して決定的に重要であった。初期の『善の研究』からして、そのタイトルが示すように、そもそも「善」すなわち「人生の目的」の解明が中心であったし、彼にとって「哲学の終局」は「宗教」であった。中期思想ではそれがあらゆる一般者を包み込む「無の場所」・「絶対無」として深められた(その立場が田辺元から「発出論」という批判を招いたことは有名である)。そして何よりも、既述のように。最晩年の最後の完成原稿は「場所的論理と宗教的世界観」(『全集』第十一巻、三七一-四六四頁)であった。このように彼の「根本的な物の見方考え方」への探求は、そのまま宗教的な「自己の探求」を意味していたのである。
最晩年のこの論文には西田の宗教観が透徹した形を見せている。西田によれば、宗教とは、人生の「悲哀」(同上、三九三頁)の直中で、「自己」の直下に「永遠の死」を知ることである(同上、三九四-三九五頁)。この意味は、相対的・局所的な歴史的世界(民族の道徳・国家の次元)を超越した、絶対的な歴史的現実によって「自己」が包み込まれるということ(「逆対応」同上、四〇九頁)である。あるいは、無数のものたちからなる世界のうちに、〈もの〉として自己を徹底的に埋め込むということである。そのとき「平常底」(現実即実在)の世界が立ち現れる(同上、四四六-四五三頁)。以上の見地は、盟友・大拙のいう「即非の論理」(というよりむしろ即非の直観というべきであろう)を、歴史的現実の世界の論理として捉え直し、深めたものと言えようが、西田自身の考えでは、キリスト教であれ、仏教の浄土宗や禅宗であれ、それらの根底にあるべき宗教の〈原形〉ということになる。
西田の思考が以上のように本質的に宗教的であるとすれば、それは何よりも《自覚の思考》と規定されるべきであろう。「純粋経験」(個人を包む経験世界としての唯一の現実)から「自覚」(直観と反省)へ、そこから転じて「場所」(論理的把握の端緒)へ、さらに「無の場所」から「ポイエシス的身体的自己」へ、そして最終的にはその個人的自己中心から、無数の個物たちの働き合う「歴史的社会的世界」へというように、彼の「それからそれへ」と向かう思考はどんどん深まっている。それはまさに「真なる自己」を求めて座り込む垂直の動線であって、これまで際立たせてきた〈ものの思考〉とは、じっさいには〈自覚の思考〉の終局の形姿だったのである。そのことを示す箇所を『哲学論文集 第三』の「序」から引いておく。

::私は最初からただ判断的一般者の超越ということによって具体的一般者を考えたのではなく、そこに自覚という積極的過程があった。しかしてそれは歴史的生命の自覚というものでなければならない。最も根本的な一般者の自己限定とは、歴史的生命の自覚的過程というものでなければならない。「善の研究」以来、私の目的は最も根本的な見方考え方にあったと言った。それはいま歴史的生命の自覚、ポイエシス的自己の自覚の論理というものでなければならない。しかしてそれは歴史的操作の論理であるのである。::(『全集』第九巻、七-八頁)

〈自覚の思考〉は「己を空しくして物に至る」あるいは「物を尽くす」ことにひたすら集中する。「物に徹する」というその「科学的」な姿勢は、自己の真相の地平でそのまま「道徳的」な姿勢に重なる。この思考の内部にいるかぎり、道徳はいわば宗教的なブラックホールに吸収されるばかりである。いや、道徳だけではない。そのほかの文化的な営みもまた同様であり、さらに国家も例外ではありえない。個物=個人は、相対的全体である国家=皇室によって包み込まれるが(相対的無限抱擁)、その国家もまた無限定の世界=絶対者によって包み込まれる(絶対的無限抱擁)。けっきょく、「絶対無=皇室」という見方は、〈座り込む=包み込まれる〉という〈自覚の思考〉に由来していたのである。いや、それは〈思考〉というよりむしろ、西田の生の構えとみなすべきであろう。
西田哲学では、なぜ社会を理論的に捉えるだけの道具立てに乏しいのか、どうしていつでも大まかな基本論理のくり返し(叙述=思考のスタイルとしてのくり返しとは別の、内容の面での永遠の堂々めぐり)に止まっているのかとは、誰しもの抱く率直な感想であろう。その答えは根本的には〈自覚の思考〉にあるとみてよい。それを根幹にした〈原形の思想〉にできることは、たんに、「作られたものから作るものへ」という〈原形〉を、例えば文化に関してなら東洋西洋の環境の曲率面上に映し出し、そうやって映し出された像をその特殊形態として認定するだけのことだからである。
もとより、西田の〈原形の思想〉では〈自覚の思考〉だけではなく、その終局の形姿ではあれ、〈ものの思考〉もまた確実に働いている。彼の現実世界の論理をたどるかぎり、そうした結論は避け難いはずである。ということは、〈原形の思想〉では、二つの異質な思考が一つに溶け合っていたということになる。ただし、〈座り込んで見ること〉と〈立ち上がって作ること〉とは、いわば「矛盾的自己同一」の関係にある。哲学者としての西田の知性では〈ものの思考〉が動き出しているが、彼の宗教的な心情では、〈自覚の思考〉がその動きを引き込み押し止めている。論理と心情のあいだで西田が揺れている。そしてそのことに西田自身はおそらく気づいていない。とすれば、絶筆草稿において周囲の理解が得られないと、不満をぶつけたのも無理からぬところであろう。ともかく、歴史的社会の哲学を確立するには、〈ものの思考〉を際立たせ、〈自覚の思考〉から自立させる必要がある。そしてその一歩を進めたのが、ほかならぬ三木であった。

 

第四節 三木の〈型(タイプ)の思想〉

 

三木哲学の転回と展望
西田哲学の〈原形の思想〉を貫く〈ものの思考〉は、弟子たちのあいだや学会では、中期思想の延長線上で〈自覚の思考〉として理解されるだけで、まともには受けとられなかったと言ってよい。それにはおそらく、小林秀雄が揶揄しているように(「学者と官僚」『文藝春秋』一九三九年一一月号)、後期にとくに目立つようになった繰り返しの多い悪文も影響しているのだろう。しかし当時にあって、三木だけがその後期思想のうちに、制作行為=技術、ものとその形、作られたもの(環境、制度、客観的・主観的なもの)といった、〈ものの思考〉の一連の鍵概念を見てとった。そしてそれは三木自身の思想を転回させ、自分の哲学の成立を確信させたのである。その間の事情をたどっておこう。
三木は一九三三年から三七年にかけて、けっきょく最後には未完のまま放棄されることになる『哲学的人間学』を構想し執筆していた(『三木清全集』第一八巻、一二五-四一九頁)。そのなかで三木は繰り返し同じ一つの問いを発している。すなわち、社会から限定されつつ社会から独立する(社会を限定しかえす)という「人間存在の二重性」を、どのような論理で捉えたらよいのかという問いである(同上、一七一-一七五、二四五、三六二頁)。この問いの真意はおそらく、和辻の「人間の学」にいう意味連関、つまり風土・民族を基盤にした「間柄」の一面性を批判することにあったと思われる(同上、三七五頁)。
この答えを探るなかで彼は、中期から後期へと転回しつつあった西田哲学の「無」を支えにする。ところが、草稿段階のその第三章「人間存在の状況性」には、ハイデッガーの「超越性と虚無」(同上、二八〇頁)や西田の「無=世界」(同上、二九三頁)のモチーフが混在し、他方、第四章「人間存在の表現性」ではもっぱら西田の「弁証法的一般者」に依拠するばかりで(同上、三二九、三五一頁)、そこには論理の一貫性が見えない。さらに、両者を総合するはずの第五章「人間存在の社会性」では、社会を「基体」と「主体」の二重性で捉える方向性が打ち出され(同上、三八二頁)、いよいよこれからという地点で、論述がいきなり途切れている。そこでやむをえず、当時の三木の思想の到達点を知る手がかりを求めて、何度か書き直されている第一章「人間学の理念」を読んでみるとする。しかしそこでも、三木は「基体」と「主体」を意味の解釈レベルでクロスさせるだけで(「主体的自然」と「歴史的物質」)、人間存在の根底にある社会を「パトス的・ロゴス的」と規定し、社会と個人の「弁証法的統一」を唱えることに終始している(同上、一五一-一六一頁)。とにかく期待外れなのである。
隘路に窮まった三木は一九三七年、執筆をいったん放棄し、手がかりを「構想力の論理」に求めるべく迂回する。そして「神話」から「制度」に移ったところで、ようやく探し求めていたものを手にする。それが、「主観的なものと客観的なものとの統一」(『全集』第八巻、七頁)としての、制作されたものの「形」である。ここでのポイントは、ものの「形」がパトス・ロゴスという主観主義的な枠(じつは「構想力」もこの枠内にいる)をはみ出している点にある。なぜなら、ものの「形」は、個人や民族の感情・気分(パトス)と意味づけ(ロゴス)の外部で進行する、事物の客観的な動きに接続し属しているからである。もちろん、制度のもつ疎外性・拘束性もそこに由来する。
こうして三木は、『哲学的人間学』では一度は挫折した問題、つまり「間柄」の一面性をのり越えるという宿願を果たすことができると確信した。〈もの〉の制作・形成・技術という形の世界に立つことで、自然と文化・歴史とを連続させ、かつ、前近代社会=ゲマインシャフト(道具・農業)と近代社会=ゲゼルシャフト(機械・資本主義)とを同じ平面上に並べつつ、「社会技術」によって両者を止揚するという展望(近代の超克)をもつことができたのである。「私の思想はいま一応の安定に達した」(同上、六頁)。そのさい、パトス・ロゴスの主観主義(構想力の論理)から「形の論理」の客観主義への転回を導いたものこそ、「序」で明言されているように(同上、同頁)、西田哲学の後期思想にほかならなかった。三木は「形の論理」としての「構想力の論理」を「原始論理」とも名づけているが(同上、八頁)、これはむろん西田の「原論理」の別名にほかならない。
三木の制度論の核心は、「フィクショナルなものがリアルである」という視点である(同上、一七九-一八〇頁。なお、この視点は後に丸山真男(1952)によって機能的・便宜的・仮設的性格を強調されて引き継がれる。とくに「肉体文学から肉体政治まで」三七五-三九四頁)。三木はその視点にたって、目の前にある社会(帝国日本)を固定したものではなく、作られた「制度的社会」(所産的自然)とみなし、それを生み出す「創造的社会」(能産的自然)と対比する(同上、一八三-一八四頁)。それはまた、創造的個人の主体性を積極的に位置づけることでもある。そしてこの位置づけを可能にしたのが、くり返せば、社会・文化・歴史と自然との二元対立を越えて両者を連続的に捉える「技術」の観点である。じっさい、自然性(人類性)の強調と個人の創造性=変革性の強調とは、三木では重なっている。これまた念を押せば、そこには和辻流の「文化=民族=間柄」の視点に対する三木の批判が込められていたのである。
『構想力の論理』(出版は一九三九年)で新たな展望をえた三木の哲学を、「形の論理」をふまえて、この段階ではさしあたり《形の思想》と呼んでおこう。〈形の思想〉は一九四〇年の『哲学入門』(ならびに一九四二年の『技術哲学』)のなかにまとまった姿を見せている。これと『構想力の論理』を比べてみると、両書ともに西田哲学の後期思想の影響が認められるとはいえ(『全集』第七巻、三頁)、後期思想のより完成されたタ-ムと枠組みを組み込んでいるのは『哲学入門』のほうである。例えば、「創造的世界の創造的要素」という表現(同上、一八二頁)や、「永遠の今」の肯定的位置づけ(同上、一三七頁)がそうである。それどころか、むしろ誰が読んでも、ほとんど西田を祖述した解説ではないかという印象すら受けるのではなかろうか。ただし、三木の叙述のほうが西田自身のそれより、はるかにスマートでわかり易いことは確かである。三木の両書の差はちょうど、一九三四年の『哲学の根本問題 続編』と一九三九年の『哲学論文集 第三』とのあいだの、成熟度の差に対応しているように思われる。しかしいずれにせよ、〈形の思想〉を貫いているのは〈ものの思考〉である。

 

東洋的現実主義=日常性の思想
『哲学入門』は基本的に、三木と西田哲学との緊密な関係、あるいは両者の思考の一体ぶりを強く印象づけている。ところが、それでも三木は最後の最後まで西田哲学に対して疑問を持っていた。入獄前の最後の手紙のなかで三木は次のように書いている。

まず西田哲学を根本的に理解し直し、これを越えてゆく基礎を作らねばならぬと考え、取りかかっております。西田哲学は東洋的現実主義の完成ともいうべきものでしょうが、この東洋的現実主義には大きな長所と共に何か重大な欠点があるのではないでしょうか。東洋的現実主義の正体を捉えようと思って、仏教の本なども読んでみています。ともかく西田哲学と根本的に対質するのでなければ将来の日本の新しい哲学は生まれてくることができないように思われます。これは困難な課題であるだけ重要な課題です。大いに勉強してやってみるつもりです。(一九四五年一月二〇日、坂田徳男宛手紙、『全集』第一九巻、四五三頁)。

