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研究業績

RESEARCH WORKS
2017.04.16

健康と病気 シリーズ生命倫理学第2巻所収

シリーズ生命倫理学 第2巻『生命倫理学の基本概念』

 

第6章 病気/健康――〈滞ることなく流れる循環〉という視点

 

浜松医科大学教授 森下直貴

 

はじめに

本章では、人間の根本経験としての病気/健康をめぐって、歴史的かつ社会的・文化的な観点を組み入れながら哲学的に考察する中で、広義の「医療化」という時代の巨大な運動に対峙しうる拠り所を探る。広義の「医療化」の背後で働いているのは種々のリアルな諸力であるが、それらと同時に、病気/健康の「概念」の多義的な曖昧さもまた下地としての役割を果たしている。そのような多義的な曖昧さを明瞭にする作業を通じて、病気/健康の「規範的本性」を明るみに引き出すととともに、その核心にある身体状態の「消極的健康」を浮かび上がらせよう。結論として、その種の「消極的健康」を拡張した「消極的幸福(最小限の幸福)」が、まさに「医療化」に対峙しうる原点であることを主張する。以上の論述を導いているのは、生命の〈滞ることなく流れる循環〉という視点である。

 

1 病気/健康の「概念」の問い直しへ

 

人々は一生のうちで病気/健康を繰り返す。病気/健康はいつでも人々の日常意識の中心にあり、病気への忌避とともに健康への願望は一貫している。健康は人々の「幸福」の大切な要素であり、健康で長生きすることは人々にとって人生の目標となっている。そしてその対極に病気がある。このように病気/健康が日常次元にあるとすれば、劣らず重要な「死」のほうは日常を超えた次元にあり、そこから日常次元に差し込まれてくる。ただし、自分自身の死を経験した人はいない。「私の物語」にとって「死の物語」がどんなに不可欠な要素であるにせよ、死の経験は実質的には死に至るまでの病気/健康の経験にほかならない。

 

1.1 根本経験としての病気/健康

病気/健康はなぜ日常意識の中心を占めているのであろうか。その理由は病気/健康が人間の根本経験だからである。人間は生き物である。たとえ、他の生き物と違って意識的な心を備え、社会的なやりとりをし、道具の制作のみならず、言語シンボルの操作ができるとしても、生き物であることには変わりない。そして生き物であるかぎり、つまり一個の身体として物質・生命の循環の中にいるかぎり、人間もまた他の生き物と同様に病気/健康を避けることができない。

人間の根本経験としての病気/健康は、非日常次元にある死の経験とともに、社会と文化の根幹を形づくっている。原始の集団では呪術(シャーマニズム)が人々の病気/健康に深く関与していたはずである。呪術や後の宗教や医療は「癒し」のために創出されたという点で根っこを共有している(1)。シャーマンは「癒し」を梃にして集団の政治的指導者ともなった。病気/健康はまた芸術をはじめとして、哲学、神学、文学、社会学、心理学といった多様な領域でも多彩なテーマになっており、その中で身体的・精神的卓越さのみならず、美的な価値とともに道徳的価値をも帯びている。要するに、病気/健康は社会と文化に関わる人間の営みの焦点の位置にある。

時代を下って、社会分化あるいは専門化が極点に達した現代では、生命に関わる多様な専門領域の基礎に病気/健康の概念がある。例えば、医療、看護、リハビリテーション、介護、医科学・医学研究がそうである。医療とは治療の技であり、生理学とは自然の正常さに関する学であり、病理学は文字どおり病気・異常の学である。あるいは、社会保障制度や公衆衛生においても同様である。健康を保つ実践がヘルスケアであり、住民・公共の健康を守るのが公衆衛生であり、健康保険制度によって誰もが医療を受けることができる。このように病気/健康の概念は多様な専門領域において、問題の所在と範囲を定め、処置・対処を決め、仕組みや組織を創り出している。その意味で当該領域の境界線を確定する「規範的」な力を有している。

 

1.2 病気/健康概念の不明瞭さ

病気/健康は、人間の文化と社会にとっても、現代社会の専門領域においても、その要の位置にある。しかし、それにもかかわらず、「概念」としてみたときそれほど明瞭ではない。そもそも何をもって病気というのであろうか。症状の自覚があっても検査によって検出されないかぎり、病気とみなされないのが通例である。病理学の教科書に記載されて病名をもつ症状だけが病気である。逆に、数値やゲノムの異常が発見されても、症状が自覚されなかったり、将来にならないと発症しなかったりする病気もある。このようなギャップは「客観的」な測定と「主観的」な感覚との間で生じているが、他方では、例えばコレステロール値をめぐってみられるように、客観的な病気じたいの線引きに関しても見解の相違が露呈している。そして種々の対立を呑み込むようにして「生活関連病」という行政用語が成り立っている。あるいは、「同性愛」や「性転換症」が病気とされる根拠は何であろうか。精神または心の病気はどこまで身体の病気と同じであろうか。

健康の概念もまた病気のそれに劣らず拡散している。健康という感覚ないし感情は、個々人の身体の内部状態に根ざしており、元々漠然としている。そのため「科学的」とされる特定の病気観や、時代の政策的な健康観の影響を受けやすく、それらによって左右されがちになる。その結果、人々は病気に対する不安に後押しされつつ、果てしのない健康志向へと駆り立てられていく。こうして「欲望」と化した健康のイメージは、マスメディアの映像と言説の力に煽られながら、健康ブームとなって日常化し、さらには「健康至上主義」という本末転倒した現象を産出しさえすることになる(2)。

