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研究業績

RESEARCH WORKS
2017.04.11

和辻倫理学とナショナリズム

︿文明あるいは近代﹀と︿個人﹀と︿ナショナルな共同性﹀

︱日本哲学の思考類型・和辻倫理学を中心に︱

 

森下 直貴

 

            はじめに ︿ナショナルな共同性﹀と日本哲学

 

今日、「ナショナルなもの」に対する向き合い方が問われている。もちろん、敗戦から一九六〇年までの時期、「国民」「民族」「愛国」という言葉は飛び交っていた。しかしやがて社会意識の表舞台からは消え、いつしか忘れられていった。また、経済力の進展につれて日本文化論がもてはやされた時期もあったが、それも経済の浮沈と運命を共にした。ところが、戦後の国際政治を枠づけていた冷戦構造が崩壊した九〇年代、「ナショナルなもの」が亡霊のごとくふたたび立ち現れてきたのである。そして現在、その扱いをめぐって普遍性や平和への志向が強い人ほど困惑しているかに見える(1)。

この論考では、「ナショナルなもの」、とくにその共同性を強調すれば︿ナショナルな共同性﹀、に対する向き合い方を見定めるために、それを運命として引き受け、正面から思索を試みた思想家として、広い意味で哲学の京都学派に加えられる和辻哲郎を取り上げて検討する。もとより、戦前・戦中・戦後の哲学思想と︿ナショナルな共同性﹀との関わりでいえば、同じ京都学派の哲学者としては和辻よりも、むしろ田辺元とその「種の論理」を取り上げるべきかもしれない。あるいは、「近代の超克」論を主導した高山岩男の『世界史の哲学』のほうが相応しいという意見もあろう。当初は田辺もここに含めて論じる予定であったが、事情により一部を除いて別に論じることにした(2)。他方、高山については簡略にとどまるが、ポスト和辻の位置づけでここで言及する。

和辻については論じ尽くされた感もあるなかで、あえてここで取り上げるのは、彼の文化国家観が今日に至るまで一定の影響を及ぼしているという理由ばかりではない。むしろそれ以上に、︿ナショナルな共同性﹀をめぐる彼の思想のうちに、︿文明あるいは近代﹀と︿個人﹀の捉え方に関して、日本の哲学思想に共通する思考類型が明瞭に示されていると考えるからである(3)。この点を和辻において確かめつつ、さらにその和辻に絡めるかたちで、夏目漱石、福沢諭吉、丸山真男、高山の思想にも言及しよう。このように今日から敗戦時へ、そこから戦前と大正期へ、さらには明治初期へと展望を広げるなかで、戦前の京都学派の哲学思想に限定されない近代日本思想の一般的な特徴が浮かび上がり、そのことを通じて、戦後思想の暗黙の前提とともに、︿ナショナルな共同性﹀からの距離のとり方に関しても有益な示唆が得られるものと期待される。

 

1 敗戦の反省から原点へ︱国民的存在の自覚

 

和辻の戦後から話を始めよう。彼は一九五〇年に『鎖国』を刊行した。これはたしかにまとめ方は見事であるにせよ、歴史的な叙述が延々と続くだけの、考えようによっては奇妙な本ではある。刊行は戦後になったが、じつは敗戦の直前から「近世」という時代を再検討しようと研究してきた成果である。そして本書には戦争・敗戦に対する彼なりの「反省」が込められていた(『和辻哲郎全集』第十五巻)。

その序文と末尾に注目すべき指摘がみられる。日本民族には「科学的精神」「合理的な思索」が欠如している。これは直観を信頼し「推理力」を重んじない民族の性向に由来するが、それも歴史的産物なのである。というのは、「科学的精神」は一般的にいえば「無限探求の精神」「視界拡大の精神」に含まれるが、このような冒険心はじつは日本でも徳川時代以前には萌芽として見られ、しかしそれが幕藩体制によって封じ込められ、窒息してしまったからである。ここに「鎖国」という表題が由来する。以来、日本人は精神的な怯懦に陥ったままである。日本民族に欠けていたのは、その「合理的な思考」という一点にほかならないと和辻はいう。

もちろん、戦時下にあって、敗戦後を見すえながら近代日本の歩みを深刻に反省しつつ、日本人の課題を提起したのは和辻だけではない。例えば、鈴木大拙の『日本的霊性』や柳田国男の『先祖の話』がそうである。あるいは、西田幾多郎の「場所的論理と宗教的世界観」もその類かもしれない。これらの著作には、近代日本はどこで進むべき方向を誤ったのかという痛切な思いが込められている。ところがそれらに比べると、和辻の場合には深刻さがほとんど感じられない。反省といっても表面的で淡々とした印象を与える。それもそのはず、欠点はわずか一つにすぎず、彼の考え方の基本を揺るがすものではないからである。

彼の戦前・戦中・戦後を通じた一貫ぶりは、同じく敗戦後に発表された天皇制擁護の文章をみれば明らかである(「国民統合の象徴」、『全集』第十四巻)。国民の全体意志(生ける全体性)の表現者としての天皇という観点(実質的な象徴天皇制)は、戦前から微動だにしていない。和辻はこの観点から、昭和の初め以来、孜々として日本精神史と風土学と倫理学の研究に打ち込んできた。そしてその営みは敗戦を挟んで戦後も継続されたのである。なるほど、和辻は敗戦の翌年に『倫理学』下巻を執筆したさい、昭和一七年刊行の中巻の一部を削除し、別の一部を修正している。これを情勢の変化に合わせたご都合主義と非難する向きもあろうが、実際のところはそれほど本質的な変更には見えない(『全集』第十一巻、解説)。

『鎖国』で指摘された「一点」はいかにも表面的に見える。しかしそれがあくまで「反省」の結果であるかぎり、彼の思想にとって何ものかを意味したはずである。それを見定めるために、昭和六年に脱稿され、後に『続日本精神史研究』(昭和一〇年)に収録された論文「現代日本と町人根性」に遡ってみよう(『全集』第四巻)。この論文で和辻は、河上肇との論争の後、ドイツに留学しそこから帰って以来、独自の発想で日本精神史研究と風土学と倫理学の体系化に取り組んでいた、その当時の問題意識を率直に語っている。