この文面を読むとき、逆に、勉強家の三木に対して数々の疑問が湧いてくる。例えば、西田哲学が「東洋的現実主義」を完成したとか、それをあらためて「根本的に理解し直す」とか、あるいは、仏教との関係とか、この時点に及んでそれらはいったい何を意味しているのだろうか。そもそも焦点となっている「東洋的現実主義」とは何であろうか。そこでまずその正体を見定めるために、一九三四年に書かれた「宗教復興の検討」(『全集』第十三巻、三三-四四頁)を取りあげよう。三木がちょうど『哲学的人間学』と格闘していた時期の評論である。
この評論から次の四点を読み取ることができる。第一に、その当時、東洋思想が流行し、なかでも仏教(仏典)ブームが起こっていた。第二に、仏教が日本化されたのは、仏教そのものの精神を徹底的に学んだからである。そこにおのずから日本仏教という個性が生じるのであって、同じことは西洋文化についても云える。それを突き抜けることで、おのずからそこに日本的特徴が現れる。ちなみに、そのような認識は三木にあっては一貫しており、また西田とも深く共鳴している(例えば「日本文化の特質」『全集』第十七巻、四八六頁)。
第三に、これがもっとも重要な点だが、西洋思想は日常性に対立しかつ危機を重視する文化主義・歴史主義であり、それに対して東洋思想は「自然主義」と云われるが、本来は「日常性の思想」と言うべきである。それが宗教的根底から離れてたんなる処世術になると、歴史から逃避し現実と妥協してしまう。文化が圧迫される非常時の処世法として仏教に関心が集まるのもそうした事情による。しかし、日常性の根底にはそもそも歴史性があり、この点が解明されるべきである(「日常性の歴史哲学」という語は『哲学的人間学』の第二章に出てくる)。そして第四に、「心境的なもの」への関心から、禅が「心の技術」として注目されるにせよ、禅には止まれないところに現代人の不安がある。この最後の点と同様の見方は、例えば、三六年の「日本的性格とファッシズム」(『全集』第十三巻、二六三頁)や三七年の「日本的知性について」(同上、三四七-三五八頁)にも出ている。
要するに、三木によれば、「東洋的現実主義=日常性の思想」は、宗教的根底から離れるとき、「心境主義=処世術」に陥り、歴史からの逃避あるいは現実との妥協を生むというのである。一九三〇年代の中頃、新しい人間の類型(タイプ)の形成をめざしていた三木は、一貫して、東洋思想の弱点を「心境」に止まる点にあると批判していた(例えば、「東洋的人間の批判」や「ヒューマニズムの現代的意義」『全集』第十三巻、二六八-二八四頁)。そして、西田哲学をその心境主義に親和的であるとも考えていた。例えば、一九三六年に書かれた西田哲学の見事なまでの解説「西田哲学の性格について」では、「永遠の今」にともなう過程的弁証法の欠落を課題として指摘し、西田は実践・行為・制作を強調するが、基本的には観想的であるとみなしている(『全集』第十巻、四三三-四三四頁)。さらに一九三九年にまとめられた『構想力の論理』の「序」でも、後期西田の影響を明白に受けていながら、西田と名指すことなく、「行為的直観」は「心境」に止まる傾向があると一般論として指摘している(『全集』第八巻、一一頁)。
じつは、西田の思考との一体ぶりが目立つ『哲学入門』でも、そのような眼で子細に追うならば、両者のあいだの微妙な違いが浮かび上がってくる(『全集』第七巻)。たしかに次のような箇所を見れば、三木が西田(「作られたものから作るものへ」)と基本的に同じ思考をしており、同じ枠組みに立っていると言っても間違いはない。すなわち、「人間も世界における一個の物にほからならず」(同上、一五頁)、「作られて作るものというのが人間の根本規定である」(同上、一八頁)という箇所である。しかし、後段の別の箇所に着目するとき、和辻に対する批判だけでなく、西田哲学との差異もまた感じられるだろう。例えば、「特殊な個別的社会」もしくは「民族」と同時に「世界」においてある(同上、一六八頁)、「間柄・格人」を超えた「人格」(我と汝との関係、真の自己、個人)が成立する(同上、一七九頁)、たんに「民族的」であると同時に「人類的」でもある(同上、一八一頁)、「閉じた社会」と同時に「開かれた社会」にも属する(同上、一八三頁)、などの箇所である。
西田では、「民族」・「特殊な個別的社会」・「間柄」・「閉じた社会」という前者の系列は、「世界」・「人類」・「人格」・「開かれた社会」といった後者の系列によって平面上で包まれていた。それに対して三木では、「同時」とか「統一」とされながらも、前者の系列に鋭く対置される形で後者の系列が位置づけられている。しかも、そこで指摘されているように、その違いは「個人」の主体性の質に関連している。

 

::民族は個人の行為を媒介として世界的になることができる。民族が世界的になるということは自己の本質を失うことではなく、かえってそれは自己の本質を発揮することに拠って真に世界的になることである。個人もまた自己の本質を発揮することによって真に民族的になることができ、同時に真に世界的になるのである。歴史的なものはすべて個別的なものであり、個別的なものは一般的なものと個別的なものとの統一である。個人、民族、世界は相互に否定的に対立している、しかも否定は媒介であり、否定の媒介によって物は具体的現実的になるというのが弁証法の論理である。::(『全集』第七巻、一七〇-一七一頁)

 

ここに見られる相互否定の論理は、表面的に見れば、田辺元の絶対媒介の論理(種の論理)に酷似している。しかし、田辺の「自己」は道徳的・宗教的な「行者」のそれであって、ひたすら自己否定に邁進し、空転を重ねるという意味では無内容であった(32)。それに比べると、三木の「個人」は自然と人類の歴史を背景にした「世界」を背負い、「民族」に向かって屹立している。三木は田辺のターム「特殊的」をあえて用いていないのである。それでは、西田との差異はどこにあるか。それをあえて際立たせるとこうなるだろう。すなわち、西田の「自己」が〈座り込む=包み込まれる〉という垂直的・空間的な次元からなおも抜け出せていないとすれば、三木の「自己」は〈作り直す=創造される〉という水平的・時間的な次元に立っている、と。
三木にとって「心の技術」も「技術」であるから、同じく形を作ることではあるが、社会から逃避するための技術であってはならない(同上、一七六頁)。それに対して三木が注目したのは、同じ「技術」でもとりわけ「社会技術」であり、これによって「東洋的現実主義=日常性の思想」を乗り越えることができると考えたのである。そして、乗り越えられるはずであった。しかし、死の直前の手紙には必ずしもそうならなかったことが暗示されている。いったいその背後にはどのような事情が潜んでいるのだろうか。これに答えるためには、「社会技術」と日常性(常識)の関係を三木がどのように考えていたかを確かめる必要がある。

 

社会技術と常識の二元性
まずは、「技術学の理念」(一九三六年)と「技術と新文化」(一九四二年)とを比較しながら、「技術」とりわけ「社会技術」に関わる三木の見方を押さえておこう。前者は『哲学的人間学』と結びつき、後者は『哲学入門』や『技術哲学』とつながる。この比較から技術に関する見方の変化が浮かび上がるだろう。なお、『技術哲学』の前身は『構想力の論理』の「技術」(一九三八年発表)である。
「技術学の理念」にはすでに「社会技術」、「統制」、「計画化」という言葉が見られる(『全集』第七巻、三一二頁)。それとともに、東洋的自然観・社会観の根底は一種の技術哲学・技術的世界観であるとの認識が示されている。東洋では道徳も技術的に考えられているから、その意味で「日本精神」と技術とが結びつく。ただし、この東洋的技術的世界観はあくまで「道具」技術的であって、「機械」技術的な見方(この前提が近代科学)に欠けているため、今日必要なのは東洋的技術的世界観のうちに近代科学の見方を「たたき込む」ことだとされる(同上、三一五-三一六頁)。ただし、この論文では、近代科学の見方の「たたき込み」がなぜ「社会技術」になるのかという点は明瞭ではない。それが、六年後の「技術と新文化」になると、はるかに具体的な見方に発展している。それをもたらしたのは、おそらく、政策研究会への参加とそこで得られた知見であろう。
後者の論文では最初に、「東亜新秩序」の建設にともなう「新文化」の歴史的意義がこう述べられている。新文化を創造するためには、「精神文化」(東洋の伝統)と西洋近代科学を基礎とした近代技術とを統一し、調和させなければならない。これは日本文化・東洋文化だけの問題ではなく、西洋文化も直面している世界史的な課題である。西洋の近代文化を単純に西洋文化として受けとるのではなく、まさに世界的な近代文化として見なくてはならない。近代文化の著しい特徴は技術の飛躍的発達である。しかし、物質文化が発達した結果、精神文化の危機に直面している。機械の発達が人間を片輪にし、人間の非人格化を招き、精神的に個性をもたぬ大衆が登場し、総じて人間が「唯物論的」になっている。そうした状況から近代文化に対する批判が生まれ、さらに技術に対するペシミズムも派生する。要するに、技術と精神文化との統一あるいは調和は、世界史的な新しい文化の課題であり、西洋文化の内側でも問われている。東亜の新文化もこの課題を解決することで世界史的意義をもつことができる(同上、三一九-三二〇頁)。
ここまでのところで、前半部分(「世界史的課題」)を見れば、三木が優れて〈現代的近代〉の視点をもっていることが明示されている。ただし、三木はその〈現代的近代〉を単純に肯定し、その現実から出発しているわけではない。後半部分(「大衆」や「精神」)では、オルテガと同じ旧世代の感覚とまでは言わないが、少なくとも例えば、ハイデッガーと同質の精神的エリートの感覚が窺えるからである。
さて、三木は続ける。課題の焦点は技術をいかにして再び「有機化」するかにある。近代技術は有機的なものからの解放を特色とする。同じ「技術」であっても「道具」と「機械」とは異なり、道具技術は人間生活と有機的に結びつくが、機械技術では人間と対立する。したがって焦点は、機械技術を人間生活に対して有機的なものにすることに絞られる。翻って日本精神について云えば、そこには道具技術・科学はあるが、近代科学・近代技術はない。それゆえ新しい飛躍が必要になるが、これはしかし日本精神の西洋化ではない。世界史的な文化の問題なのである。ただし、西洋文化の方がむしろ解決できていないから、高度に新しい文化をめざして日本精神の深化・発達が求められている(同上、三二五頁)。
それでは「有機化」つまり組織化はどうすれば実現できるのか。それは道具技術を復活することでもなければ、「心の技術」を持ち出すことでもない。たしかに「心の技術」は必要であり、この伝統は活かして行くべきであるが、それだけでは今日の膨大で強力な機構をコントロールすることはできない。いっそう科学的・客観的な技術、あるいは技術を支配する技術、すなわち「社会技術」をこそ必要とする。社会科学を基礎とする社会技術によって、近代の機械技術はいわば「社会的身体」のうちに有機化される。それは具体的には「国土計画」という形になる(同上、三二六頁)。
以上、「社会技術」が必要とされる理由はたしかに明確にされている。しかし、三木の考え方に問題がないわけではない。というのは、「たたき込み」という表現に象徴されているように、当の「社会技術」が作り変えようとする相手、すなわち「日常性の思想」(常識)が、『哲学的人間学』段階の捉え方とほとんど変化しておらず、相変わらず固定的に押さえられ、その結果、「日常性=常識」がいわば〈外から〉あるいは〈上から〉見下ろされているからである。
三木の常識観を振り返っておこう。『哲学的人間学』(『全集』第一八巻、三三-三八頁)では、日常性=常識は「ドクサ」としてその「平均・均衡」面から捉えられていた。そこから「歴史性」の視点が必要とされていた。それと同じ見地が『哲学入門』でも基本的にくり返されている。三木は「常識」の特徴を三点ほど挙げる。すなわち、日常的・行為的知識、閉じた社会の社会的知識、そして直接性・自明性をもった有機的・社会均衡的知識、である。そのうえで、常識のうちに(あえて戸坂のタ-ムを用いれば)二つの「水準」を区別する。一方にあるのが「閉じた社会=民族=有機的な常識」であり、他方にあるのが「開いた社会=人類=危機的な良識」である。あるいは、「日常的=社会的(閉じた)=安定・均衡的な常識」と、これに対峙する「非日常的=危機的=科学的な良識」である。すでに確認してきたように、民族的常識と人類的良識との交わることのない平行線という見方は、民族・文化・間柄に対置された人類・自然・個人という構図と呼応している。
このように、三木では「常識」が二つに分裂し、二元対立に止まっている。そのかぎり、人類的良識に支えられた彼の「社会技術」は、民族的常識=現実(軍部の非合理で場当たり的な統制と大衆の迎合=処世術)の壁の前で、(思想の次元で言えば)足踏みせざるをえないだろう。三木の常識の二元的な捉え方がすべての困難さの背景にある。この困難を突破するには、常識の内側からの批判なり、常識の内側から常識を超えるなり、あるいは、常識の内部に良識を見いだすなりすること以外に活路はないだろう。想像するに、三木はこの「有機化」の段階で初めて、常識との本格的な格闘を迫られたのではなかろうか。そしてその格闘が仏教の読み直しへと彼を強い、「宗教的根底」から親鸞を解釈し直すきっかけを与えたのではなかろうか。その事情を追跡するなかで三木の思考の最深部を見届けなければならない。