病気/健康の「概念」の不明瞭さという事態を下地として、人々の間には今日、病気は治って当たり前だという認識が蔓延している。あるいは、医療の力で自分の種々の願望もしくは欲望を満足させて当然だとみなす傾向が生まれている。しかしその分だけ、治らないときや欲望が満たされないときの落胆と絶望はかえって大きくなっている。この種の認識や傾向に対応して医療の方も、身体の部分的修復や生存率という目に見える結果にますますこだわり、その方向へといっそう高度化・専門化し、したがって高額化している。「〜症」が乱発され、「〜薬」が大量に製造され、サプリメントの売り上げが急増する。以上のような一面的な健康志向や広義の「治療化」への動きが進行する中で、健康保険制度が崩壊の危機に瀕し、「医療崩壊」言説が流布している。

 

1.3 医療化に対峙しうる拠点を求めて

現在、人間の生命・身体から精神・文化までの全体が、「治療化」ないしは「医療化」という巨大な運動の中に巻き込まれ、翻弄されているようにみえる。この運動を背後から動かしているのは、市場経済をはじめとする、国家管理やテクノロジー、マスメディアなどのリアルな諸力であるが、その直接的な担い手は個々人であり、医療専門家であり、国民である。そしてその彼らを内部から、病気/健康の概念的な曖昧さが下地となって、「病気=悪、健康=善」という単純化された観念が駆動している。この種の観念の浸透によって生命や幸福の意味を真剣に問い返す営みが遮断されているとすれば、我々はいまあらためて、病気/健康の意味を問い直すことから再出発しなければならないであろう。

 

2 病気/健康の歴史的次元

 

常識的な理解によれば、「病気でないのが健康、健康でないのが病気」である。もちろんこの理解にも先人の知恵が蔵されているには違いないが、病気と健康の論理的な関係を推論させるだけの手がかりがそこには欠けている。その関係は反対ということであろうか、それとも相対的であろうか、あるいは循環的であろうか。もし循環的だとすればどのような循環なのであろうか。両者の関係がそのように判然としないのは、そもそも「病気」も「健康」も多義的だからである。広く「病気」という現象をさす言葉に、英語では ‘disease’ ‘illness’ ‘sickness’ ‘malady’などがあり、日本語では「病い」「疾患」「疾病」「傷病」「損傷」などがある。他方、広い意味での「健康」には、‘health’ ‘well-being’があり、「健常」「健全」「元気」「養生」「すこやか」「つつがなさ」などがある。まずは歴史的な視点から概念を整理してみよう。

 

2.1 病気のイメージと医学史

古来、病気をめぐって三つのイメージがある。第一は外敵の侵入というイメージであり、第二は体内バランスの乱れというイメージである。これら両イメージの対立は西洋医学史を貫いており、さらに今日でも前者は免疫学、後者は内分泌・代謝学として精緻にされて、病気観の基本的枠組みを形づくっている。残る第三のイメージは身体の内外を循環する「気」である。「気」は東アジア世界の形而上学思想の柱であり、東洋医学(漢方)の「気脈」やこれと関連する「気持」「天気」「元気」という表現をつうじて、日常意識のうちに浸透している(3)

最初の二つのイメージに関連させて、病気の「実体」(entity)をめぐって西洋医学史を貫いている対立をとりあげてみよう。体液を含む身体の諸力や諸要素の正しい混合にもとづく生理的均衡を「健康」とみなし、それらの力や要素の不均衡を「病気」と考える「生理論」学派が一方にある。この代表者はガレノスであり、源流はヒポクラテスにまで遡る。他方、病気を何らかの「実体」と考える「実在論」学派がある。この内部には種々のタイプがあるが、中でもシデナムの「症状パターン」実体説は大きな影響力をもってきた。しかし19世紀初めのビシャ以降になると、症状を新たに解剖所見から説明する動きが始まる。そしてこの動きを決定づけたのが、病気の実体と原因を区別し、実体を病理学的変質として捉えたウルヒョウである。

「実在論」学派では19世紀の半ば以降、病気の実体を身体の疾患とみなし、これを因果的に説明するやり方が主流になる。その傾向は精神医学にも及び、身体疾患(脳病)が心の病気の実体とみなされる。その点では主流のドイツ医学を輸入した日本の近代医学も例外ではない。ただし、現在の標準的な病気分類法は、病気の原因が多元的であることを考慮して、むしろ症状論レベルの説明に逆戻りしている。とはいえ、DNA中心主義に立ってゲノムを重視する傾向はますます強くなっている。

他方の「生理論」学派の流れに目を転じると、クロード・ベルナールの「内部環境」説がホメオスタシスやストレス学説をつうじて今日でも重視されている。彼は『実験医学序説』(1865)の中で、フランス実証主義の流れを汲み、観察と実験とを区別して厳密な実験的手法を確立し、事実を重んじる経験主義に立って、生理的過程と物理的過程とを区別しない「デテルミニスム」を唱えた。この考え方によれば、病気とは生理学的な諸要素の過剰と過少に還元され、そのかぎり病気と健康との関係は相対的になる。

 

2.2 現代の医学哲学論争

20世紀の半ば以降、身体医学では慢性病や終末期医療に、また精神医学では薬物療法の衝撃という新たな動きに直面した医療界では、1960年代になって病気と健康をめぐる本格的な考察が始まった。そして1970年代には注目すべき医学哲学論争が起こる。当時誕生したばかりのバイオエシックスの潮流に乗って最初に口火を切ったのがエンゲルハートであり、これに対して近代医学の機械論パラダイムを洗練させて反論したのがボースである(4)。

エンゲルハートにとって病気とは、患者が感じる主観的な苦しみ、すなわち「病い」(illness)にほかならない。病気=病いは主観的な症状の多次元的な集合であって、生物学的で客観的な病気、すなわち「疾患」(disease)という一つの実体があるわけではない。病いには主観的な好みや価値ばかりでなく、時代の規範もまた色濃く反映している。結局、病いとは心身の自律的コントロールを喪失した苦しみであり、その再獲得をめざして医学は「道具」として介入する。目標となる自律の理想こそ「健康」である。

