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研究業績

RESEARCH WORKS
2017.04.11

田辺元とナショナリズム

田辺元「種の論理」と︿ナショナルな共同性﹀

︱和辻倫理学と対比しつつ︱

 

森下 直貴

 

はじめに ︿ナショナルな共同性﹀と田辺哲学

 

いま「ナショナルなもの」が問われている。ここで「ナショナルなもの」とは、国民(場合によっては民族)から、国民国家、主権国家、ナショナリズム、帝国主義まで、幅広い観念群を含んでいる。一九九〇年代以降、そのあからさまな復活と激高ぶりを目の当たりにして、普遍性と平和への志向が強い人ほど、嫌悪感混じりの困惑を隠せないようにみえる。私自身も多かれ少なかれ例外ではない。そこで、この問題を考えるための手がかりを求めて、田辺元の哲学をとりあげて検討してみたい。

なぜ田辺か。昭和の初期、京都哲学派の総師・西田幾多郎の後継者となった田辺は、民族と国家の問題に正面からとりくみ、やがて「種の論理」とも「田辺哲学」とも呼ばれる独自の思想を創り出した。敗戦後、その田辺哲学は一時期まで話題を呼びはしたが、やがて省みられることなく忘れられていった。この背景には戦後思想にまつわるさまざまな事情があるだろう。しかし、戦後における評価がどうであれ、田辺こそは戦時下にあって、民族と国家の問題に最も真剣にとりくんだ哲学者の一人であることは間違いない。とすれば、彼の国家論を今日の時点で改めて検討しておくことは、一度は試みなければならない基礎的な作業と考えられる。

この小論では、比較的よく知られた和辻哲郎の倫理学と対比しながら、田辺哲学の輪郭を粗描する。この粗描はやむをえず図式的にならざるをえないが、それを通じて田辺哲学の問題点を浮き上がらせることができるならば、「ナショナルなもの」、とりわけ共同性を強調すれば︿ナショナルな共同性﹀、に対して適切な距離をとるとはどういうことか、これについて考える手がかりが得られるだろう(1)。

 

1 田辺の挫折と「懺悔」−理念と現実の矛盾

 

田辺は敗戦後の混乱と出版事情の厳しい折、「種の論理」を深化させた著作、『懺悔道としての哲学』(昭和二一年)と『種の論理の弁証法』(昭和二二年)を続けざまに刊行した(それぞれ『田辺元全集』第九巻、第七巻。以下では全集と表記する)。執筆時期はいずれも昭和二〇年、二つは姉妹編である。前著の題名はもとより、両書のとくに序文には、極めて宗教色の強い「懺悔」という言葉が表れている。その強烈な言葉を田辺はなぜあえて用いたのだろうか。

田辺は大略こう告白する。戦時下、自分の思想の内部で、国家をめぐって理念と現実とが矛盾し、国家と自己が対立した。そのことで自分は大いに苦悩した挙げ句、自己分裂に陥った。そのせいで、毎年欠かさず執筆していた論文も書けなくなった。矛盾・対立の根源には、一方に、自己や人間に巣くう根原悪(利己主義・保身)、加えて哲学者としての自分の無力がある。この根原悪に対処するには、道徳の立場を超えて、絶対他力による回心に至らなければならない。その意味でこれまで自分は過度に自力・倫理主義的だった。他方では、国家の根原悪も無視すべきではない。これまでは現実を理念で安易に覆ってしまい、国家主義そのものに伴う悪を直視できなかった(第九巻、三〜四頁、および、第七巻、二五三〜二五四、三五九〜三六〇、三六三〜三六七頁)。

以上の率直な告白から浮かび上がるのは、哲学者・田辺がそれまで構築してきた国家観と自己観に関して深刻な挫折を経験したことであり、同時にまた、今ではその挫折も乗り越えることができ、新たな境地に立っていると考えていることである。ただし、挫折の苦脳と懺悔への沈潜は、敗戦の結果もたらされた便乗的なものではない。彼の告白によれば、すでに戦時下に経験されていたのである。

実際、挫折と懺悔の経験の発端は、戦時下の昭和一七年ごろにさかのぼる。教え子たちの学徒出陣が引き金の一つだったようだ。その辺りの事情を明らかにするために、きわめて興味深い講演を取りあげてみたい。昭和一九年二月、旧制一高の文化祭で行われた「文化の限界」である(第八巻)。