 

死の問題と〈虚無の思考〉
三木は自分のことを「元来宗教的傾向をもった人間」であったという(「手記」『全集』第十八巻、一〇四頁)。三木の最初の著作『パスカルにおける人間の研究』から、哲学上の転回を経験しつつあった頃の『人生論ノート』、そして遺稿「親鸞論」までを並べるとき、その言葉に偽りのないことがわかる。そして彼の宗教的意識の核心には「死」の問題があった。ただし、死の見方は最初の二つの著作のあいだで大きく変化している。
パスカル論では、人間の根源的状態(虚無・動性)を二つの無限・深淵のあいだの中間者として捉えたうえで、そこに避け難くともなう「不安」と「死の恐怖」から、「確実なもの」すなわち「神」が希求されていた(『全集』第一巻、一二、一四、二一、四五、四八、五六、一〇四、一五八頁)。ところが、『人生論ノート』の冒頭「死について」では、「死の恐怖」が近ごろでは薄らいだとし、その理由として、死者との再会という切なる希望を可能にする「死者の世界」、言い換えれば、愛する者・親しい者たちとの関係がそのまま延長された「死者の世界」に対する信念が披露されている。そしてまた、「死者の蘇り・永生」という信念が「伝統主義」に結びつけられてもいる。ここにはパスカルではなく、むしろモンテーニュと東洋の知恵をいっそう身近に感じている三木がいる(同上、一九五-二〇三頁)。
『人生論ノート』の三木がやがて「親鸞論」に行き着いたのも、その「伝統主義」と内的なつながりがある。「歴史を貫く教の絶対性はその伝統性において認められる」、「親鸞は浄土教の伝統の中に自己の生命を投げ込んだ」、「この伝統は彼にとって生死を賭けた絶対的なものだった」(『全集』第十八巻、四六四-四六五頁)。死者でありつつ永遠に生きている親鸞との語らい、親鸞からの呼びかけ・励まし、つまり親鸞という伝統が、ともすれば挫けそうになる三木を支えている。「死を現在に自覚し、如何にこれに処すべきかという自覚が人生の全体を自覚する可能性を与えるごとく、現在は末法であるという自覚が歴史の全体を自覚する可能性を与える」(同上、四四六頁)。獄中の三木は明らかに親鸞のうちに自分を投影している。
『人生論ノート』と「親鸞論」とに共通するのは、人格をもった死者の世界の存在に対する信念である。つまり、親しい死者との対話や偉大な死者との対話のもつリアリティである。三木が求めたのは自己を包み込んでくれる拠り所ではなく、逆風のなかで闘う個人、歴史を変革する個人を支えてくれる拠り所であった。だからこそ、西田の禅ではなく、親鸞の浄土教でなければならなかった。
西田と三木のあいだの宗教観の違いの根源には、「死」の感じ方の違いがある。西田では、「永遠の今」すなわち「作られつつ作る」ことの瞬間において、生と死がくり返される。それは通常の意味での生死ではない。生死を超えた境地=悟りであり、現象即実在の立ち現れである。なるほど、彼自身は個人生活では肉親や門弟の死を幾度となく体験した。そして人生は「悲哀」であり、そこから宗教の問題が起こると語っている。しかし、論理としての西田哲学には「死者の世界」はない。絶対者とは絶対矛盾の自己同一としての世界そのものである。西田にあっては絶対者のなかで一つに溶け合っていた世界性と宗教性が、三木では世界の「世界性=人類史=自然史」の次元と、死をめぐる「救済=究極性=宗教性」の次元とに分岐している。
『人生論ノート』以降の三木が「死」の見方を変えたことは疑いない。それはしかし、「死」を問題にする彼の根底にある思考、すなわち「無」と「存在」をめぐる思考まで変わったことを意味するのだろうか。そうではない。じつに一貫しているのである。省みれば、パスカル論では「虚無」ゆえに「確実性」としての「神」が求められた。『哲学的人間学』の時期には人間の類型(タイプ)が求められた。そして『構想力の論理』では「形」が求められた。『構想力の論理』とまったく同時期の『人生論ノート』では、死者の世界や伝統主義とともに、「人間の条件」である「虚無」についてこう語られている。「自己は虚無の中の一つの点」である。人間(生命)とは「虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。虚無を掻き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生のように異なっている。しかし虚無は人間の条件である」(『全集』第一巻、二五四頁)。そう捉えたうえで三木は、虚無ゆえの「不定なもの」を結びつけて新たな形を作る「混合の弁証法」を語るのである(33)。このように三木の思考の最深部を一貫して「虚無」が通底している。それを《虚無の思考》と呼んでみよう。
本節ではここまで、三木の哲学を〈形の思想〉と規定してきた。しかしいま、修正を迫られている。例えば、西田における「形」とは、あくまで唯一のもの(個物、世界)が形成する個性である。働き合いを通じて〈もの〉と世界とがおのずから身に帯びるのが「形」である。それに対して三木の場合、西田と同じく「ものを作る」といっても、それは「虚無」からの形成であり、「不定なもの」の「掻き集め」による。したがって、そこには「型」にはめるというニュアンスがどうしても纏わりつくが、三木はむしろそこに積極的な意味を見いだしている。『哲学的人間学』では、「タイプ」は特殊と普遍との具体的統一であり、「人間類型」のように「構想力」によって描かれるとされる。「真に歴史的なものはタイプ的なものであり、真の歴史的人間はタイプ的である」(『全集』十八巻、一八六頁)。ちなみに、「人間類型」という表現は戦後民主主義の旗手の一人・大塚久雄に引き継がれていく。また、『哲学入門』でも同様に、「型」は一般的かつ個別的なもの、つまり歴史的な「形」とされている(『全集』第七巻、一一五頁)。以上をふまえるなら、三木の思想を特徴づけるのに一般的な「形」よりも、「型(タイプ)」のほうがむしろふさわしいと言わざるをえないだろう。それゆえ、三木の思想を〈形の思想〉ではなく、《型(タイプ)の思想》と呼び改めたい。
なお、三木の〈虚無の思考〉と西田の〈自覚の思考〉とのあいだの違いについて、時代的・世代的な観点から位置づけることができる。その場合、西田は〈伝統的近代〉の徹底した表現者であり、三木は〈現代的近代〉の鋭い表現者であることになる。もちろん、〈伝統的近代〉の表現の仕方には、西田の徹底性に及ばないにしても、清沢満之や漱石や鴎外や柳田國男などのように、それとは別の形態もあった。他方、三木には既述のように、「大衆」に対する精神(貴族)主義的な反感が見られるから、その点で次にとりあげる戸坂と比べると、〈現代的近代〉の「純粋」な思想家とは言えないかもしれない。しかしともかく、〈伝統的近代〉の時代には西田の〈自覚の思考〉が共通の土台となったし、三木の〈虚無の思考〉のうちに〈現代的近代〉はもっとも鋭敏な形で映し出されていたのである。
けっきょく、三木の〈型(タイプ)の思想〉では、二つの異質な思考、すなわち、〈ものの思考〉と〈虚無の思考〉とが同時に鳴り響いている。良識と常識との二元対立を生み、その帰結として、社会技術による〈上から〉あるいは〈外から〉の「有機化」(組織再編成)の構想とその挫折をもたらしたのは、本質的にはその二つの思考のあいだの緊張と亀裂、不協和音であったと捉えることができる。〈型(タイプ)の思想〉は大衆の「常識」を前に立ち往生せざるを得なかった。そのとき求められるのは、おそらく、三木自身も二重の暗闇(時代および獄中)のなかで探ろうとしていた方向、つまり「常識」をその内側から捉え返すことである。そのためには、〈虚無の思考〉から〈ものの思考〉を切り離し、後者を徹底して自立させるのでなければならないだろう。そしてこの徹底は逆説的な形で戸坂にバトンタッチされたのである。

 

 

第五節 戸坂の〈実際の思想〉

 

〈現代的近代〉の思想家・戸坂
戸坂は〈現代的近代〉という時代をじつに的確に捉えている。例えば「モダニズムの文学について」と題された評論(「思想としての文学」)を取りあげてみよう。「文学意識」の窓をとおしてそこに鋭い時代認識の一端をしかと確認できる(『戸坂潤全集』第四巻、九一-九五頁)。
まず、「モダニズム」文学が登場する背景について戸坂はこう言う。「交通網の極度の発達、経済財および一般財の近代商品化、それに基づく生活資料のかなりの程度の各個人間のまたは国際的な共通点、それからこれらに対応する生活様式の経済上または政治上社会上のかなりな程度の共通点。以上のような生活は、現象としてみれば一切の生活材料が出揃って羅列され、雑然とした一種のアトモスフェアを造り、やがて一種虚無的なケオスを造り出す」。そのような「混沌」を「雑然たる統一」にもたらすためには、「感覚」とか「理知」、「意識の内部的時間の流れの軸」、「社会のメカニズム」などに依拠せざるをえないが、それこそ多様な「モダニズム」なのである。
つぎに、第一次大戦前後における意識の変容についてはこう言う。「モダニズム」は、文学であろうと一般の生活意識であろうと、一部の代表的な(一種の支配的な)知識人または教養人から軽蔑されてきた。その彼らを支えていたのは、「プロイセン的な消極的消費生活にもとづくドイツ的教養」であり、「封建的な制限を辛うじて打破したばかりの日本のいわゆる半隷属的な消費生活に基づくヒューマニズム的文学的意識」であった。しかし、その種の「教養」も、第一次大戦後に流れ込んできたモダニズム=アメリカニズムには抵抗できなかった。その結果、文学そのものとイコ-ルにされた各種のヒューマニズム(個人主義・人格主義・モラリズム・人生派・深刻派・高踏派)や、日本風に人道主義化された自然主義、それらにともなうセンチメンタリズムは、ことごとく文学上のモダニズムによって罵倒された。そのさいの合い言葉は「スピーディ」、「朗らか」、「ナンセンス」である。
それでは、「モダニズム」の本質はどこにあるのか。近代資本主義による消費および生産の「絢爛たる外貌」・「過剰に豊沢な外面的相貌」は、まずは抹消感覚を刺激し、「感覚主義」を生む。ただし、それがコマーシャリズムに抱え込まれると、センチメンタリズムや、新奇さを強調するセンセーショナリズムに堕落する。それに対して、「意識の流れ」の文学や「主知主義」の場合、なるほどモラルとの積極的な結びつきはある。しかし、スタイルではなく生活意識として見るかぎり、モダニズムには共通して根本的な制限ないし欠陥がある。戸坂はそれを「機械論」もしくは「機械主義」と捉える。
そうだとすれば、「モダニズム」を乗り越えるためには何が求められるのか。戸坂によれば、「客観的世界の法則を離れては何らの倫理も道徳もない」。大事なのはたんなる「モラル」ではなく、「生活の客観的原理」に基づく「モラリティ」、つまり「生活の論理」である。「客観的実在を貫くアクチュアリティを離れて実在や実存を考えうると思うのは、文学者かうす甘い哲学者にしか通用しないテーゼ」である。モダニズムは機械的・幾何学的レベルにとどまっており、「物体的な(ザッハリッヒではなく)モラリティ」にも、「物体的なリアリティ」にも至っていない。モダニズムの機械主義=純粋の資本主義=消費生活に対する解決は、「一方でテヒノロギー、他方でディアレクティーク」である。
上記の批評は、三木とのつながりにおいても、時代認識の点でもきわめて重要である。「混沌の雑然たる統一」は、三木の『人生論ノート』における「混合の弁証法」を彷彿とさせ、両者のあいだの同期性・同調性を強くうかがわせる。また「機械論」という捉え方も同様である。他方、第一次大戦前後の変化の把握は、近代日本の三つの段階のうちの〈伝統的近代〉から〈現代的近代〉への移行・転回を、文学意識の側面からじつに鮮やかに捉え、時代・世代の意識の落差を的確に切り出している。ここには〈現代的近代〉の典型的な思想家としての戸坂がいる(34)。

 