それに対してボースにとって病いは、あくまで実践的なケアの対象ではあっても、医学的な治療の対象ではない。本来の理論的な病気や健康は、個人的・社会的規範からは独立した客観的実在であり、統計学的に確定される「生物種に固有の設計」からのみ捉えられる。とりわけ「種固有の設計」に対応する生理学的次元が重要であり、この次元の機能がうまく働いている状態が「健康」、そうでない不全の状態が「病気」と規定される。

相対的な規範性を強調するエンゲルハートと機械モデルを洗練させたボースとの間には、病気/健康を主観的な症状とみるか、それとも客観的な実在とみなすかという亀裂が走っている。1980年代に登場したいくつかの理論はその亀裂を埋めるべく総合の道を探った。そのうちに後述するノルデンフェルトがいる。1990年代に入ると主たる対立軸は主観的規範と客観的規範との間に移行する。そのさいほとんどの論者にとって共通の土台になったのは、後述するカンギレムの規準論である(5)。

 

2.3 健康の語源と展開

今度は「健康」に焦点を合わせてみよう。日本語では「達者」「つつがない」「すこやか」「元気」「丈夫」「壮健」などで示され、そこには消極的イメージから積極的なイメージまで雑多なものが含まれている。これに対して西洋語では積極的なニュアンスが目立っている。 まず‘health’の語源は「全体性・完全性」である。そしてこの全体性を回復させることが「癒し」(healing)である。あるいは、‘wellness’の場合には二系統の語源がある。その一つが「望ましい状態」であり、もう一つが「旋回しながらの湧き上がり」である。このように ‘health’と‘wellness’とは語源的には直接にはつながらないが、連想心理的に結びつくことで「健康=全体・完全さが実現された望ましい状態」という意味を生んでいる。WHOの健康の定義はその延長線上にある(6)。

他方、東アジアの伝統では、漢字の「健康」の「健」が「建立」という積極的なニュアンスを帯び、「康」が「安堅」というどちらかといえば消極的なニュアンスを含んでいる。内容的に「健康」に相当するのは心身の健全さに関わる「養生」である。もちろん「養生」思想は、「自然治癒力」とともに西洋医学のヒポクラテスにも存在しているから、むしろ近代医学以前の伝統医療に共通する発想である。ただし、ヒポクラテスと荘子との間では「自然」の捉え方が微妙に異なっており(自然=本性=種的本質と無為自然=絶対無分節存在=気)、その相違に応じて「養生」や「自然治癒力」の受けとめ方にも差異を生じている。

老荘・道教の流れを汲む「気の循環」は日本の「漢方」の根本思想でもある。徳川時代の漢方医学は、金元医学の影響を受けて体内の気の循環を重視した「後世派」と、漢代の古典に依拠して内外循環を強調した「古方派」に分岐した。ここで思想史的に興味深いのは、そのような医学思想の展開に儒学者の益軒や国学者の宣長が絡んでおり、彼らの思想の背後には「天地・父母の恩」や「もの」を究極の拠り所にする「日本的形而上学」が控えていたことである。

蘭学が輸入されるにつれて西洋近代の生物医学の視点(脳=精神)が浸透し、さらに明治時代に入ってから国家の視点に立って「健康」が導入される。「養生」から「健康」への移行を大きく捉えれば、東洋哲学から西洋医学へ、伝統的身分制国家から近代国家への移行と軌を一にしている。その国家の視点はやがて肥大化して挫折するに至り、戦後にはドイツ的な身体医学中心の「衛生学」に代わって米国流の「公衆衛生学」が導入される。そしてこれと同傾向にあるWHOの「ウェルビーイング」としての健康観が標準となって広まるのだが、そこにはいくつかの問題点が含まれている。とくにその主体的健康観は実質的には、健康への欲望を後押しする役割を果たしている(7)。

 

3 病気/健康の規範的本性

 

「健康」(health)の概念は消極的なニュアンスから積極的なニュアンスまで幅が広く、さらに積極的なものは欲望へと接続している。それに比べると「病気」(広義のdisease)の方は多少とも明瞭であって三つの次元に大別できる。そのうち主観的な感じとしての「病い」(illness)や、現代医学の枠内にある「疾患」(disease)についてはすでに言及した。残る三番目が、社会的次元にあって文化的意味を帯びる「疾病」(sickness)であり、「病む人」(ill person)や「患者」(patient)に対する「病人」(sick person)または「健常人」(healthy person)である(8)。

3.1 多様な社会的・文化的視点

まずは社会学の視点である。これには二つの系列がある。一つは自殺率と社会の結合度の相関に注目したデュルケームの『自殺論』の延長上にある。ここでは病気/健康のうちでも罹患率や死亡率が社会の関数として把握され、社会の因子としてとくに社会的経済的地位が強調される。もう一つは「病人の役割」に着目したパーソンズの研究に由来する。ここで病気/健康は、社会的逃避(休職)、専門領域の活況(「うつ病」とカウンセリング)、医療・製薬業界の利害、病名=ラベリングのもつ差別と救い、因果的研究が及ぼす社会的影響(公害対策の遅延)といった文脈に位置づけられる。ただし、この視点からは病む人の微妙な心理が抜け落ちる。

文化人類学の視点では、病気/健康に関する生活習慣や文化の違いに注目される。伝統医療では病気の所在が身体の内部から外部まで及んでいて多様である。また「自然治癒力」の考えも広まっている。そこから現代の医療世界で支配的な「生物医学」の普遍性に対して疑念が生じてくる。ただし、この視点では文化が一定のパターンとして固定される傾向にある。

道徳的ならびに政治的な視点もある。病気/健康は個々人の心身の状態からはみ出し、道徳的なメタファーとなって、美的な評価とともに特定の人物の善し悪しの評価に結びつけられる。均整=健康=美=善という古代のギリシャ人の理想や、「健全な肉体には健全な精神が宿る」というローマ人の理想がその典型であろう。あるいは、特定の人物の言動が「クレイジー」とか「ビョーキ」とか「病的」と評される。健全な社会、公序良俗、健康優良児といった表現もまたこれまで人口に膾炙してきた。このように病気/健康は社会秩序を維持する政治的なメタファーとしてイデオロギー的に機能する。