この論文は大きく分けて二つの部分からなる。前半では、日本の対外行動について、幕末の開国から日清戦争をへて日露戦争にいたるまで、西洋の帝国主義列強による植民地分割に対して反発・抵抗・自己防衛してきたものと捉えられている。とりわけ日露戦争は、最後の植民地化を阻止したことによって、世界を席巻する欧米中心主義=白人中心主義に打撃を与えた。なるほどその反発と打撃は衝動的な性格をもち、帝国主義からの「東洋の解放」という自覚には到っていない。しかしそれでも世界史的意義をもつ。以上が日露戦争の画期的な点である。それだけではない。さらに日本の資本主義の発達をもたらした点でも画期的であった。そしてまた、人々のあいだに資本主義への追随という態度を蔓延させ、「国民的存在」という自覚を希薄にしたという社会的精神的な意味でも、画期的であった。その結果、「国民的存在」の衝動的な力はすっかり弱体化し、その理性的な自覚はますます遠のいた。

以上の三点を指摘したうえで、日露戦争以降の日本は資本主義に後押しされるようにして帝国主義的競争に加わったと和辻はいう。この認識に留意しておこう。ともかく、和辻の見方の鍵となる概念は「国民精神」もしくは「国民的存在」、あるいは「国民的気概」「国民的矜持」「人格共同態」である。これが喪失するという危険(危機)の原因を、和辻は資本主義の精神=ブルジョワ精神=町人根性の支配にみている。このような診断・現状分析をふまえて後半にはいる。

「町人根性」とは何か。営利を至上目的とし、この目的に適う行為を徳とする「町人心」の蔑称である。営利の先には究極目的として人間の自然的欲望の充足があるが、かといって営利はそのたんなる手段ではなくて、同時に目的でもある。江戸時代の町人は「家の利己主義」において手段=目的の循環を実現していた。しかし、自家の利と福を目的として道義すら手段とする生き方は、道義(献身・犠牲)を尊ぶ支配層・武士階級から軽蔑され、町人根性と呼ばれたのである。そしてその偏見は明治以降も残存する。

これに対して「ブルジョワ精神」は以下の三つの要素からなる(ここで和辻はゾンバルトの所説をふまえている)。第一は「資本主義の精神」である。これは和辻によれば「町人根性」そのものである。第二は、自然征服の企業家精神から生まれた「合理主義の精神」である。これが自然科学・技術の発展をもたらした。第三は、自由への憧憬に動機づけられた「個人主義の精神」である。自由民権思想や古典的自由主義はそこに根ざしている。ヨーロッパの「ブルジョワ精神」の日本への流入は、合理主義、個人主義、資本主義の順番であった。「文明開化の精神」にはそれらのすべてが含まれるため、「町人根性」とは異なると見られてきた。しかしその本質をいえば、文明開化の精神=町人根性にほかならない。この点は福沢をみれば明らかである。福沢は「功利主義的・個人主義的思想の通俗的紹介」者であり(四八五頁)、彼自身も典型的な功利主義者である。和辻によれば、明治の初めよりJ. S. ミルやベンサムの影響力は強く、文芸にも快楽主義的傾向が蔓延していた。

「町人根性」に対抗して和辻は、彼なりの個人観と社会観を提示する。「個人」と「個人の尊厳」は、ブルジョワ精神だけの産物ではないし、功利主義とのみ結合するわけではない。個人はあくまで社会における個人であって、人間存在は個人(個別性)と社会(全体性)との二重性において成り立つ。この見地は和辻倫理学の根本である。個人の尊厳は「個人における全体性」に根ざしており、この意味の個人主義は「社会主義と弁証法的統一をなす」(四九三頁)。

では「社会主義」とは何か。和辻は、直接の生活共同態を利益社会によって止揚した人格的共同社会という、ヘーゲルのイメージを重視する。しかし、直接の共同社会は現代日本でも生きているのか。和辻によればいまだに根強い力をもっている。たしかに自覚は薄れてはいるが、死んではいない。「家族」がその指標である。このような共同主義的「全体主義的」な態度が和辻のいう「社会主義」である。「全体主義的」な態度は、殉情的・犠牲的な心理となって現れ、あらゆる社会的結合、例えば、頼まれると嫌とはいえない心理が働く「友情」をも貫いている。「個人は全体への没入によって真に個人を活かす」(五〇五頁)。個人は共同社会において可能なのである。この文脈で「日本古来の社会主義的傾向」や「国家社会主義」という表現も用いられている。その種の共同社会を真に自由な人格共同態としての国家へと自覚的に高めることに、和辻の視線は注がれている。

上記の現状認識と課題を『鎖国』の「反省」と比較するなら、日本民族に欠如していると指摘された点が、ブルジョワ精神を構成する三つの要素のうち、資本主義と個人主義を除いた残り、「冒険心」から派生する「科学的精神」だったことが判明する。すでに「個人主義」は「ブルジョワ精神」から切り離され、和辻の論理に組み込まれていた。「合理的な思考」の欠如についても、うまく育てれば身に付くと考えられているかに見える。だからそれは和辻にとって本質的な欠点ではなかった。主敵はあくまで資本主義の精神=町人根性であり、これに対する評価にいささかの変化もない。

和辻の思想の根本にあるのは「国民的存在の自覚」という課題である。その衝動的無自覚な段階から、希薄化された段階(危険)をへて、国民的存在の理性的な自覚へ、換言すれば、「家族」の共同性を基盤にした︿ナショナルな共同性﹀へ、と向かう戦闘的な姿勢。これが和辻倫理学(と日本精神史と風土学)を貫く根本志向にほかならない(4)。

ところで、前述のように、「国民的存在」との対極にある︿資本主義の精神=功利主義的個人主義=町人根性﹀を批判する文脈のなかで、和辻は「文明開化の精神」と一緒に福沢を批判していた。しかし、はたして和辻の批判は妥当しているのか。「文明開化の精神」はほんとうに功利主義的な個人主義に尽きるのだろうか。この点を福沢に即して検討しておくべきであるが、その前に、功利主義的個人主義に対する和辻の嫌悪の念がどこに由来するのか、それを尋ねて和辻の思想をさらに遡ってみよう。

 

2 和辻と漱石︱「無私」と「去私」のあいだ

 

ここで取り上げるのは「夏目先生の追憶」である。大正六年、和辻二〇代末期の評論であり、後に『偶像再興』に収められた(『全集』第十七巻)。夏目漱石は和辻の生涯に及ぶ心の師であり、その漱石の死の一週間後に書かれたのがこの評論である。

