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研究業績

RESEARCH WORKS
2017.04.23

病/健康をめぐる「国民の欲望」 2011倫理学年報

主題別討議「病と健康」主旨文ならびに堤題

 

病/健康をめぐる「国民の欲望」と「自律主体化」

 

実施責任者 森下直貴(浜松医科大学)

 

はじめに

以下の主旨文は、大会当日の討議を踏まえて、問題設定をより明確にし、質問を組み込み、展望を明示する方向で、予稿集の主旨文を大幅に書き直したものである。両者を読み比べるならば、当日の討議風景が多少とも浮かび上がるはずである。

 

病/健康の現在――「医療化」を駆動する「国民の欲望」

人間の根本経験の一つである病(または病気)と健康(以下、病/健康の略)は、観念として元々多義的で漠然としていながらも、人々の日常意識の中心を占め、非日常的な「死」の経験とともに社会と文化の根幹を形づくり、医療やヘルスケアといった専門領域の基礎となってきた。ところが今日、市場経済をはじめ、国家管理、多様なテクノロジー、マスメディアといった「社会の集合的な諸力」と連動する中で、病/健康は「国民の欲望」へと変容しつつある。

「国民の欲望」への変容を通じて、人間の生命・身体から心・意識をへて社会・文化に至るまでの全体が、旧来の医療の範囲を超えて拡大し、そうした拡大がふたたび肥大化した広義の医療の内部に回収される過程、すなわち「医療化」が進行する。「医療化」によって強化されるのはエンハンスメント(能力増強)を求める欲望だけではない。ライフスタイルに関わる願望(松田報告)や、介護や死に対する過剰なケア、医学研究の自己目的的な膨張、社会保障費の増大(と破綻)という事態も同様であろう。

「医療化」を駆動する「国民の欲望」は、病への不安を煽ったり欲望を刺激したりすることで、人々を「より健康」へと果てしなく追い立てていく。その結果、人々の日々の思考と行動の中で、「病=悪、健康=善」という単純化された観念が再生産され、「生命」や「幸福」の意味を問い返す営みが遮断されることになる。病/健康の「概念」の曖昧さが問題になるのは、その種の再生産や遮断を間接的にもたらす点においてである。

 

問題の設定――「自律主体化」に関する三重の問い

病/健康を「国民の欲望」という文脈で捉えたとき、議論の焦点の一つとして浮かび上がるのはフーコーの「生−権力」の視点である。これは、特定の集合的な力によって病/健康をめぐる個々人の欲望が「管理」されているとする見方であり、「従属主体化」(assujettissement)」の論法と称すことができる。この論法を支持する論者は日本でも少なくない。盛永審一郎氏の総括質問も基本的にはその論法に立っている。しかしそこでは二つの点が看過されているようにみえる。

その一つは、集合的な方向づけが大局的には働くとしても、その具体的な受けとめ方は個々人の観念世界ごとに微妙に異なっており、多様であるという点である。加えて、集合的な諸力同士(例えば市場と政治)の間には矛盾があって、常に一定であるわけでもない。もう一つは、フーコー自身が「従属主体化」とは別に、「自律主体化」(subjectivation)」の側面(「生存の美学」「超人」)を切り拓こうとしたという点である。

以上の二点を踏まえるかぎり問題は次のように設定される。①「従属主体化」を超えて「自律主体化」の側面を展開することはできるか。そしてその展開に拠りつつ、②「国民の欲望」(および「社会の集合的力」)を逆に方向づけることはできるか。ただし、「自律主体化」の前提には病/健康の観念があり、この曖昧さを払拭することが必要である。そこで先決の問題はこうなる。③病/健康の「概念」をどのように把握するか。

 

病/健康の概念――「滞ることなく流れる循環」における「中間/過剰」

「病」(または病気)は、個々人の主観的な感覚・感情としての「病い(illness)」、医学の教科書に記載された病理学的な「疾患(disease)」、社会的・文化的な規範的意味合いを帯びる「疾病(sickness)」、の三次元から構成される(ただし、細見報告では二次元にまとめられている)。そしてそれらの基盤には、生物学的規範性としての「健康」、すなわち、生命の正常性=自然性を規準とする身体状態がある。