その他、文明論的な病気/健康という視点がある。人類だけが病気/健康になるわけではなく、人類以外の動植物も病気/健康になるし、人類の病気/健康はウィルスや微生物との微妙なバランスの上にある。ところが人類の文明では、人類以外の生き物の病気/健康はその生/死とともに、人類の病気/健康という観点から一方的に価値づけられ、犠牲を強いられる構造になっている。健常人や患者や死刑囚の犠牲の上に成り立つ人体実験に比べると、動物実験に対する倫理的な注目度ははるかに低い。ここでは文明そのものの「健全性」が問われている。
3.2 三次元の規範性

病気/健康がメタファーとして転用される理由は、病気/健康の「規範的」本性に求められる。三つの病気の次元、すなわち「病い」「疾患」「疾病」はそれぞれ、心理的規範性、生物学的規範性、文化的規範性に対応する。これらの基盤には生物学的規範性があるが、規範性の全体を包括し方向づけるのは文化的規範性である。カンギレムをふまえていえば、規範的であるとは正常/異常という二項分割=意味を作動させることである。世界は縦横に張りめぐらされた意味=分割から成り立っており、分割する作動の中心には規準がある。後述するように、病気/健康はその規範的世界の規準の位置にある(9)。

 

4 病気をめぐる経験――実存的次元

 

病気に対する現代医学の視線は「疾患」と「患者」に向けられている。特定の疾患に注目して症状論から、病因論、予後、処置へと進む中で、各種の検査データの重視と反比例するかのように病む人の経験は軽視されていく。しかし、病気はたんなる身体変異ではない。身体の変異が感じられ、意識されるところに病気の全体的経験がある。しかも、その意識のうちには社会的・文化的な意味=規範が浸透している。「病む人」の体験に目を向けなければ、病気の全体的な意味は浮かび上がらない(10)。

 

4.1 実存的変容

誰にでも経験のあることだが、身体状態に何らかの違和・不調を感じると、否応なく自分の存在の不安定さに気づかされ、身体の異変・異常にだけ関心が集中する中で、一連の実存的変容を経験する。まず、世界の中心に躍り出た身体の底が揺らぎ始める。それまで安定していた身体の統合が解体すると、続いて身体と自己との間に亀裂が走り、それはさらに自己と世界との統合にも波及する。時間は縮小して未来の到来が阻止され、空間も閉じてしまい、最後には他者との関係が崩れて孤立するようになる。

そのような実存的な縮小・解体の傾向は、いかなる病気であろうと基本的には変わらないが、病気の種類や程度によってその発現の仕方や強度は異なってくる。例えば、急性だが一時的な病気の場合には、原状復帰という戻るべきホームがあるから、それは短期の外国旅行の体験にも似ている。急性で破壊的な結果をもたらす病気の場合には、原状に戻ることはなく、実存的な消耗感や無力感に引きずられ、低い自己評価だけが残ることになる。実存的変容のすべてが現われてくるのは回復しない慢性病の場合である。ALSや死に至る末期がんでは絶望的な疲れがいつまでも持続する。もちろんその反面で、病む人には対処するだけの時間的余裕があり、絶望を埋め合わせるだけの力もあるから、自己と人生を再定義することは不可能ではない。

病む人がいだく不安や憂慮は、身体の不調感に始まる実存的変容だけに由来するのではない。それとともに、仕事や学校そして生計の維持といった日常の社会生活の流れが止まってしまうことも大きく影響する。いや、場合によっては、後者の心配や焦りのほうが意識の前面ではより強く働くこともある。病気は人生のスケジュールを思いがけず乱してしまう。日常のレールから外れることに伴う落伍感や、自分の社会的な居場所の喪失感は、病む人をして周囲からますます孤立させ、他者の拒絶へと追い込んでいく。

 

4.2 周囲の視線と対応

病む人が経験する実存的変容と、日常的な配慮や焦りや落伍感、さらに社会的な孤立感は、医療の世界に入ることで軽減されるどころか、しばしばかえって増幅される。入院にともなう心理的負担は、病む人の時間・空間や社会的関係をますます断片化する。この断片化はさらに医療の専門言語によっても進行する。こうして病む人は標識を付けられ「患者」にされることで、機械的で効率的な修理の対象にされたという感覚を抱く。医療環境だけではない。周囲の人々の視線や対応によっては、病苦がいっそう増悪し、疾患が固定・固着することもある。医療環境を含めてその種の影響力がとくに明瞭に現われるのは、精神・神経の病気の場合である。

例えば「認知症」では、神経系の損傷にともなう中核症状とそれ以外の二次的な周辺症状とがみられるが、後者の症状は病む人ごとに微妙に違っており、その違いに周囲の視線や対応が大きく関与している。あるいは、周囲の人々との関係がその発端から影響している「うつ病」や「躁うつ病」の場合、人々の関与の仕方によってマイナス思考の神経パターンが二次的に固着するかどうかが左右される。とりわけかつて「精神分裂病」と呼ばれた「統合失調症」の場合、社会的な力が際立って顕著な影響を及ぼしてきたことは指摘するまでもない(11)。

 

4.3 人生の再構築への出発点

「癒し」の原意は全体性の回復である。つまり、病気の経験によってずたずたに断片化された人生の織物をもう一度全体へと織り直すことである。たとえ回復しない場合であっても、できるかぎり身体を癒す中で、人生の意味づけ直しを通じて心を癒すことに変わりない。そしてそのためには自己をコントロールして病気とともに生き、社会的なつながりを積極的に保つ必要がある。いかなる病気であれ、全くの復元・復帰ということは考えられない。病気の経験は元の人生の再構築=復帰というより、むしろ新たな人生の構築への出発点になる。