和辻はこう記す。漱石は虚偽・不公平・私情などに対して「正義」を貫いた「去私」の人である。しかしその姿勢には悩み・痛苦が伴うから、これへの対策として超脱の要求(非人情への努力)によって「天」に即そうとする熱望が生じる。また、この熱望と結びつく諧謔の精神の底には厭世的な気分もある。そういう漱石にとって、世間に蔓延し自己の心に潜んでいる利己主義(「イゴイズム」)との葛藤は、深刻な問題にならざるをえない。これを漱石は小説を通じて追求した。エゴイズムの凝視・直視は自己の内奥へと深まり、ついには夫婦間の愛にも及ぶ。夫婦といえども心を触れ合わせることはできないのか。未完の『明暗』には利己主義への憤りを通り越して、他者への憐憫の情がほの見える。そして生死の問題について漱石は厭世的な「あきらめ」の境地に達している。

和辻が漱石から強い影響を受け、正面から受け継いだのは、利己主義(エゴイズム)の否定であり、さらに、その否定をくぐり抜けて得られる直接的な共同性(真実)への期待であろう。「私を去れ。裸になれ。そこに愛が生きる」(九六頁)。ただし、和辻の受けとめた利己主義の否定、「去私」の捉え方は、はたして漱石のそれと同じものであろうか。前節でみた論文の和辻は「無私」「無我」をのみ強調していた。漱石と和辻のあいだにはある種の落差・ズレがありはしないか。この辺りの消息を確かめるために、漱石の二つの講演、「私の個人主義」(一九一四年)と「現代日本の開化」(一九一一年)に立ち帰ってみよう(『夏目漱石 森鴎外』中央公論社、一九八四年)。

「私の個人主義」の内容を三点にまとめてみる。一つめは「自分本位」である。自分本位とは一個の独立した人の立場をさす。これに対して、他人の模倣や西洋人ぶるのが「他人本位」である。英文学でいえば、独立した日本人の視点から解釈することが「自分本位」である。この対比には、漱石がロンドンの下宿屋で苦悩の末に体得した生き様が語られている。自分本位に立って自分の進むべき道を歩むことが、自分の幸福につながると、漱石は聴衆の青年に向かってアドバイスする。

二つめは「個人主義」である。自由であることが個性を生み、個性の発展によって幸福になる。とすれば、お互いに危害を加えないかぎり、お互いに自由を保障することができる。だから、自由は義務と結びつくと漱石は語る。ここで、西洋思想に馴染みのある読者には、そうした言い回しが、ミルの『自由論』で打ち出された近代社会の根本原則、すなわちいわゆる「他者危害の原理」であることは一目瞭然であろう。漱石の語り口にはミルその人が語っているかのような錯覚すら覚える。漱石は続ける。個人主義とは、党派心がなく理非がある立場である。この表現は和辻でみた「正義=去私」を想起させる。また、個人の裏面には人に知られない「淋しさ」が潜んでいるとも語る。これも愛のエゴイズムを直視した小説を連想させる表現である。

三つめは個人主義と国家ないしは国家主義との関係である。個人の自由は国家の平和・危機と相関関係にある。国家が危うくなれば、もちろん個人の自由は狭められる。逆に、安泰時には国家の観念は薄れ、個人主義が広がる。国家的道徳や外交上の道徳は個人道徳よりはるかに低級であるという。そうした口ぶりから、彼自身は表立って明言していないが、ミルを参照するかぎり、漱石では国家主義の根拠が個人の自由の前提たる生存の保証におかれていると推察できる。

以上みられるように、漱石が(ミルの意味での本格的な)近代的個人観を持っていることが分かる。それだからこそ漱石にして初めて、近代社会を支える個人の内面を直視し、正義とエゴイズムとの葛藤に苦しんだといえよう。漱石の「去私」では、近代社会を支える原理・正義とのつながりが保持され、それが保持されたままで「私」の裏面である利己主義をこえる方向が追求されている。ところが和辻では、近代社会の原理とのつながりが断ち切られたまま、個人=利己主義が否定されている。このような両者の違いはどこに由来するのだろうか。この点をもう一つの講演「現代日本の開化」で検討してみよう。

漱石は「開化」を人間活力の発現の経路であると定義する。この「活力」には、楽をしたいという消極的な面と、道楽追求のような積極的な面がある。ここから判断するかぎりいずれの面も広い意味での快楽主義に含まれるといえる。この両面の複雑なからみ合いでもって開化が進展する。そのうえで漱石は、開化一般のパラドックスを指摘する。開化は生活程度の向上をもたらす。これは好ましい側面ではあるが、同時に人々の競争を激しくし、生存の苦痛を増す。これは困った側面である。それでは日本の特殊な開化はどうか。

「内発的」ではなく「外発的」であった、上滑りだったというのが、漱石の診断である。ここで「内発的」という言葉は、個人のレベルでの「自分本位」に対応していよう。その結果、国民のあいだに空虚感、不満と不安の念が広がる。「日本人はずいぶん悲惨な国民である」。なぜなら、競争から来る心配・不安といった「苦痛」に加えて、外発的な上滑りゆえに、上滑りになるまいと頑張ることから「神経衰弱」に陥るからである。それだから、できるだけ神経衰弱にならない程度に内発的に進んだほうがよい、と提言して講演を結んでいる。

この講演から読みとれるのは、快楽主義と生活程度の向上という開化の捉え方、開化そのもののパラドックスと評価の両面性、そのうえでの負の側面の強調である。そこから漱石流の「内発的な開化」という方向がでてくる。︿文明開化の精神=町人根性=功利主義的個人主義=快楽主義﹀という和辻の見方と比べるなら、両者のスタンスの違いは明瞭といえよう。漱石は文明開化に批判的ではあるが、否定しているわけではない。内発的な開化の可能性を示唆しているのである。おそらく、漱石と和辻における「文明開化」すなわち︿近代﹀の受けとめ方の違いが、個人主義とエゴイズムの引き受け方に関して、近代的な個人主義を保持する「去私」か、端的な「無私」かの違いを生んでいると考えられる。このことが引いては、相互の自由と個性を尊重し合う個人か、全体に没入する個人かの違いや、国家的道徳を低級とするか、国民的存在の自覚を強調するかの違い、さらに、個人の幸福を志向するか、共同主義・全体主義・社会主義を志向するかの違いといった、一連の差異をもたらしたといえよう。

 

3 田辺元の「文化」概念︱「文明」の固定化

 

日清戦争から日露戦争にかけての時期、知識人のあいだで「個」「自我」「自己」が探求されはじめた。そしてこの傾向は日露戦争以降から大正期にも引き継がれる。例えば、ショーペンハウアーやニーチェの意欲・意志、ベルグソンの直観・生命、ジェームズやデューイの経験、それに禅の境地に関心が集まる。ただし、教育勅語・国民道徳の強調や大逆事件の衝撃などもあって、政治的な枠がはめられた時代閉塞の状況では、そのような自己探求が宗教的な方向に傾斜することは避けられなかった(5)。こうしたなかで、和辻の心酔ぶりにみられたように、漱石の存在は青年たちに大きな影響を及ぼしていた。また漱石と並んで、西田幾多郎の『善の研究』(一九一一年)も時代思潮の先端にあった。いわゆる大正教養主義、近年の表現では「大正生命主義」の始まりである(6)。そして第一次世界大戦後になると、「文化」「文化生活」「文化主義」といった言葉が一般にも流行する。

