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研究業績

RESEARCH WORKS
2017.04.23

家族の変容と代理出産・終末期医療 2010年3月

浜松医科大学紀要 一般教育 第24号(2010.3), 1−21

 

「家族の変容」から見た代理出産と終末期医療の未来

 

森下直貴(倫理学)

 

A Possible Destination of Host Mother Birth and Terminal Care

From The Viewpoint of “Transformation of Family”

 

MORISHITA, Naoki(Ethics)

 

Abstract:

The family is always one of the most important focuses in medical ethics. That is the case of the Revised Organ Transplant Law, which was approved 2009, for example. Since the first half of 1980s, the form and function of family has deeply been transformed, and many people daily feel that transformation of family. However, the transformation does not seem to have been appropriately reflected to medical practices, medical educations, or medical policies. As a result, there are much of miscommunications, troubles or confusions among patients, medical practitioners and ordinary people. Therefore, an urgent task for medical ethics as well as Japanese public ethics in general is to confront the transformation of family and make more flexible ethical framework corresponding ongoing realities. In this paper, firstly, (1) a certain tendency is taken out of many family-related statistics, (2) that tendency is compared with the case of “host mother birth” and “terminal care, ” and (3) several problems contained within two cases are critically examined. Secondly, (4) standing on the reality of non-existence of any family standard model including “ie” or “nuclear family,” (5) a possible destination of intimate relationship and society is philosophically prospected.

 

Key Words:Medical Ethics, Family, Host Mother Birth, Terminal Care, Generation, Common Sense, Globalization, Digital Media Era

 

はじめに

 

医療をめぐる倫理問題において「家族」はつねに焦点の一つであり続けている。例えば、昨年成立した臓器移植改正法を取り上げるなら、本人意思が不明のとき家族承諾だけで移植を進められるか否かが最大の論点であった。また、臓器不足の解消を狙ってか、「匿名性の原則」を破る形で「親族優先提供」が導入されてもいる。このように「家族」が焦点となるのは、生殖医療や終末期医療でも同様である。もとより医療の主人公が患者本人であることは言うまでもない。しかし同時に、患者の「家族」もまた、准患者であれ、意思代行者であれ、あるいは寄り添う者であれ、医療において重要な位置を占めているのである1

その家族のあり方が、今日、大きく変容している。そしてその変容はほとんどの人にとって日々実感されている。ところがその実感が、医療現場での個々の対応や、医療に関する理論と政策に反映されているかと言えば、きわめて疑わしい。それどころか、実際にはむしろ、従来の家族モデルに固執することから、例えば告知や介護、あるいは権利や義務をめぐって、患者と医療従事者と国民のあいだで種々の齟齬や混乱が生じ、かえって困難な事態が引き起こされているように見える。とすれば、現在進行している家族の変容という現実に正面から向き合い、そのうちに一定の傾向を読みとることによって、「家族」という最も基礎的で親密な社会的関係の変容に即応するような、何らかの視座の枠組みを確立することは、医療倫理にとって焦眉の課題であると言えよう。

もちろん、家族のあり方の変容は、社会全体のグローバルな変化の一面であり、日本社会の「常識」の変動とも連動している13)。別の論文で論じたように、自己/他者・親密な関係・生/死の感じ方に関して、あるいは、社会制度・組織・公共性の捉え方に関して、現在の日本社会では世代ごとに異なる「常識」がせめぎ合っている7) 9)。つまり事柄は日本社会の倫理全般に関わっている。したがって、家族をめぐる考察は、表面的な分析や短期的な予測に止まることはできず、人間の「家族」の成立条件を見極めるなかで、未来の多様な形を柔軟に包容する倫理的枠組みへと向けられなければならない。ただし、その側面についてもすでに別の論文で論じているので10、ここではその成果を前提にし、医療倫理の場面に照準を合わせることにしたい。

この論文では、各種の家族統計のうちに一定の傾向を読みとりつつ、それを「代理出産」および「終末期医療」の報告書や判決などの内容と付き合わせることで、特定の家族モデルに偏重している実態を浮き上がらせ、その問題点を検討する。そしてその上で、標準モデルの消失という現実に立って、親密な関係と社会が向かっていく今後の方向を歴史哲学的に描き出す。以上から得られた結論は、直接的な形では、医療現場のコミュニケーションを円滑に進め、変化に即応した政策を提言し、包括的な制度を設計するものではないが、間接的には、そこから多様な示唆を汲みとることのできる見取り図にはなるはずである。

 

1 変容する家族の現在進行形

 

1980年代の前半は「家族」が話題となり、「家族」が問われた時代であった。そしてその頃から「家族」が地滑り的に変容し始めている10。とすれば、それ以来漂い始めた家族はその後どうなったのであろうか、どこかに漂着したのだろうか、それとも、いまなお漂流し続けているのだろうか。「家族の変容」を現象面で確認するために、統計資料12を拾い読みしながら、いくつかの論点に沿って家族のその後を追ってみよう2

まず、(a)全体の特徴としてすぐ目につくのは世帯の変容である。「2005年国勢調査」によると、いわゆる「核家族世帯」は約58%になる。そのうち夫婦のみの世帯は約20%、一人親と子の世帯が8%強だから、夫婦と子の世帯は合わせて約30%になる。これは「単独世帯」の29.5%とほぼ同率である。じつは、1920年(大正9年)の統計から2005年まで、核家族世帯の割合はほとんど変動していない。変化は伝統的な「拡大家族世帯」の減少と「単独世帯」の増加にあり、両者が反比例しているのである。なお、三世代が同居する拡大世帯は率こそ減少しているが、人員数から言えば全国民の5人に1人弱を含んでいる。その点が例えば北欧のスウェーデンとは違うところである。

世帯数ではなく人数から見ると、家族と同居していない人は総人口の13%程度になる。ということは、残りの87%は誰かと暮らしていることになるが、問題はその「誰か」である。高齢者同士、後期高齢者と中高年の子どもという組み合わせが急増している。核家族世帯じたいが高齢化しているのである。2005年に65歳以上の人口の割合は20.8%であったが、2008年には21.7%になった。他方、14歳以下の人口の割合は13.6%と世界で一番低い。後でも言及するが、日本は世界一の高齢社会である。