病いは病む人だけのものでない。家族や身近な人も我が事のように病いに準じた経験をもつ。医療者も同様である。こうした関係者の間で、ALSなどの難病や末期がんの場合、相互の理解し難さという問題が生じる。病む人は予見不能でコントロールの利かない他者性を凝縮している。末期の人の気持は矛盾のかたまりともいえ、数時間ごとに気持ちが動揺したり、意外な脆さや強さを見せたりする。しかも一人ひとりが個性的で異なっている。ただし、生命・身体の共通性(生物学的規範性)と言語・文化の共通性(文化的規範性)が背景にあるかぎり、人生の謎をめぐる対話と相互理解はけっして不可能ではない。

病気の経験はまた「バイオエシックス」の「自己決定(自律性)」原理にも重大な影響を及ぼす。例えば、柳原和子は『がん患者学』を書いて賢く強い患者像を提起したが、がん再発後、その同じ彼女が「優しさに包まれたい」と発言して親しい医師たちを困惑させた。自己決定(自律性)の強要はしばしば、起伏が大きく陰翳に富んだ病む人の心理を切り捨てることになる。自己決定の価値は、病気の経験を通じて人生の意味づけや相互信頼と結びつくことで、いっそう深まることであろう(12)。

結局、病気をめぐる経験の本性は優れて「倫理的」なものである。病気は「一個の人の新たな生き直し」という目標、そしてこれを共有する「身近な他者たちの協同作業」という物語を創り出す。この物語のうちで、病む人自身の生き方や、関与する人々の生き方はもちろんのこと、関連する言葉をはじめ、費用、施設、居場所、時空の構造化といったすべての事柄が、その品位や相応しさという観点から問われることになるからである。

 

5 健康をめぐる行為と感情――消極的健康という次元

 

今度は「健康」に目を転じてみよう。西洋文化では伝統的に「合理性」や「魂」の育成に価値がおかれ、メルロ=ポンティのような例外はあるにせよ、身体的経験が見下される傾向にある。病気や死の経験が注目される場合でも、それはあくまで「魂」との関連からであって、身体そのものに関心があるわけではない。そしてその点で東洋とくに日本の身体思想の伝統とは対照的であるとされる(13)。事情は健康の場合でも同様である。スポーツ思想にみられるように、健康教育や身体教育の関心は身体をより力強く動かすことに集中する。つまり、「できる」ことに最大の価値がおかれる。欧米の学問の影響下にあるヘルスケアの分野でも主として日常動作や行動中心の指標が設定される。そこでまず、「できる」ことに焦点を合わせた行為論からのアプローチに焦点を合わせてみる(14)。
5.1 行為論からのアプローチ

ノルデンフェルトは前述した現代の医学哲学論争をふまえ、全体としての個人の健康を優先させる立場から、病気/健康の概念を行為論の文脈において分析する。彼によれば、健康とは「標準的な環境において幸福を結果としてもたらすような目標を達成する能力」と定義される。ここで「能力」とは一定の行為を遂行できるということであるが、仮にその行為を遂行できない場合には、その遂行に必要な訓練を受けるという二次的な遂行を意味する。つまり、一定の知的理解力を背景にして「指を曲げる」「首を廻す」「身体を捻る」といった、特定の行為に関連する基礎的動作を遂行できることである。また、健康に関わる最重要の「目標」には、人類共通の必需に加えて、主として個々人が設定する一連の長期的な目標が含まれる。そして後者の主観的な目標が達成されるとき、そのかぎりでの最小限の「幸福」感情がもたらされる。以上の枠組みでは、「健康」を妨げる要因の一つとして「疾患」が位置づけられ、また妨げられた結果の症候として「病い」が捉えられる。

ノルデンフェルトの健康論では、健康が個々人なりの主観的な目標や幸福に明確に結びつけられている。その意味では個人中心の主観主義の徹底であり、これが客観的・普遍的な疾患とうまく両立されている。その上で、目標の尺度化のためには社会全体の共通基準が不可欠とされ、これを形成する政治的プロセスが組み込まれている。このように彼の健康論は、医療とヘルスケアと福祉にまたがる政策に対して哲学的基礎を提供する狙いをもつが、A・センが唱える「ケイパビリティ」(capability)論に接続されるなら、政策論としてはより具体的になり、またいっそう生産的になるであろう(15)。

経済学・政治学の分野でこれまで共通基準とされてきたのは、満足の最大化、条件(機会・手段・資源)の公平な分配、便宜の所有としての富裕さであった。これに対してセンは、満足の最大化をともないつつ公平な分配と富裕さによって支えられる「働き」(functionings)すなわち「一まとまりの行為や状態」の、多様な選択肢の集合に注目する。この集合が「ケイパビリティ(可働力)」である。例えば、食糧があることやそれを摂取することと、個々人の栄養状態が実現されていることの間には、両者をつなぐ多様な条件つまり可働力が必要である。センにとって「人間らしい豊かさ」は、たんなる満足感・公平な分配・富裕さに尽きるものではなく、それらを媒介する多様な可働力が備わってはじめて実現する。その意味で識字率(教育)や乳幼児死亡率(医療)が重要な役割を果たす。

センのいう「働き」はノルデンフェルトの「健康=基礎的動作の遂行」によって基礎づけられると考えられる。ただし、彼の健康論は人間の主観的・社会的な価値の純化・徹底であるかぎり、動植物の病気/健康は家畜・穀物畑の病気/健康としてしか捉えられないから、文明論的視点からは問題を含むことになろう。
5.2 感情論からのアプローチ

動作・行動に焦点を定める科学的・政策的な統計指標は有用ではある。しかし、そうした指標の根拠には元来、「健常」とみなされた個々人の健康の感覚がある。行為論アプローチでは「できる」行為に視線を集中させた結果、病気/健康をめぐる経験が背景に後退している。そこで今度は、経験にこだわる感情論からのアプローチをとりあげよう(16)。