そこに印象的な話が出てくる(二七一〜二七三頁)。田辺は学徒出陣時に見せた学生たちの健気な態度を称える。ところが、学生たちの内心は必ずしも晴れやかではない。ある疑問を解消できないからだ。それは、国家は命を捧げるに値するかという疑問である。これに対して田辺は、国家即自分であり、国家の理念と現実とをつなぐのが個人の行為だと応じて、彼らの不徹底ぶりを叱ったという。だが、じつは田辺自身も心の奥では疑念を払拭できていなかった。講演の最後になると、高校生に向かって田辺は率直に自分の無力を吐露しつつ、しかし今は無力のどん底で復活の喜びを感じていると語る。そして聴衆の信奉する「文化主義」では、お国のための死を納得させることはできない、それが文化主義(教養主義)の限界だというのである(2)。記録ではきれいにカットされているが、そのさい田辺は立ち往生し、絶句し、落涙して「私も近頃は毎日が懺悔なのだ」とキレギレに呟いたらしい(3)。

田辺の挫折・懺悔とは、敷衍するならこういうことである。彼の考えた「理念の国家」は、種的基体(民族)の直接性を個人の自発性・自由な文化創造によって否定し、あるいは逆に、個人の我性を民族の共同性によって否定するというように、両契機が相互否定し合うなかで成り立つ普遍・類であり、国内的にも国際的にも普遍的な正義の担い手である。しかし、現実の国家はというと、「皇国主義日本精神」という日本一国でしか通用しないイデオロギーを東亜の民族に押しつけながら、「帝国主義的侵略主義」の行動をとっている(4)。他方、国内では言論統制によって個々人の自発性を押さえ込み、反対者を検束・投獄している。そうだとすれば、思想の指導者=哲学者である自分は、当然ながら、現実を理念に照らして批判すべきである。しかし批判できない。なぜか。自分の保身もあるが、そればかりでなく、危急時と平時の違いもある。というのは、危急時に批判するのは挙国一致を乱し、国民を裏切ることになるからだ。理念と現実とのあいだで引き裂かれたまま、自らを懺悔する以外どうすることもできない⋯。

昭和一九年の一〇月から一二月にかけて、退官を目前に控えた田辺は最終講義を行った。講義題目は「懺悔道」。この講義を通じて彼は、体調を崩しつつも、自分の挫折と懺悔と復活について語り続けた。最終日は朝の一〇時過ぎから始まり、午後の三時近くまで延々と続いた(第六巻、月報)。その内容は推敲を重ねられ、二一年に出版される。それが冒頭で紹介した同名の著作である。ちなみに、同じ頃ひらかれた講演会に東京から駆けつけた京都学派の一人・高坂正顕は、久しぶりに聞いた田辺の考えが、以前知っていたそれと大きく変貌したことに驚いたという(第九巻、解説)。

講義とその後の思索を通じて到達した田辺の新境地とは、先回りしていえば、自分の悪を凝視した果てにえられた絶対他力の信仰であり、無的宗教的な絶対者による国家の相対視である(なお、旧制一高の講演で語られた無力と復活は、いまだ自力主義の水準に留まっていた)。これに基づいて、相対的絶対者としての国家(地上の神)は、「絶対の応現的存在」から「方便的存在」へと縮小され、回心によってえられた「無即愛」に支えられることで、「兄弟愛」に基づいた社会建設(自由と平等の統一)を進める役目を担うことになる。このように「種の論理」は戦後、絶対他力の信仰によって包み直されている。そこから「種の論理」は破綻したと見ることもできようが、田辺自身は「種の論理」に固執し、国家の「理念」は相変わらず「正しい方向」にあると主張する(第九巻、二五六頁)。この辺りの消息を見定めるために、ここに至るまでの田辺哲学の成立過程をたどり直してみよう。そのさい、理解を容易にするために、比較的よく知られた和辻倫理学と対比しながら進める。

 

2 田辺元と和辻哲郎︱日本哲学の二つの軌跡

 

田辺元(一八八五〜一九六二)は、西田幾多郎とともに、近代日本を代表する哲学者として世評が高い。彼は数学と自然科学の造詣が深く、そこから由来する研ぎ澄まされた論理主義と、真理のみを求める峻厳な倫理主義の点で、近代日本の哲学者のなかでも際立っている。彼は西田の後継者として、昭和の初めから敗戦の直前まで哲学の京都学派を率いた。一般に田辺の哲学は「種の論理」あるいは「絶対媒介の弁証法」といわれる。他方の和辻哲郎(一八八九〜一九六〇)は、類い希な解釈学的センスをもつ俊英であり、古今東西の精神史とくに日本精神史の開拓では前人未踏の境地を拓いた。また、東京帝国大学教授として後進を育てつつ、独創的な倫理学体系の樹立に心血を注ぎ、これを完成させた。彼の倫理学は「間柄の倫理」と称される。