戸坂の「唯物論」
今日の時点から見るなら、戸坂のいう「客観的世界の法則」をそのまま素朴に受け取ることはできないだろう。「テヒノロギー」や「ディアレクティーク」も同様である。これらのタームの背後では、戸坂を捕らえていた《階級の思考》が働いているからである。当時、社会科学とは「マルクス主義」すなわち「レーニン=スターリン主義」を意味していた(丸山真男1961)。だから、〈階級の思考〉による制約は戸坂だけに限られたことではなく、日本の多くの知識人にも当てはまる傾向であった。ちなみに、和辻の場合と対照すれば、こちらはこちらで〈民族の思考〉に呪縛されていたと言える。事態を公平に眺めるかぎり、一九三〇年代に〈階級の思考〉と〈民族の思考〉との対抗軸から逃れえた知識人は、おそらくごく少数の例外を除き、世界中どこでもほとんどいなかったであろう。
既述のように、西田哲学の本質は〈自覚の思考〉にある。中期思想までの西田は、〈自覚〉を徹底して掘り下げながら、〈座り込む〉方向にどこまでも突き進んでいった。ところが、その西田が後期思想になると、〈座において見る〉ことから〈ものを作る〉ことへと転回し、「客観主義者」として立ち現れたのである。この転回を刺激し促したのは、もちろん一九二〇年代末あたりからとくに激変しつつあった時代環境である。ただし、時代環境の影響は身近な実例をつうじて働く。
一九二九年の西田自作の歌に、「夜ふけまで又マルクスを論じたりマルクスゆゑにいねがてにする」がある。そしてこれには、「此の頃しばしばマルキスト来りマルクスを論ず」との詞書がつけられている。すでに三木はマルクス主義の斬新な解釈(「基礎経験」)を打ち出していたし、戸坂もやがて唯物論の立場から鋭い批評を次々と発表し始める(「「無の論理」は論理であるか」一九三三年、『戸坂潤全集』第二巻、三四〇-三四八頁)。老年の西田をとりわけ刺激し、三四年あたりから後期思想へ向けて立ち上がらせたのは、多分に、抜きん出て優れた三木の近況や彼との親密な対話であり、また本質を鋭く突きながらも嫌味のない戸坂からの徹底した批判であっただろう。弟子や教え子のなかでも西田はそういう三木や戸坂をとりわけ好み、獄中の彼らをとても心配していた(鶴見俊輔1997b下、一五四頁)。そして戸坂の場合、西田哲学を批判するさいの立脚点としての「唯物論」は、当然のことながら、当時の〈階級の思考〉と不離一体だったはずである。
しかし、事柄はそう単純ではない。戸坂の言説から〈階級の思考〉をひとまず外してみたとき、つまり、「マルクス主義を思想・モラル・風俗化する」(同上、四二三頁)という戸坂の意図から距離をとって眺めたとき、先に引用した「客観的実在」や、「生活」、「アクチュアリティ」、「物体的な(ザッハリッヒでなく)リアリティ」、「物体的なモラリティ」といったフレーズが、意外なことに、西田の後期思想の〈ものの思考〉と呼応し、共鳴し合うことに驚かされる。戸坂が西田を鋭く批判したことを念頭におけば、その印象はたしかに逆説的である。しかし、〈ものの思考〉の眼をもって直観するかぎり、二人の思考のあいだの独特の共鳴ぶりを頭から否認することはできないだろう。じつは、戸坂の批判が向けられていたのは西田の中期思想であった(『無の自覚的体系』や『哲学の根本問題』)。戸坂が西田の後期思想のしかも成熟した表現に達した段階に、正面から向き合い、それを真剣に検討するだけの余裕があったなら、その評価は変わっていたかもしれない。
以上を考慮するとき、戸坂の依拠する「唯物論」とは何であったのか、そこでは〈階級の思考〉だけでなく、それと同時にまた、〈ものの思考〉も働いていたのではないか、さらに〈ものの思考〉との関連で、その「唯物論」の「物」とは何を意味していたのであろうか、等々の疑問が浮かんでくる。三木の場合は前述のとおり、「日常性の思想を内側から捉え返す」ことを志向しながら、けっきょく、〈虚無の思考〉に制約されてそれを果たせなかった。それを遂行して日常の実際的な生活のなかで「物」を考えたのは、戸坂である。そして戸坂にそれが可能であったのは、「思想」の立ち位置を転換して日常性の内部におき直したからである。戸坂の有名な「自己一身上」の観点としての「モラル」の捉え方も(『全集』第四巻、一二、二六二-二六八、三〇〇頁)、じつにその転換上に位置している。避けがたく湧き起こる疑問に答えを見いだすべく、その転換の意味合いを確かめてみなければならない。

 

思想と哲学の立ち位置の転換
戸坂はこう言っている。「いわゆる思考や思惟」とは「制度文物風俗」などからの抽象物であり、これに対して「具象的な思想」とは、それら「制度文物風俗」に基づいて内容実質にしたものである。だからとりわけ「風俗」こそは、思想のもっとも具象的な形態であり、思想がきわめて「日常的な生活意識」となっている場合なのである。そして、そこまで行かなければ本当に「生きている思想」ではない(『全集』第二巻、四一四頁)。
「具象的な思想」にいう「具象」性とはどういうことか。戸坂によれば、「思想」とは一般的には一定の傾向をもった観念であるが、その客観的な条件からみれば、世界に直接した感覚・感触・感情、すなわち「世界観」(世界直観)にほかならない。「直観」という相に位置している点が重要であって、この世界観からそれぞれの文化領域(文学・科学・等々)に特有な「方法」が発生する。そして世界観から方法にいたるあいだに「思想の生きた姿」がある。その意味で思想は「一切の諸文化の要点的要約」である(『全集』第四巻、一四七-一四八頁)。要するに、「思想」は、実質的に日常生活・日常世界の「直観」つまり感じ方であるからこそ、すべての文化の基盤になるのである。
それでは「文化」の一つである「哲学」はどうか。「思想つまり世界観(狭くは人生観)によって我々の日常生活や生産生活や文化活動の一切が貫かれている。この一貫する思想をつかみ出して研究するのが哲学である」(同上、四四四頁)。別言すれば、哲学は「思想の科学」なのである(同上、一四七頁)。戸坂によるこの規定は、戦後思想にとって一定の意義をもったが(鶴見俊輔)、昭和思想全体のなかでも分岐点として重要な意義をもつように思われる。戸坂は続ける。哲学はまた「思想の批判」でもある。思想の批判は(思想が世界観であることによって)「文化そのものの要約的・根本的批判」になる。したがって、社会における哲学の存在理由は「批判」、「批評」、「評論」に帰着する(同上、一四八頁)。そのさい注目すべきは、哲学と「ジャーナリズム」との結合である。後者の生命は「日常的・時事的で実際的な」ことにある。「実際的なもの」こそが「生きた現実」(actual reality)であり、実際的な現実が「生き生きと行なわれる」こと(actuality)が、「刻々」、「日々」、「月々」、「年々」の日常現象そのものなのである(同上、一五〇頁)。
以上から明確になるように、戸坂は「思想」と「哲学」の意味合いを転換するなかで、その立ち位置を日常性=実際性の内側におき戻している。ただし、考えてみれば、それは何も特別なことではないだろう。自前の独り立ちした思想と哲学にとってはむしろ当然のことであり、逆に明治以来のいわゆる「二階家構造」のほうが転倒していたと言わなくてはならない。が、それはともかく、その転換をつうじて、三木の場合とは異なる新たな相貌をもち、しかも後期の西田哲学の「平常底」に逆接する形で(『西田幾多郎全集』第十一巻、四五二頁)、日常性=常識が立ち現れてくるのである。
戸坂は言う。「日常生活はいつもコンベンションを破り新しい必然性を造り出して行くことによってのみ事実保たれている」(『戸坂潤全集』第四巻、一三六頁)。「常識」を固定的に捉えていた三木との違いは明瞭である。

日常生活の特色、実は生活それ自身の特色に他ならないのだが、その特色は、一見雑然としているところの物的関係の綾をば、生活の原則が忠実にもしかも高邁にも貫徹して行くという、ごく平凡なしかしそうかと云ってけっして凡庸とは云えないところの、性質のうちにあると云っていいだろう。この際徒に高尚なものや徒に深刻なものは、最も無責任なものだ。そういう意味では最も物的に具体的なことが、単に肉体的であるとかザッハリッヒであるとかではなく、正に物体的に条件を具象していることが、日常実際生活の特色である。(『全集』第四巻、一三七頁)

「平凡」だがけっして「凡庸」ではないという把握には、三木との違いとともに、あえて言えば、西田の宗教論にいう「平常底」との呼応を読み取ることもできよう。常識はけっきょく「日常性の原理」に帰着し、その日常生活の原理とは「実際性」(actuality)なのである(同上、一三七頁)。常識とは「社会上のたんなる共通感覚」ではなく、「社会的歴史的な日常感覚」のことであり、人間の「歴史的社会的本能」のようなものである(『全集』第二巻、二六四頁)。三木では日常性と歴史性とは対立したままだったが、ここでは分裂していない。
以上をふまえ、戸坂の哲学を《実際の思想》と呼ぶことにしたい。語感上ややインパクトに欠ける面はあるが、日常性のもつ「実際性=アクチュアリティ」を捉えた点を強調するためである。ただし、ここまでのところでは、「最も物的に具体的なこと」という言及はあるにせよ、〈実際の思想〉を貫く〈ものの思考〉はそれほど際立ってはいない。それが際立つのはまさに次の「風俗論」である。

 

風俗と「日本的なもの」と民衆
戸坂は『思想と風俗』「序」のなかで、思想と「風俗」(manners)の関係を次のように捉えている(『全集』第四巻、二七一頁)。思想はその持ち主の身につけば「好みのようなもの」あるいは意識・良心・モラルになる。それに対して同じ思想が、同じ時代の同じ社会に生きる沢山の人びとのあいだで共通する好みになれば「風俗」になる。「ファッション」や「モード」も、それとなく時代や世代や社会階級の「世界観」を象徴している。だから、「世の中の風俗の襞や歪みや蠢き」から、時代のそれぞれの「思想の呼吸と動き」を敏感に抽出することができる。思想は風俗の形をとることによって社会における「肉体的なリアリティ」をもつ。ただし、それはあくまで「社会の皮膚」に相当し、社会の現象ではあってもその内部的機構ではない。このように、戸坂において風俗は身体のメタファーで押さえられている。
それでは、「風俗」とこれに隣接する「習俗」(customs)との関係はどうであろうか(同上、二七三-二七六頁)。戸坂によれば、「習俗」は歴史的伝統を負った社会的規範であり、その意味で人倫や倫理を意味する。他方、「風俗」は「習俗」の微分的・分散的な状態なのである。だから「風俗」もまた、社会のただの習慣や便宜や約束、あるいはたんなる流行ではなく、社会的強制力をもつ。そしてそれゆえに、道徳的倫理的権威とこれを承認することによる「安易快適感(アットホーム)」とが生じるのである。「風俗」の代表が「性的関係」(性風俗)とみなされるのも以上の理由による。要するに、「制度」および「制度習得感」としての「習俗」が、「一見片々たる細々した手回り品や言葉ぶり」にまで細分されて捉えられた場合が「風俗」なのである。社会機構の本質が「風俗」にいたってその「豊麗なまたは醜い肉付けや皮膚」をえて、その最後の「衣装づけ」を終わる。
戸坂はこう言う。「モラル」は行動の「実際的論理」あるいは「人間的メカニズム」であり、「一身上の肉」となった思想の姿や世界観の形である。だから、「モラル」は「趣味」や「風俗」となって現れることができる(同上、二九二頁)。「趣味や好み」は良心の端的な断面であり、認識や見識や政治的意見の指標である。その大衆化としての「風俗」は、「モラルの徴表」あるいは「モラルの感覚的・物的・分泌物」であり、「モラル」の観点をいっそう掘り下げた立場である。ともかく、趣味や風俗はモラルが生きているかどうか、性格個性があるか、リアリティと大衆性をもつか、いや、究極的にはたんに「面白い」かどうか、という点に直接関係している(同上、二八〇-二八二頁)。戸坂によれば、「モラル」が「感覚的・物的・分泌物」とか「面白さ」にまで達しないと、それは「生きたもの」にならない。ここで戸坂はほとんど今日の若い世代の〈モノ感覚〉と同じ平面上に立っている。
さらに戸坂は続ける。習俗が「被服や建築や動作や顔つき」という「物的な感覚的な形」に現れたものが「風俗」であり、これは人情・人倫・道徳・倫理の「最も感覚的で物的」な表現である。だから、「国民思想」とか「國體」をはっきりとつかめない人でも、日本人の「風俗」を端的につかむことができる。つまり、「風俗」こそは「日本の国民思想の具体的表現」なのである(同上、二八六-二八七頁)。
以上で見てきたように、戸坂の〈実際の思想〉は「風俗」に行き着いた。「風俗」とは端的に、「片々たる細々した手回り品や言葉ぶり」とか、「被服や建築や動作や顔つき」であって、最終的には「面白さ」にまで還元される。それはつまるところ、「習俗」を分散し微分化している「物的な感覚的な形」なのである。とすれば、〈モノ感覚〉にほとんど連続している戸坂の捉え方のうちに、西田の〈ものの思考〉の具体化・日常化した姿を見届けたとしても、けっして奇異な感じはしないだろう。戸坂の〈実際の思想〉の深部では、そのように日常化した水準で〈ものの思考〉はたしかに働いているのである。
ところで、戸坂によれば、「風俗」はその背後に、もとよりあくまで「習俗」、「制度」、「国民思想」あるいは「國體」を抱えていた。したがって、日常性の内側に立った地点で、そこからいまいちど「風俗」に対峙する必要が出てくる。日常をその内側からとらえ直すということは、「風俗」のなかをただ泳ぎ漂うことではなく、その内部に一定の距離を創り出すこと、制度とのつながりを問い直し、制度を相対化することだからである。そのとき焦点となるのが、一方では自己と「大衆」・「日本的なもの」・「民衆」との関係であり、他方では民衆の「常識」の捉え方である。そこでまず、自己との関係を検討するために、「日本の民衆と「日本的なもの」」と題された論評を取りあげてみよう(同上、二〇三-二〇九頁)。この論評は、近代日本の知識人の「自我の探求」がどこまで具体化されるものなのか、そのギリギリの限界を示しており、きわめて興味深くかつ重要である。
戸坂はこう書いている。例えば、横光利一の純粋小説論や、小林秀雄の民衆論のような「ブルジョワ文学」でも、「自我の具体化」という問題を深めてともかく「民衆」までは来ている。しかし、そこから直ちに「日本人」・「日本的なるもの」に向かってしまっているが、なぜ「日本民衆的なもの」と言わないのか。「日本的なもの」(万葉の直観的豊醇や、源氏の「もののあわれ」、武士道、義理人情)の分析をみると、現代の日本の民衆とつながっていない。現代の我々日本の民衆が問題になっていない。現代の日本の民衆のありのままの心事をリアリスティックに考察してギャップを埋めないかぎり、「日本的なもの」は日本の民衆にとって、遠いどこかの国の物語のようで、ありがた迷惑であり、照れ臭いものになる。ましてや「家族主義」などの押しつけは理論上の暴力でしかない。戸坂は以上の結論として、民族の問題は日本民衆・日本人民のしかも生活問題の解決に帰着し、自分が身を置きうる場所は日本の民衆の生活以外にはない、と宣言する。
「日本の民衆」の一人としての「自己」―西田は明治・大正前期から昭和初期にかけての知識人として、西洋に対する東洋という枠組みのうちで徹底的に「真の自己」を探求するなかで、普遍的個性に達した。三木は大正後期・昭和初期から中期の知識人として、現代的な虚無意識を抱えつつ、文化を包摂する自然=普遍主義の自己の立場から、社会技術による体制変革に一縷の望みを託した。それに対して戸坂は、小林の民衆観や和辻の「日本精神」とはもちろんのこと、おそらく柳宗悦の「民藝」とも異なって、どちらかと言えばむしろ、柳田國男の「民俗・民具」にきわめて近い地面に立っているように見える。だから、戸坂の〈ものの思考〉が日本の民衆のものの感じ方、つまり「ふつうの人びと」の生活感覚に確実につながっていることは疑いない。しかし、「民衆」や「人民」という「政治」的で、紋切り型の臭いを発するタームには、もう一つの〈階級の思考〉もまた確実に鳴り響いている。「民衆はいかなる国においても階級性そのものをもつ」(同上、二〇七頁)。それはちょうど、和辻が〈民族の思考〉の呪縛から抜け出せないのと同じことであろう。
それでは、「常識」の捉え方はどうであろうか。最後に、「昭和」における初の本格的な常識論(「常識の分析」『全集』第二巻『日本イデオロギー論』、二五〇-二六六頁)を取りあげ、〈実際の思想〉の働き方をいっそう微分的に調べるなかで、〈階級の思考〉との絡み合いの実相とともに、そこを脱して〈ものの思考〉を自立させる可能性を探ってみよう。