「世帯」は数だけでなく規模から見ても縮小している。世帯平均人員は1920年から1955年までの35年間、ほぼ5人のレベルで変わらなかった。ところが1960年からは急速に縮小し始め、60年代末には一挙に3人台になった。そして2005年には2.58人にまで落ちている。それにしてもなぜ縮小するのだろうか。高度経済成長期以降に仕事や学校を求めて人びとが地方から都市へと移住したからであるが、それとともに見逃せないのは、後で取りあげる結婚と離婚をめぐる意識の変化である。

2008年の「世帯動態調査」結果によれば、親と同居している未婚者の割合は、学生を除けば、男性ほぼ80%、女性ほぼ85%になる。日本の若者の同居率はもともと先進国のなかでも非常に高いが、近年は非正規雇用の増加や賃金の低下にともなって同居理由が変化している。他方、大学進学率は2008年度に過去最高の55.3%を記録した。2006年の「青少年の社会的自立に関する意識調査」では、「親離れ」に関して子ども自身、男女とも20歳代後半の約3割が「できていない」と答えている。親から見た子どもの独立の時期は、「結婚したとき」36.5%、「自活したとき」21.4%、「就職したとき」10.1%の順である。「とくに考えたことはない」が16.7%もある。晩婚・未婚化に加えて、就職難もあり、たとえ就職しても自活できない状況では、子どもの「自立」はどんどん遅くなりつつある。

次に、(b)結婚と離婚に目を向けてみよう。恋愛結婚と見合い結婚の比率は1960年代の半ばにクロスし、以後は恋愛結婚が増えている。2007年に初婚者の平均年齢は、夫30.1歳、妻28.3歳になった。初婚年齢が上昇して西欧・北欧並みの水準になっている背景には、恋愛志向とともに未婚化の動きがある。男性で20歳代後半の約70%、30歳代前半の約47%、30歳代後半の約30%が未婚である。女性ではそれぞれ約60%、30%強、20%弱になる。独身志向もたしかに増えているが、必ずしも広がっているわけではない。むしろ結婚願望は相変わらず根強い。ただし、年齢へのこだわりがなくなり、理想の相手が現れるまで先延ばしている。独身生活の利点のほうが結婚の利点を上回っていることがその理由である。一昔前の「結婚して一人前」という「社会的信用」圧力が減少し、行動や金銭面の自由度が重視されている。

晩婚・未婚化だけでなく、結婚観の多様化も著しい。「同棲すれば結婚」や「結婚すれば子ども」という、これまで自明とされてきた図式が揺らいでいる。2005年の調査では、既婚女性の場合、「同棲=結婚」に33%が反対し、「結婚=子ども」には26%が反対している。「夫は外・妻は家庭」への反対はもとより、「婚前性交渉の容認」に至っては、1992年の調査でも賛成がすでに過半数を超えていたが、いまや賛成多数である。「家庭のための犠牲」に賛成が40%であるのに対し、「結婚しても自分だけの目標を持つ」に85%が賛成している。学歴や居住地や職の有無によって開きが大きいとはいえ、大勢としては夫婦重視より個人重視の傾向が際立っている。

価値観は生活実感から生じる。夫婦共働き(夫婦とも雇用者)世帯が増え続け、1977年に男性片働き世帯を上回って以来、その差は年々開いている。2007年では前者が1130万世帯、後者が851世帯である。女性の就業に関して男性の7割以上が肯定的であり、女性の8割以上が希望している。ただし、配偶者ありの女性は妊娠・出産を期に7割が離職している。就業か出産・子育てかの二者択一の状況が今なお続いている。
離婚率は、戦後の混乱期を除いて1963年まで減り続けて以降、基本的に増加傾向にある。とくに90年代の伸び率はどの府県でも著しい。離婚は「何でもない」という風潮が広がっている。1950年頃の離婚件数の主役は、妻が10〜20歳代の若い夫婦であった。そして加齢とともに鋭い減少カーブを描いていた。しかし2005年には、離婚件数のピークは30歳代前半に移り、その後のカーブも高め傾向にある。話題に上ることの多い中高年層の離婚については、たしかに増えており、1960年代の発生率と比べると40歳代で14倍、60歳代で8倍であるが、40歳代でも千組に一組あるかないかの数に止まっている。

離婚が原因の母子世帯が増えている。母子世帯になった理由の8割近くを占め、1972年に比べてほぼ倍増している。父子世帯は母子世帯の10〜20%で、最近は増えていない。母子世帯の家計状況は厳しく、90%が生活保護を受けている。また、児童一人につき四万円程度の「児童扶養手当」の受給者数は、2004年に91.2万人となり、1975年の3.6倍である。ちなみに、生活保護を受けている世帯数は、1996年から上昇を続け、2007年には111万世帯、154万人を超えた。そのうち高齢者世帯と傷病・障害者世帯が8割を超えている。

引き続いて、(c)出産・出生・子育てに注目する。2005年には出生数107.4万人で、1899(明治32)年以降、人口動態統計史上で最低を記録した。合計特殊出生率1.26も同様である。その後一時的にやや持ち直したとはいえ、1973年以降、長期低下傾向にある。この点は欧米諸国でも似た状況にあるが、地球全域で見れば人口増加は続いている。夫婦の平均出生児数(完結出生児数)は1970年代前半から二人っ子志向であり、ほとんど変化していない。しかし、理想子ども数と予定子ども数が2005年では落ちてきている。少産・少子化の背景には、20歳代の出生率の低下と若年未婚者の増加がある。子育てや教育に関わる経済的負担や、心理的・肉体的負担と高年齢という理由が挙げられている。

興味深いのは、全出生子中の「非嫡出子」の割合である。2005年統計で、27.9%のドイツから55.4%のスウェーデンまで及ぶ欧米に比べると、日本はわずか2%である。明治初期の混乱や1898年制定の民法による制約のため、9%程度まで上昇した時期もあったが、戦後は急激に減少し、近年ではほぼ2%で一定している。欧米でこの40年間に非嫡出子の割合が急増したのは、「事実婚」が社会通念として容認され、制度的に一定の保証を受けてきたからである。第二子の出生から嫡出子となるケースもある。それに対して日本では、「結婚」した「夫婦」というと、法的すなわち正式の「婚姻」夫婦以外には考えにくい。母子世帯もあるから推計は難しいが、子どものある事実婚のカップルは、多く見積もっても2%弱を越えない。それ以外の98%は法的な「婚姻」夫婦である。ここに日本社会の「結婚」観の表面的には顕著な特徴がうかがえる。