両者の哲学思想が描いた軌跡は、その誕生から戦後のある時期までほとんど重なって見える。大正の末期から昭和の初期にいたる約一〇年間、二人は京都帝国大学の同僚であった。また、ある種の「社会主義」に惹かれながらも、当時一世を風靡したマルキシズム(唯物史観と暴力革命論)とは思想的に対立し、しかし他方で当時台頭しつつあった民族主義的な国家主義にも批判的な立場をとった点でも、二人は似ている。関連する著作を追ってみよう。昭和九年、田辺は「社会存在の論理」を発表した。これが(後年西田哲学と並び称される)田辺哲学の誕生を告げる論文とされる。同年、和辻は数年来の構想を具体化した『人間の学としての倫理学』を、その翌年には『風土』を世に問うた。これらは和辻倫理学の序説的な基礎理論である。昭和一一年、田辺は「論理の社会存在論的構造」を書き、絶対媒介の見地から自説を批判的に発展させた。その翌年、和辻の体系的な『倫理学』上巻が公刊された。田辺が昭和一四年に「国家的存在の論理」を発表した三年後、和辻はその中巻で「人倫的組織の人倫的組織」として「国家」を論じた。田辺は昭和一七年以降、既述のように挫折と懺悔に苦しんだが、同じ戦争末期には和辻もまた『倫理学』下巻の執筆にさいして「近世」の見直しを迫られた。敗戦の直後、田辺は自身の理念的な国家主義を反省し、絶対的信仰の立場から国家を相対化した。これにやや遅れて和辻も『鎖国』を刊行し、それまでの自説に反省を加えた。

ここまでの二人の軌跡はほぼ並行している。だがその後になると、両者の軌跡はしだいに離れていく。田辺は敗戦後すぐに活発な著作活動を展開し、その『哲学入門』が広く読まれたように、当時巷間では最も有名な哲学者の一人ではあったが、その後は徐々に忘れ去られていく。他方、和辻の著作は戦前のものを含めて読み継がれ、色褪せることがなかった。さらに日本が経済大国として自信を深めた時期には、思想的バックボーンの一つともされた。このような違いが生じた理由はおそらく、おもに両者の国家観に求められるだろう。戦後日本の思想空間では、民族や国家を云々するだけでしばしば否定的な言辞が投げつけられてきた。ましてや国家にすべてを没入させる田辺の政治的立場が、国家の文化次元を強調する和辻の穏やかな立場に比べて、より厳しい拒否反応に曝されたのも当然かと思われる(5)。

 

3 田辺哲学の基盤︱道徳・帝国・民族・論理

 

最初に、田辺哲学あるいは「種の論理」の発生基盤を明らかにしておこう。これはいわばその「種的基体」の契機に対応する。試みに四点にまとめてみよう。

第一点は、強烈な道徳主義(倫理主義)である。これが人間・田辺のバックボーンにあり、これにさらに哲学者としての使命感が重なる。その点が端的に表われているのは、ハイデッガーの講演記録「ドイツ大学の使命」に対する論評である(「危機の哲学か哲学の危機か」昭和八年、第八巻)。そのなかで田辺は、ハイデッガーの個人主義的な基礎存在論では民族問題は解けないと批判し、プラトンに立ち帰ることで民族と国家の問題にとりくむ決意を示している。その点はまた、弁証法の研究を通じて行ったマルキシズムとの対決でも同様である。このような時代の思潮に対する鋭敏な反応は、哲人王を範とするエリート意識と自負心に由来していると思われる。そしてその姿勢を支えるために、田辺はひたすら孜々として研究に没頭した。田辺のいわゆる絶対媒介の弁証法、行的弁証法、懺悔道(メタノエティーク)は、彼の道徳主義の論理的表現といえる。

第二点は、西洋列強の植民地主義への対抗・反発の心情である。いわゆる「有色の帝国」イデオロギー(6)はもちろん田辺も共有していた。それは近代日本の時代環境ではむしろ普通の反応といえる。彼もまた明治維新は世界史的意義をもつと評価し、西洋列強によって半ば強制され、不平等な地位を強いられながらも、日本がアジアで唯一の独立国となったことを誇りとする。しかし田辺によれば、その後の日本は列強と同じく帝国主義の道を進み、東亜の共存共栄という目標を裏切っている。彼は皇国主義イデオロギーを東亜の民族に押しつけることも、多民族対等の理念を掲げる「東亜協同体」構想も否定する。そうではなく、とくに中国が日本の生命線であることを率直な表明して、日本を盟主とするブロック「東亜盟協」を作り、共に東亜の脱植民地化を実現すべきだと考えていた。この考えの奥には、欧米に対する劣等感と東亜に対する優越感が見え隠れしている。ここから、西洋の科学と東洋の文化を総合して新たな文化創造ができるのは、日本民族だけだという主張もでてくる(7)。