当時、西田によって京都帝大に招聘された新進気鋭の哲学者・田辺元は、「文化の意味」という小論を書いている(『田辺元全集』第二巻、一九二二年)。これを手がかりに、「文明開化」あるいは「文明」から「文化」へと時代の思潮が変容し、「文明開化」の意味の固定化・矮小化が進行していた事態の一端を押さえておきたい。

田辺は流行の「文化」を四つの意味に分けている。第一は、物質生活の利便さの改良(例えば電気や文化包丁)という物質主義である。この前提には快楽主義的な人間観がある。第二は、前述の生命主義であり、心身の自由な創造的な活動によって生活を豊かにすることを目指し、こうした活動を妨げる因習を打破しようとする思潮である。田辺は関連して社会主義思想にも言及し、革命自体の目標としても革命後の社会にとっても、生命の創造性は不可欠だと指摘する。第三は、当時ドイツで有力であった新カント派(とくに西南学派)の価値論の文脈にある文化主義であり、これが学問世界における「文化」の発信源である。先の生命の創造的活動を強調する思潮を「生命主義」と名づけ、それだけでは普遍的な価値を創出できないと批判したのは、この立場のリッケルトであった。そして第四は、田辺自身の形而上学的な意味である。新カント派のいう普遍妥当な価値秩序では、価値間の実質的な対立を統一する方向がない、これは人格の道徳的価値、最終的には宗教的価値・霊的次元に求められる、というのが田辺の見解である。

ただし、田辺自身は詳しく説明していないが、「文化」の観念はもう少し複雑である。上述したように「文化」はもともと新カント派の価値論の文脈で輸入された。しかし、日本での多義的な受けとめ方以前に、ヨーロッパでも最初から多次元の意味がからみ合っていた。まず、自然科学に対する歴史科学・文化科学・精神科学という文脈である。この背景には、事実世界に対する価値世界、しかも価値のうちでも利便的・経済的価値に対して精神的価値を優位におく観点がある。ここまでは新カント派的な意味範囲に含まれるが、次にそれを越えた意味合いがある。それが、資本主義的・機械的「文明」に対する共同的・人格的な結びつきという次元である。これに重なるのが、理知に対する感情や意欲や生命という対立軸である。この次元が、新カント派とはおよそ正反対の、ベルグソン流の生命主義につながるわけである。さらには、帝国的な普遍主義の「文明」に対して、ドイツのロマン主義・歴史主義を土壌にした民族・民俗の特殊性という意味もある。ここから英仏に対するドイツ民族固有の文化という対立軸が生じる。

田辺は多義的な「文化」と違って、「文明」の意味はすでに定着しているという。「物質文明」すなわち資本主義的・機械的な物質生活の利便さという第一の意味である。それは漱石の定義でもあった。ここにすでに「文明」の固定化が見られる。そして明治の初期以来、「文明開化」が主としてそのような意味合いで受容されてきたことは事実である。しかしはたして「文明」はその意味に尽きるのだろうか。明治の初期に「文明」を最初に用いた福沢でも同様だったのだろうか。和辻による「文明開化の精神」ならびに福沢の解釈はどこまで妥当するのか。

これを確かめるために、節をかえて福沢諭吉の『文明論之概略』(一八七五年)を概観し、和辻や漱石における文明・近代の捉え方と比較してみよう。また、和辻の福沢解釈を批判した丸山真男の解釈についても(簡略ながら)併せて検討したい。以上の比較を通じて、『鎖国』での「反省」の含意・背景がいっそう明瞭に浮き彫りにされるだろうし、さらにより広くいえば、明治から大正をへて昭和の戦前と戦後に渡って、近代日本の代表的な知識人のあいだで、「文明開化」もしくは︿近代﹀をめぐって何が受け継がれ、何が拒否され、何が見失われたのか、その辺りの事情も浮かび上がるにちがいない。

 

            4 福沢と漱石と和辻と丸山︱文明開化の精神

 

『文明論之概略』は今から一三〇年前のベストセラーであり、かつ、明治から現代に至るまでロングセラーとなっている(『福沢諭吉集』筑摩書房、一九七五年)。これを本論考の視角から三点にまとめてみよう。

まずは「文明」について。これには有形と無形の二種がある。福沢によれば先に無形=精神を涵養すべきであり、有形=制度は後回しでよい。無形の精神とは民度、世論、衆人の精神発達のことである。この発達は「安楽と品位の進歩」を指す。この進歩のためには「智徳の発達」が必要である。この意味で文明とは智徳の発達ということができる。智徳には、私徳、公徳、私智または小智、公智または大智、の四種が区別できる。それぞれ、潔白・謙遜のような内面に属する態度、廉恥・勇気のような正義のような社会関係に属する態度、科学的・合理的な知性、人事において軽重大小を状況に応じて弁別できる知性(インテレクト)を意味する。これら四種のなかで最も重要なのが「大智」である。これは「聡明叡知の働き」ともいわれる。ただし、この働きと「大智」の関係については、福沢では明瞭でない。働きと習慣となった状態との違いといえようか。とにかく「聡明叡知の働き」が私徳を公徳へ、また私智を公智へと導く。こうした捉え方の背景には、徳川時代の封建道徳・儒教倫理が、私徳のみを重視したことへの反発がある。私徳が必要ないのではなく、大智があまりにも欠けているから、バランスを正す必要があると福沢は力説する。

なお、以上のような「文明」は「野蛮」との相対的な連続線上にある。「ヨーロッパ文明」は、日本に比べて「文明」に一歩近づいているにせよ、文明そのものではない。そうではあるが、ヨーロッパ文明をさしあたり当面の「目標」にすべきである。ものごとに軽重・大小の違いがあるなかで、当面のところその目標を重視するということだ。これは「聡明叡知の働き」の具体例である。これが「文明」に関する議論の本位とされる。

