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研究業績

RESEARCH WORKS
2017.04.16

水子(青木書店、2006年)解説

 

解 説   森下直貴

 

1.著者について

著者のラフルーアさんは現在、ペンシルヴァニア大学東洋言語文化学部の日本研究講座の教授である。また当大学生命倫理センターの上級研究員でもある。有名なエリアーデのいたシカゴ大学で宗教史の研究によって学位を取得した後、プリンストン大学や、UCLA,上智大学で教鞭をとられた。専門は日本中世の仏教思想史であり、専門家の間ではよく知られた方である。その方面の業績については本書の「原注と訳注」を見られたい。

そのうちの一つ、「廃墟にたつ理性―戦後合理性論争における和辻哲郎の位相」に触れておこう(テツオ・ナジタ他編『戦後日本の精神史―その再検討』[岩波書店、1988年]所収)。この論文は1989年、外国人初の和辻文化賞を授与されたものである。そのなかで教授は、日本人研究者には思いもつかない斬新な視点から和辻の「合理性」に対する態度を論じ、それが後のローティなどのプラグマティズムに通じていると主張された。このポストモダン風のプラグマティズムが教授の立論のバックボーンにある点は、本書を理解する上で役立つので留意しておきたい。

最近では、専門の西行論(2003年)をまとめる一方で、脳死と臓器移植の問題にも関心をもち、元同僚の医療社会学者フォックスの著作(邦訳『臓器交換社会』青木書店)やH.ヨナスの責任思想などを論じておられる。こうした活躍が評価されて、2002年にはシカゴ大学出身者を対象にした年間最優秀賞を授与された。生命倫理に関連して目下、ヨーロッパ・アメリカ・日本を結んで論文集を編集され、またそれと別に日本の著作からの抜粋を英訳したアンソロジーを編まれているという話である。

教授は毎年のように研究と講演のため来日されている。昨秋、静岡で開催された国際シンポジウムでは、中絶問題について中世日本人の胎児観を絡めて講演してもらった。教授の許には日本からの留学生も多いと聞く。教授の人柄は私の印象ではその文章によく表れている。古今東西の豊富な学識をふまえ、文学的な直観と想像力を駆使しつつ、繊細にして柔軟な議論をされる方である。お名前(フランス語で「花」)から察しがつくように、フランス系ユグノーの末裔であるが、仏教とくに日本仏教に深い関心を寄せるアメリカの知識人を代表する人物である。

 

2.本書の内容について

 

序文に本書のきっかけが述べられている。片や熾烈な中絶論争で分裂状況にあるアメリカ、こなた中絶問題に対して曖昧な態度をとる日本のとくに仏教徒。この対照を通じて著者は、むしろその曖昧さのなかにこそ社会の分裂を避ける知恵が隠されているのではないかと考え、その底を探って宗教的な深みに惻鉛を降ろしていく。この「中絶と宗教」という問題の立て方に上述した著者ならではの視点がよく表れている。

なお、ここで本書の読み方について注意しておきたい。本書はあくまで英語圏のアメリカ人読者を想定している。したがって、日本人読者には説明が冗長であったり、評価の仕方に違和感を覚えたりする部分が必ずあるかと思われる。しかし他面では、叙述を丁寧に追っていくうちに、いつしか外国人の視点と融合する自分がいて、その結果、内にいながら同時に外から見ているような奇妙な異化体験を覚えることになる。この意味で本書は日本人である私たちにとって、自分の姿を映し出し反省を促してくれる<鏡>となることだろう。

本書は三部からなる。論理的に並べ替えるなら、今日の水子供養の深層に含まれる宗教的・倫理的な意義を考察した第3部(第9章〜第12章)、今日の状況を歴史的に用意し方向づけた江戸時代について論じた第2部(第5章〜第8章)、それに、江戸時代から現代に及ぶ日本人の中絶観の背景となっている中世的な精神世界を描いた第1部(第1章〜第4章)、という構成である。それに日本論と人口論に言及した結論部が加わる。読者の便を考慮して、以下では最小限のポイントだけでも紹介しておこう。