第三は、民族への関心である。彼は「種の論理」の実践的な動機について、民族や国家の統制的な強制力(愛国心のもつ動員力)の源泉に関心をもち、その探求を通じて種族・民族という種的基盤にたどり着いたと語っている。ただし、彼にとって民族の強制力が直接性のままに留まるのは好ましくはなく、むしろ個人が自発的に強制に服する在り方を考えている。田辺が民族に注目する背景には、当時のヨーロッパの思想潮流の影響が考えられる。とくにドイツを中心に、資本主義的・機械的な文明をこえて広義の社会主義=共同主義を志向する傾向があった。そしてその多くが共同体・民族に拠り所を求めたという(8)。とはいえ、田辺の場合には社会民主主義的な色彩が強いから、民族への関心の直接の刺激はハイデッガーとナチズムから来ているかもしれない(9)。なお、マルクス=レーニン主義については、その国際主義ゆえに「民族」が欠如し、かつ機械文明に乗っているから資本主義と同穴とみなされる。ただし、その暴力革命と唯物史観には反対するが、経済学説として物質(これも種の一つ)を強調することには賛同している。いずれにせよ、彼の政治的スタンスは、民族主義と自由主義とを弁証法的な乗り越える方向にある。

第四は、西田哲学との対決である。これが「種の論理」を生みだした論理的な動機である(精神分析学的にいえば、西田との対決は「原父殺し」にあたろう)。この背後には、道徳主義に負けずとも劣らない強烈な論理主義がある。西田の「場所的論理」では、判断とは個が類としての述語的一般者に包摂されることであるが、この同じ包摂構造は意識でも成り立つ。このような包摂関係を一般的に捉えるならば、個体は絶対的無としての一般者の自己限定を通じて生成することになる。絶対的に矛盾する二つの事柄はその根底の無の場所では一つであり、この無の限定によって個々のものとして生成する。しかし田辺によれば、そこには個と類しかなく、種が媒介として働いていない。繋辞の媒介によってこそ、個と類、個別と普遍とが結び合っているはずである。種・特殊のこのような基体性の発見・位置づけ、これが「種の論理」という名称の由来である。彼の論文には異様なほどの論理的な緊張感が漲り、読み手に(西田とはまた違った)過度のストレスを与える。強烈な倫理主義と徹底した論理主義のからみ合いは、一種独特である。その分、数学から哲学へ、哲学でも数理哲学・自然科学論や判断論・認識論から出発したことも影響していようが、和辻とは対照的に解釈学的・歴史的センスに乏しいとは、田辺自身の評でもある(10)。

 

4 和辻の文化的国民国家︱『倫理学』の解剖

 

田辺哲学の内部に分け入る前に、和辻倫理学の基本構造とその国家観の枠組みを概観し、さらにその根本志向(これまたいわば種的基盤)を明らかにしておこう。

『倫理学』上巻(昭和一二年)で打ち出された原理論の骨格は、以下のとおりである。まず、日常的事実としての間柄的な人間存在から出発し、そこに全体性と個別性という二つの相関的な契機を見いだす。そしてこの両契機の相関が、︿全体性という否定性の自己否定の運動(絶対空の空の自己運動)﹀という論理でとらえられる。この論理=人間存在の理法が倫理の根本原理である。続いて、この根本原理から倫理学の基礎概念がとらえ返される。間柄の全体性からの個々人の背反とそれへの復帰という否定性の運動は、時間性と空間性として解釈され、またそこから善と悪が位置づけられる。そして全体への滅私・無私としての「信頼」が強調され、それが個人を全体へと向かわせる強制力の根拠とされる。

中巻(昭和一七年)では、その無私の広がり=連帯性の程度(ヨリ私/ヨリ公)に応じて、人倫的組織が私的な存在から公的な存在へと階層的に展開される。最も私的な夫婦や親子という家族関係にはじまり、親族、地縁共同体、経済的組織、言語=民族という限界をもつ文化共同体へと広がって、最終的には最高度に公的な国家(人倫的組織の人倫的組織)にいたる。国家の存在意義は、各階層の人倫的組織が停留することなく運動し、それぞれの人倫の道(信頼・無私)を実現できるよう最小限だけ介入し、支えることにある(敗戦後、国家の箇所には若干の修正が加えられる)。最後の下巻(昭和二四年)では、以上の人倫組織が歴史的風土的に具体的かつ壮大に展開され、最終的に「国民的当為」で締め括られる(敗戦後、この最後の部分の大枠は維持されつつも、各階層ごとの改善点が指摘されている)。

以上の表面的な概述だけからでも、和辻倫理学の見事な体系ぶりを感じとることができよう。しかし、その理論体系の内部で和辻特有の志向性が強烈に作用して、全体を構造化していることまでは見えてこない。その種の志向性を透視するには、和辻倫理学の生誕時に立ち帰る必要がある(1)。その要点をいえば、和辻倫理学の根本志向とは「国民的存在」の理性的な自覚の確立にほかならない。︿ナショナルな共同性﹀へと向かう力は彼の学問を最初から貫いている。和辻も田辺と同じく、西洋列強の植民地化に対して東洋人として反発し、ヨーロッパ中心主義=白人中心主義を鋭く批判する。さらに、西洋=近代の本質を「資本主義の精神=町人根性」としてとらえ、この蔓延・支配による「国民的存在」の消失に危機感を募らせる。ここから、︿西洋文明=近代化=個人主義=エゴイズム(我性)=利益社会﹀に対抗して、︿全体のなかの個人=没入・献身=無私・無我=社会主義・共同主義・全体主義﹀が打ち出される。そのさい︿無私=共同性﹀が、具体的には家族を基礎にした民族の文化的共同性に求められ、これに拠って「国民的存在」が自覚的に支えられる(11)。