次に「国体」について。国体はナショナリティの訳である(ちなみに、明治二〇年代には「国粋」と訳される)。福沢によれば、人間の本性は交際(社交、相互のやりとり、社会関係)にある。交際が広がるにつれ人情がますます和し、智徳がますます開く。これが元来のシビリゼーションであるが、そのためには一国の独立が不可欠である。文明と「一国独立」は不可分の関係にある。人民の共同性が政治的に一国にまとまったもの、それが「国体」である。独立なくして国体はない。ただし、国体は政治的正統性を意味する「政統」とも、首長の連続である「血統」とも異なる。三者は相互に独立している。とくに血統と国体とを混同すべきではない。国体の良し悪しの尺度はあくまで文明にある。血統や政統は国体に役立つ「便利」のためにある。したがって、一概に「天皇」という君主制を拒否する理由もない。役立つかぎりいろいろあってよい。ここにも福沢の「聡明叡知」の相対的思考が働いている。

最後は、明治初期の時点での当面の課題・目標について。福沢の診断によると、日本人は維新の改革で封建時代の重荷を下ろし、やれやれと休息している状態にある。そればかりか、「銭」儲けに奔走・狂騒している有様であり、まことに気楽・無為といえる。これに危機感を覚えて、皇国主義、キリスト教人類主義、儒教復古主義が登場し、事態の解決を標榜しているが、どれも不十分である。最重要な課題(「困難病」とも表現される)は、西洋列強との不平等な関係の解消、別言すれば、近代的な主権国家システムの一員になることである。これが実現されないために、人々は卑屈になり、品位を落としている。それゆえ何よりも「独立」が当面の目標とされるべきなのだ(この点で先の三つの主義は不足している)。要するに、(文明の究極では「政府」は無用の長物となるとしても)日本はいまだにその程度の文明の段階にある。独立を勝ち取ることで「文明」をめざすべきである。ただし、独立のためには軍事力ではなく、基本的には「智徳」の精神が不可欠であり、これとともに、あらゆる手段(娯楽から文芸、工学、制度、商業など)を尽くす必要がある。ここにも「聡明叡知」の相対的思考がみられる。

福沢の「文明開化の精神」に関して決定的に重要なのは、「聡明英知の働き」である。これは、人事全般(つまり社会関係)において軽重大小を時処に応じて弁別できる知性であって、社会関係における実践的な賢慮(プロネーシス)ということができる。このような条件的・状況的にして複眼的で柔軟な相対的思考が、福沢の「文明開化の精神」の核心である。この思考によって「議論の本位」の考慮が生じる。そして以上の見地は、福沢が少数意見の尊重を擁護したミル『自由論』を自家籠中のものとしていることを物語る。

たしかに漱石もまた、文明開化を有形で捉える一方で、ミルの「他者危害の原理」をふまえていた。そのかぎり、漱石と福沢とは「文明開化の精神」の理解において半ば連続している。だが、漱石以降、その核心は見失われる。すでに漱石においても半ば見失われていたが、大正期には一面的な固定化がますます進行する。そして和辻にいたるや、それは功利主義・個人主義・快楽主義へと矮小化され、ベンサムとミルが容赦なく否定される。敗戦後の『鎖国』で補うべき「欠点」とされたのは、福沢の「文明開化の精神」の一部、「小智」にあたる合理的・科学的精神にすぎない。

では、文明の精神の核心を実践的な条件的・相対的思考にみることが、福沢では可能であり、和辻では不可能となったのはなぜか。ここで考慮すべき要因の一つは時代環境の違いであろう。福沢の場合、明治維新時にはすでに自分の思想を確立していたし、「ナショナルなもの」はいまだ形成途上にあった(「天保の老人」世代に属する)。彼自身、封建時代と西洋文明のいずれも経験したことを「一身二生」と表現し、その稀で特別な位置を自覚している。そしてその視点から、文明そのものとヨーロッパ文明や、国体と皇統、文明と一国独立の課題について、複眼的で柔軟な相対的思考を働かせ、︿ナショナルな共同性﹀に対して一定の距離を保っている。ところが、日露戦争前後からそれ以降に多感な青春時代を送った和辻の世代になると、「ナショナルなもの」はすでに自明の前提であり、逃れようのない運命になっている。他方、明治維新の直前に生まれ、日露戦争時には自分の思想を確立していた漱石は、両者の中間にあたるだろう。このような時代環境の違い、それは「ナショナルなもの」の重みの違いでもあるが、このことが︿ナショナルな共同性﹀の受けとめ方に関して、一定の距離を保つか、絶対の運命として受け容れるか、という大きな落差を生んでいるように思える。

もちろん逆に、漱石にあって福沢にないものがある。その一つは、当然ではあるが、資本主義の発達にともなう文明のパラドックスの認識である(ただし、福沢の明治一二年の『民情一新』には、その種の認識が窺えるという指摘がある)。二つめはその延長線上で、「品位」とともに「文明」の目標となる「安楽」の掘り下げである。「安楽」は個人の自由の前提にある利己主義(エゴイズム)に結びつく。自己の内面に対する漱石の凝視・直視が福沢には見られない。三つめは、漱石から離れた問題になるが、『文明論之概略』に関するかぎり、私徳と公徳、小智と大智、あるいは徳と智の連関について突っ込んだ考察がない。そして私から公への転換も当たり前のように見られている。しかし事柄ははそれほど簡単でない。これもまた、二つめの︿自己あるいは個人﹀の把握の問題に収斂する。

福沢の「聡明叡知」の相対的思考は、和辻を飛び越え、丸山真男の思想のなかに受け継がれている(「福沢諭吉の哲学」一九四七年)。また、漱石の「内発的」視点もそこに継承されている(「近代的思惟」一九四六年)。その丸山はある時期まで近代的なものに批判的であったが、軍部独裁が強まるなかで福沢に出合ったという。福沢を論じた上述の論文には、和辻による解釈への対抗意識が明瞭に表れている。きわめて大雑把ではあるが、丸山流の福沢解釈を、プラグマティスト福沢と、(「蛆虫」という有限性を自覚しつつも、人生の真面目な努力を可能にする)「戯れ」としての安心法、の二点にまとめ、これらの問題点について考えてみたい。

最初の点は、相対的思考の捉え方にかかわる。全体の印象からいえば、おなじ相対性でも福沢自身の力点は、相対的な人事全般のなかでその時々の状況をふまえて、一番大事なものを捉える判断規準におかれている。それが「安楽と品位」の進歩であり、この条件としての「智徳」とりわけ「大智」の発展である。これに対して丸山では、文明の進歩を「事物の繁雑化にともなう価値の多面的分化」に見ており、社会的交通の頻繁化から、価値規準の流動化をへて、精神の主体性に至るというプロセスが強調されている。微妙ではあるが、丸山の解釈では相対性そのものに力点があるように読める。