まず確認できることは、「健康」についての語りが個々人の体験の質に徹底的に左右されることである。そしてその体験の上に、立場や状況の違い、時代の技術水準の差、風土・文化固有の力点の違いが重なる。となると、健康に関して普遍的な枠組みを想定することを断念せざるをえないことになるが、しかしその反面、日常の言い回し(「達者」「すこやか」など)や辞書の表現(「無病息災」「調子の良さ」「充実した感じ」)とか、古典的な見方(正常さ・自然さ、バランス・均衡状態)や多様な語源を広く見渡すとき、そこに何ほどかの共通要素を洞察できないわけではない。その共通要素とは、ある種の「全体性さ・完全さの実現」とこれにともなう「快の感情」である。

ここでいう「快の感情」には、積極的で顕在的な次元だけではなく、同時にまた消極的で潜在的な次元も含まれている。前者が活発で動的な快の感情であるのに対して、後者は穏やかで静かな快の感情である。そしてこの両者は次の三つのサイクルのうちで重なり合う。すなわち、その第一は、侵害・損傷(積極的な苦)とその回復(消極的な快)とをくり返すサイクルである。第二は、体内の不均衡(消極的な苦)とその解消(積極的な快)と再均衡(消極的な快)のサイクルである。第三は、躍動的な活性(積極的な快)と鎮静(消極的な快)とをくりかえすサイクルである。見られるとおり、感情の三つのサイクルは、回復・再均衡・鎮静の状態にともなう消極的な快の次元を交点としつつ、互いに交叉している。

回復・再均衡・鎮静の状態にともなう「消極的な快」をここでは「安らぎ」と命名しよう。「安らぎ」という感情は、欠乏・過剰の解消や躍動する活動にともなう「積極的な快」に比べるとほとんど目立たない。意識されてもやがて消えてしまうため日常では見過ごされやすい。他方、身体の損傷や不調の状態にともなう違和感や異常感と比べても同様に目立たない。意識的な経験という側面でいえば、苦や積極的な快の方が消極的な快に先行している。

しかし、生き物の「規範的」な側面からいえばむしろその逆であって、三重のサイクルの交点である「安らぎ」の方が先行している。感情サイクルの背後には、崩壊と回復、不均衡と充足と均衡、活性と鎮静といった身体状態の循環プロセスがあり、この中心には全体を駆動している一定の身体状態があって、この身体状態に「安らぎ」の感情がともなう。「安らぎ」の感情に対応させていうなら、背後にあるその身体状態は、身体の健康の消極的な次元、すなわち「消極的な健康」といえる。

 

5.3 身体の「消極的健康」という規準線

一人ひとりの健康の核心は、行為論からみれば一定の「できる」基礎的動作にあったし、感情論からすれば「消極的な快=安らぎ」感情にあった。しかし、行為も感情も同じ一つの身体の表現である。とすれば、身体の「消極的健康」状態にともなう「できる」基礎的動作=安らぎの感情の対として、二つのアプローチを統合すべきであろう。以上をふまえるならこう約言することができる。身体の「消極的健康」を規準線にしつつ、「できない」基礎動作=積極的・消極的苦という対をともなう状態と、基礎動作をこえて「できる」行動=積極的快という対をともなう状態との間で、ということはつまり、病気と積極的健康との間で、我々の身体は不断に揺動している、と。

 

6 生命の循環、身体と脳、心の病気

 

身体の循環プロセスに言及した以上、話は生命循環に踏み込まざるをえない。生命はこれまでさまざまに捉えられてきた。しかし、生命の循環プロセスの論理的把握はいまなお詰められているとは言いがたい(17)。その中にあって、西田幾多郎の「作られる/作る」という作動循環論や、多田富雄の「スーパーシステム」論にヒントをえた、村瀬の「自己・非自己循環」論は注目に値する。村瀬は同一性も発展も崩壊もすべて同じ一つの生命プロセスとして捉える。同じ修復プロセスが解体と回復の両側面をもち、その集合/解離、合成/分解、開環/閉環の作動が滞って固定するとき、病気という状態になるとする。具体的にはタンパク質の構造化における過剰・過少が起こるときがそうである(18)。もちろん生命循環の考察は、生命/身体/脳/心/意識的心の間の関係へと展開されないかぎり不徹底なままに止まるであろうし、また、その関係のうちに中枢神経系の循環が明確に位置づけられないかぎり、意識的心をもつ人間の病気/健康、とりわけ精神もしくは心の病気を捉えることはできないであろう。以下、村瀬やとくにダマシオらを参考にしつつ、その種の難問に対してあえて一定の見通しを立てておこう(19)。

 

6.1 高次内部状態と背景的感情

個々の生命体は周囲との間で物質(元素)を循環させている。生体内にとりこまれた物質は、その形態をエネルギー・構造・機能・情報に変換しつつより高次の循環を形成し、こうして形成された循環は分解と合成をくり返しながら自己を維持している。ここで作動しているのは「他なるものの協動」という論理である。そして多重で複雑に交叉する循環(身体)は、その内部に循環全体を調節する循環(中心)を形成する。人類を標準にすればそれが脳=中枢神経系である。この脳内には一連の調節機構があり、種々の調節を通じて安定した「体内環境」を維持している。

身体状態はすべて脳内にマップされる。私見ではこれには四種ある。第一は、体内環境のみならず内臓や筋肉・骨格の状態まで含む「内部状態」、第二は、エネルギー吸収や生体防御を通じて快/苦の反応をおこなう「内/外部状態」、第三は、「内部状態」と「内/外状態」とが連動する中で生じる「欲動(衝動)状態」、そして第四は、周囲の状況を感覚情報としてとりこむ「外部状態」である。これら四種の身体状態は「内部状態」を中心にして相互に連関している。外部状態であれ、内部状態であれ、その他の状態であれ、周囲の環境の中でいずれかの状態が最初に変化すると、残りの状態が相互連関的に作用し合い、この相互作用の結果として高次の内部状態(中心の中心)が生じる。これが「情動」(emotion)である。情動は時々刻々と変動する統一的なニューラル・パターンであり、これが脳幹・視床・大脳皮質のしかるべき領野で合成されると、高次の内部状態の統合的イメージ、すなわち「感情」(feeling)が生じる。