少産・少子化のなかで児童虐待が急増している。2006年度、児童相談所の相談処理件数は3万7千件を超えた。統計を取り始めた1990年度の34倍である。06年度中に児童虐待で死亡した子どもは100件126人、そのうち親子心中による死亡がほぼ半数を占める。乳児院の入所者数は2005年3月現在で3077人である。児童養護施設の児童数は、虐待・養育放棄の増加につれてここ数年で急増している。なお、施設児童の高校進学率は8割を超えるが、中退者が増加している。

他方、養子縁組の全体件数は2006年に約9万件であり、この50年間に大幅な変動はない。ただし、再婚や婿取り婚にともなう縁組が圧倒的に多く、これは婚姻に付随するものであるから、本来の未成年縁組や特別養子縁組となるとごく少ない。日本は世界でもまれな養子小国である。その理由として、「不幸な子ども」の減少や、家を継がせる意識の減少が指摘されている。とくに特別養子縁組の場合、2007年には全縁組件数の0.4%、289件にすぎなかった。件数の少なさの原因は制度の側にもある。創設当初の1988年には申し立てが3千件を超え、待機者が殺到したが、後述するように要保護性の認定など厳しい条件があるため、その後激減した。同様の傾向は里子にも言える。

今度は、(d)高齢者の現状に目を向けてみよう。2008年版白書によると、75歳以上のいわゆる「後期高齢者」は2007年10月に1270万人となり、前年より54万人増加した。総人口に占める割合は約10%だから、国民の10人に1人が後期高齢者という計算になる。このまま推移すれば、50年後の将来、総人口が9千万人を割り込むとともに、高齢化率も40.5%に達し、国民の2.5人に1人が高齢者となると推計されている。

居住形態を見ると、男女とも60歳代後半までは夫婦のみか未婚子との同居が多く、70歳代後半から子ども夫婦との同居が増える。女性では80歳を過ぎても一人暮らしをする割合がほぼ四分の一になる。婚姻状態から見れば、高齢男性で配偶者がいる人の割合は8割を超え、同じく女性でも徐々に増加して5割近くになる。この背景には離婚率の低さと寿命の長さがある。この45年間で夫婦揃って高齢期を生きている者が大きく増加した。高齢者の心の支えは「配偶者あるいはパートナー」が、「子ども」を押さえてトップになっている。

ここで見逃せないのは高齢者の意識の変化である。1980年には子どもや孫と「いつも一緒の生活がよい」に賛成する人が6割ほどいた。それがその後ゆるやかに減少し、2005年には34.8%にまで落ち込んでいる。それに対して「ときどき会って食事や会話がよい」が4割を超えて1位になっている。意識の変化の背景には世代の交替がある。1975年には65歳以上の高齢者はすべて明治時代かそれ以前に生まれていた。1990年には大正生まれが多数を占めた。1995年には昭和一けた生まれが4割を占め、2000年には6割になった。この世代が「ときどき会って食事や会話がよい」を支持している。そして2005年には、昭和11年以降の生まれが3割5分を占めるようになった。この世代が「たまに会話する程度でよい」を6.6%から14.7%へと押し上げている。ここでは世代の区切り方の妥当性を含めて世代論を展開することはしないが7)、9、大きく捉えるかぎり世代ごとに家族イメージが異なることは明瞭である。

葬儀と墓に関しては、30年ほど前から「家墓」へのこだわりが薄れ始め、近年では永代供養墓や、合葬墓、ペットと一緒の墓などに関心が集まっている。墓の必要性を認めずに散骨を容認する人も8割に達している。性別や、居住地、学歴、職業などで異なるが、世代ごとで分けるならその傾向はもっと際立ってくるだろう。井上治代によれば、墓=家の継承権という呪縛から解放されたのは、ようやく1990年代後半からである1。これは先に指摘した世代の交替と一致する。最近では、例えば桜葬(自然志向の樹木葬の一種)のような新しい形の弔い・埋葬に関心が集まっている。家族の枠を超えたゆるいつながりが模索されている点は注目に値する。

最後に、(e)家族に対する期待についても見ておこう。2006年の総理府調査によれば、家族のもつ意味に関して「団欒」「安らぎ」「絆」の場というイメージが過半数を超えている。ところが、現実の行動で見ると、家族で触れ合う時間は乏しくなっている。子世代との別居を希望する親世代の声も、1969年の12%から2006年の36%へと増えてきた。このように家族離れ・個人化の動きが進行し、理想像と行動とのギャップが広がっている。それだからであろうか、逆に、家族への思いはむしろ強まっているようである。統計数理研究所の「国民性調査」によると、1983年から「家族」が「一番大切なもの」の1位になり、2003年には過去最大の45%を記録した。30歳代では55%、40歳代で53%、50歳代で49%になる。ただし、「子ども」は別分類であり、10%を下回っている。

 

2 代理出産に対する規制の論理

 

前節では、統計資料をいくつかの観点に絞って拾い読みし、「家族の変容」の現在進行形の一面を切り出してきた。全体として見るなら、制度の圧力が弱まって「個人化」の傾向が際立っており、相互の結びつきが緩んできているなか、「家族」が理念として求められている。とすれば、漂流する家族の向かうべき方向には、何らかの「家族」という共通の目標あるいは夢があるようにも見える。しかし、実際にはその内実は単純ではなく、世代ごとそして個人ごとにかなり異なっているのではなかろうか。そこでこの節では、切り出された断面をさらに二つの角度からクローズアップし、「家族」イメージのズレやギャップを浮き上がらせてみたい。ここで取りあげるのは、「代理出産(または代理懐胎)」と「終末期医療」である。最初に代理出産から見ていく。なお、代理出産には、依頼女性である妻の卵子(したがって夫婦の受精卵)を用いる「ホスト・マザー」と、そうではない「サロゲート・マザー」の二種類があり、日本で論じられるのは主に前者の方である。