 

「健康」と「常識」の二つの水準
戸坂の考えでは、「日常性」にはその原理つまり「実際性」がある。ところが一般には、「日常性=俗物主義=常識」という見方が蔓延している。このように「常識」は相矛盾した見方に分裂している。一方にあるのは、「非または反・科学的・哲学的・文学的という消極的または否定的な知識」という見方であり、他方には、「一人前の・ノーマルな・社会に通用する・実際的な健全で常態な知識」という見方がある(同上、二五〇-二五一頁)。カント的に表現すれば、健全な悟性=常識は「真理でありつつ真理でない」という二律背反に陥っている。これが常識をとりまく根本的な「弁証法的」状況である(同上、二五八-二五九頁)。
その弁証法(あるいはむしろ弁証論)的な矛盾を解く鍵は、戸坂によれば、「常識」にも「知識」とは別に独自の「水準」があるという視点、つまり、知識と「見識」との違いに求められる。この視点に立つとき、上述の二つの側面はそれぞれ、「個々の知識内容としての常識」と「水準としての常識」として位置づけ直される。「知識」としてみれば、いわゆる常識は一般にもっとも低い水準にあるが、常識にも「独自の水準・尺度」・「独自のノルム」がある(「常識水準」)とみなせば、それは最高のもの(「見識」)になる(同上、二六〇-二六一頁)。
ところが、「水準としての常識」のうちでも、今度はまた別の新たな矛盾が生じる。すなわち、「社会人の見識の平均値」にすぎないという見方と、いやそれ以上のものである(べきだ)という見方との矛盾である(同上、二六一頁)。これを解くために戸坂は、「常識」にたいてい結びつけられる「健全さ」という観念に注目する。
戸坂の分析は、「健康」とのアナロジーに沿って進められる。健康の「健全さ」とは、各人の健康(生体・身体・心身)状態の「標準・理想」でありつつ、人間の健康状態の「ノーマルな常態」である。そのことは、誰もが日々感じている「健康の保持」(「不健康疲労物質の新陳代謝と健康回復」)から分ることである。つまり、たえず健康状態を引き上げて発達させることが、人間の平均的なしたがってノーマルで通常の健康常態なのである(同上、二六二頁)。このように押さえたうえで戸坂は常識の考察に進む。
「常識」もまた、社会人の見識をつねに引き上げ、発達させることによって自らを保持できるのであり、その水準の保持がノーマルな常態である。この常態はさらに、「社会人の総平均値」をたえず自分まで高めるように働く。だから、常識水準の平均値はただの平均値ではなく、社会人の見識の平均値にとっての「目標・理想線」なのである。ただし、方眼紙上のその位置は不定であり、その位置を問うことは不可能だが、平均値のあるところつねにその近くに横たわって「力の場」のような作用をする。「本当の常識はそれ自身いつも低下し消散し死滅していく或る活きたものだが、これを常に刺激して活きて行かせ保持発達させるものが、この常識水準という言葉の意味でなくてならぬ」(同上、二六二頁)。「常識水準」とは要するに、理想=ノーマル(規準的)な常態=平均値なのである。
以上、戸坂の「水準としての常識」の捉え方をたどってきた。それは「健全さ」という観念を共通のベースにして、「健康」とのアナロジーで「常識」を捉えるものであった。たしかに、「規準=正常」(normality)の概念分析としてみた場合、戸坂の理解は間違ってはいない。周囲の環境のなかで独自の内的環境をもつ生命体は、たえず不可避的に低下・消散・死滅の方向に向かう動きに抵抗しつつ、そこから不断に自らを引き上げ、元の状態を回復する方向に動くことによって、その独自の内的環境をかろうじて維持している。そこでは「元の状態」が「規準」であると同時に「常態」なのである。だから、戸坂が「水準」のうちに、「標準・理想」と「常態」の両契機をみたことに異論はない。
しかし、戸坂が見逃している点がある。それは、「健康」という「元の状態=常態」にも二つの水準、すなわち、「病気」から回復した状態(安らぎ=消極的快)の水準と、これに支えられて成り立つ「元気溌剌」(積極的快)の水準とがあって、両水準が重なり合っているという点である(35)。そこに「健康」感覚の曖昧さが根ざしている。しかも、後者の水準の健康の「積極的快」の感覚は、個々人のその時々の状態に左右され続け、疲労のうちに鎮静することを除けば固定していない。ところが戸坂は、「保持発達」というタームにおいて両者を混同し、一つの事態に押し込んでしまっている。だが、言うまでもなく、「維持」はたしかに不断の動きのなかで成り立つとしても、その動きは必ずしも特定方向の「発達」を意味しない。
そのように捉えるならば、そして「健康」とのアナロジーに意味があるならば、社会の「常識」に関してこう考えられないだろうか。健康の原点である回復状態(安らぎ)の水準に対応するのは、「ふつうの人びと」の見識=分別=知恵のミニマムの水準、すなわち、日常生活の「平穏さ」・「平凡さ」そのものである(おそらく、その核心は「友好な関係」の維持であろう)。この水準=原点は、戸坂も指摘したように、けっして「凡庸」ではなく、むしろ、その基礎にある生命体の多重で動的な循環回路をつうじて、特定の時代・世代の 常識を、たえず〈下から〉支えるように働くはずである。その湧き起こる泉のような力とともに、特定の常識をつねに変容させるように働く〈横から〉の力、すなわち、広義の技術文化の次元の変動する横波があろう。そしてこの両者の働きかけを受けながら、特定の時代・世代の常識は、ちょうど二〇〇〇年代の現在の状況がそうであるように、個々の「見識」どうしのぶつかり合い・せめぎ合いのなかで、「バランス=ふつう=中点」を求めてたえず揺動し続けるのである。
けっきょく、「保持発達」という表現のうちに、「発達」の方向=目標・理想を掲げて〈上から〉指導性を発揮する〈階級の思考〉と、日常生活に限りなく密着し、ほとんど〈モノ感覚〉に重なるようになった〈ものの思考〉との、不可避で不幸な縺れ合いが、色濃く影を落としているように見える。そう見るのはあるいは穿ちすぎであろうか。当時の戸坂にとって「無産者的常識水準」は際立ってリアルだったかもしれないが、今日ではその輪郭は薄れており、またどこかに指導的な中心があるとも考えられない。とすれば、今日の時点から「回想」するかぎり、戸坂の〈実際の思想〉は常識すなわち〈共通見識〉の中心にたどり着きながら、あと一歩のところでその核心を逸していると言わざるをえないだろう。

 

 

おわりに

 

この長い論考もようやく終りを迎えた。最後にいま一度、本章の昭和思想論の本体部分を要約しておこう。西田・三木・戸坂の思想は、単一の思考線としてではなく、二重の思考線の絡み合い(葛藤・緊張)として捉えられる。喩えるなら、RNAではなく二重の螺旋構造をもつDNAということになろうか。まず、西田の〈原形の思想〉では、〈自覚の思考〉と〈ものの思考〉とが綱を引き合っている。次の三木の〈型(タイプ)の思想〉では、〈虚無の思考〉と〈ものの思考〉とがせめぎあっている。最後の戸坂の〈実際の思想〉では、〈階級の思考〉と〈ものの思考〉とが縺れ合っている。そこから三者三様の時代的・世代的な意味合いをもった個性が生じているのだが、それらを共通して貫いているのは、言うまでもなく、西田がその後期思想で到達した〈ものの思考〉にほかならない。
西田の場合、人類の経験の基本構造である〈原経験〉への徹底した肉薄は、「日本対西洋」という〈伝統的近代〉の枠組みのうちで、本質的に〈自覚の思考〉という形をとった。ところがそれは、どこまでも座り込もうとするその最終的な局面で、〈現代的近代〉の横波を受けて押し出されるかのように、〈ものの思考〉へと転回した。ただし、〈ものの思考〉の具体化は、西田の本質的な〈自覚の思考〉によってたえず引き戻され、相殺されているため、社会・国家哲学として実質を欠くという弱点を曝け出してはいる。とはいえ、〈ものの思考〉のリアリティにまで突き進んだという点で、西田哲学は〈伝統的近代〉の徹底した表現であることにおいて、そのまま一個の普遍的個性を実現しているのである。
では、その〈ものの思考〉とは何か。無数の個物(もの)たちが充満し、働き合っているネットワークの多重の広がりのなかに、自己もまた同じ〈もの〉の一つとして織り込まれ、そこで他のものたちと働き合うことをつうじて、多様で多層な〈形〉が作られては壊れ、また作られていく、そういう〈もの〉と〈形〉の無限のうねりとして「世界」を経験する思考のことである。この思考はしたがって、〈ものたちのあいだのものの一つ=自己〉という感覚を共通の特性にして、制度萌芽段階の〈原初的経験〉とのあいだに、そしてまた、バーチャルな制度を生きる今日と未来のグローバルな世代の〈モノ感覚〉とのあいだに、密接な関係をもつのである。
三木は、西田独特の〈ものの思考〉を受け継ぎ、もの・技術・形をベースとする普遍的な自然史・人類史を構想するなかで、自然と文化・歴史との対立、前近代と近代との対立を乗り越えようとした。ただし、三木にはもう一つ、〈現代的近代〉を鋭く映し出し、彼の思想体質ともなっていた〈虚無の思考〉が働いていた。そのかぎり、彼の普遍的・自然的な人類主義に支えられた「社会技術」は、「東洋的現実主義」という名の「常識」に阻まれ、その外側を旋回せざるをえなかった。とはいえ、他者の理解を拒絶するかのような西田の〈ものの思考〉の独白は、三木という「昭和」の産んだもっとも卓越した「知性」をつうじて、スマートで理解可能な表現を与えられ、〈現代的近代〉の歴史哲学として公に登場することができたのである。
戸坂は、三木が挫折した地点を乗り越え、思想と哲学の立ち位置を「日常性」の内側に置きもどした。それを可能にしたのは、たしかに表層では、当時の〈階級の思考〉と結びついた「唯物論」の立場であったが、その背後では同時に、唯「物」論と響き合う〈ものの思考〉が働いていた。「風俗」への注目をつうじて戸坂は、〈ものの思考〉を日常化し、さらに〈モノ感覚〉にほとんど重なるところまで突き進んだ。戸坂のうちには、〈現代的近代〉が純粋に表現されているだけでなく、同時に〈今日的近代〉もまた映し出されている。たしかに彼は、「民衆=ふつうの人びと」の「常識」をあらためて問い直す地点で、〈階級の思考〉の時代的・世代的な制約を受け、常識論の戸口の前で足踏みしてはいる。しかし、ともかくもその戸口には立っていたのである。