ダマシオによれば、情動には三つのレベルがある。まず、恐れ・怒り・嫌悪・驚き・悲しみ・喜びといった「基本的情動」のレベル、次にその上位にある共感・当惑・恥・罪悪感・プライド・嫉妬・羨望・感謝・賞賛・憤り・軽蔑などの「社会的情動」、そしてこれらの特殊な情動にとって場となるような一般的な持続的な情動である。この最後の情動を彼は「背景的情動」(したがって「背景的感情」)と呼ぶ。いわゆる「気分」という特定の情動の持続とは違って、背景的情動は場的一般性の水準にある。

背景的情動(と背景的感情)は、他の二つの次元の感情と連動する中で不断に変動する。頑張りと疲労、興奮と落ち込み、好調と不調、緊張とリラックス、高ぶりと気の沈み、安定と不安定、弾みと縮み、バランスとアンバランス、調和と不調和などの間で揺れ動く。しかし、ダマシオでは見落とされているが、そこには不断に回帰する先として、一定の安定状態=中間的状態がある。興奮の鎮静や、欠乏あるいは過剰の解消、損傷の修復、不均衡の回復といった事態の正体は、身体の高次内部状態としての背景的情動の中間的状態(統合的ニューラル・パターン)であり、これこそが先に「消極的健康」と命名した当のものである。同様に、中間的状態にある背景的情動の合成的帰結であるイメージすなわち背景的感情が、健康の感情の核心すなわち消極的な快の次元=消極的な快(安らぎ)である。好調にも消極的好調(中間=安らぎ)と積極的好調(快調)との二種がある。安定とは好調そのものではなく、積極的好調と不調との中間なのである。

 

6.2 高次中心化という論理

背景的感情の生成では、「他なるものの協動」作動の延長上に、高次の中心化つまり変化・差異の中から立ち上がる同一性という論理が貫いている。イメージが転変する世界を「心」(mind)と定義すれば、この心を形成する同じ論理が今度は意識すなわち「意識的な心」(conscious mind)の生成においても認められる。ダマシオは、イメージを操作する働き自身が多様なイメージを「自己」に属すると感じるとき、そこに意識的な心が成立すると考え、この前提にあって時々刻々と移り変わる背景的感情を「原自己」(proto-self)と名づける。「原自己」は外部状態あるいは内/外部状態のイメージと欲動状態のイメージとの相互作用を通じて変化する。この変化する「原自己」の差異の内からその同一性として成立するのが、意識的な心の自己感情つまり「中核的自己」(core self)である。

この「中核的自己」感情にともなわれることで、外部状態(対象)を志向する瞬間的な意識である「中核意識」の段階が成り立つ。これこそ意識的な心のお馴染みの構図、すなわち、いわゆる対象意識にともなう自己意識(じつは感情)という構造にほかならない。そしてこの中核意識の次元の上に、対象イメージに触発されて記憶イメージが連想的に喚起されるとき(記憶の形成・拡大には社会的なやりとりと声=言葉を必要とする)、「自伝的自己」(autographical self)の意識的な心、つまり「延長意識」(extended consciousness)の段階が誕生する。

自伝的自己の感情をともなう延長意識の世界では、外部状態の即物的イメージから幻想的イメージまで種々の想像的イメージが映り変わる。イメージの意識的生産の過程が成立すると、意識的心は物質・生命の大循環から離れ、多数の意識的な心同士が接続し合う中で、独自の循環システムを形成する。これが分割・分節された意味群から構成される集合的意識つまり文化である。こうして、個々の生命の身体=脳=自己=意識という一本の高次中心化を垂直軸しして、物質・生命の大循環と文化の大循環とがあたかも地と天のように広がることになる。
6.3 心あるいは精神の病気

以上をふまえた上で精神もしくは心の病気に目を転じる。意識的な心のイメージ世界は、想像的イメージが滞りなく循環して流れるとき安定する。ところが、想像的イメージが外部状態の即物的イメージから切り離され、内部だけで固定的に自己増殖し、こうして循環する流れが偏って滞り出すとき、イメージの幻想化が始まる。それは脳のニューラル・パターンを介して情動を中心とする身体の状態にしばしば変調をもたらす。このとき例えば幻聴や被害妄想が起こるが、そこには見る/見られるという人間の社会性が「過剰」に突出している。

心の病気の場合、先天性疾患が介在していないかぎり、療法上の焦点は意識的な心によって産出される循環システムの滞りにある。例えばうつ病や躁うつ病に対する「認知行動療法」の主眼は、意識的な自己コントロールによって、マイナス思考ではなくプラス思考をするよう習慣づけることにある。そのためには外部に関わる即物的イメージに立ち還ることで、滞ることのない循環を取り戻す必要がある。ちなみに、即物的方向とは逆に、ある種の幻想的イメージを意識的に操作することで、閉ざされた循環をふたたび開くことも不可能ではない。それが呪術や宗教による癒しである。

心の病気への対処としては薬物療法も必要であるとされる。そのメカニズムは必ずしも解明されていないが、おそらく、幻想イメージの内向的な自己増殖による循環プロセスの閉鎖・滞りが、脳のニューラル・ネットワークにおける一部の固着・偏り、あるいは一方向的な傾向・傾性を引き起こすからと考えられる。イメージの偏向的増殖の動きはニューロン自体が生体物質であることによってそのまま脳=物質に刻み込まれる。それゆえ、何か事があると容易にパニック状態に陥り、自己コントロールを失ってイメージの内向的自己増殖を生み出しやすくなる。そのとき薬物の力を借りて自己コントロールを維持することが必要になる(20)。

 

おわりに――消極的健康から消極的幸福へ

 