第二点の「安心法」に関しては、より重要な問題が含まれている。仏教思想と渾然一体化した荘子的発想は、例えば芭蕉にも見られ(7)、江戸時代の文人や民衆のあいだで広まっていたらしい(鈴木貞美前掲書、二〇、七二頁)。それが福沢に影響を与え、また俳句をたしなむ漱石の「即天」や「諦め」にも溶け込んでいたのではないかと推測される。しかし、ものごとの相対的な有様のなかで、究極のものとか、その時々でいちばん重要なものを選ぶとしたら、「戯れ」とか「フィクション」ではなく、少なくとも何らかの消極的・反省的な拠り所となるものが必要ではなかろうか。その辺りの内面的な展開が福沢=丸山では不明瞭である。この意味で、政治的に屹立する個人の次元の、さらに奥にある内面性の次元への徹底が不足しているように思える。

結局、福沢の「文明」観の核心は、たしかに丸山に基本的には継承されているのだが、その反面、漱石がこだわった内面性・奥行きの次元は手つかずのまま残されているように見える。とすれば、福沢・漱石の投げかけた問題の全幅は、丸山においても(後年の『「文明論之概略」を読む』を含めて)、課題のままに止まったといえるかもしれない。

 

5 和辻と高山岩男︱日本民族の世界史的任務

 

話を和辻に戻そう。和辻は昭和一二年、満を持して『倫理学』上巻を世に問うた。「国民的存在の自覚」の基礎理論、独創的な倫理学の誕生である。本論考のここまでの論脈からいえば、理論的な水準で︿ナショナルな共同性﹀の位置づけ(人間存在の二重性、空間性と時間性、無私の信頼、単一の文化共同体を中心とする多層的な国民国家)を検討しておくべきではあるが、残念ながら紙幅の事情から割愛せざるをえない(2)。その代わり、『倫理学』上巻刊行と同じ年に勃発した支那事変(日中戦争)にさいして、興奮する周囲を諫めるべく書いた「文化的創造に携わる者の立場」をとりあげて検討してみたい(『全集』第十七巻)。

和辻はこういう。日本は近代の世界文明のなかできわめて特殊な地位にある。なぜかといえば、世界史への日本の登場がヨーロッパ中心主義への打撃となり、「本質的な方向から言えば」十億の東洋人の自由の保障を意味したからである。しかしそれゆえ、日本の軍事面・産業面の発展は欧米列強からの抑圧を招かざるをえず、発展を断念しないかぎり、「悲壮な運命」を覚悟しなければならない。軍事的かそうでないかを問わず、この運命を護ることは「究極において」十億の東洋人の自由を護ることになる。ただし、その運命を受けとめ、身命を賭すべきところは戦場だけではない。文化的創造という大事な任務がある。なぜなら、日本文化には東西の文化が総合されているからだ。この総合を推進して新たな統一をもたらしうるのは日本人しかいない。これが日本民族に託された「世界史的任務」である。

「十億の東洋人の自由」の前に、「本質的な方向から言えば」「究極において」という修飾・限定がついている点に注目しよう。先にみた昭和六年の「現代日本と町人根性」では、日露戦争後の大陸進出は「世界史的意義」をもつどころか、「帝国主義的競争」つまり侵略以外の何ものでもなかった。その事態は支那事変でも基本的には変わらないはずであるが、文面を読むかぎり、和辻はそうは捉えてはいない。その辺りの事情は、昭和九年に書かれた「日本精神」を読むとき判然とする(『全集』第四巻)。要は和辻が見解を変えたのである。満州事変以降の動きのなかで、軍事的な迷走はみられるものの、和辻の嫌悪する資本主義経済が統制され、自由主義を超克・止揚する国民的共同社会が実現しつつあると彼は考えている。だからこそ、一貫性のない迷走を正して「本質的」で「究極」の方向に導く必要があるということなのだ。

この一文で印象深いのはむしろ、時代を運命として引き受けた者のもつただならぬ覚悟である。それが文面を漂っている。軍事的暴走とこれを追認する政治は︿実際の方向から言えば﹀︿現実において﹀は、未だ「東洋人の自由の保障」ではありえないが、それでもその事実をなんとか引き受けて、意義づけざるをえない帝国大学教授としての自分。帝大を辞め、博士号も断った漱石であれば、「悲惨な国民」といって現実を突き放すこともできただろう。しかし、「ナショナルなもの」は和辻にとってすでに絶対の次元となっており、逃れられない「運命」なのである。その窮地と覚悟を端的に表わしているのが、「悲壮な運命」という言葉ではなかろうか。「日本民族の世界史的任務」という言辞が、和辻のかつて嫌った国民道徳論者・井上哲次郎にも似て、いかに手前味噌で誇大妄想的に響こうとも、和辻はそう意義づけることで、自己を叱咤するかのごとく、国民的存在の理性的な自覚を「文化的創造」において成し遂げる仕事に没入するのである。

支那事変から五年後の昭和一七年、京都学派の若き俊英であり、西田の愛弟子の高山岩男は労作『世界史の哲学』を刊行する(こぶし文庫、二〇〇一年復刊。初出論文は昭和一五年)。その序文で高山は、今次大戦の「世界史的意義」を強調するのだが、じつは彼自身、支那事変のさいに戦場に赴く学生からその意義を問われ、当時はうまく答えられなかったことを告白している。ところが今や、戦争の推移拡大にともなって支那事変の「不明朗さ」も消え、理路整然と筋を通すことができたという。この高山の立場は戦後も一貫しており、自分の枠組みを変更する余地はないと豪語したほどである。和辻は「悲壮」感をもち、戦後には表面的とはいえ「反省」もした。これに比べると高山の場合、ほとんど戸惑いや逡巡が感じられないが、それはなぜであろうか。

高山の資質はおそらく理詰め型であろうが、和辻とよく似た関心をもつ。学生の頃から新カント派の認識論ではなく、解釈学と生の哲学と文化的個性に心惹かれ、若くして『哲学的人間学』や『文化類型学』を出版した。師の一人である田辺の学殖と学者としての姿勢には尊敬を惜しまなかったが、その「種の論理」「絶対媒介の弁証法」の抽象性を著書を通じて鋭く批判している。それに対して和辻には憧れの念をもった。彼はポスト和辻と位置づけることができる。事実、和辻が東京帝大に移ったさい、彼を助教授として引き抜きを図るも、田辺が拒否するというエピソードがある。高山は人間的にもバランスがとれ、政治的なセンスもあった。戦争末期、海軍に協力して戦後処理を画策し、日本の将来を献身的に憂慮した。敗戦の前後、田辺の後継者として指導にあたったが、まもなく公職追放され、それ以後は帝国大学=国立大学の教職に自らの意志で就かなかった(8)。