 

「アニミズム」と〈原経験〉
要するに、西田・三木・戸坂の思想を貫いている〈ものの思考〉は、彼らなりに〈原経験〉を把握したものであり、それが現代化され、さらに日常化されるなかで、今日の〈モノ感覚〉とのあいだの親和的な共鳴の関係をますます強めた、ということになる。だが、ここで、次のような疑問が生じてくるに違いない。〈ものの思考〉と言っても、それは所詮、「アニミズム」を「昭和」風にもっともらしくパラフレーズしたものにすぎないのではないか。しばしば論じられているように、「アニミズム」が「日本文化」のいわば原郷・風土・母胎であるなら、「日本的伝統」や「東洋的自然」などはすべて、最終的にはそこに回収され、還元されてしまうだろう。それだけではない。「アニミズム」がさらに中国文明や西洋文明なども含めて、およそ人類の一切の経験の基盤であるならば、厳かな「神々」や「祖霊」といえども、元を正せば、どこにでもいる精霊・霊魂の成れの果てということになるだろう(36)。それゆえ、「アニミズム」が人類の〈原経験〉と同一視されるかぎり、〈ものの思考〉の独自の位置などそもそも存在しないのではないか。
じつのところ、以上の疑義には、「昭和思想」にとってばかりでなく、「日本文化」にとっても、さらに「経験と制度」という大きなテーマにとっても、きわめて本質的な論点が含まれている。とはいえ、いまその解明を本格的に展開するだけの紙幅はないし、またその準備もない。とりあえず、考え方の大まかな方向性を示唆することで満足しなければならない。
タイラー以来の学説や常識によれば、「アニミズム」とは霊魂を実体視するか、少なくとも身体からの遊離・独立を認めるかする思考である。ただし、この思考様式が単独で存立しているとは考えられない。何らかの一群の条件と連関し、それらによって支えられているはずである。例えば、人の身体から魂(心=精神)が分離するとともに、その分離が世界のものたちでも同様に起こっているとみなす、自己と世界の了解の水準があろう。また、この了解と連関するような言語と思考の水準も不可欠であろう。さらに、人やものの魂を操る技術としての呪術の存在も考えられる。そしてそれらの背景には、集団の社会的な関係の一定段階の複雑化・緊密化の水準と、これにともなう形で制度化された社会的ルールの水準が想定されることだろう(37)。仮にそのように考えられるとすれば、「アニミズム」は制度形成後の段階の初期の経験であり、一切の制度内部の経験の基礎様式ということになる。つまり、基礎的な〈制度内経験〉なのである。この点は「アニマティズム」であろうと「マナイズム」であろうと本質的には同様であろう(38)。
そこで、広義の「アニミズム」が〈制度内経験〉であり、しかも、人類欠陥説や記号文化論のように動物段階からいきなり飛躍したとは考えないかぎり、アニミズム以前=制度萌芽段階の経験として、人類の〈原初的経験〉を仮定することができる。そしてここで〈モノ感覚〉が貴重な示唆を与えてくれる。なぜなら、〈モノ・もの=自己〉の一元的感覚や、制度・役割のバーチャルな感覚が、制度内の「アニミズム」ではなく、むしろ制度形成途上の〈原初的経験〉に適合し、これを想像するうえでのモデルになってくれるからである。そして、〈原初的経験〉のモデルとしての〈モノ感覚〉に親和的に共鳴する思考、それが〈ものの思考〉であった。以上のような推論が成り立つとすれば、「アニミズム」は〈原初的経験〉ではなく、これに親和し密接しているのは、むしろ〈ものの思考〉のほうだということになる。それゆえ、〈ものの思考〉は「アニミズム」ではない。ただし、たいてい「アニミズム」が〈原初的経験〉として実感=錯覚されるのは、それが〈制度的経験〉の基礎にあるため、そのかぎりその基底で〈原初的経験〉と接続しているからである。
とはいえ、〈原初的経験〉は経験的・時間的な概念であり、どこまでも歴史的に推定される事実に属している。他方、〈原経験〉のほうは、〈原初的経験〉を考慮しながら、それをも含めた一切の経験を成り立たせる人類の経験の基本構造として、哲学的に構成された概念である。つまり、〈原初的経験〉、〈制度内経験〉およびその基礎様式(アニミズム)、そして〈モノ感覚〉に根ざした経験をすべて貫いて成り立たせている基準となる経験なのである。したがって、〈原初的経験〉と〈原経験〉は、どちらも経験の根本に関わることから内容的に類似し親和性をもつにせよ、意味世界のなかの居場所を異にしている(39)。
そして言うまでもなく、同時代人で言えば、例えばベルクソンのような第一級の哲学者たちと同様に、哲学者の西田が求めたのも〈原経験〉であった。その徹底した肉薄ぶりは、昭和思想・日本文化・西洋文化の底の底へと向かい、その果てに〈ものの思考〉にたどり着いたのである。だからそれは、制度を超える制度である国家を前提とした〈国家内経験〉を突き破り、さらに〈制度内経験〉とその基礎にある広義の「アニミズム」をすら突き破っている。要するに、〈ものの思考〉は、経験的・時間的にも哲学的にも、この二重の意味において「アニミズム」の水準を超えているのである。
もちろん、以上の素描では大まかな方向性しか示されていない。しかし、そこに含まれる意味合いを十分に汲みとることができれば、西田・三木・戸坂と受け継がれてきた〈ものの思考〉をさらに引き継ぎ、ますます徹底させることをつうじて、「経験と制度」の歴史哲学を構想することができるのではないかと考えられる。そのとき、人類の歴史は、〈ものの思考〉を洗練させた〈原経験〉の視座から見て、〈原初的経験〉から始まり、〈制度内経験〉や〈国家内経験〉をへて、いわば〈制度バーチャル経験〉へと至るようなプロセスとして展望されることだろう。そしてこの展望のもとで、「ふつうの人びと」の〈共通見識〉の変容の行方を見渡し、そして見定めつつ、二一世紀の「思想」を語ることに希望をもつことができるのではなかろうか。

 