まずは、予備知識として、日本の生殖補助医療の現状を概観する。日本産科婦人科学会の報告書(「倫理委員会 登録・調査小委員会」平成19年度)によれば、国内の生殖補助医療全体の件数は1990年代後半以降急増し、2006年時点で登録施設は約600、出生児数も2万人に迫っている。これは同年の全出生数の1.8%にあたり、約56人に1人を占める。欧米の医療先進国と比べても登録施設数では群を抜いているが、これは生殖補助医療の担い手の大半が民間の病院やクリニックだからである。出生児数も米国に次いで多い。ところが、法整備の面では決定的に遅れを取っている。生殖関連法が存在せず、拘束力のない学会会告や、「中間試案」の類い、委員会の報告書しかないのが実情である。代理出産に関する最高裁判決では、法整備が急務であり、そのための立法化の努力を求めていた。その点は各種の報告書や学会会告でもたびたび要請されている。それにもかかわらず事態は一向に進展していない。

次に、代理出産による出産の事情も見ておこう。外国で代理出産を依頼するケースは100件以上あると言われ、代理出産で生まれる子も増えている。他方、日本国内では民間病院の医師が実施を公表している。その症例報告によると、1996年以来、約100組の夫婦から相談を受け、15例試みた結果、8例で出産した。依頼した妻は、先天的に子宮がないか、子宮が小さすぎて機能しないか、病気で子宮を摘出しているかである。代理母となったのは、妻の実の母親が5例、実姉妹が3例、義姉妹が7例である。35歳以上の代理母は15例中10例を数え、うち4例は55歳以上の実母である(2008年4月5日付読売新聞)。公表した医師は日本産科婦人科学会の会告を無視して実施に踏み切ったため、会から除名された。ただし、会告は倫理的申し合わせであり、会員に対する拘束力はない。しかも妊娠・出産に関連する学会は、大学医局を中心とする日本産科婦人科学会以外にも複数ある。当該医師はその後ふたたび会員として認められている。

さてここから、代理出産の是非を論じた四つの文書を取りあげ、そこに示された規制の論理を引き出してみることにしたい3

一番目は、旧厚生省の審議会専門委員会の報告書「精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療のあり方について」(2000年)である。そこでは生殖補助医療に関する基本的考え方として以下の六つの原則が挙げられている。すなわち、「生まれてくる子の福祉を優先する」、「人を専ら生殖の手段として扱ってはならない」、「安全性に十分配慮する」、「優生思想を排除する」、「商業主義を排除する」、「人間の尊厳を守る」である。そして、以上の原則に沿って検討した結果、「代理母」による懐胎・出産は、第三者を専ら生殖の手段として扱い、生命の危険の可能性のある妊娠・出産を第三者に押し付けることになり、親権をめぐる深刻な争いを起こしかねないから子にとって望ましくないとして、禁止という結論に至った。つまり、最初の三つの原則に抵触するというわけである。さらにこの結論と理由は、三年後の厚労省の部会報告書でも大多数の委員の賛同をえて踏襲された。代理出産を認めるべきだという意見が一部出され、また、生まれた子をめぐる争いが必ず起こるとは限らないとする少数意見もあったが、あまり長い議論にはならなかったそうである。

二番目は、前述した日本産科婦人科学会の会告「代理懐胎に関する見解」(2003年4月)である。ここでも代理出産は禁止されている。理由については一番目の報告書をふまえつつ、異論に対する配慮が加えられている。禁止の理由は以下の四点になる。すなわち、「生まれてくる子の福祉を最優先するべきである」、「代理懐胎は身体的危険性・精神的負担を伴う」、「家族関係を複雑にする」、「代理懐胎契約は倫理的に社会全体が許容していると認められない」である。

同「解説」によれば、「子の福祉」云々は、「児童の売買・取引」を禁じた「児童の権利に関する条約」に基づいている。「危険性・負担」については、たとえ第三者の女性が同意しても、心理的なトラブルが起こる可能性がある上、そもそも不妊治療の範囲を超えているとされる。「家族関係」では、妊娠・出産した女性が母であることは疑いなく、いずれ法律でも明記されるはずであるから、そうなると代理懐胎契約は無用な摩擦をもたらすとされる。最後の「社会の倫理」については、有償なら母体の商品化・子どもの売買が、無償なら心理的・身体的な隷属化がもたらされるから、いずれにせよ「公序良俗」(民法九十条)に反する。したがって、その種の契約が認められるためには、商品化や隷属化をもたらさないという論拠が示された上で、かつ、社会全体の許容度の高まりが必要であるが、現状ではその条件は整っていないと断定されている。

ただし、末尾の「付帯事項」には、代理懐胎が唯一の挙児方法である場合、将来的に社会通念の変化により許容度が高まったときには、例外的に再検討するとされている。しかしそれでも、「わが国で長年築かれてきた親子・家族の社会通念」を逸脱する可能性があり、子の福祉への十分な配慮を求めている。

三番目は、裁判の判決である。タレント夫婦が依頼人となってマスコミでも喧伝され有名になったケースでは、東京高裁(2005年)と最高裁(2007年)とのあいだで判決内容がくい違った。争点は、米国ネバダ州の法律で認められた決定を日本国内でそのまま受け入れることが、「公序良俗」に反するか否かである。ちなみに、米国では2000年の統一親子関係法(2002年修正)によって、代理出産に関しては裁判所が事前に契約を承認するという条件で、各州にその採用が任され、ネバダ州はその法律を採用している。2005年の東京高裁の判決は、その「外国法」の受け入れは公序良俗違反ではないとし、その理由を五つ述べている。すなわち、日本の法制度は生殖補助医療を想定して制定されたものではない、代理出産した側の夫婦とのあいだに争いはない、代理出産以外に依頼者夫婦の遺伝子を受け継ぐ方法がない、契約内容にも不当な要素はない、依頼者夫婦に養育されることが子の福祉に最も適う、の五つである。ところが2007年の最高裁判決では、実親子関係は「わが国の身分法秩序の根幹をなす基本原則」であり、これを定めた民法とは異なる外国の裁判は、その基本原則と相容れないから、公序良俗違反に当たるとして、高裁判決を破棄したのである。