「生命」とは、私見を出せば、物質の循環と連動する特定の物質=情報の循環回路(「滞ることなく流れる循環」)であり、この循環の複雑な交錯体として「身体」がある。身体は不断に揺れ動き、好調と不調とを繰り返しつつ、自己の同一性を維持しようとする。この自己同一性を求める連続的軌道が、身体状態の正常性=自然性の規準(健康)である。しかし、循環の流れはしばしば滞って好調/不調をはみ出し、過剰と過少(マイナスの過剰)に陥る。この「過剰」状態が「病」の原点である。他方、二重の過剰の「中間」を「消極的または潜在的健康」とすれば、たんなる好調は「積極的健康」である。健康の観念の帯びる曖昧さはそうした消極・積極の二重構造に根ざしている。(以上のような捉え方と盛永氏が示唆する「深さの生物学」とはどのように異なるのか。)

また、過剰としての病という見方は「精神の病」にも当てはまる。広義の「心」では、単純化していえば、言語イメージを操作する自己(意識=心)を交叉点にして、生命の循環につながる身体イメージの循環(身体=心)から、公共的意味世界(文化)につながる想像的イメージ循環(精神=心)まで、多層的に交錯している。とすれば、その交錯における想像的イメージ循環の「過剰」が「精神の病」の主たる境位である。

*以上に関して詳しくは、「生命と回復――規準としての健康」(『比較思想研究』36号、14-23頁、2010年3月)、ならびに、「健康/病気――〈滞ることなく流れる循環〉における中間/過剰」(『シリーズ生命倫理学』第2巻『生命倫理の基本概念』第6章、丸善、2012年1月刊行予定)を参照されたい。

 

「自律主体化」の展開――「統合的一貫性」と「もの」

「滞ることなく流れる循環」における「中間/過剰」は、細見報告後半にいう「自然治癒力」を概念的に再構成したものである。これを基盤にする「自律主体化」には次の二つの対照的な展開が考えられる。その一つは、松田報告が拠り所とするアントノフスキーの健康生成論である。これは自己の心身を統合する「首尾一貫性」に「自律主体化」を求める。もう一つは、津田報告が提唱する「ものの思想」であり、主観的一面化と客観的一面化を不断に乗り越える過程として「もの」を捉え、これに徹するところに「自律主体化」を求める。(三つの報告を配置し連関づけるならば以上のようになる。)
逆方向づけの可能性――「自律主体化」から「関係性」の再構築へ

「自己=統合」であれ、「自己=もの」であれ、「自然治癒力」に基づいた「自律主体化」によって、個々人の過剰=欲望は部分的に解きほぐされるかもしれない。しかし、それだけでは「国民の欲望」を逆に方向づけることは不可能である。そのためには、個人の地平に止まらず(「深さの生物学」とは逆向きに)、個人と集合体とを媒介する「関係性」の地平へと向かう必要があろう。「関係性」の主軸は「親密な関係性」の次元である。「自律主体化」を「関係性」の再構築(「家族」の捉え直し)へと包み込み、そこにさらに「死」を織り込んだ「自己関係性」の次元や、「世代」をつなぐ「国民」の次元を取り込むことが、逆方向づけの鍵を握るのではなかろうか。

 

 

「生−権力」の視点から「深さの生物学」へ

 

総括質問者 盛永審一郎(富山大学)

 

分子細胞生物学・ゲノム医学の支配する現代にあって、生物学的疾患としての病気の概念も変遷した。健康とは「臓器の沈黙の中での生」、反対に「疾病は、人に炎症を起こさせるもの、とりわけ、彼らを苦しませるもの」(カンギレム)であったのに、ゲノム医学は、生活の上で健康に見える個人の権利に対して、潜在的疾病の状態を定義し診断すること、そして人を「予備患者」にすることの権利を獲得したといえる。だからこのような予備患者は、生を資本とする経済が支配している社会では、治療や廃棄へのサーキットに駆り立てられる。そこにおいて

は、人は単なる人としての「ホモ・サケル」(アガンベン)でしかない。このように病気であるかどうかを超えて、病気を引きおこさないように、生を管理する時代においては、健康であることは、自己や他人にとって、身体の生命力やその潜在性を最大にすることの命法として理解され、医療、生命科学、薬剤、そして代替医療を、みずからの生命力を最高に増大させるために、積極的に選び、使用する消費者を誕生させたのである(ローズ)。だから、願望実現医療としてのエンハンスメントとは、バイオポリティックスや、生-経済により人間の欲望が支配され、生が管理されているという病理的現象にしか過ぎない。消極的健康としての「安らぎ」(森下)を補完する深さの生物学(ヨナス)が必要ではないか。