第1章「大仏の裏手」では、その冒頭部から、新旧の仏寺に見られる水子供養の一端とそこに点在する石地蔵の姿が、旅行案内風の絵画的な筆致で描かれている。そうした水子供養と殺生戒との矛盾を抱えた仏教のうちに、著者はむしろレヴィ=ストロース流の「ブリコラージュ」という実践的な知恵を読み取り、次章以降でその内実を掘り下げていく。第2章「水の世界と言葉」では、白か黒かの決着をつける定義・法律・合理性を問い返し、隠喩や詩や儀礼・儀式もまた別種の「合理性」をもつとした上で、「水」のシンボルと仏教との結びつきを歴史的に辿りつつ、水の持つ豊かな象徴性が生命をめぐって民衆の宗教的想像力を刺激したことが論じられている。第3章「社会的死、社会的誕生」では、日本人の先祖供養や通過儀礼の背景に、今なお中世以来の循環する死生観ないし生命観が息づいており、しかもこの宗教的な枠組みでは中絶と家族生活の質の高さとが両立する点を指摘する。第4章「四つ辻にたつ地蔵」では、中絶に対する日本人の対処法の焦点にある地蔵信仰に注目し、その慈悲の救済力や日本の祟る神々の苦しむ姿が、宇宙を模した賽の河原とか、和讃の劇的構成に反映していることを指摘する。以上の四章はじつに興味深く、読者を飽きさせるところがない。

第5章「江戸時代の眺望」では、この時代、知的・道徳的ヘゲモニーをめぐって仏教と儒学と国学とのあいだで熾烈な対立状況があり、そのなかで仏教は凋落していったが、それでもしぶとく生き抜き、活路を民衆への浸透とその家族観の取り込みに見出したことが述べられる。第6章「江戸時代の人口」では、江戸中期の人口安定・停滞現象の要因をめぐって、生活防衛か生活向上かの階層差・地域差を伴いつつも一種の家族計画が存在しており、「間引き」という言葉に庶民なりの合理性が込められていたことを指摘する。第7章「江戸時代の論争」では、仏教・儒学・国学のあいだのイデオロギー闘争の中心争点として人口増加と間引き・子降ろしの問題があり、経済的効率の観点に立つ儒学派や、神学を根拠にする国学(新神道)派による間引き非難・人口増加奨励に対して、民衆の視点に寄り添う仏教側の「沈黙」が強調される。第8章「性と戦争と平和」では、明治から敗戦時にいたるまで、新神道派の理念に沿った政府の厳しい監視があったにもかかわらず、庶民の内では堕胎が行われ続けたことが、女性たちの意図的な見せかけ(子安地蔵=水子地蔵)を通じて浮き彫りにされ、この延長上に戦後の政策や対応があると述べられる。以上の、とくに前三章は、日本の近世史や思想史の専門家にとっては挑戦的であり、一般の読者にはスリリングでとても面白い。

第9章「謝罪」では、儀式とくに供養という儀式に含まれる感謝・謝罪の観念が取り上げられ、西洋の罪観念との対比のなかで、供養のもつ罪悪感と癒し効果に注目される。第10章「悪徳の沼地」では、今日の水子供養で目立つ「祟り」の観念をめぐって仏教徒の多様な言説が分析され、商業的に歪められた「祟り」観から水子供養そのものを切り離すべきことが主張される。第11章「合理的で国民的な家族」では、計画された小規模家族という庶民の知恵・合理性をめぐって、その憂慮すべき私事化・保守化が考慮されつつも、アメリカの中絶論争には見られない仏教的な曖昧な立場こそ、重要な意義を持つことが強調される。そして最後の第12章「異文化の交差」では、中絶に対する日本的な考え方・作法には、子どもを意図的に失うことに伴う痛手と癒し、これを配慮する「道徳的ブリコラージュ」というプラグマティズム、それに宗教的権威やこれに裏打ちされた国家権力を背景にする「多殖主義」(著者の造語)への批判が含まれており、政治的・法律的思考に偏しがちなアメリカ社会はそれらを積極的に考慮すべきだと主張される。以上の四章は、水子供養の深部をめぐる倫理的・宗教的考察であり、日本人読者にとっても中絶問題を考える上で重要な刺激になるにちがいない。