四番目は、日本学術会議「生殖補助医療の在り方検討委員会」の報告書(2008年4月公表)である。審議対象は主に依頼女性である妻の卵子を用いる「ホスト・マザー」に限定されている。まず、代理出産の問題点が医学的側面から、倫理的・社会的側面や法的側面までに渡って検討され、その上で親子関係の問題が論じられている。後論との関係で注目すべき箇所を拾っておこう。まず、医学的側面ではリスクと負担が強調され、安全性のために長期的研究が必要とされる。次の倫理的・社会的面では代理出産の「自己決定」の限界が強調されるなかで、「『家』を重視する傾向のある現在の我が国では」(12頁)自分の意思が成り立ちにくいという懸念が表明され、また、生物学的に見ても体外受精がすでに「自然の生殖からの逸脱」であるから、代理出産はなおさら「本来の営みとしての生殖活動」(14頁)から大きく逸脱していると指摘されている。さらに、医療現場では依頼者という第三者が介在することで医療者の裁量権が侵害されるとされる。最後の法的側面では、母体が妊娠・出産の「道具」にされるから、代理母は「被害者」であると捉えられている。それゆえ「公の秩序又は善良の風俗」によってそもそも無効なのである。

以上をふまえて報告書は、代理出産を法律でもって原則禁止にすべきだとする。ただし、代理出産しか挙児方法のないケースを考慮し、公的な管理下で厳格な条件をつけて試行的に実施することは認めている。つまり科学研究として臨床試験をするということであるが、そのために長期的な追跡調査が必要となる。その場合でも「無償」でなければならない。他方、営利目的の代理出産は厳罰対象である。法を破って生まれた子がいる場合、血縁関係の有無にかかわらず分娩者が母とされ、養子縁組や特別養子縁組でもって親子関係が定立されるとしている。

なお、当委員会のメンバー14名の半数近くが法学者である。そのうち女性は4人おり、他分野を含めると6人になる。医師・医学者の意見はもちろん随所に反映されているが、会をリードしたのは副委員長の町野朔(上智大学教授)である。脳死と臓器移植問題では「万人臓器提供者」説を唱えている町野は、医療法関連の政府審議会の常連であり、彼や他の特定の委員が日本の医療・研究政策を実質的に左右している。

 

3 規制の論拠に対する疑問

 

前節で概観した規制の論拠に対しては、様々な立場から多様なコメントが可能であろう。この節では、筆者なりのとくに「家族の変容」という視点から、いくつかの疑問点に絞って検討することにしたい。

まず、(a)判決文を除くどの文書でも、「科学的合理性」偏重の発想が貫いている。産婦人科医が代理懐胎に反対する最大の理由は、妊娠・分娩のリスクと負担であり、しかもそれを第三者に押し付けることである。専門家が一般人よりもリスクに通暁し、それを深刻に受け止めていることはもとより疑いない。しかし問題はリスクを受け止めるときの前提である。代理懐胎に固有のリスクやそれが胎児に及ぼす影響について、これまで明確な報告はほとんどないから、長期の研究(たいてい10〜20年)が必要だという発想は、理想的な実験系のなかの「科学合理性」にしか関心がなく、その意味で誠実ではあるが、生きている人びとの声への配慮や公共的な問題の解決という視点を欠落させた、科学専門主義であると言える3。これは公害訴訟でもエイズ訴訟でもお馴染みの姿勢である。たしかに因果関係の研究には終りはない。しかし、たとえ研究の途中結果であっても、それに基づいて政治的決断を下さなければならない時がある。これがより高次の「社会的合理性」の立場である。代理母に限らず、普通の妊婦でもリスクが零ということはない。もとより生命の安全を軽視するつもりは決してないが、それは医療技術や管理体制のレベルの問題であって、これと公共的決定のレベルとを混同してはならないだろう。

次に、(b)世代感覚の偏りが目につく。統計資料から読みとった傾向と比較すれば、「家」や「自然さ」を持ち出すところに世代感覚の旧さが露呈している。不妊治療の当事者は「家」との関連で「周囲の圧力に苦しんでいる」と指摘されているが、大半の場合は「家」が問題なのではない。むしろ、子どもを産めない「身体」をめぐる「自己アイデンティティ」の問題であり4、そこには「エンハンスメント」や摂食障害と同じ心理構造がある。世代感覚の旧さは「国」や「公序」の重たい受け止め方にも表現されている。日本学術会議の委員は皆、女性も含めて、法律家・医師・生物学者やそのほかの専門家であり、しかも全員が比較的高齢の世代に属する。そこに裁判官まで含めるなら、世代感覚の偏りは否定できないだろう。もちろん、「偏り」じたいが「不当」なのではない。全体の幅とバランスや将来性を無視していることが問題なのである。

さらに、(c)生物の次元とその他の次元との区別が曖昧である。「代理」出産に反対する医師の意識の底には、「自分でお腹を痛めて産んでこそ本当の母親」という観念が根深く存在している5。筆者である私自身は、子を妊娠し産んだ女性を「母」とすることに賛成する。しかし、母「親」であるためには、ⓐ生物としての次元(産んだ女性=母)だけでは決まらない。これに加えてさらに、ⓑ養育・生活の次元(育ての親)と、ⓒ身分・権利・義務に関わる制度の次元(法律上の親)が必要である。三つの次元は通常ならたいてい結びついているが、いつもそうだとは限らない。この点を白日の下に曝したのが、ⓐに「遺伝子」の要素を持ち込んだ生殖補助医療である。人類学的に言えば、「血縁」の範囲は社会的に取り決められる。「産んだ女性=母」はかならずしも「本当の母親」ではないのである。

また、(d)養子制度の運用実態に関して無知ぶりが目立つ。どの文書でもそうだが、養子縁組または特別養子縁組の法規しか目に映っていない。不妊治療を受けているか、かつて受けたことのある夫婦の多くは、一度は特別養子縁組や里子を考えるが、なかなか条件が合わず、結局は諦めてしまうのが実状である。児童相談所に行くと、婚姻夫婦である事実や、年齢、持ち家、どちらか一方が仕事を持っていないこと等、厳しい(統計資料に照らせば現実離れした)条件が出される。しかも、40歳以下でないと特別養子縁組の順番はほとんど回ってこないと言われたりする。それでも諦めずに次の段階に進んだとしても、順番待ちで何年も待たされることになるから、その間に諦めてしまうのである6。「養子でなぜいけないのか」という発言は、運用の実態を知らない者の物言いである。なお、特別養子縁組でも「養子」という事実は、見る人が見れば戸籍から読みとれるようになっている。家族や不妊治療の問題の根本には、世界でもほとんど稀な日本の「戸籍」問題がある。