日常の間柄存在から出発し、抽象的な個人や集団からではなく、特定の相互行為・社会関係に規範生成を求めるやり方は、たしかに方法論として秀逸である。また、間柄=人間存在の二重性という把握もその通りであって、間柄が成り立つかぎり、和辻の捉えた根本理法はその背後でいつでも働いている。しかし、和辻倫理学の原点は︿無私=共同性﹀という心情=直観にほかならない。︿間柄の二重性=全体の否定性の自己運動﹀という人間存在の根本理法、つまり和辻倫理学の論理的支柱は、その種の心情的な傾きによって動機づけられ、方向づけられているのである。

その有様を個人の捉え方で確かめてみよう。和辻にとって個人とは︿関係=全体性の否定﹀でしかない。彼の眼中にあるのは社会関係の二重性だけであり、個人の二重性ではない。否定性の自己運動としての理法は、実質的には同一の関係の不断の回復運動にすぎず、二つの契機からなる構造の形式的な動態論にとどまる。さらに、︿信頼﹀が固定されたまま、その心理的な生成・動態が問われていない。要するに、︿無私=共同性﹀の外部が視野に入っていないのである。このことは、和辻倫理学の理論的な急所が︿個人﹀の捉え方にあることを示している。和辻は現象学的解釈学を駆使して、個人の感覚が風土的・共同的であることを強調する。しかし、病いの状態で感じられる悪寒のように、風土的=共同的な「爽やかさ」に対して個人の内部環境(身体)が相対的に独立し、個人の感覚そのものに社会性・風土性と個別性の両契機が見出されることが無視されている(12)。また、民族の体験の表現の直観・了解そのものが、対象との一種の距離に支えられていることも無視されている(『風土』第一章基礎理論)。以上の無視は、心情的な原点=無私からの理論的な要請の帰結なのである。

同様に、彼の人倫的組織論にもそうした心情的傾向が働いている。和辻が描いているのは、一生添い遂げる睦まじい夫婦関係、家長を中心に一致団結する家族、先祖供養を紐帯とする強固な親族、地縁共同体の牧歌的なまでの協調関係、市場経済の破壊力・浸透力が人倫的に封じ込められた経済的組織、同一言語の閉鎖性で限界づけられた文化的共同体としての民族、諸階層を最小限の力で包摂・維持してそれぞれの人倫の道の実現を保証する国家(その象徴である天皇への尊崇の念)である。これらの各階層を貫いているのは睦まじさ・温かさばかりであり、それを突き破るような動きは、各階層固有の「人倫の道」によって封じ込められ、最終的には国家によってだめを押されている。結局、一つの閉じた文化共同体=民族を基軸にした閉鎖的・静態的な階層国家、それが和辻の国家観である。もちろん、階層組織ごとに自律運動があり、これに関する国家の役割・関与の仕方は最小限で穏やかである。ここに意義を認める考え方も成り立たないこともないが、戦後の日本社会の変貌ぶりを想起するまでもなく、各階層の変動・変容は避けがたい。それに目を瞑るとき、和辻の民族=国民国家論は現実の動きに取り残され、幻想のなかで生き続けることになろう。

 

5 「種の論理」の構造と変動︱四段階の概略

 

ここからいよいよ、田辺哲学あるいは「種の論理」の内部に分け入る。その基本となる構造は︿種的基体の契機と個人の自発性の契機とを弁証法的に止揚した国家﹀である。ただし、この基本構造は一貫してはいるが、内容的には大きく分けて四つの段階が認められる。図式的な概略になるが、段階ごとに要点をまとめる(第六巻〜第九巻)。

(一)「社会存在の論理」(昭和九年)