高山の歴史哲学に関しては次の二点だけに注目しておく。一つは、歴史の捉え方が基本的には西田哲学の線上にあることである。彼の「呼応性の原理」よれば、特殊な地理的環境に対して課題を解決する方向で民族が活動し、天人合一の境地(無)にいたるとき文化が形成される。そして歴史は、そのような活動の成跡としての過去を、未来を指向する現在の創造的行為(天地の初発としての今)において了解・総合したところに成り立つ。以上の考え方には、ウェーバー的な歴史認識論(この点で和辻の現象学的な解釈学とは異なる)を含めて興味深い考察が散見されるのだが、基本的には西田の(後期の)「場所的論理」をふまえつつ、これを一歩具体的に展開したものである。

もう一つは、世界史の転換を唱える認識の背景に、西田・田辺・和辻らと類似する近代の捉え方があることである。それは高山の場合、︿近代=ヨーロッパ中心主義=合理主義=自我の哲学=個人主義=人間至上主義﹀という図式になる。この図式に基づいて高山は、非ヨーロッパ勢力がヨーロッパ中心主義を崩壊させつつある動きとともに、とりわけ、近代主権国家の自由主義的な連盟とは異なる「広域圏」という協同体(ゲノッセンシャフト)への動きを、「普遍的世界史」を形成する端緒として重視する。有り体にいえば、彼の歴史哲学とは、日本を盟主とする「大東亜共栄圏」という特殊な歴史的世界・特殊的世界史の弁証の試みであった。

以上の概観から、高山に戸惑いが見られない理由を推測してみたい。その一つは完璧なまでの観念操作と堅固な理念的枠組みである。理念で現実を完全に把握できるとする観念性ともいえる。内容的にみれば、︿近代=ヨーロッパ﹀という等式が問われる。高山のいう現代=超近代とは、近代とまったく異なる新秩序というより、むしろ近代の局面の一つ(一極化に対する多極化)と考えるべきであろう。もう一つの理由は観念の背後で影響している時代環境である。日露戦争時に生まれた高山は、大正生命主義の時代から昭和の激動の時代にかけて自分の思想を形成し、左右の全体主義が覆う時代のただ中で若き哲学者となった。「近代の超克」座談会という時局的な企画に見られるように、プラトンの哲人王気取りで、ナショナリズムの環境に「呼応」しすぎたとの感を否めない。

たしかに一貫している高山ではあるが、戦後の世界情勢の動きに対応し、現実的なレベルでは自説を修正してもいる。戦後書かれた「文化国家の理念」でその消息を確認してみよう(9)。注目に値するのは以下の三点である。

その一つは、国家は「文化国家」でしかありえないが、その場合「近代化」に留まることなく、一歩先の超近代の「文化創造」をめざすべきだという指摘である。政治ではなく文化の強調が、『世界史の哲学』に比べると新しい。それは和辻の言説とも酷似している。二つには、大戦後の世界史の趨勢をふまえ、近代「国家」は米ソに見られるようにその役割を終え、また原子力時代では戦争も不可能になるだろうから、「国家」の観念は早晩解体するという予言である。国家の主権を制限して、一方では地域主義に、他方ではより下位の社会集団・団体に委譲すべきである。ここで「地域主義」とは以前には「広域圏」といわれたものだが、戦前のように広域圏が勢力圏と結びつくかぎり戦争が起こるから、国家主権そのものを無くす必要があると高山はいうのである。この点は以前には見られなかった主張である。三つめは、現代社会を引き裂く「自由」と「平等」の矛盾をのりこえるためには、欲望の問題にとりくみ、「無我の哲学」に至らなければならないという主張である。高山によれば、絶対自我の哲学を基礎にする近代文化をこえ、自我と世界の両面において有限性の自覚をふまえた無我の哲学に立ってこそ、真の文化国家は実現する。この点も『世界史の哲学』をこえる見地である。

和辻は戦前・戦後を通じて、政治(天皇制)でも文化でも、単一民族の枠内に留まっていた。それに対して高山は、戦中に「ナショナルなもの」を肥大化させた「広域圏」を唱えたが、戦後には文化的な民族を残しつつ、政治的な国民=国家を超え出たかに見える。しかし、『世界史の哲学』の最も有名なフレーズ、歴史を動かす諸力(ポテンツ)の根源にある「モラーリッシュ・エネルギー」、すなわち民族の「健康で新鮮な道義的生命力」(一二、三一二、三一七、三四〇、三四二頁)は、「無我の哲学」の個人とどのような接点をもつのだろうか。

 

6 ︿近代﹀と︿個人﹀︱日本哲学の思考類型

 

ここまで、︿文明あるいは近代﹀および︿個人﹀と︿ナショナルな共同性﹀とをめぐって、和辻を軸に漱石、福沢、丸山、高山の捉え方を比較・検討してきた。そのなかで浮かび上がってきたのは、和辻と高山では、福沢と漱石に見られた︿文明あるいは近代﹀および︿個人﹀のもつ広がり・奥行きが平板化・矮小化され、この矮小化と否定を通じて︿ナショナルな共同性﹀が求められていることである。その点に、和辻や高山の哲学に共通する思考類型を見ることができるように思う。そしておそらく、その種の思考は哲学思想だけでなく、広く近代日本の思想全般をも貫いているように思われる(10)。

その種の思考類型をもう少し明確にしてみよう。和辻の思想では︿近代主義=ヨーロッパ中心主義=資本主義=功利主義的個人主義=町人根性﹀という図式が、また高山の場合には︿近代主義=ヨーロッパ中心主義=合理主義=自我の哲学=個人主義=人間至上主義﹀という図式が見られる。このような図式の下では、漱石の︿個人﹀に存在していたような、他者危害の原理(正義)と利己主義の内面的な凝視とのつながりは、自我=エゴイズム=自己保存(11)に対する一方的で性急な否定とともに断ち切られてしまう。こうして︿個人﹀は「去私」の余地なく、一挙に「無私」「無我」となって、「信頼関係」や「呼応関係」のような︿大いなるもの﹀に融け込み、そこに包まれることになる。︿大いなるもの﹀とは、和辻では(農本主義的な)家族的共同性を基盤として言語・習慣を共有する民族文化であり、高山では「天人合一」の境地もしくは「道義的生命力」である。そのかぎり、現実世界とのつながりは、独自の内部環境を保持しつつ他者と相互行為する︿個人﹀によって媒介されることなく、大いなる生命・場所・家族・共同性から無媒介・一挙にたぐり寄せられることになる。このとき現実への対応は、実体なき幻想の追求か、抽象的な理念の展開か、現実の絶対的な肯定か、さもなくばそれらの混合か、のいずれかになるだろう。