 

 

堤題1 「病」・「疾患」と「自然治癒力」

 

細見博志(金沢大学)

 

健康と病気

「健康」は身近な概念であるが、日常生活で健康に関心が寄せられるのは、むしろ体の具合が悪くなってからの方が多い。特に医療現場で問題なのは具体的な苦痛と病気の存在である。その意味でここではまず「苦痛」から考察を始めよう。

 

「症状」と「徴候」

病気にはたいてい苦痛が伴う。苦痛は病気の現れである。しかし苦痛がない場合でも、検査で異常と診断されれば、病気として扱われる。逆に苦痛があっても病気と診断されず、「単なる気のせいですよ」といわれて引き下がる場合もある。

そもそも病気の現れには二種類ある。厳密に「症状」(symptom)と言えば、当人に自覚されている主観的な患いを指す。これに対して客観的な他覚症状を「徴候」(sign)と呼んで区別することがある。症状と徴候を合わせて「症候」(symptom and sign)と呼ぶ。症状の有無と徴候の有無に従って、四つの組み合わせができる(表1参照)。症状がある場合を「病」(illness)と呼び、徴候がある場合を「疾患」(disease)と呼ぶ。症状も徴候もともに存在する場合もあれば、ともに欠落している場合もあり、後者の場合が健康である。

 

表1 症状と徴候

自覚症状あり 自覚症状なし
他覚徴候あり 病気(病と疾患) 疾患(disease)
他覚徴候なし 病(illness) 健康

 

「病」としての病気

「症状」は通常、感覚的苦痛によって構成される。しかし苦痛の中には、例えば脱毛症や多毛症のように、感覚的ではなく専ら心理的社会的な苦痛もある。この種の苦痛は、社会や文化の支配的な価値観からの逸脱や規範意識への抵触から生じると考えられ、感覚的苦痛とは異質である。この心理的社会的苦痛も「症状」を構成すると考えるならば、「病」は社会的・文化的な価値観や規範意識によって規定される。このような病気観は「規範主義」(normativism)と称され、エンゲルハート(H.T.Engelhardt Jr.)に代表される。

彼が掲げる「病」の極端な例は、19世紀米国の医学専門文献に登場する「自慰」であり、成長不良の原因とされただけでなく、場合によれば死因とされた。もう一方の例は、黒人奴隷における「逃亡(奴隷)症」(drapetomania)と「黒人性感覚障害」(dysaesthesia aethiopis)であった。これらはいずれも当時の独断と偏見によって立てられた病名であった。現代においても、例えば「同性愛」が病気と見なされるとき、それは多分に社会的・文化的に規定された「病」としての性格を示している。

 

「疾患」としての病気

主観的な症状を示す「病」と異なり、例えば生活習慣病では、客観的な徴候から「疾患」が診断される。ここでは病気の存在は客観的なデータによって確定され、価値観や規範意識が混入する余地はない。例えば心臓が病気かどうかは、血液循環という機能を果たしているか否かによって判断される。そしてこの機能の充足度は統計的に確定され、正規分布の一定範囲に収まる場合が健康、はみ出す場合が病気(疾患)と判定される。このように病気を「疾患」として理解する立場は、ボース(C.Boorse)によって代表され、非規範主義、自然主義、(価値)中立主義、生物統計理論などと称される。

規範主義と自然主義は、米国において1970年代半ばから病気の本質を巡って激しく対立している。しかしおそらくは二者択一の問題ではない。病気という一つの現象が有する「病」と「疾患」という二面を、それぞれ捉えているのである。

 