なお、「結論」での「人口問題」への言及にも注目される。日本社会は予測より一年早く、2005年に少子化による人口減少時代に突入したが、著者のいう「多殖主義」バイアスを反省することなく、危機だ危機だと騒いでいるのが現状である。この点でも著者の示唆を受け止めることが重要だと思われる。

 

3.本書の評価について

 

繰り返すが、本書はアメリカ人読者向けのものである。妊娠中絶に関するテーマだけに、そのアメリカの読書界で本書はかなりの反響を呼び起こし、それなりに好意的な批評を受けたようだ。もとよりその反響や好評のなかには、日本社会の矛盾だらけの奇妙な風習(水子供養)へのたんなる興味という、著者の真意とは別の方向もあったろう。また、かりに真意が受け止められたとしても、本書が中絶をめぐる政治の動きを左右するほどの影響を持ちえていないことも確かである。しかし、巻頭の「日本の読者へ」で言及されているように、本書の主張は宗教界の識者や仏教の実践家のあいだに次第に共鳴者を増やしつつある。そして今ではアメリカを越えてヨーロッパでも注目され、フランス語の翻訳が進行しているとも聞く。

一般的な反響とは別に、本書に対しては日本研究の専門家から批判が寄せられている。本書でも引用されているH.ハーデカさんがその急先鋒であり(『祟る水子の商売』1997年、仮訳名)、その批判の趣旨は、あくどい商売という現実や女性の置かれた困難・窮状が本書では無視され、宗教文化の綺麗事に流されているという内容である。同様の批判は日本人の女性研究者からも指摘されている(例えば、新田光子、川橋範子、野村文子の各氏ほか)。あるいはT.ノルゲンさんのように(『出産調整に先立つ中絶―戦後日本の生殖政策』2001年、仮訳名)、本書の第8章で常識的に辿られているにすぎない政策形成過程を政治学的に解きほぐすことを通じて、間接的に批判したものもある。これら以外にも、とくに江戸時代の専門家から、例えば、江戸時代における仏教の重みの評価とか、人口停滞現象の解釈、僧侶が「沈黙」どころか先頭に立って人口増加を奨励した事実など、種々の問題点が提出されるかもしれない。さらに、中世的世界観の解釈にも異論が出される可能性はある。

そのうち、著者の主張・提言にかかわる批判の背景に目を向けてみると、70年代に入って「ブーム」となった「水子供養」や、これに結びつく日本仏教、日本の「家族」観に対する評価をめぐって、さらにそこに絡んでくる男女の視点の差異をめぐって、批判者たちが本書に対して強い違和感を抱いていることが分かる。例えば「家族」を取り上げると、80年代以降日本の家族の有り様は根本的に変貌してきたから、今日の日本人の目には著者の「家族」観が時代錯誤に映ることは間違いない。ただし、このような評価の懸隔についてはある程度の理解と補正が必要かもしれない。というのは、日本人に限らず、自分の住む社会には手厳しいか、甘いかのどちらかに偏しやすく、逆にその分だけ外国には反転して向かいがちだからである。ともかく評価に関してバランスをとることは難しい。その点は著者についてばかりでなく、アメリカ的思考様式の影響を受け、それに慣らされてきた日本人研究者の側にも言えることだろう。

しかし、本当の相違はそうした現象面にかかわる評価にはない。本書で凝視されているのは今日の水子供養の形態や機能ではなく、その底を流れる地下水脈である。仏教に関しても著者のまなざしは一貫して、その表面ではなく生きる現場に注がれている。これに対して、本書への批判の大部分はその現象面に集中している。このようにまなざしの対象が同じではないのである。もちろん著者も水子供養の実態には大いに批判的である。しかし主たる関心が政治的思考やイデオロギー批判にないのだ。したがって、現象面の記述や評価についてはいろいろ反論したいことはあるが、その底流に関する限りきわめて重要な本という辺りが、本書に対するバランスのとれた評価ということになろうか。ちなみに、その方向での評価の好例は、「日本の読者へ」で紹介されている荻野美穂氏の『中絶論争とアメリカ社会』に見られる。以上を要するに、本書が水子供養の底に透視した宗教的・倫理的な意義とは、白黒を弁別しない庶民の道徳的なブリコラージュ、つまりいわば通文化的なプロネーシス(実践的な賢慮)の働き、しかも我が子の意図的な喪失に伴う痛み・罪悪感とその癒しを織り込んだ生命倫理的思考である。