田辺は民族・国家の強制力の正体を探って「種的基体」に達した。その中身は雑多であり、種族・民族、階級、個人の生命的基盤・母胎、あるいは、未開社会の「融即の原理」、「ゲマインシャフト」、「生存意志」など、必ずしも一義的ではない(13)。ともかく、これらの種的基体が「個人」に外的に対立する。個人の我性は「権力意志」とされ、これが自発性の源にあって分立の原理になる。このような民族の強制力と個人の自発性とが相互に否定し合うなかで、両契機を止揚した「国家」が成立する。そのさい、個人の自発性は普遍的な価値=文化を創造するから(新カント派的)、その活動によって法が種族的な直接性の段階から普遍的な正義の段階に高められる。民族的な基盤のうえに個人の自発性を媒介にして高められた普遍的正義を体現するのが、国家である。正義とは、国内的には階級間の対立の協調であり、国際的には公正な共存の秩序の確立である。どの民族国家も正義を体現するかぎり、類的=普遍的な人類的国家である(田辺の国家がなぜ類的=普遍的性格を帯びるのかという、しばしば投げかけられる疑問に対する答えがここにある)。以上の構造を論理的にいえば、種を基盤としこれに媒介されながら個が類に包摂される論理となる。この意味での種の基盤的先行性のゆえに、田辺の社会存在論は「種の論理」とされる。なお、この段階に「懺悔」以外の要素は事柄としてはすべて出揃っており、また宗教も文化に含まれている。

(二)「論理の社会存在論的構造」「種の論理の意味を明す」(昭和一一〜一二年)

前段階とこの段階とのあいだに田辺のなかで論理的認識が進んだ。「絶対媒介の論理」がさらに徹底される。この見地にたってみると、(一)では民族も個人も国家も媒介が不徹底なまま、直接性に留まっていたと、田辺は自己批判する。とりわけ種族・民族同士の対立が外的であった。こうして「種の自己疎外」という観点が導入され、内在的な分裂・対立とその統一という展開の方向へと「種の論理」が修正される。これを可能にしたのが、数学から援用された「テンソル場」モデル、すなわち、複数の矛盾し合うベクトルが互いに打ち消し合うなかで静止した状態が高次に出現するという考えである。田辺はこれを動即静、静即動の「純動」と名づける(14)。種の自己疎外には分離と統一の両契機、つまり個人と国家の契機がすでに萌芽として含まれる。そして種と同様、個人も国家も二重性をはらんでいる。(一)での個人は我性と文化創造性=普遍的契機とに分裂していたが、その結合は外的に留まっており、国家との媒介も不十分であった。今や、民族から国家への分裂の運動と、国家から民族への包摂の運動とが、個人において転換・媒介される。ただし、個人の自発性が国家との連関運動のうちに吸い取られており、文化・宗教の要素も薄れている。

(三)「国家的存在の論理」「国家の道義性」「死生」(昭和一四〜一八年)

この段階では新たに歴史哲学の視点が加わり、弁証法の論理がいっそう具体的になる。国家は従来のように、共同体・利益社会と並び立つ「社会の型」の一つだけでなく、「社会の原型」としても新たに把握される。これは種の自己疎外では萌芽的に含まれていた統一の契機である。歴史=文字=国家を一体視する「まず国家ありき」の立場が、この段階を特徴づけている(15)。国家は相対的絶対者=地上の神であり、絶対者の「応現的存在」と位置づけられる。こうして国家が民族と個人のすべてを覆い、包摂・吸収し、ほとんど宗教的絶対者と重なる。ここに国家は道義的な「理念」そのものになる。しかし、理念上の国家は普遍的価値を担うが、現実の国家は民族的直接性の段階に留まる。ここに理念と現実との矛盾が生じる。平時であれば現実を批判すべきだが、危急時にはそれは許されない。個人の自発性=科学研究=国民の意見の表明=文化の制限もやむをえない。いやむしろ、すべてを国家に捧げるべきである。なぜなら、国家が個人の生命の基盤だからである。国家即自分という決意で矛盾を突破すべきである(理念即現実、当為即存在、行的弁証法)。しかし冒頭で見たように、国家の理念と現実との、国家と自分との分裂のなかで、田辺自身が自己分裂に追い込まれる。理念から批判すべきだと迫る自分、危急時に批判すべきでないと諫める自分、黙っていた方が保身になると囁く自分。自己分裂のなかで哲学者としての自負心が破砕され、挫折する。

(四)「懺悔道としての哲学」「種の論理の弁証法」(昭和二一〜二二年)

既述のように、この段階では絶対他力の宗教的境地にたち、人間(自分)の根原悪とともに国家の根原悪が自覚される。国家の悪はすでに(三)でも登場し、戦争=悪とされつつも、究極的には悪即善であり、悪の積極性が語られていた。しかしこの段階になると、個人の自由を国家が制限する自体が根原悪として問われる。このように田辺は明確に国家主義を批判するが、そこから無政府主義には進むわけではない。相対的絶対者=国家が「応現的存在」から「方便的存在」に切り下げられ、絶対他力における無即愛の境地に支えられた(自由と平等と媒介する)「兄弟愛」を原理にして、国家による社会建設が進められ、階級間の利害の調整と、国際的公正と平和が目指される。菩薩をモデルにした「兄弟愛」は新しい要素である。田辺は挫折と懺悔以後も、国家の「理念」は正しいと言明していた。たしかに、理念としての国家の構造(種的基体と個人の自発性との相互否定としての国家)はそのままではあるが、国家の位置づけは大きく変容している。国家に包み込まれていた宗教が逆に国家を包み返し、「相対的有の国家主義」から「無的媒介の国家主義」へと転回している(16)。なお、種的直接性の国家主義への否定は一貫しており、種的国家主義から帝国主義へと移行した米ソが鋭く批判される。