自然治癒力説

例えば風邪で熱が出れば、解熱剤を服用する。しかし最近では、余程の高熱でなければ解熱剤の使用を見合わせる傾向にある。というのも、体内に備わる免疫系を活性化させるために、むしろ発熱が必要であると考えられているからである。「免疫系」は近代的、科学的概念であるが、近代以前より人々は、生体内に備わる治癒力を「自然治癒力」(vis medicatrix naturae)と呼んできた。その淵源はヒポクラテスにあり、「病気を癒やすものは自然(physies, pl.)である」(『流行病』第6巻第5章1)から伺えるように、「自然治癒力」はヒポクラテスの「自然」(physis)一語をパラフレーズしたものである。古来「医師は治療し、自然は健全ならしむ」(Medicus curat, natura sanat)と言われるように、病気が癒えるのは生体の生命力によるものであり、医療はこの生命力を支えるべきものであった。ここからして、自然治癒力重視派の医療はややもすれば待機的(expectative)、保全的(conservative)な傾向を有し、軽視派は英雄的(heroic)、根治的(radical)となりがちであった(表2)。

現代の補完代替医療(CAM)は概して自然治癒力を重視する。その代表的存在であるA.ワイルによれば、人は自ずと癒える存在である。しかし時に病気となるのも自然であり、はたまた老化や死も自然である。ここでは暗黙の内に、自然な現象としての病気、老化、死と、病理的な現象としてのそれらが区別されている。

小論では病気の本質を求めて、苦痛の考察から始め、自然な病気と病的な病気の区別に遭遇して終えることとなった。ひょっとしてこれは堂々巡りをしただけなのかも知れない。

 

表2 自然治癒力を巡る二つの傾向

 

自然治癒力 重視派 軽視派
治療傾向 慎重派 積極派
治療姿勢 待機的・保全的 英雄的・根治的
治療方法 栄養・休養・環境改善 薬物・手術
(古代)

(17世紀)

(18世紀)

(19世紀)

ヒポクラテス

シデナム

ブールハーフェ、シュタール

ナイチンゲール(看護覚え書)

アスクレピアデス

R.ボイル

ジョン・ブラウン、ブルセー

ヘンレ(コッホの師)

参考文献

・A.L.Caplan, H.T.Engelhardt, Jr., J.J.McCartney, ed., 1981 Concepts of Health and Disease,

Interdisciplinary Perspectives, London.

・J.M.Humber, R.F.Almeder, ed. 2010 What is Disease, Totowa, New Jersey.

・K.E.Rothschuh, 1975 Was ist Krankheit? Erscheinung, Erkrankung, Sinngebung,

Wissenschaftliche Buchgesellschaft.

・A.ワイル、上野圭一訳、1993(改訂初版)『人はなぜ治るのか――現代医学と代替医学にみる治癒と健康のメカニズム』日本教文社、9版1997年。

 

 

堤題2 医療による願望実現

 

松田 純(静岡大学)

 

医の本義と、そこからの逸脱

病に苦しむ病者は、医療者に助力と治療を求める。医療者は、その知識と技能のかぎりを尽くして、病者の求めに応えようとする。治療行為のこうした倫理性がこれまでの医療を支えてきた。今この伝統的な理解は揺らぎ始めている。美容外科や生活改善薬の流行など、病気の治療とは言えない新しいタイプの医療がさまざまな分野に登場し拡大しているからだ。例えば、健康な若い女性の豊胸手術がそうである。これには、幹細胞「治療」という最先端医療まで投入されている。あるいは、不妊ではない夫婦が、不妊治療として開発された体外受精と、胚を選別するための着床前診断という先端医療技術を活用して、生まれてくる子の性を選択すること。これは、資格を持った医師が先端医療技術を用いて行うから医療ではあるが、病気の治療とは言えない。心身の増強(エンハンスメント)とも言えない。「子供がほしい」「できれば、女の子がほしい」という願望を実現するために医療技術を用いているのである。

このように、病苦から逃れるためではなく、自分が生きたいと望む人生と生活スタイルに自分の心身をできるだけ近づけ合わせるために用いる医療を「願望実現医療 (wunscherfüllende Medizin, desire-driven medicine) 」と捉え、病気の治療を目的とする「治療型医療 (curative medicine) 」と対比して、その意味を考えてみる。これはドイツの応用倫理学者マティアス・ケトナー (Matthias Kettner, 1955- ) が2006年に提起した概念である。彼は「治療型医療」と「願望実現医療」の特徴の違いを下記の表のように対比的にまとめている。

 

 