 

4.本書の意義について

 

私が本書をあえて翻訳する気になったのは、供養という日本人の儀礼・発想の底流にある感謝・謝罪の感情の働きに惹きつけられたからである。この点は日本と台湾・韓国や西洋とを問わず、本書に重要性を認める人々の多くが一致して注目するところである。それに関連して、日本人の私たちにとって本書が重要だと考えられる意味合いを、この場を借りて二つだけ指摘したい。

一つは、生命倫理にとっての日本思想史の<発見>にかかわる。今日の日本の生命倫理の議論状況を振り返ると、対象が誕生であれ死であれ、あるいは生活・人生の質であれ、そのほとんどが先端医療技術に関連する側面に集中している。例えば、クローン技術や代理母、各種のエンハンスメント、臓器移植や再生医療がそうである。しかしその反面で、日常的な目立たない部分、誕生で言えば生殖の生理機序とか避妊、生活の質では痛みや痒さ、苦しさなどの副作用、死では孤独や安楽死などが、正面から論じられることは稀である。表の華々しいトピックスの背後には、日常の地味だがそれでいて裾野の広い問題事象が広がっている。しかもこれらの事象の根っこは文化の地下水脈に伸びていて、私たちはその地下水脈から水分と養分を吸収しつつ、手探りで問題事象に取り組み、何とか解決策を見出そうと試行錯誤を繰り返しながら日々もがいているのだ。

先端医療技術に関連した議論が重要でないとか、必要でないと言っているのではない。その種の議論の解決策もじつは日常の地味な問題への対応の延長上にある、あるいは、とどのつまりは後者の日常的な対処法に帰着するのではないかということである。ところが、はじめに紹介した静岡のシンポジウムでラフルーアさんが中世日本人の胎児観を論じたとき、ドイツやアメリカの事情にはかなり通暁している生命倫理の研究者たちは「よく知らないので」と、あたかもどこか遠い外国の話を聴くような反応を一様に見せた。しかし、重要な地下水脈がそこにあるというのに、これでは片手落ちというものではないか。

たしかにバイオエシックスの言説の勉強も必要である。が、それと同程度に、日本の思想史・文化史の言説・隠喩・発想の研究も必要であろう。もっとも、そう言う私とてじつのところ五十歩百歩であって、遅まきながら少しずつ勉強し始めている有様である。ラフルーアさんが本書でアメリカ人に向かって語っていたことは、(その都度つなぎ合わされる断片としての)自国の伝統であるプラグマティズムの再発見であった。本書は日本人である自分を映し出す<鏡>であるだけでなく、自分の根っこの<発見>でもある。

もう一つ、私にとって本書の重要な意味合いは、供養に込められた感謝・謝罪という感情のもつ倫理的な含意にかかわる。私の考えでは、倫理的な<善さ>の原点は生命の自己回復運動とこれに伴う<安らぎ>に求められるが、そこから直ちに社会的行為の倫理的<正しさ>を導くことはできない。この由来に関して、例えば和辻哲郎は、既に成立している社会関係を不断に維持する運動とその内面化(誠実さ)に答えを求めている。しかし、より根源的な答えはじつはもっと手前の、社会関係を不断に生成させる個々人の相互行為の<お返し>運動とその感情(済まなさ)に求められるのではなかろうか。そう考えた場合、<お返し>において目指される決済性が<正しさ>の原感覚になり、シーソーのように絶えず決済状態を目がけつつも果たせないという<未済性>の感覚が感謝・謝罪の感情になる。とすれば、感謝・謝罪の感情は道徳的義務づけと責任意識の根源という位置を占め、また<未済性>を<取り返しのつかない>と感じるその程度に応じて、道徳的責任の及ぶ範囲も相対的に普遍化するだろう。