以上が日本哲学に特徴的な思考類型だとすれば、問われるべき焦点が︿個ないし個人﹀の捉え方にあることは指摘するまでもなかろう。︿文明あるいは近代﹀も煎じ詰めれば︿個人﹀の在り方に帰着する。ところが和辻や高山のように、︽個人=自己保存︾という前提に囚われているかぎり、自己保存の肯定か、さもなくば、自己保存の否定かのいずれかしか残らないだろう。信頼を支える空=無私や、場所と呼応する無我も、後者の選択のバージョンの一つである。ただし、そのような個人の捉え方は和辻や高山だけに見られるものではない。日本人の思想ではたいてい自明の前提とされており、あえて問い返されることもない(12)。はたして︽個人=自己保存︾とは異なる︿個人﹀の捉え方は可能であろうか。自己・自我、自己保存、利己主義(エゴイズム)をどのようにとらえ返せばいいのか。これが思想の根本問題である。

ここで、エゴイズムに対する漱石の凝視が起点になるように思われる。それを掘り下げて展開すれば、次のような理路が浮かび上がる。すなわち、エゴイズムの否定から無私・無我へと飛び、そこからさらに何らかの共同性とりわけ︿ナショナルな共同性﹀へと飛ぶのではなく、エゴイズムを欲望の問題として引き受け、自己保存を生命の営みの次元にまで掘り下げること。そして、その根源からあらためて欲望の多層・多重・多元的世界をとらえ返すこと。そのうえで、他者との相互行為の内部から、規範(正義)が生成する道筋をたどり直すること。これを近代日本思想の文脈で表現するなら、漱石と福沢をつなぎ、福沢の実践理性と漱石の内面洞察とを引き受け、さらに徹底する試みといえるだろう(13)。

 

おわりに ︿ナショナルな共同性﹀からの距離

 

「ナショナルなもの」に福沢は半分しか包まれていなかった。和辻にとってはそれがすべてであった。現在の私たちにとって、「ナショナルなもの」は幸いにも、人がそこで生まれ、そこで死んでいく絶対的な次元ではなくなりつつある。この違いは大きいはずである。とすれば、それに対する向き合い方はどうなるか。肝心な点は、「ナショナルなもの」が未だにどんなに強大であろうと、それは私たちが多様な競争のなかで肩入れしたり、否応なしに巻き込まれたりする多くの次元の一つにすぎないという、条件的で相対的な視点を保持できるかどうかである。

それを政治の次元でいえばこうなる。まず、国際政治の現状では、主権国家という形態は最小限、防衛的・縮小的に維持せざるをえないだろう。そのうえで、強大国の力の論理に対しては、国際ルールに則った協調システムを確立することが求められる。また、国民国家に関しては、市場の論理とのせめぎあいのなかで、今後とも政府が一定の役割を担わざるをえないだろう。しかし、それらと同時に、「ナショナルなもの」を全体として低下させる多様な動きを促進・加速させることが必要である。その脱ナショナル化の動きは、例えば、一方で地域主義的(国境をまたぐ生活交流圏の復活)でもあれば、他方で社会の多様な機能集団(例えばNPO)への権力の委譲でもあろう。それはいわば、ナショナルな太字の実線を細字の実線へ、実線をさらに波線の多様な絡み合いへと薄めていく動きである。そして、事柄は本質的により困難ではあろうが、政治の基盤にある文化の次元でも同様であろう。

ただし、そのような相対的視点は、支えとなる何らかの消極的・反省的な拠り所を要求する。前節の想定が的外れでないとすれば、その決定的な要件の一つが︿個人﹀の捉え方にある。「ナショナルなもの」の根本に位置する︿個人﹀の在り様に、適切な距離の可能性がかかっていると断じても、過言ではあるまい。

 

(1)この論考では「ナショナルなもの」という言葉を、「国民」「国民国家」「主権国家」「帝国主義」「ナショナリズム」を含めた広い意味で用いる。これらの概念の違いについては次の論文で整理されている。平子友長「ステート・ネイション・ナショナリズムの関係」、『現在のナショナリズム』(青木書店、二〇〇三年)四一〜七一頁。なお、本論考の全体に渡って参考にした文献は少なくないが、紙面の都合で最小限の参照指示に止める。

(2)拙著「田辺元「種の論理」と︿ナショナルな共同性﹀︱和辻倫理学と対比しつつ」、名古屋哲学研究会『哲学と現代』二一号、二〇〇五年。

(3)近年では酒井直樹の和辻論があるが(『日本思想という問題』岩波書店、一九九七年)、単一民族か多民族かという視点ではなく、両者にまたがる︿ナショナルな共同性﹀を︿文明あるいは近代﹀と︿個人﹀の視角から捉え直すところに本論考の特徴がある。

(4)以上の点については、津田雅夫『和辻哲郎研究』(青木書店、二〇〇一年)が詳しい。

(5)末木文美士『明治思想家論』トランスビュー、二〇〇四年。

(6)鈴木貞美編『大正生命主義と現代』河出書房新社,一九九五年。

(7)門脇佳吉『道の形而上学』岩波書店、一九九〇年。

(8)花沢秀文『高山岩男』(人文書院、一九九九年)、高山岩男『京都哲学の回想』(燈影社、一九九五年)、同『西田哲学とは何か』(燈影社、一九八八年)、ほか。

(9)高山岩男『超近代の哲学』燈影社、二〇〇二年。

(10)例えば、鈴木大拙、柳田国男、柳宗悦のほか、清沢満之(末木前掲書)、平塚らいてうや高群逸枝(山下悦子『日本女性解放思想の起源』海鳴社、一九八八年)にも当てはまろう。論理的には西田哲学が一つのモデルを提供している。

(11)ホッブズ的自己保存については「アメリカの国民性」(『和辻哲郎全集』第十七巻)。

(12)もっとも、例えばレヴィナスの倫理思想に窺えるように、その種の思い込みは日本の哲学者だけに固有のものでない。

(13)同じことを倫理学・社会哲学の水準でいえば、ミルの自由論と功利主義論とを結びつけ、正義と絶対的功利とが収斂する次元、すなわち害・傷という存在のもつ意義を、ミル自身の不徹底さを越えて問い詰めることを意味する。この方向への一歩として、拙著『健康への欲望と︿安らぎ﹀』(青木書店、二〇〇三年)がある。

 

(もりした なおき  浜松医科大学・倫理学)