 

6 道徳主義的な︿個人=無﹀と国民国家観

 

田辺哲学の基本構造は「民族の基体的契機」と「個人の自発性の契機」と「国家の普遍的契機」の三要素からなる。このうち、田辺自身が決定的だと重視するのが「種」としての種族・民族である。田辺哲学が「種の論理」といわれる所以だが、種をそのように強調する背景には、個人と人類性を直接に結合する抽象的な見方(文化主義、とくに新カント派や西田哲学)への対抗意識が働いている。ただし、その論理主義の徹底から「種」の「媒介性」が深められるにつれ、「種の論理」は(基本構造を維持しつつも)大きくその相貌を変えていった。その変容の特徴を一歩踏み込んで理解するために、「個人」の契機に照明をあて、個人と文化・国家・宗教との関係に注目してみよう。

「種の論理」における「個人」は、(一)では「我性=権力意志」であり、それが一方では、民族=種=生命=母胎に支えられつつこれと対立し、他方では、自発的に普遍的価値=文化を創造する主体とされた。次の(二)では、民族と国家という反対方向の二つのベクトルの運動を交差的に媒介する転換点、つまり我性と共同性、直接性と普遍性との内的な結節点としてとらえ直される。続く(三)では、国家の理念の担い手(国家即自分)とされ、最後の(四)では、根原悪である我性が絶対他力の媒介により、普遍的な愛に生きる「無」となった。このように個人=我性は、「民族」を基盤にしつつ、「文化」との関係・矛盾から、「国家」との関係・矛盾をへて、最終的に「宗教」との関係に移動している。ただし、「個人」はそれらを貫いてつねに道徳(倫理・道義)の担い手である。田辺の︿個人﹀は本質的に道徳的存在以外ではありえない。いうなれば道徳的な︿無﹀存在である。

以上のかぎり、田辺哲学の︿道徳的無=個人﹀という捉え方では、個人の我性=欲望の具体的な実質に定位されることなく、直ちに文化・国家・宗教へと飛び越される。田辺では︿欲望=我性=悪﹀であり、その欲望の内部が凝視されることなしに、抽象的な︿無=愛﹀が要請されている。これに対して和辻倫理学では、︿個人﹀は純粋の信頼で貫かれた︿全体のなかの個人=無私=共同性﹀とされる。そしてここでも個人は最初から共同性へと飛び越される。和辻においても︿欲望=自己保存=快楽主義=功利主義﹀であり、これはたんなる否定の対象でしかない。このように︿個人﹀の捉え方に注目するとき、「種の論理」と「間柄の倫理」、あるいは道徳次元の国家と文化次元の国家に共通する思考類型が浮かび上がる。この二つの︿ナショナルな共同性﹀を存在論的に支えているのは、︿無・無我﹀または︿無私・滅私﹀という、︿個人﹀の抽象的あるいは一面的な見方にほかならない(17)。

その結果、田辺の場合、個人の抽象性に相関して、民族・文化・国家・宗教のすべてが抽象的であり、和辻と比べるならまるで生彩がない。例えば民族では、個人の生命の基盤であるがゆえに個人に対する強制力をもつという側面からのみ問題にされ、その中身も未開社会から意志や「血と土」にいたるまで雑多なものが含まれる。同じ指摘は、新カント派的な文化価値にも、国家の普遍性にも、宗教の絶対性にもあてはまると思われる。田辺哲学に唯一存在するのは、いわば行者の煉獄的な無心の態度である。それゆえ、道徳の絶対次元にある田辺の国家論は、和辻のそれを︿民族主義的文化国家﹀と呼ぶなら、︿道徳主義的国民国家﹀と規定できるだろう。

 

おわりに ︿ナショナルな共同性﹀の相対化へ

 