そのように動機づけられた責任意識(<個人のモラル>)は、「相互に傷つけ合わない」という意味で、「必要悪」をできるだけ減らすことを社会の根本原則として押し立てる。しかし、日本の現状を見ると、なまじ供養があるせいで、それが免罪符となってむしろ<済んでしまった>という気分が蔓延しやすく、個々人の気持ちはともかく、社会全体として「必要悪」を実効的に減らしていく姿勢に欠けがちである。その典型例が動物実験であり、供養儀式のない欧米に比べて規制に取り組む意欲は決定的に鈍い。たしかに、供養儀式を保持する日本的な「曖昧さ」には動機づけの点で評価すべき内容が含まれているのだが、しかしそれを認めた上でなお、「曖昧さ」の内側に向けて鋭い切断線を積極的に作り出す必要があろう。人工妊娠中絶に関して言えば、議論や方策にとって究極の目標となるのはもちろん、「必要悪」を少しでも減少させることにあるはずだ。

そのさい、<個人モラル>がどんなに決定的に重要だとしても、それだけでは「必要悪」を社会的広がりのなかで減少させることはできない。そのためには、特定の関係・団体の内部に組み込まれた倫理委員会のような<組織倫理>や、社会全体の相互監視的な<倫理的ネットワーク>が加わって、三者間に倫理のハイパーリンクを張らなければならない。ただし、それがうまく噛み合った場合でも、実現できる改善はせいぜい、「必要悪」や「安全」問題へのその都度の対処というブリコラージュ風のものにしかならないだろう。ラフルーア教授の示唆に刺激を受けて話があらぬ方向に飛んでしまった。以上の着想と道具立てについてはいずれ何らかのかたちで展開するつもりである。

 

5.翻訳について

 

私自身はフォックスさんの著書の翻訳以来、著者とは少し面識があった。しかし同僚の遠藤さんが翻訳を提起するまで、迂闊にも本書の存在に気づかず仕舞いだった。早速、ラフルーアさんに打診したところ、すでに清水さんが先行していることを知らされ、相談のうえ三人で進めることにしたのが03年の暮れであった。翻訳上の大まかなルールを決め、三部をそれぞれ分担することにし、04年の春先から開始して秋には一次訳槁を集約した。さらに、05年の春までに英語に堪能なコメンテーターをそれぞれ得て修正を加えた。塚原さんにはこの段階で参加してもらった。6月に最終訳稿が完成したが、出版社の編集作業が実際にスタートしたのは10月になってからで、それからというもの、年末にかけて大急ぎで校正を重ねるというまことに慌ただしい作業が続いた。

本書は一般向けの学術的作品であるため、訳出においては「品位のあるエッセイ風」の文体を意図した。私自身は英語力に自信はないのだが、共訳者に恵まれたおかげでその意図はほぼ実現できたように思う。翻訳に関してはラフルーアさんから全面的に任された。疑問点はその都度メールで問い合わせ、かなりの部分は解消したつもりであるが、思わぬところで誤訳があるだろうことは覚悟している。

ここで改めて共訳者の方々を紹介する。大学では英語教師の同僚・遠藤さんは演劇論、とくに寺山修司の世界が専門である。演劇好きにありがちな型破りの好人物だが、当然のことながら英語の訳し方に関しては舌を巻くほどうまい。第2部の訳と全体にわたる精査をお願いした。清水さんは日本の数少ない地蔵信仰の専門家である。第1部と原注・訳注を担当してもらったが、それ以外に、専門的な文献の調査や事項の検索、索引作りなどを担当してもらった。彼なしにはこの訳書の学術的な価値を維持できなかったに違いない。塚原さんは子育てをしながら大学院に在籍しているが、翻訳の世界ではすでに実績があり、その有能ぶりを買って訳者になってもらった。彼女の参加でとくに第1部がきわめて読みやすい文章になったし、本書の評価にかかわる情報も得られた。今後は彼女の手でこの方面の翻訳が数多く出ることだろう。私自身は第3部と全体の網羅的な精読、訳語調整、原注と訳注を担当した。なお、元同僚の大木俊夫名誉教授には、多忙な最中に無理を言って第3部の訳文を検討していただいた。ここに深甚の謝罪と感謝を表したい。

最後に、青木書店の編集者、角田三佳さんには今回もお世話になった。本書のような出版物を手がけることから、「青木書店も変わった」という世評が一段と促進されるに違いない。そしてそれは出版事情の変化ということもあろうが、私見ではじつに好ましいことに思える。