あるいは、(e)「良俗」つまり社会通念(または常識)の変容が軽視されている。厚生労働省は20〜60歳代の男女5千人を対象に国民意識調査を実施している。それによれば、夫婦の受精卵を用いた代理出産(ホスト・マザー)に関して、1996年には、社会として認めてよいと容認する人43.0%、容認できないとする人24.2%、わからないとする人14.3%であった。2003年には、容認派42.5%、反対派24.8%、わからない派31.1%であり、無回答が減って決めかねている人が倍増した。そして2007年には、54.0%が容認し、反対は16.0%に減少した。このように、過半数が「代理出産」に賛成し、「自分」の場合はともかく「社会として容認」している。他方、「自分が不妊の場合」には、利用したい9.7%、配偶者が賛成なら利用する40.9%、配偶者が望んでも利用しない48.4%である。ここでも利用する人(50.6%)のほうが上回っており、全体として見れば賛成側に徐々にシフトしている。同世代でも個々人の感覚の違いはあるが、今後若い世代が増加することを考えると、「常識」の大局的な趨勢は明らかであろう。

そして何よりも、(f)論拠(原理)の捉え方があまりに硬直している。「会告」が指摘するとおり、多数性だけでは十分ではなく、相当の論拠に基づく説得力が必要である。代理出産の場合、「子の福祉」と「親となる個人の選択の自由」とが二律背反の状況にある。この状況を抜け出すには両極を包括する共通の目標を立てる必要があるだろうが、どの文書もそういう努力を示していないばかりか、かえってそれを不可能にするようなタテマエ論に終始している。批判の要点はこうである。一方の「子の福祉」では、他者の手段化=絶対悪という図式に安易に乗っている。しかしこれは、カントの「人間=自己目的」論の誤解であるか5、カトリック的立場の自明視にすぎない。私見では「子の福祉」の理念とは、子が社会の宝=共有財産であるという認識に立って、一人ひとりの子どもの持てる力を伸ばす方向に社会全体で育てていくことである。それが社会の共通目標とならなくてはいけない。他方の「個人の自由」では、代理出産が有償なら「商品化」、無償なら「隷属化」という、いずれにせよ代理母=被害者という極端な図式が見られる。これでは一歩も進むことはできない。しかし、日本における代理母は実母や姉妹であるから、すでに実施されている「生体移植」の場合と本質的には同じである。共通目的のための自己犠牲を無条件に排除する理由はない。また、イギリスの「無償」の場合と米国の「有償」の場合では、代理母が受けとる対価は実質的にほぼ同額である7。金銭・商業主義の否定という論件を含めて、タテマエ論から脱却する必要があろう。

最後に、(g)社会的合意を形成する方向づけが見当たらない。世代や個人の選択の多様性をふまえた社会的合意づくりはどうあるべきであろうか。どの文書でもその問題意識が希薄である。もちろん、世界中で代理出産ビジネスが拡大しており、人身売買まがいの斡旋事件や詐欺事件が報告されている。その意味で歯止めとなる何らかの管理が必要である。また、選択肢は宙に浮いているわけではなく、途上国の貧困(例えば臓器移植の場合)や老人施設における日常化した「遺棄」のように、立っている地面じたいが最初から傾いている点にも配慮すべきである。さらに、少子化対策との整合性という問題がある。以上を考慮するならば、社会的合意を形成するやり方として、社会の共通目標を立て、これをふまえて一定の厳しい条件を付けた上で、個々人の選択を容認するというしくみ以外に考えられるだろうか6。争点は禁止か容認かではなく、共通の目標と一定の条件をどのように設定するかにある。そしてそれを決めるのは、最終的には、変容しつつ持続する「常識」なのである9

 

4 終末期医療をとりまく制度と意識

 

今度は終末期医療の場面に視線を転じよう。2007年4月、数年来の「安楽死」事件の報道に押されるようにして、厚労省に設置された検討会から「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」が公表された。終末期医療に関する検討会はそれまで、1987年の検討会を別にすれば、1993年以来5年間隔で開かれており、今回で四回目になる。そして過去三回、一般国民および医療従事者を対象とする意識調査が行われてきた。今回の「ガイドライン」は前回2004年公表の報告書を受けている。ここで取りあげるのはその第三回報告書である。ちなみに、座長はここでも町野朔であった。

調査では、「自分が痛みを伴う末期の患者になった場合」と「家族または自分の受け持ち患者がそうなった場合」とに分け、①死期1ヶ月以内の末期、②死期6ヶ月以内の末期、③回復の見込みのない持続的植物状態、の三つの病態における対応を尋ねている。なお、調査対象者は20歳以上の一般国民5000人と、医師3147人、看護職員3647人、介護職員2000人である。第三回から介護職員が新たに加えられ、そのぶん看護職員(前回6059人)が減った。回収率は50.7%。ただし、年齢階層別の割合については入手できていない。以下では、調査結果とこれを受けた報告内容から二つの論点を取り出してみたい。一つ目は「安楽死」に関する「社会的コンセンサス」の扱い方であり、二つ目は終末期の「療養場所」である8)

まず、一つ目の「安楽死」に関する「社会的コンセンサス」の扱い方に関して、調査結果はこうである。「自分」の場合、死期1ヶ月以内の①で「心肺蘇生措置をやめる方向」を選択したのは、一般国民70%、医師90%である。なお、「やめる方向」には「やめた方がよい」と「やめるべき」の両方が含まれる(以下同様)。死期6ヶ月以内の②で「単なる延命処置をやめる方向」の選択は、一般国民74%(うち「やめるべき」21%)、医師82%である。そのうち「苦痛を和らげる緩和医療」の選択は一般国民59%、医師84%、「積極的な安楽死」の選択は一般国民14%、医師3%である。持続的植物状態の③で「単なる延命処置をやめる方向」の選択は、一般国民80%(うち「やめるべき」33%)、医師85%となる。そのうちで「床ずれの手当や点滴等の基本的養護は続ける」が一般国民53%、医師62%、「一切の治療の中止」が一般国民28%、医師22%である。

