プロフィール研究業績研究活動社会活動お知らせお問い合わせ

研究業績

RESEARCH WORKS
2017.03.21

三木清と日本哲学 2012年10月

霞城館だよりNo.55(2012.10.15脱稿)
最後の三木哲学と「日本の哲学」の可能性
−−−《近代的伝統》の読み直し−−−
浜松医科大学教授 森下直貴

三木は入獄前の最後の手紙の中で、「西田哲学との対質」なしには「将来の日本の新しい哲学」は生まれえない、と書いています(1945年1月20日、坂田徳男宛)。この時期の三木の関心を占めていたのは、たしかに「西田哲学」との対決です。しかし、なぜ「西田哲学」なのでしょうか。その理由は、「東洋的現実主義」という言葉で捉えられた「日本の思想伝統」の「完成」として、西田哲学が見なされたからです。
伝統とは、世代を超えて受け継がれる「人々の生き方の基軸」となるものですが、けっして不動不変ではなく、個々人によって自覚的に受けとめ直される中で不断に変容していきます。それでは、日本の思想伝統との対決を通じて三木が構想しようとした、新しい「日本の哲学」とはどのようなものだったのでしょうか。それは今日どの程度のリアリティをもちえているでしょうか。そしてもしもちえていないとすれば、三木の志向を受け継ぐためには何が求められるのでしょうか。
三木の最後の志向の方向を見定めるには、迂遠ではあっても、「近代」という補助線を引くことが必要になります。もとよりこの概念はきわめて複雑であって、技術またはテクノロジーだけでなく、市場経済や、国民国家、外交・軍事(帝国主義)、法・道徳、教育、文化といった多様な次元から構成されています。とはいえ、一面的であることを承知の上で、科学とテクノロジーの次元を軸にしながら、「近代」を《古典的(伝統的)近代》と《現代的近代》との二段階に分けてみることにします。
17世紀、ガリレオやニュートンが必然性と普遍性を合言葉に推進したのが「第一次科学革命」でした。この科学革命と連動する中で18世紀から19世紀にかけて、政治革命や市場形成と第一次産業革命が進行し、「基本的人権」という普遍的な考え方が定着するようになります。ただし、その人権思想の前提をなす「人間」の理念の背後には、神と動物の間に位置する「ロゴス的被造物」という西洋的伝統が流れています。その意味で《古典的近代》とは、近代的に読み替えられた《近代的伝統》をもつ《伝統的近代》といえます。
《伝統的近代》の内部から《現代的近代》が誕生しますが、その先駆となったのは1880年代あたりから始まり1920年代まで続く「第二次科学革命」です。この知的革命の波及によって、宇宙は決定論的必然から確率論的偶然へと変貌し、原子力技術が開発され、生命科学(DNA)が誕生します。そして1960年代にはオートメーション化による第二次産業革命が生じます。
N.ウィーナーは第二次科学革命の原理を「サイバネティクス」と名づけました。それは三つの柱からなります。(1)一定のパターン(組織、形)が不可逆的に崩れていく中で、そのパターンの同一性を維持しようとするフィードバック(循環)が不断に作動する。(2)その同じプロセスが物理から、機械、生命、人間、組織までを一律に貫いている。(3)すべての存在体(パターン、構造、形、もの)はその同型的(広義のデジタル的)な構成によって交換可能になる。
《現代的近代》は《伝統的近代》の完成への進展と一体的に進行します。それが思想として顕在化したのは1920年代の芸術や哲学の場面です。そして1960年代に産業面での定着をへて、1980年代以降に大衆消費生活の中で日常化します。それがいわゆるポストモダン現象です。1990年代以降のグローバル化や、1990年代後半から始まる広義のデジタル化は《現代的近代》の拡大浸透にほかなりません。
以上で描いた「近代」の枠組みを念頭において三木哲学を読み直してみましょう。三木の思考を学生時代から規定していた「ロゴス/パトス」という「人間」観は、《古典的近代》の基本的な特徴といえます。19世紀後半からはパトス、すなわち経験や直観に重きをおく実証主義や生の哲学が前面に出てきますが、それでもロゴスの位置は基本的に揺るぎません。
それに対して「虚無/不安」や「技術」は《現代的近代》の特徴です。三木の学生時代に二つの近代は同時並行的に進行していましたが、彼が直かに《現代的近代》に接したのは1920年代の留学時です。その衝撃から生まれた三木の哲学(パスカル論、マルクス論、歴史哲学、人間学=ヒューマニズム)には、伝統思想から断絶したハイデッガーの影響が濃厚に認められます。ただしそれは、《現代的近代》(虚無/不安)と《古典的近代》(パトス/ロゴス)との混合ないしは並存に止まっています。