︿ナショナルな共同性﹀に対峙して適切な距離を保つためには、それを相対化できる何らかの︿思考﹀を必要としよう。ここまでの田辺哲学の検討を通じて、その相対的思考を可能にする条件のうち、決定的なものを明らかにすることができた。それが︿個人﹀の在り方、とりわけ個人の欲望の捉え方である。おそらく、︿個人=自己保存﹀という自明=無反省の前提に立って、︿自己保存﹀をめぐる肯定か否定かの二者対立の地平に留まるのではなく、その前提そのものを突破することで欲望をとらえ返し、欲望の再構成を通じて個人の幸福論につなげること、これがまず何よりも、相対的思考を可能にする条件と考えられる(18)。もちろんそれは決定的ではあるが、いくつかの条件のうちの一つにすぎない。その他の条件としては以下の論点が考えられる。すなわち、不断の相互行為=社会関係形成と制度との関係づけ(田辺・和辻が批判できたと考えたジンメル社会学の再検討)、相互行為からの規範の生成やその普遍化を支える心理的機制の解明(済まなさと正しさの原感覚)、生命・欲望・生活の視点で貫かれた風土・フード・エネルギー論、継承・翻訳のズレ・交差から生じる文化論、最小限の消極的な共同性と最大限の自由とを両立させる国家論である。これらの条件・論点を先の欲望・幸福論から理論的に順次展開することなしに、文化の次元であれ政治の次元であれ、あらゆる︿ナショナルな共同性﹀から適切な距離をとることは困難であるように思われる。そしてその種の展開は、田辺や和辻とは異質な倫理学・社会哲学・国家論・文明論の形成を意味するにちがいない。

 

 

(1)拙著「︿文明あるいは近代﹀および︿個人﹀と︿ナショナルな共同性﹀−日本哲学の思考類型・和辻倫理学を中心に」(『「戦後日本」と切り結ぶ思想』、青木書店、二〇〇五年、所収)は、この小論の姉妹編である。そこでは和辻を軸にして、漱石・福沢・丸山・高山といった近代日本の代表的な知識人たちが、︿文明あるいは近代﹀と︿個人﹀をいかに捉えたかを論じた。

(2)「文化主義」については大正一一年の「文化の意味」に詳しい(第一巻)。なお、この論文には「民族」という言葉があり、「種の論理」の萌芽もみられる。

(3)いいだもも「田辺元の旧制一高文化祭講演」、場:第十八号、こぶし文庫、二〇〇一年。

(4)「対支文化政策の指導原理に関する私見」昭和一三年、第八巻。

(5)西田に比べて田辺を単独で論じた論文・書物ははるかに少ないと思われるが、近年では、港道隆が懺悔のもつ無意識の「否認」を抉り出し(「自己犠牲」と思弁、『現代思想』一九九三年一月号、二月号)、酒井直樹が多民族からなる帝国主義的国家論の主体的基礎づけを批判し(「日本人であること」、『思想』一九九七年一二月号)、中沢新一がポスト構造主義の先駆者として絶賛している(『フィロソフィア・ヤポニカ』(集英社、二〇〇一年)。ただし、そのいずれもこの小論の参考にはならなかった。

(6)小熊英二『︿日本人﹀の境界』新曜社、一九九八年。

(7)註(4)を参照されたい。

(8)︿ナショナルな共同性﹀への共感は、むろん田辺だけのものではない。和辻にも高山にもみられる共通の時代意識である。註(1)を参照されたい。資本主義への批判がなぜ社会主義=共同社会への指向を生み、しかもそれがなぜ民族に集中したのか。その歴史的な事情については、ゾンバルトの『独逸社会主義』に詳しい(邦訳一九三六年、原書一九三四年刊)。この本については中沢前掲書の第二章で紹介されている。

(9)註(2)を参照されたい。

(10)第六巻、五一八頁。同様の指摘は、高山岩男『京都哲学の回想』燈影社、一九九五年、第四章。

(11)なお、和辻は「民族」と「国民」を、文化次元か政治次元かで区別し、そのうえで両次元を含んだ広い意味で「国民」を用いている(「国民統合の象徴」『和辻哲郎全集』第十四巻)。

(12)この論点については、次の拙著で「健康感覚」に着目して考察を試みている。『健康への欲望と︿安らぎ﹀(青木書店、二〇〇三年)および「健康と生命倫理」(日本生命倫理学会編「生命倫理」通巻一五号、一二〜一九頁、二〇〇四年)。

(13)「種」の概念の雑多性については高山前掲書。なお、未開社会のトーテミズム(融即の原理)は当時、人類学的な事実としてフロイトや、ゲーレン、田辺らを刺激したが、レヴィ=ストロース『今日のトーテミスム』(みすず書房、一九七〇年)によれば、その事実そのものが西洋人の偏見の産物であり、現代の人類学では実体のないものとして否定されている。

(14)ちなみに、この考え方が中沢前掲書では、ドゥルーズの多様体哲学につなげられ、ポスト構造主義の先取りとして評価されている。

(15)ここで同時に、生命共同体としての「種族」、種族が混合した運命共同体としての「民族」、それに多民族からなる「盟協体」または「ブロック」が区別されている。第七巻、八十二頁、および、「歴史的現実」第八巻、一四五〜一四六頁。

(16)ただし、転回した立場をも「国家主義」というのは心情的・語用論的習慣であろうか。宗教的見地に包み返され、切り下げられた国家(方便的存在)であれば、国家主義とはいえない。

(17)ここに日本の哲学・思想に共通する思考類型が見られることについては、註(1)をみられたい。

(18)註(1)(12)の拙論をみられたい。