(1)このグローバル化にはもちろん「金融」面も含まれ、そして現在、深刻な経済問題が発生しているが、グローバル化の全体を「新自由主義」や「株主資本主義」といった平面だけに還元することはできないだろう。
(2)「近代化」に関してはギデンズ以外にも多様な捉え方がある。例えば、ルネサンスから始まると見るのは、S・トゥールミン(1990)や、システム論の立場からギデンズを批判するルーマン(1992)であり、また、技術史観から農業革命、産業革命、IT革命への動向をふまえるD・ベル(1973)やトフラー(1980)である。そのベルに依拠した清水幾太郎(1966)では、「現代」が二〇世紀初頭、一九三〇年代、一九六〇年代と区切られている。もとより、古くはゾンバルトに対抗したトレルチュやウェーバーの見方があるが、ここで屢説するまでもないだろう。なお、一八世紀末に成立した一九世紀型の「西洋的近代」のみを「モダン」と規定しつつ、これを身体的多様性に定位して徹底的に批判したのが、フーコー(1966)である。
(3)例えば、村上泰亮(1984)はかつて、モダニティの制度群の一つである工業主義を中心とした産業文明論のなかで、一九世紀型システム、二〇世紀型システム、そして一九八〇年代から始まる二一世紀型システムを区別していた。今日からふりかえればその慧眼は高く評価できる。
(4)なお、尾藤(2006)は中世後期以降に「日本的近代=伝統」が成立としたと考えているが、その点では、丸山真男(1984)のように古代(さらには縄文時代)から文化が一貫していると捉える固定的・不変的な解釈よりは、優れている。ただし残念なことに、丸山に代表される戦後思想の一面的な歴史観に対する対抗意識が災いして、歴史叙述の素材としては大いに参考になるにせよ、逆の意味で重心の偏りを生んでいるように思われる。後述するように、丸山が三木を継承するとすれば、尾藤は和辻を継承しているのである。この尾藤の場合も戦前の思想の磁力によって思考が歪められている一例と言える。とりわけ和辻の日本文化の捉え方は、そのほかの論者の共通の土俵となっている。例えば丸山は、「歴史意識の古層」では『風土』の「情死」の箇所に依拠し(丸山1992、四一八-四一九頁)、また『日本の思想』では「祀り祀られる神」の分析をふまえつつ論を運んでいる(丸山1961、二〇頁)。「つぎつぎになりゆくいきおい」と「無限定的包容性」のモデルは和辻哲郎(1935)にある。丸山に独自性があるとすれば、歴史の評価を反転させたところであろうか。そして尾藤はその丸山をさらに反転させているのである。
(5)例えば、「最近哲学界の分野」(『三木清全集』第十三巻、九八-一〇四頁)および「不安の思想とその超克」(同第十巻、二八五-三〇九頁)。
(6)例えば、アレン(1931)、同(1939)、平井正ほか編(1983)、S・クラカウアー(1930)、見田宗介(1996)バーバラ・佐藤編(2007)鹿野政直(1983)、柄谷行人編(1997-1998)、鈴木貞美(1993)山下悦子(1988)が参考になった。
(7)一九六〇年代論や一九七〇年代論としては、例えば、桜井哲夫(1988)、北田暁大他編(2005)、絓秀美(2003)坪内祐三(2003)、四方田犬彦(2004)等がある。
(8)小熊英二2002、一八-一九頁。なお、「世代論とはいつの時代も普遍からの逃避であった」という批判もあるが(久野収2003.8朝日新聞夕刊)、仮にそうだとしても、その批判は少なくとも本章には当てはまらない。なぜなら、後述するように、新しい世代の感じ方を人類史の底を貫く基礎的な条件と関連づけようとしているからである。
(9)なお、〈今日的近代〉のうちでも、一九七〇年代から八〇年代にかけての前期と、九〇年代後半以降の後期とを区別できる。前期の主役が「ポストモダン」世代とすれば、後期は「デジタル・ネイティブ」世代ということになる。そして「デジタル・ネイティブ」世代こそは、未来のグローバルなデジタル・メディア世界の感覚をまさに生き始めている世代なのである。以上に関して、カリネスク(1987)、内田隆三(2002)、大塚英志(2004)、アクロス編集室編(1985)、東浩紀(2007)、石井政之(2003)、仲正昌樹(2006)等が参考になる。
(10)「意志」という表現に違和感をもつ人もいるだろう。「欲動」とか「努力」、「運動」と置き換えてもよいが、ともかくここではホッブズ(『リヴァイアサン』)の用法がふまえられている。
(11)これはNBIC収斂テクノロジーと呼ばれている。その哲学的背景については森下直貴ほか(2009b)で論じている。
(12)若い世代の感覚を「動物」と捉える見方もあるが(東浩紀2001)、むしろ「蟲」あるいは「虫」のほうが感覚的にフィットしているだろう。それは人生観の比喩としても古来多用されている(福沢諭吉、小田実)。その点で、同じ「虫と草の世界」のイメージをめぐって、ポスト・モダニティを展望するギデンズの感じ方(1990二一四頁)と、日本のアニメ(例えば「アキラ」や「未来少年コナン」)の描写とのあいだの違いはとても興味深い。前者にとっては「終末=廃墟」であるが、後者では「いのちが再生してくる原っぱ」である。ここには、〈もの=虫〉のあいだの根源的な平等の感覚、いわば零度の平等感覚が流れている。そしてその感覚は、『堤中納言物語』の「虫愛でる姫君」から、それをふまえた宮崎駿の「ナウシカ」や「もののけ姫」までを脈々と貫いている。最近では、「蟲師」が注目され、また「お尻かじり虫」の歌が子どものあいだでブームとなっている。
以上の背景を広くみれば、小さきもの、幼子、童子などへの愛着・愛好があるかもしれない。例えば、かぐや姫、一寸法師、弁慶に対する義経が、即座に思い浮かんでくる。それは倭人=矮小な日本人という自己イメージの投影であろうか。ちなみに、漢字の世界では「虫」は動物の総称である。羽虫(鳥)、毛虫(獣)、甲虫(甲殻類、は虫類)、鱗虫(魚)というように。そして人間は裸虫である。考えてみれば「細胞」こそ〈虫〉の原形であろう。ともかく、蛆虫は小さいものの喩えであり、虫は草むらを這い回る。だから、日本の文化では動物だけでなく、草=植物もまた同じ〈もの=虫〉の仲間に属している。
(13)あえて時代がかった戯れ言を出せば、快楽する〈モノ=虫〉としての自己(自己中=自己虫)こそ、近代日本の知識人が一貫して追究してきた「自我の探求」の終局の姿であろう。
(14)今日、世界中に「ジャパニーズ・クール」を愛好する若者たちがいる。例えばケルツ(2006)。また、スウェーデンに滞在した経験から言えば、当地の若者世代の傾向として、事実婚・シングル、平和志向、ユニセックス化、オタク化、アニメ愛好などの特徴が共有されているように見える。
(15)この面については中村雄二郎(1979)に詳しい。
(16)ここで、〈共通見識〉が多彩なメタファーからなる意味世界であるという点は、哲学の役割との関連できわめて重要であるため、もう少し敷衍しておく。
我々の意味世界では、その中心底部に、ⓐ日常の生活世界の身体的・感覚的な意味世界が広がり、これをⓑ専門的・特殊的な多様で多次元の意味世界が取り囲み、さらにその両者をⓒメタファー的=図式的な意味世界が媒介することで、全体が浸透し合っている。そのうち、特殊的・専門的な意味世界は三層からなる。第一は、身体的・感覚的だが個別的かつ一般的な意味世界(例えば、料理・スポ-ツ・芸術など、広義の技術文化の次元)、第二は、多様な学問的・反省的な観念で構成される一般的な意味世界、そして第三は、数学や論理学の抽象的な形式的・構造的な世界とともに、哲学の抽象的な一般的概念の世界である。
専門学問としての狭義の哲学は別にして、広義の哲学は、多様な意味世界を通覧しながら、一般的概念の水準で、ものごとの成り立ちの基本構造(自己と世界の出会いの経験の原形)を把握し、この把握を拠り所にして、あらゆる意味世界をメタファー的に媒介する。そしてその媒介をつうじて、戸坂も指摘するように、それじたいメタファー世界である〈共通見識〉を反省・批評する。そのかぎり哲学は「文学」の役割と重なる。このように哲学は本質的に、〈メタ・メタファー〉であり、〈メタ・コモンセンス〉なのである。さらに、日常的実践やとりわけ政治的実践がメタファーを駆使するレトリック(修辞的言説)の世界であることから、三木が強調したように、哲学は〈メタ・レトリック〉でもある。以上の点は津田によって第一章で主題的に論じられている。
なお、メタファーと関連してなぜ「感じ方」が重要であるかと言えば、情感・心が知性・精神と脳・生体との媒介の位置にあるからである。そのため、言語操作・意味づけと行動・運動との中間に感情表出・価値づけがくる。「共感」もそこに根ざしている。感情=価値を中心にして、遺伝子・生体・脳神経系・心・知的精神・観念・意味・シンボル・行為・物在・環境のあいだで、多重で動的な循環回路が形成される。そして、そのような回路の基盤・場・マトリックスが〈共通見識〉である。なお、観念と身体のル-プ関係についてはイアン・ハッキング(1999)が参考になる。
(17)人類学の最新の研究成果、例えばレンフルー(2007)やベルウッド(2005)をふまえると、二〇-三〇万年前に登場したとされる最初期のホモ・サピエンスの場合でも、二本歩行と狩猟・採集はもちろんのこと、初期水準ながらも言語や家族・小集団もあって、身体・心の面では現代人とは基本的に大差ないと考えられる。その後、六万年前あたりから世界各地に広がり、集団がいっそう緊密化し、規模も拡大し、さらに定住により緊張関係が増大するにともなって、それ以前から継承された暗黙の相互行為的ル-ル(好意・感謝のやりとり)が親族「制度」として形成・定着・特殊化され、そのなかで、言語・思考の句構造=高次化、心からの魂の分離(アニミズム)、魂・精霊を操る呪術技術の発達などが、同時現象として起こる。そしてさらに、農耕生活が広がり、制度の制度としての国家や宗教が成立することをつうじて、人類の経験は初期のホモ・サピエンスの〈原初的経験〉から決定的に離床していくだろう。なお、フォックス(1967)は親族制度の形成論理を明快に解き明かしている。
(18)制度については、例えば盛山和夫(1997)、今村仁司(2000)、今村仁司・今村真介(2007)が参考になる。
(19)生と死の感じ方の変容については森下直貴(2009a)で論じている。「
(20)付言すれば、一九世紀英国のタイラーが発見した「アニミズム」は、一神教(キリスト教)を頂点とする神観念の発生段階の最初期の形態を意味する。したがってその「アミニズム」では、霊魂・精霊が身体から独立した存在者として想定される。それに対して「アニミズム」以前の〈原初的経験〉では、思考や情念の独自の動きが感じられ、死霊も漠然と表象されつつも、その種の独立・分離という見方は発生していない。その段階で感じられるのは、おそらく、端的に「動くものがある」とか「なにかが動く」という感覚であろう。また、この段階に対応する言語についてはピンカー(1994)やベイカー(2001)を見られたい。ともかく、そのような感じ方をも「アニマ=動くもの」と言うのは構わないが、二元的な「アニミズム」として一括されてしまうと、人類の経験における決定的な違いが見過ごされてしまうだろう。中沢新一(2000)を含めて「アニミズム」を強調するほとんどの論者がその区別を洞察できていない。さらに、鋭い着眼点を示してはいるが、「霊性」という言葉で事柄を曖昧にしている今村仁司(2000)にもその難点は当てはまるだろう。以上に関しては「おわりに」でも言及する。
(21)ここでは、ファシズムと大衆、戦争と平和、国家と個人、社会主義とくにマルクス主義対ファシズム、自由主義と社会主義、連帯、抵抗・翼賛・転向といった思想の枠組みが含意されている。ちなみに、いわゆる「戦後思想」には二つの意味合いがある(小熊2002)。一つは「戦争体験をめぐる思想」であり、もう一つは「敗戦後の思想」である(加藤典洋1997)。後者では一九六〇年代以降の大衆消費社会が視野に収められているが、前者では戦争を体験した世代の戦争をめぐる思想に限定される。ここでいう思想空間の同型性とは前者を指している。例えば、同じ〈現代的近代〉の後期に属していても、丸山は前者であって(その前期に属する三木と重なる)、小田は後者になる(小田実1972、2007)。両者の感覚の違いは意外に大きい。この点は注(23)でも言及する。
(22)昭和を論じる場合、一九三〇年代論が一つの焦点になっている。例えば、吉見俊哉(2002)は一九三〇年代論の系譜を以下のような四期にまとめている。第一期の転向論的な観点(戦前のファシズムと戦後の民主主義とを切断するもの)、第二期の都市大衆消費社会的な観点(一九六〇年代後半から八〇年代にいたる傾向の淵源をむしろ一つ前の一九二〇年代に求めるもの)、第三期の近代批判的な観点(一九七〇年代の危機意識に発する「近代批判」を一九三〇年代に重ねるもの)、そして、第四期の総動員体制論的な観点(一九四〇年代の戦時体制が現代化の始まりとなって、戦後体制の枠組みを連続的に準備したとするもの)である。あるいは別例として、一九三〇年代の政治的危機・思想的対立の構図が一九九〇年代以降の政治状況に酷似しているとする桑野弘隆ほか編(2007)の見方もある。これは、構造的危機(グローバリズムと格差、戦争とナショナリズム、戦争の時代の再現、多極化・ブロック経済、マスメディアと大衆動員)の類似(というよりむしろ高次化か)に着目するものであるが、吉見のいう系譜に位置づければ、いわば第五期の一種の左翼バージョンと言えるかもしれない。さらに他例として、山之内靖ほか編(1995)「現代化」の理論、すなわちヘーゲル的な家族・市民社会・国家からなる近代社会から、パーソンズ流のシステム社会の現代(一九三〇年代以降)への転換という捉え方もある。これはしかし、一九六〇年代に一世を風靡したD・ベルの脱工業化社会論の、「一九世紀モダン」から「二〇世紀モダン」(の第二段階)への転換という基本枠組みに連なるものである。
(23)注(7)と(21)でも言及したように、日本社会のモダニティの三段階の特徴づけをより細かく見るなら、〈伝統的近代〉の前期(福沢諭吉)と後期(夏目漱石・西田幾多郎)、〈現代的近代〉の前期(三木清・戸坂潤)と後期(丸山真男・小田実)、〈今日的近代〉の前期(ポストモダン世代)と後期(デジタル・ネイティブ世代)、という区分になるだろう。ただし、思想家を扱う場合、「世代」に言及した箇所で指摘したように、体験と思想表現の時期のあいだには二〇年程度のタイムラグがある。それゆえ、二つの時期の交錯という視点をさらに導入する必要がある。例えば、「天保の老人」世代に属する福沢の場合(一身二生)では〈伝統〉と〈伝統的近代〉が、ハイデッガーと同世代の田辺元や和辻哲郎の場合では、〈伝統的近代〉と〈現代的近代〉とが、それぞれ交錯している。その点を考慮すれば、丸山真男の場合、戦後焼け跡世代の小田実に比べるなら、感覚的にはむしろはるかに三木に近いわけである。
(24)例えば、阿部謹也(1995)、阿部謹也(1997)がその典型である。
(25)例えば、アルベール・カーンの記録映像や関東大震災の記録映像が参考になる。ちなみに、全集に収められた写真を眺めるかぎり、西田は和服で通しているが、三木や戸坂はほとんど洋服を着用している。
(26)例えば、丸山真男(1961)では「共同体意識」の近代化による変容の側面がうまく捉えられていない。その点は尾藤正英(2000)もまた同様である。
(27)この意味は、哲学の世界で独自な哲学として一般に認められるということであるが、その普遍的個性が特殊な(西田の場合は「日本的」な)色調を帯びるのは、他の偉大な哲学者と同様にこれまた一般的なことである。
(28)一方に、例えば大橋良介(2001/2004)や藤田正勝(2007)のような戦後世代の京都学派による肯定があり、他方に、例えば古在由重(1968)や廣松渉(1980)のようなマルクス主義者ないし左翼の側からの否定または乗り越えがある。
(29)和辻や田辺については森下直貴(2005b)ならびに森下直貴(2005a)で論じている。
(30)「昭和思想史」のその後についても試論的に描いておこう。そのためには、時代と世代の変貌を考慮して、次の二つの定点(座標軸の原点)を設定する必要がある。最初の定点は一九七〇年代である。ここでは二つの軸、〈人類・普遍―文化・特殊〉のX軸と、〈個人・人為―共同・自然〉のY軸が立てられる。その座標には以下の四つの思想パターンが位置づけられる。時代順に左下から時計回りに並べると、〈民族・風土〉(和辻哲郎)→〈国民・個人〉(丸山真男)→〈市民・連帯〉(小田実)→〈根源的自然〉(構造主義)になろう。他方、二番目の定点は最初の定点から三〇年後の二〇〇〇年代の現在である。ここでは軸そのものが変容・拡大し、〈グローバル―ローカル〉のX軸と〈人工的―自然的〉のY軸になる。座標軸のこのような変容は、〈現代的近代〉から〈今日的近代〉への変容に対応している。それにともなって思想パターンの中心も、左側の〈多文化主義・市民ネットワーク〉対〈伝統・根源的自然〉から、右側の〈サイボーグ・デジタル情報体・超人類〉対〈ユーラシア的アニミズム・霊性〉へと移動している。
二つの定点の基盤には常識=共通見識の特定の「構造」があり、この内容が変容することで定点と構図全体が移動する。例えば自己・他者に関わる次元で言えば、〈共同体→個人→薄い私〉という変容である。それと同時に、すでに指摘したように、変容のなかでも持続する要素がある。日本の思想の場合、それは〈ものたちのあいだのものの一つ〉という根源的な平等の感覚であり、これと関連して、身体・心から知性的精神をそれほど明確には区別しない思考(「アニミズム」以前の水準)である。このようにつながり・連続性を重視するこの特徴を〈関係主義〉と呼ぶことができる。
ちなみに、西洋思想の場合、日本思想の水平的な〈関係主義〉と対照させるなら、心身と精神=知性との峻別、知性重視の方向が目立っており、そこから、「神々」がアニミズムを抜け出し、デーミウルゴス的主体性・製作性をもって世界に向かうことになる。この基盤のうえに、愛・意志・理性が重なって「人間の尊厳」の観念を構成している。この意味での垂直的な〈人間主義〉が西洋思想を貫く座標軸の原点である。この原点=定点も変容してきているが、今日の先端テクノロジーをめぐる文脈で言えば、〈超人間主義―アンチ人間主義〉のX軸と、〈人工的―自然的〉のY軸とからなる座標面上に、四つの思考パタ-ンが位置づけられる。すなわち、左下から時計回りに、「根源的自然」(後期ハイデッガー)、「ハイブリッド」(ハラウェイ)、「トランスヒューマン」(カーツワイルやボストロム)、それに「超越的他者」(デュピュイ)である。以上については注(11)の森下ら(2009b)で説明している。
なお、本章では論究できないが、日本や中国と西洋の思想に共通する根底を探ることによって、神々や祖霊はもとより、さらにアニミズムより以前の、それらがそこから生成してくる〈原初的経験〉を想定することができるだろう。その核心部にはおそらく、動くもの=生きもの=ひと(人格)という自己と世界の出会いの形があろう。具体的には、〈もの=ひと〉の同一視(擬人観)と、もの・ひとたちとのあいだの相互的な〈もののやりとり〉であると想定される。
(31)「作られるものから作るものへ」という「原形」が、東西文化の場面に映されたとき、そこに浮かび上がるのが多様な「世界文化」である。このように、「原形」が多次元の場面に映し出されて多様な現象形態をとるという思考は、西田哲学の基本特徴すなわち〈原形の思想〉である。これは数学で言えば「射影変換」「位相変換」あるいは「同型写像」に対応している。また、「経験と制度」という文脈に広げて言えば、プラトン『国家論』の「イデア」とも、ホッブズの「人工的制作」とも、ヘーゲルの「精神」ともおよそ異次元にあるリアリティの見方、つまりバーチャル・リアリティの発想をそこに見ることができる。「バーチャル」とは既述のように、ものたちのあいだに強度=力の度合いの差異だけを認めるようなリアリティの見方である。
(32)森下直貴(2005a)、二五頁。
(33)『全集』第一巻、二五九-二六〇頁。三木では、無限・虚無・中間・動性・不安という言葉は互換的である。ときどき別の意味にも用いられているが、基本の考え方は一貫しているとみてよい。また、なぜ「混合」が可能かと言えば、そもそもあらゆるものが「虚無」のうえに成り立つ「不定なもの」だからである。したがって、前近代の「限定」や「性格」も、近代の「無定形」や「無性格」も、根本的にはすべて「不定なもの」を背景にしていることになる。このあたりの解釈には難しい面もあるが(津田雅夫2007、二三二-二三五、二八一頁)、「不定」と「無定形」とは次元が異なると考えるべきだろう。
(34)なお、「自然主義」をめぐる記述では、明らかに小林秀雄の『私小説論』をふまえつつ、小林本人よりもはるかに分りやすく要約してある(九二-九三頁)。また、「疑似モダニズム文学」批判中の「不安の哲学」や「パトス的論理」は三木への批判である(関連して『全集』第二巻、四〇六、四一〇頁)。
(35)「二重の自己循環運動」については森下直貴(2003)を見られたい。
(36)関連文献として、木村凌二(2005)、池澤優(2002)、大森荘蔵(1979)、加地伸行(1990)、白川静・梅原猛(2002)、廣松渉(1979)、山内昶(2004)、モース(1967)等がある。
(37)注(17)参照。制度化される以前の暗黙の社会的ルールの原動力とは、財や女性の移転にともなう〈好意・感謝の相互的なやりとり〉であると考えられる。それがおそらく、ひと・ものたちのあいだで交され生きられた〈原初的経験〉のまさに核心にあろう。そのうち「贈与」の面についてはモース(1967)を嚆矢として、伊藤幹治(1984)などによって論じられてきたが、最近では「進化心理学」や「脳神経倫理学」の分野でも実験的に確証されつつある。ちなみに、ホッブズ『リヴァイアサン』中の「自然法」(第四から第八)からも、「自然状態=潜在的戦争状態」の背後で働いている「相互的な好意のやりとり」を読みとることができる。
(38)ただし、タイラーの後継者マレットは、未開の狩猟民に見られる暴風に対するお願い・呼びかけ・叫びに注目し、「アニミズム」以前の経験として「アニマティズム」(有生観)を提唱した。それは、個々の生きものに対応した霊・霊魂という具体的な形態ではなく、「生きているもの」または生きものの「力」であって、スペンサ-のような生命・生気を与える思想とも異なり、タブーとかマナ(呪力)のプレアニミスティックな感じ方とされる。似た形態にデュルケームやモースが注目したマナイズムがある。以上については蒲生正男編(1978)、七〇-八三頁。そのような「力」の経験は、制度内経験の初期の段階に対応していると考えられる。ともかく、〈ものの思考〉と広義の「アニミズム」との関係があらためて問われるなければならない。なお、既述のように、今村(2000)はアニマ=霊性という言葉でマナイズムとアニミズムとを一緒にしている。
(39)多様で複雑な全体(個体・一定の境界をもつまとまり)を成り立たせている根本的なもの(fundamental)は、基礎条件、時間的・因果的な始元としての原初形態、基本構造=基準としての基本形・原形の三次元に区別できる。ものごとの存在=形にとって、「基礎条件」は存在論的な制約・拘束、「原初形態」は時間論的な元始・始源、「基本形・原形」は価値論的な基準・規準である。
もの・環境であれ、意味世界であれ、社会的関係であれ、すべての現象する全体の形は「基準形」を射影した現出形であると考えられる。したがって基準形は、自己の射影・現出形である多様で複雑な全体の要素なのではない。制度以前の原初形態であろうと、制度成立後の多様な形であろうと、あらゆる現象する形の基準となる最小限の形なのである。最小だがそれじたい一つの全体であり、人間存在の普遍的な極限の形である。それは通常は隠れているが、非日常的・危機的な状況では最後の拠り所として露出する。言うなれば衣装を着脱する裸形である。形の多様性の幅を枠づけるのは「基本的条件」であるが、すべての多様な形を同等な射影体として価値的に包容するのは基準形である。
他方、「原初形態」に関して言えば、従来たいてい、「制度」発生後の経験が「原初的」と見なされてきた。例えば、デュルケームの『宗教生活の原初形態』がそうである。そこでは基礎条件と原初形態と原形とが混同された結果、原初的経験と制度成立後の経験とが混交されている。その点ではいわゆる「神話的思考」論も同様である。ただし、この場合には、原初的経験と制度成立後の経験との混交にさらに初期国家成立段階の経験がねじ込まれている。なお、原初的なもの=制度以前の経験を思考実験的に想定するのは、その観点に立つとき、制度の成り立ち=生成そのものをいわば裏と表から同時に捉えることができ、このことをつうじて、成り立った後の特定の制度に囚われることなく、多様な制度・形・経験を相対化できるようになり、引いては(哲学的思考の中心である)基準形・原形へと接近することが期待されるからである。