表の各項を説明する。

①治療型医療は、患者の病気を治療することから始まり、願望実現医療は、顧客の願望または欲望から出発する。

②医療を必要とする理由は、治療の場合は医学的適応(indication)であり、願望実現の場合は、そうした適応を欠く。

③治療型医療は「標準的な」健康回復をめざす。治療すべき病気がない状態を健康と捉え、病気が癒えたら医師が治療の終結を宣言するように、健康への配慮は原則的に、限定されたプロセスである。願望実現医療は単に病気がない状態ではなく、「もっと健康、ずっと健康」という大文字の健康をどこまでも追い求め、原則的に終わることがない。

④治療型医療はなぜひとは病気になるのかを説明する病因論 (pathogenesis) をその理論的基礎とし、願望実現医療はどうしたら健康でいられるのかを説明する健康生成論(salutogenesis アーロン・アントノフスキーが提唱した概念)を基礎とする。

⑤治療型医療では、患者は「病める者」、病人という役割を果たす。願望実現医療の受け手は病人というより、むしろ心身の改造サービスを求める顧客(クライアント)という役割を果たす。

⑥治療型医療では、病状をふまえて、絶対に必要とされる医療措置が命じられる。願望実現医療では、クライアントの願望にそって医療措置が選択される。

⑦治療には基本的に公的医療保険が適用される。願望実現医療は公的医療保険によらない自由診療となり、全額自己負担が原則である。自由診療の「自由」は、自由主義に基づき、社会保険制度による制約を受けないという意味である。自由診療が拡大すると、健康に関わる業務がビジネスとして商業化され、利用できる医療に格差が生じてくる。

 

エンハンスメント論から願望実現医療へ

治療を超える医療について、生命倫理学では「エンハンスメント(増強)」という概念で論じられる。エンハンスメント論では、主に、医薬品や医療技術を、心身の正常機能を回復する治療以上に用いることが問題となり、治療と、治療を超える増強的介入という二分法のなかで、個別の医療的介入の正当性とその限界(医学的適応の限界)をめぐって論争となる。例えば、遺伝子治療技術を、治療を超えた増強(遺伝子ドーピングや人間の設計、デザイナーベービーなど)のために用いてよいか、といった議論である。そこでは、主に、個別診療科ごとに、それぞれの医療的介入について、治療とエンハンスメントとの線引きをめぐる議論が焦点となる。その線引きの困難さはしばしば指摘されているが、保険適用や医療経済政策に関しては、依然として必要な議論ではある。

けれども、医学的適応の限界というテーマを超えて、それの動因や社会的影響や人間観・人生観・価値観を問い直していくと、おのずと願望実現医療論へと発展する。願望実現医療論は、エンハンスメント論からもれる介入(例えば、不妊治療、帝王切開、民間療法など)をも含め、願望実現のために医療的手段を用いる現象全体を文化論的コンテクストのなかで統一的に理解するために「新たに哲学的に構築された観察ツールである」(Kettner、2006)。病と健康を人間の根本経験として、広く文化論的に考察するには、エンハンスメント論よりも、こちらの枠組みが有効であろう。

 

医療化にして医療の脱中心化

人間にとって病気が「不滅」である以上、治療型医療は今後も発達し続けていくであろう。他方で、治療という医療の本義から逸れた願望実現医療もますます隆盛をきわめていくだろう。願望実現医療は「医療化」という大きな流れに属すが、医療の本義からそれていくという意味で、「医療の脱中心化」でもある。医療はもともと、病に苦しむ弱い立場にある者を病苦から救うという目標をもって実践されてきた。伝統的な医の倫理に見られるように、そこには強い倫理的規範がある。願望実現医療では、健康に恵まれ、しばしば社会的にも経済的にも恵まれた人々が己の願望や欲望を実現するために医学的手段を利用する。願望実現医療は、これまで医療を支えてきた倫理的規範に囚われずに展開していく。医療のこの本質的な変容、この構造的変化の意味について、包括的な理論的・学問的検討が必要である。願望実現医療をめぐる問題は単に生命倫理学の問題ではない。それは医療文化論という広い枠組みのなかで考究すべき文明論的課題でもある。

 