ここで②に注目しよう。報告書では、「安楽死」反対は「国民のあいだでほぼ一致している」と結論づけている。しかし、一般国民74%のうちの14%というのは2割弱にあたる。報告書でも一般国民と医療者のあいだのズレに言及されているが、それにもかかわらず、国民の「社会的コンセンサス」という名前でもって強引に、「安楽死を選ばない」という結論にジャンプしている(なお、緩和医療をめぐるズレについてはここでは論じない)。そこには、(医師会の職業倫理指針を踏襲する)医師出身委員の意向や、とりわけ座長の見解が反映されているようである。この点は今回の「ガイドライン」でも同様である。そのような論理のジャンプが成り立つならば、50%強の賛同をえた代理出産の場合はどうなるのであろうか。ここには少なくとも多数性に関して恣意的な解釈が存在する。もちろん前節で指摘したように、多数性はあくまで必要条件である。さらに十分条件として論拠の「正当性」が問われることは言うまでもない。

二つ目の終末期の「療養場所」に移ろう。調査結果はこうである。「自分」が②のとき一般国民では、自宅療養後必要に応じて病院や緩和ケア施設入院48%、なるべく早く病院や緩和ケア施設入院33%、最後まで自宅11%である。また、高齢の認知症等のとき、一般国民では病院38%、老人ホーム25%、自宅23%であるのに対し、医師では自宅49%、介護療養型医療施設他23%である。なお、看護職員や介護職員も医師とほぼ同様である。また、自宅外の選択の理由は「家族への負担」が圧倒的であり、自宅選択の理由は「住み慣れた場所」や「好きなように過ごしたい」である。

右の結果をふまえて報告書は、できるだけ自宅で過ごせるように、苦痛を軽減するための地域連携システムの構築が望ましいとしている。そのさい、生活する人の視点を大切にし、患者の状況に合わせた相互補完・連携の包括的な体制を整備する必要があり、それがうまく進めば一般国民の希望順位も変わり、自宅が最優先されるだろうと推測している。要するに、自宅=在宅中心の地域連携体制が方針とされているのである。

しかし、数字に即すならば、そのような方針は医療関係者の選択には合ってはいても、肝心の一般国民の選択とは食い違っている。一般国民は在宅の療養・介護の非現実さを肌で感じた上で、自宅よりも専門機関・施設のほうを望んでいる9。世帯の縮小、単身者・独身者の増加、少子化と高齢化、老老介護、女性の就労を思い浮かべるとき、多くの家庭で在宅中心の終末期療養や長期療養が成り立たないことは明瞭である。それにもかかわらず、国民は「自宅」を望んでいるはずだと推断すれば、国民の意識と現実から逸れてしまうだろう。もちろん、「自宅」が望ましいとする憶測そのものは間違っていないと思われる。しかし、ここで問題にしているのは、現実を無視してまでそれにこだわる背景である。おそらく、特定の「家族」イメージ(核家族や拡大家族)とその理念(団欒)に囚われているからではなかろうか。生活する人の視点から複数の選択肢を整備するという、それじたいは正しい方向に沿って進むなら、在宅中心へのこだわりを棄てなければならない。

そうなると、残る方針は施設の重点的な充実になるのだろうか。建設費用も維持費もかさむ施設を郊外にどんと建てることであろうか。いや、そうではない。論拠・原理の二律背反の場合と同様に、ここでも「あれか、これか」の二者択一の思考を止め、従来の「自宅」や従来の「施設」のイメージから離れる想像力が必要である。外見だけ立派な箱ものなどは必要ない。自宅か施設かではなく、ポイントは「自分の居場所」である6)、11。誰もいない自宅が「居場所」になるとは限らない。

それに関連して筆者の知見を付言しておく10。スウェーデンでは、住み慣れた町の空き家をリフォームし、スタッフの介護を受けながら、小グループの老人たちが暮らしている(日本のような持ち家主義をとっていないことが背景にある)。近くには専属のクリニックもある。ちょっとしたリフォームだから経費も安く、街中であるため気楽に買い物や散歩にも行ける。老人にとってそこが自分の居場所であり、終の住処なのである。あるいは、日本でも最近、民家を改造して自宅と施設を兼ね合わせる試みがようやく始まっている。過疎の村や都市の下町で見られるような老齢世代同士の支え合いを含めて、それらの動きを支援・促進し、地域の連携体制を整えることが今後の課題となろう。そのような動きは「家族」の殻を破ってより広く社会的につながり合うものであり、墓や弔い方に見られる新しい動きとも呼応している。これらの動きについては最終節でふたたび言及しよう。

 

5 家族モデルの消失という現実

 

ここまで「家族の変容」の現在進行形の断面を二つの角度からクローズアップしてきた。そこに浮かび上がってきたのは、現行の制度ならびに専門家の感覚が、一方の代理出産の場面では比較的若い世代の感覚に追いついておらず、また、他方の終末医療の場面では比較的高齢世代の感覚からかけ離れているという事態である。つまり、家族イメージをめぐる世代感覚のあいだの食い違いであり、異なる家族イメージの混在と葛藤である。その根本の原因は何であろうか。指摘するまでもなく、明治時代以来の「家」モデルやとくに戦後の「核家族」モデルによって、関係者たちが呪縛されていることにある。不妊治療とくに代理出産の場合、依頼する当事者が「自分の(血縁上の)子」にこだわっているのは、必ずしも「核家族」の実現のためとは限らないし、ましてや「家」の永続のためではさらにないだろう。今日の比較的若い世代では、むしろ「自己アイデンティティ」の確認作業という意味合いが強く、それがますます増える傾向にある。「血縁」の感覚も一つではないのである。