 

全集・選集
『西田幾多郎全集』全十九巻、岩波書店、1965-1966
『三木清全集』全二十巻、岩波書店、1966-1986
『戸坂潤全集』全五巻、勁草書房、1966-1967
『和辻哲郎全集』全二十巻、岩波書店、1961-1963
『田辺元全集』全十五巻、筑摩書房、1963-1964
『福沢諭吉集』(近代日本思想体系2、石田雄編)筑摩書房、1975
『西田幾多郎集』(近代日本思想体系11、竹内良知編)筑摩書房、1974
『柳田国男集』(近代日本思想体系14、鶴見和子編)筑摩書房、1975
『小林秀雄集』(近代日本思想体系29、吉本隆明編)筑摩書房、1977
『福沢諭吉』(日本の名著33、永井道雄編)中央公論社、1984
『夏目漱石 森鷗外』(日本の名著42、真継伸彦編、中央公論社、1984
『清沢満之 鈴木大拙』(日本の名著43、橋本峰雄編)中央公論社、1984
『西田幾多郎』(日本の名著47、上山春平編)中央公論社、1984
『近代主義』(現代日本思想体系34、日高六郎編)筑摩書房、1964
三木清編著(1951)『西田先生との対話』角川書店
「近代の超克」文化綜合会議シンポジウム(1942)『文學界』、十月号

 

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――――(2006)『江戸時代となにか』岩波書店
平井正ほか編(1983)『都市大衆文化の成立』有斐閣
廣松渉(1979)『もの・こと・ことば』勁草書房
――――(1980)『〈近代の超克〉論』朝日新聞社
S・ピンカー(1994)椋田直子訳〈1995〉『言葉を生み出す本能』上・下、日本放送出版協会
M.フーコー(1966)渡辺一民・佐々木明訳〈1974〉『言葉ともの』新潮社
藤田健治(1993)『西田幾多郎 その軌跡と系譜』法政大学出版局
藤田正勝(2007)『西田幾多郎』岩波書店
R・フォックス(1967)川中健二訳〈1977〉『親族と婚姻』思索社
M・C・ベイカー(2001)郡司隆男訳〈2003〉『言語のレシピ』岩波書店
D・ベル(1973)内田忠夫ほか訳〈1975〉『脱工業化社会の到来』上・下、ダイヤモンド社
P・ベルウッド(2005)長田俊樹・佐藤洋一郎監訳〈2008〉『農耕起源の人類史』京都大学学術出版会
松本三之介(1996)『明治思想史』新曜社
丸山真男(1952)『日本政治思想史研究』岩波書店
――――(1961)『日本の思想』岩波書店
――――(1964)『増補版 現代政治の思想と行動』未来社
――――(1972)「歴史意識の「古層」」『歴史思想集』日本の思想6「解説」、中央公論社
――――(1976)『戦中と戦後の間』みすず書房
――――(1984)「原型・古層・執拗低音」『日本文化のかくれた形』、岩波書店、八九-一五二頁
――――(1986)『「文明論之概略」を読む』上・中・下、岩波書店
――――(1992)『忠誠と反逆』筑摩書房
見田宗介(1996)『現代社会の理論』岩波書店
宮武公夫(2000)『テクノロジーの人類学』岩波書店
宮村治雄(2001)『丸山真男『日本の思想』精読』岩波書店
村上泰亮(1984)『新中間大衆の時代』中央公論社
M・モ―ス(1967)有地亨・伊藤昌司・山口俊夫訳〈1973-1976〉『社会学と人類学』Ⅰ・Ⅱ、弘文堂
森下直貴(1992)「エトスの生成と身体-ゲ-レンの制度論をめぐって」『思想と現代』30、61-75
――――(1999)『死の選択』窓社
――――・佐野誠訳著(2001)『「生きるに値しない命」とは誰のことか』窓社
――――(2003a)『健康への欲望と〈安らぎ〉―ウェルビカミングの哲学』青木書店
――――(2003b)「人間が「目的存在」であることの根拠」『哲学と現代』19、53-69
――――(2003c)「『産育への欲望』といかに向き合うか」『中部哲学会年報』35、113-127
――――(2004)「健康と生命倫理―欲望論の視点から」『生命倫理』14、112-119
――――(2005a)「田辺元『種の論理』と〈ナショナルな共同性〉」『哲学と現代』21、13-27
――――(2005b)「〈文明あるいは近代〉と〈個人〉と〈ナショナルな共同性〉」『「戦後日本」と切り結ぶ思想』
青木書店、180-206
――――(2007)「終末期における「臨床的真実」―〈思いやり〉と〈決まり〉の根源」『哲学』58、97-114
――――(2009a)「無形のものたちのリアリティ―日本人の死生感の現在」東京大学大学院人文科学研究科『死
生学研究特集号・東アジアの死生学へ』57-79
――――ほか(2009b)「『デーミウルゴス』的主体性とその彼方―J.-P.デュピュイのナノエシックスの『哲学的
基礎づけ』をめぐって」生存研究B:95-117
――――(2009c)「『家族』のかたち―出産・結婚・看取りの行方」『二十一世紀社会の哲学(仮題)』第一巻所収、
青木書店、10月刊行予定
山下悦子(1988)『日本女性解放思想の起源』、海鳴社
山内昶(2004)『もののけ』Ⅰ・Ⅱ、法政大学出版局
山之内靖ほか編(1995)『総力戦と現代化』柏書房
山田昌弘(2004)『希望格差社会』、筑摩書房
山田竜作(2004)『大衆社会とデモクラシー』、風行社
吉見俊哉編(2002)『一九三〇年代のメディアと身体』青弓社
四方田犬彦(2004)『ハイスクール1968』新潮社
林淑美(2005)『昭和イデオロギー』平凡社
E・リーチ(1961)青木保・井上兼行訳〈1974〉『人類学再考』思索社
N・ルーマン(1992)馬場靖雄訳〈2003〉『近代の観察』法政大学出版局
C・レヴィ=ストロース(1962a)仲沢紀雄訳〈1970〉『今日のトーテミスム』みすず書房
――――(1962b)大橋保夫訳〈1976〉『野生の思考』みすず書房
C・レンフルー(2007)小林朋則訳・溝口孝司監訳〈2008〉『先史時代と心の進化』ランダムハウス講談社
和辻哲郎(1934)『人間の学としての倫理学』岩波書店
――――(1935)「続日本精神史研究」『全集』第四巻、岩波書店