ところが、その並存状態は社会的存在の論理把握をめぐって困難に逢着します。具体的には、社会がパトス/性的身体/種の再生産として実体化されるかぎり、和辻の相互行為論と田辺の「種の論理(国家主義)」という両極の間を行ったり来たりするばかりで、変革主体をうみだす社会存在論にはならないからです。ネックは「ロゴス/パトス」の人間解釈にありました。そのとき三木は後期の西田哲学に出会ったのです。
西田哲学との再会は三木をして決定的に《現代的近代》(虚無、混合、形、主体/環境、技術、自然/文化、創造的制度/所産的制度)の立場に立たせました。『構想力の論理』序文には、ロゴスから技術への転回が鮮やかに宣言されています。しかしやがて、この技術哲学(上からの社会技術)は内外の壁にぶつかり、三木は八方塞がりの状況に陥ります。そしてこの状況を突破しようしたとき、三木は初めて本格的に「東洋的現実主義」に直面するのです。それが冒頭の手紙の意味です。
問題は「東洋的現実主義」の内容です。これは徳川時代の漢学的伝統思想そのものではありません。生き方の基軸としての伝統の一端は、例えば二宮金次郎の実践的な形而上学思想の内に窺うことができます(『三才報徳金毛録』1834年)。それは「分限・推譲・報徳」を支える天即心および心即行という、儒仏神渾然一体の思想です。明治時代、西洋の《古典的(伝統的)近代》との衝突を通じて崩れていったのは、まさにそうした漢学的伝統であり、その過程でそれは読み直され、読み替えられていきました。例えば「仏教」の場合、宗派別の断片がつなぎ合わされ、整備され、近代的に読み直されます。「親鸞」も「日蓮」も鈴木大拙の「禅(即非の論理)」も、そうやって読み直された《近代的伝統》にほかなりません。
日本の《近代的伝統》を作っていったのは明治期の思想家たちでした。とくに国民道徳論者として「悪名」のみ高い井上哲次郎は、読み直しという観点からはきわめて重要な哲学者ですが、井上の前には福沢たちいわゆる啓蒙思想家の世代がいます。これが第一世代だとすれば、第三世代の西田や、姉崎、桑木たちには辛うじて漢学的伝統の記憶が残っていました。ところが、その後の田辺や和辻の世代にとっては、もはや西洋と日本において読み直された二重の《近代的伝統》しかありませんでした。三木もその末端に連なっています。
西田は井上と違って、記憶の中の漢学的伝統と西洋の《伝統的近代》の後期思想(生の哲学)から出発しています。彼の有名な「純粋経験」が「分化発展」するかぎり、それはすでに静的「即」の伝統から隔たっています。西田は生涯をかけて「純粋経験」を掘り下げ、存在論化し、具体化していきました。そしてその最終段階で「行為的直観」に辿り着きました。これは主体と環境の間の身体的作動の循環の論理ですが、これを単位要素にして同心円的に拡大するとマクロの歴史の論理になります。
後期の西田哲学を象徴する「絶対矛盾的自己同一」は、表現こそ独特ですが、これを《現代的近代》の「サイバネティクス」と重ね合わせるとき、そこに驚くほどの本質的な類似性が浮かび上がります。西田が自分に対するまともな批評がないと嘆いた最大の理由は、《現代的近代》の原理に肉薄した先駆性にあると私は考えています。
三木は西田の主体/環境の循環論理を吸収することで、基本的には《現代的近代》の観点に移行しましたが、「サイバネティクス」のシステム論までは徹底しておりません。三木の関心はむしろ、前近代の伝統思想と西洋的な《伝統的近代》(文明=人権)とを《現代的近代》(技術=自然)の観点から弁証法的に統一することでした。しかし、理論上はともかく実際には、日本の前近代的な伝統とされ、彼自身もまた部分的に共有していた「東洋的現実主義」(じつは《近代的伝統》)が、変革主体形成の壁になりました。三木が親鸞のテクストに立ち還って伝統の新たな読み直しを行なったのは、それを突破するためだったのです。
今日、私たちの眼前では三重の「近代」がせめぎ合っています。すなわち、西洋の《伝統的近代》、その衝撃を受けて読み直された日本の《伝統的近代》、そしてこれらを掘り崩しつつある《現代的近代》です。この状況下で、私たちになお欠落している日本の現代的伝統ともいうべき生き方の基軸を作り上げるために、何が必要でしょうか。それはおそらく、三木が試みたように、過去の思想テクストを読み直し、この読み直しを通じて二重の《近代的伝統》を読み替えつつ、《現代的近代》の本質(微分的合成)を見極め意味づけ直すという、地道で根気のいる作業ではないかと思います。