欲望論への展開

しかし、よく考えてみると、治療型医療も、「病気を治したい」という強い願望によってつき動かされている。医療において、願望は大きな力をもつ。それを示すものに「プラセボ効果(placebo effect)」がある。プラセボは薬理学的に不活性な錠剤のことをいう。「偽薬」「囮薬」などと訳されるが、本物の薬と同じ治療効果や、本物の薬の副作用までが実際に現れることがある。これが珍しい奇跡ではないからこそ、治験において、新薬候補投与群とプラセボ投与群とに分けて、その結果を比較する手法(ランダム化比較試験)が採用されている。医療には本質的にプラセボ効果が含まれている。プラセボ効果の源は、「治りたい」という治癒への願望である。治療はこの願望をとおして働く。

願望は医療に不可欠な要素である。病状告知は以前より広がったが、末期がんの告知などはまだ避けられる傾向がある。治癒への希望の喪失が病状を一層悪化させはしないかという危惧からだ。治療型医療は、治癒への願望の力を土台に、「治りたい」という患者の正当な願望に応える医療であり、願望実現医療は治療以外のもっと広い願望を実現する医療である。願望実現医療にはこうした曖昧さや両義性がつきまとい、医療と願望の関係をより深いところから問い直すことも求められる。医療における適切な願望とは何かにとどまらず、そもそも適切な願望/不適切な願望という区別を問い直すと、欲望論、人生観、価値観の問題へと発展する。(詳しくは松田純「エンハンスメントから願望実現医療へ――病気治療という医療の本義との関係」、『医療の本質』熊本大学生命倫理論集、九州大学出版会、2010年参照)。

 

 

堤題3 「もの」と「病」―「養生」をめぐって

 

津田雅夫(岐阜大学)

 

日本の思想伝統としての「もの」

全体テーマである「病と健康」に関わって日本の思想伝統の側面から検討を加える。とくに「病気/健康」という硬直した二分法を解きほぐすために、「滞ることなく流れる循環」というイメージを日本思想に引き寄せて、「ものの思想」の観点から考えてみたい。「もの」の観念は日本の思想伝統の根柢をなす基礎語であると考えられるが、「滞ることなく流れる循環」というイメージと重ねるとき、興味深い論点を示唆してくれる。

最初は、むしろ「滞ることなく流れる循環」というイメージとは対極にあるものとしての「もの」についてである。すなわち、「病」の元凶としての「もの」である。それは「滞り固着したもの」として、「できもの」や「ものもらい」といった身体症状から、「ものわずらい」や「ものぐるい」といった心的症状にいたる、心身の両面にわたって、「病」の元凶を指示する言葉である。

しかし他方、「もの」のもつ消極的で非限定的な指示機能は、「消極的健康」の考えが伝統思想に繋がることを示唆している。「もの」としての病の伝統が教えるところは、「健康幻想」を生むような積極的な健康神話ではない。養生の伝統観念は積極的健康とは異質である。「もの」は過程的で文脈的な<在り方>であり、こうした「もの」の理解は、養生の観念の根柢をなすとともに、「健康/病気」の二元論を突き崩す可能性を孕む。「もの」は滞留・固着した側面とともに、同時に、生成・流動する側面を有している。後者の側面に注視するとき、「病」の元凶としての「もの」ではなく、むしろ「病」を癒やし、「病」とともに生きることを可能にしてくれる根拠としての「もの」が見えてくる。

そこで本報告では、こうした「滞ることなく流れる循環」というイメージを裏付ける思想的根拠としての「もの」の理解について、貝原益軒と本居宣長の養生論に即して検討する。人間自らが「もの」として、「もの」の世界を生きていること、さらにまた、益軒の「触発」や宣長の「あわれ」といった核心的なカテゴリーが文脈性・即物性の意味を帯びた「生きられた知識」であることを指摘したい。

 

養生論――貝原益軒と本居宣長

「即発」概念を核心とした内在する「条理」への志向は、益軒において「気」についての独自の把握を生じさせる。また、こうした「気」の一元論と結びついて固有の「養生」の観念が作られる。益軒が「慎み畏れる」ことを力説しながら、同時に「楽」の意義を説いたとき、この「楽」の観念は「欲望」の制御とごく自然に結びつく。欲望の肥大をいましめることが「養生」の基本であり、そのことが「気」をめぐらし、「気」を調えることである。