健康と幸福はふつう連続的に捉えられている。しかし、健康も多義的であったが、幸福はさらに漠然としている。ここまでの論述の眼目は、健康とその感情における消極的次元と積極的次元との区別にあった。この区別に対応させて幸福にも二つの次元を区別してみよう。

身体の全体的状態の規準となる「消極的健康」の感情に対応するのが「消極的幸福」であるとすれば、「積極的健康」の感情に対応するのは「欲望」であり、またこの延長線上にある「積極的幸福」となる。他方、「病気」の感情に対応するのが「積極的幸福」の対極をなす「不幸」ということになる。「消極的幸福」の内容を具体的にいえば、「消極的健康」(安らぎ)の上で、自分の居場所があること、誰かとつながっていること、そしてささやかな日々の目標をもつことである。これらは人間の最小限の営みであり、広義の安らぎとも、「最小限の幸福」ともいえる。この消極的幸福つまり「最小限の幸福」こそは、欲望と積極的幸福や不幸のイメージが自己増殖する世界にあって、それらをコントロールするさいの心理的な拠り所になると考えられる。

もちろん、「最小限の幸福」は狭い親密な関係性の内部にとどまっていて、社会的な広がりに欠け、時間的な奥行きもない。とくに死者とのつながりが見当たらず、その結果として死と折り合いをつける非日常の機会がない。その種の広がりや奥行きを織り込むためには、広義の形而上学的次元の考察、すなわち「死の物語」を必要とするであろう。これに加えて、「医療化」の運動に対峙するためには、「最小限の目標を共有する他者たちの協同作業」の物語や、世代を越えたつながりとしての「国民」の物語もまた必要になると考えられるが、これらの展開は別の機会に譲ることにしたい(21)。

 

 

注ならびに文献

(1)M.サンドライユ『病の文化史』上・下(中川米造ほか監訳、リブロポート、1984)に詳しい。

(2)森下直貴(2003)『健康への欲望と〈安らぎ〉』青木書店。

(3)以下の論述については次の著作を参考にした。サンドライユ前掲書、L.キング『医学思想の源流』(館野之男監訳、西村書店、1989)、川喜田愛郎『近代医学の史的基盤』上・下(岩波書店、1977)、遠藤次郎ほか『癒す力をさぐる 東の医学と西の医学』(農文協、2006)、石田秀実『気 流れる身体』(平河出版、1987)、M.フーコー『臨床医学の誕生』(神谷美恵子訳、みすず書房、1969)、石渡隆司『医学哲学はなぜ必要なのか』(時空出版、2000)、井筒俊彦『意識と本質』(岩波書店、1983)、『生命倫理百科事典』(丸善、2008、原著:W. T. Reich ed., Encyclopedia of Bioethics, 2003)、八木剛平・田辺英『日本精神病治療史』(金原出版、2002)、S. スピッカー『医学哲学への招待』(石渡隆司ほか訳、時空出版、1999)。

(4)H.T.エンゲルハートJr.:健康と病気の概念(石渡隆司他編訳『新しい医療観を求めて』時空出版、1992、26-52);C. Boorse(1975):On the Distinction Between Disease and Illness. Philosophy and Public Affairs 5 :49-68,1975;C. Boorse (1977):Health as a Theoretical Concept. Philosophy of Science 44:524-573,1977;A.Caplan, and Two Others (eds.) : Concepts of Health and Disease, Addison-Wesley Publishing Company,1981. 森下直貴(1997):病気と健康の概念―医学哲学の一断面(『相対主義と現代社会』青木書店に所収、241-256)に詳しい。
(5)C.カルバー/B.ガート『医学における哲学の効用』(岡田雅勝監修訳、北樹出版、1984)、H.R.ウルフほか『人間と医学』(梶田昭訳、博品社、1996)、L.ノルデンフェルト『健康の本質』(石渡隆司・森下直貴監訳、時空出版、2003、原著:1987)、G.カンギレム『正常と病理』(滝沢武久訳、法政大学出版局、1987、原著:1966)。

(6)森下(2003)前掲書に詳しい。

(7)以上の論述については、井筒前掲書、遠藤ほか前掲書、貝原益軒『養生訓』(松田道雄編『日本の名著14 貝原益軒』中央公論社、1983)、八木/田辺前掲書、北澤一利『健康の日本史』(平凡社、2000)。
(8)この節では「健康と病気Ⅱ」(『生命倫理百科事典』前掲書第2巻、1012-1017頁)を参考にした。

(9)森下(2003)前掲書、森下直貴(2011):雑融性としての成熟(『哲学と現代』26:42-87)。

(10)この節ではとくに「健康と病気Ⅴ」(『生命倫理百科事典』前掲書第2巻、1024-1030頁)を参考。

(11)小澤勳『痴呆を生きるということ』(岩波新書、2003)、八木・田辺前掲書。

(12)柳原和子『百万回の永訣―がん再発日記』(中央公論新社、2005)、森下直貴:生命倫理とは何か(本シリーズ第1巻第1章)。

(13)健康と病気Ⅴ前掲書、湯浅康雄『身体―東洋的身体論の試み』(創文社、1977)。

(14)ノルデンフェルト前掲書。

(15)A. Sen:Capability and Well-Being. in: The Quality of Life, Clarendon Press, Oxford,1993.

(16)森下直貴(2003)前掲書、森下直貴(2004):健康と生命倫理(生命倫理14(1):1-8)。

(17)森下直貴(2003)前掲書、森下直貴(2010):生命と回復(『比較思想研究』36:14-23)。

(18)村瀬雅俊『歴史としての生命』(京都大学出版会、2000)。

(19)A.ダマシオ(2003)『無意識の脳 自己意識の脳』(田中三彦訳、講談社)、A.ダマシオ(2005)『感じる脳』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)。

(20)八木/田辺前掲書。

(21)森下直貴「生命倫理とは何か」(本シリーズ第1巻第1章)を参照されたい。