「百病は皆気より生ず」るのであり、「病とは気やむ」ことであり、それゆえ養生の道は「気を調える」に極まると益軒が説くとき、この「気を調える」というのは、抽象的な主義・理論や精神修養としてではなく、「即発」を核とする「気」の条理(=すじ)に従うことであり、「楽」を基本に生活することである。現代的に言えばストレスのない心身の営みであり、それが自然治癒を促す。自然治癒力を増進する自覚的な生き方が「楽」に託されている。

同じく宣長も、「一気(=真気)」と「養気」とを強調する。病に抗して癒やすのも、また、病となるのも、すべてはこの「煕然たる一気」のなすところである。この「気」の働きを注意深く見守り、その動静に適切な処方や薬用が求められる。重要なのは、「真気を察する」ことにある。治療や薬が、ときに「病」を生む。「真気之勢」を察することができなければ、ただ病気を治せないだけでなく、むしろ「人を賊する」ことになり、新たな病気を生じさせる。それはまさに「転倒」である。この「真気之勢」を察することは、ただ病気を治すだけに止まらず、養生の核心をなす。

病を避け、養生を進めることは、なにも難しい特別なことではない。ただ「食を薄く」して、身体を動かして「倦む」ことなく、余計なことを考えず、クヨクヨせず、「気に順」って生きることである。それは益軒がいうところの「楽」の境地でもある。「気を調える」(益軒)ことと、「気を察する」(宣長)とは同じである。それが病気を治すだけでなく、「養生」の要である。両者ともに、その根柢に流れているのは、生活習慣への深い配慮のうえに立った、自然治癒への適切な関与と信頼である。

 

フーコーの養生論

こうした生活習慣への深い配慮の意義については、広く世界思想の文脈でみれば、古代ギリシア・ローマにおける養生論(術)に同様の考えがみられる。フーコー(『性の歴史』)は「暮らしの技法としての養生生活の実践」が、たんに病気にかからぬための注意という次元を越えて、「自己への配慮」として「主体としての自己を構成」する「一つ方策の全体」であると捉え、この「配慮」を新たな「主体の構成」という観点から位置づけ評価している。ここには同じ養生論への二つの異なる接近方法がある。
「ものの思想」の射程

それでは、こうした養生論の意義を、今日、「病気/健康」をめぐる言説の転倒に活かすことは、いかにして可能なのであろうか。その端緒は、既に「転倒」そのものの理解のうちに孕まれている。その理解の明確化こそ、転倒の転倒を可能とする契機である。すなわち再転倒は、「もの」としての「病」や「人間」についての思想伝統の再評価につながる。「もの」としての独自の即物的・現実的な人間把握は、たんに近代医学への接続可能性だけでなく、さらに、それを超えた展望をも同時に示唆している。益軒や宣長の「ケ」や「モノ」についての了解は、この両側面をもっている。

「もの」としての病気や人間の把握は、一方で、近代科学としての「医学」の受容を思想的に可能とさせるとともに、同時に他方では、それを超えた展望を示す。「もの」および「すぢ(=条・筋)」についての理解は、たしかに近代科学の核心である「客観性」を裏付ける固有の思想的根拠を与えた。この客観的合理性の理解を無視して、そもそも日本の「科学」について語ることはできない。日本において、<科学としての医学>の受容を可能ならしめた伝統的な思想基盤(制度的確立の経緯については暫く置く)が、こうした「もの」の把握にあったことは確かであろう。

しかしまた、「もの」の思想が、ただ近代医学の受容を可能ならしめた思想契機であると言っただけでは一面的である。それは同時に、近代医学の「限界」を示す契機ともなる。心身二元論を基礎とする対象化的な客観性が、目的と手段を転倒させ、宣長が指摘したように、治療と薬物が「病」を作り出し、「人を賊して」いることを考慮するとき、客観性や合理性について再考されなければならない。そのとき、「もの」としての「病」に関する思想伝統にも、異なる側面から新たな光が当てられることになる。

益軒や宣長が述べたように、「もの」の世界に人間自らも「もの」として「生きて」いること、すなわち、「即発」や「あわれ」の即物性についての自己了解が、世界の「条理(=すじ)」を把握させ、もののあわれを「知る」ことと一体なのであり、生きられた知識であった。こうした認識の深まりが、自然に(=消極的に)、肥大化する欲望を抑制し、「病気/健康」の倒錯・悪循環に歯止めを掛けさせる。それは禁欲・節制ではなく、「楽」である。