したがって、「家族の変容」というとき、事柄の核心をなすのは「標準モデルの不在」にほかならない。現実の生活も意識もすでに、「家」モデルはもとより、「核家族」モデルからも大きくはみ出している。そのなかで多様な形が少しずつ模索され、そのような動きが大まかに世代感覚の違いとして現出している。高齢者層のあいだですら家族イメージの違いが目立ってきている。これから家族を形成する若い世代ではなおさらである。とすれば、その点を考慮せずに医療現場で従来のように対応するなら、混乱が生じるばかりであろう。家族の形はますます多様化する。それは三世代の拡大家族という形をとることもあれば、核家族の形ということもある。しかし要は、モデルが一つあるのでもなければ、複数のモデルがあるのでもなく、そもそもモデルなしに多様な選択肢があるということである。そこにはひょっとすると、従来の「家族」をはみ出すような形も含まれているかもしれない。

しかしここで、当然のように次の疑問が提出されるだろう。「結婚」の形態について言えば、晩婚・未婚化の傾向にあるとはいえ、圧倒的多数のカップルは法的な結婚すなわち婚姻を選んでいる。離婚が増えているにせよ、再婚もまた婚姻の形態をとっている。「事実婚」をあえて選ぶカップルはわずかしかいない。若い世代でも同様である。とすれば、「家族」のイメージは基本的に変わっていないし、おそらく今後も大きな変化は起こらないのではなかろうか。

上の反論にはこう答えておこう。カップルが婚姻形態を選んでいるのは、むしろ制度が意識に対応していないからであって、対応の鈍い現行制度の下での実際的な選択なのである。「事実婚」を選んだときの社会生活上の不便さは、当事者でなければ理解できない壁が多々ある。統計資料から読みとれるように、「核家族」の外形をとっている家族の内部に目を向けるなら、仕事や生活や人生観といったあらゆる局面で、男女・親子ともに個人化の傾向が歴然としている。例えば、自分の名前のアイデンティティにこだわる女性が増えている。このように全体として、従来の制度的圧力が低下しているのは明瞭である。もし日本でも「核家族」モデルに準拠している現行制度が少しでも変わるなら、それは徴税でも年金でもよい、結婚形態にも変化が生じるだろう。事実、スウェーデンで1970年代に「事実婚」が増えた背景には、有給の育児休暇制度とともに、夫婦分離課税方式の導入があった2

要するに、今日大まかに見るなら、世代ごとに異なる生活感覚に根ざした複数の常識が並存している。もとより同世代のあいだでも個々人の意見は多様であるが、その多様性の幅の大枠を画定しているのが世代感覚である。世代と時代と常識の連関については別論文で詳しく論じているので9、ここでは家族に関連する範囲で最小限だけ言及しておこう。日本社会は、〈伝統的近代〉〈現代的近代〉〈今日的近代〉というモダニティの三段階に対応して、基本的に〈特定集団のなかの成員の結束〉から、〈核家族を構成する個人の連帯〉をへて、今日の〈薄い私同士のつながり合い〉へと移っている。ここで「薄い」とは、制度的圧力が限りなく零に接近し、一定の役割や理想によって象られる輪郭が漠然としている状態を指す。社会的関係のうち家族あるいは親密な関係の次元は、その基本動向に沿って変容しており、しかも、具体的なものたちとの身体的な関わり(例えばテクノロジーや経済)の次元に近接しているだけに、その変容ぶりは速い。それに比して、社会組織や制度の次元は、具体的なものの次元から離れているだけに変容が遅れる。両者のあいだのギャップやねじれが、すでに確認したように、代理出産や終末期医療の場面に露出していたわけである。

制度と意識のねじれの別例として、「成人」年齢の引き下げの問題を挙げておきたい。意識調査によると、国民の約80%が引き下げに反対している(内閣府「民法の成年年齢に関する世論調査」2008年7月実施)。意外にも、日頃「自立」を強調している精神科医のなかにも引き下げに反対している人がいる。日本の若者では精神的な「自立」がますます遅くなっているという理由からである。たしかに、精神的な自立と就職・自活・結婚による自立とは無関係ではない。後者が遅くなるにつれてしばしば前者が遅れることもあろう。前述の統計資料を見るかぎり、「自立」が遅れていると感じているのは、親だけでなく若者自身でも同様である。しかし、「成人」年齢と精神上・生活上の「自立」とを実質的に結びつけるのなら、なぜ逆に成人年齢の「引き上げ」を提唱しないのであろうか。高卒で就職した未成人(同世代の半数)が選挙権を持たずに税金を払っている一方で、二十歳過ぎの大学生は選挙権を持ちながら税金を払っていない。そこに不公平・不合理はないだろうか。

結局、「成人」あるいは「大人」の明確な区切りは生物学的にはない。区切るのは制度の取り決めであり、また本人の自覚なのである。その点で日本の社会は「大人」へ向けて子どもに積極的に働きかけるという視点が欠落している。例えばスウェーデンのように、大学生に奨学金と学生ローンを与えて自立させることも考えられるだろう。「自立」していない事実を一方的に強調するだけの言説は、かえって日本文化の「特殊性」を創り出し、そのような現実を再生産する機能を果たすことになる。現在進行形の変容に関する感受性の欠落と、新しい形の親密な関係や社会的なつながりを思い描く想像力の貧困さが、「成人」年齢の引き下げをめぐる論議にも顔を覗かせていると言える。

 

6〈親密な関係〉と〈規範システム〉のゆくえ

 

ここまで、家族の現在進行形の断面をクローズアップすることを通じて、それが変容していく方向を浮き彫りにしてきた。「核家族」モデルが消失するとすれば、今後「薄い私」同士の親密な関係はどのような形をとるのだろうか。それを思い描くためには、生殖テクノロジー全般の利用や、生殖と切り離された性=セクシュアリティの帰趨について一定の見通しをもつ必要があるし、さらにまた、人類学の長く広い視野をもって家族形態を考察する必要もあろう。冒頭の「はじめに」でも断ったように、それらの点についてはすでにある程度まで別論文で論じている9)、10。そこで以下では、それらを前提にしつつ、〈親密な関係〉および社会の〈規範システム〉の未来形について見通しを立てておきたい。ポイントを三つに分けて論じていく。

第一の論点は、「人間の社会」および「家族」の本質である。「人間」を成り立たせる「基本的条件」として、道具的製作や、言語的意味操作と並んで、社会的関係があることは、すでに常識の事柄に属するが、ここで注意したいのは「社会的」関係の捉え方である。我々の一般的な観念倉庫では、互恵性=共同性=家族性=社会性という連想が強固に働いている。しかし、人類において著しく発達した「互恵性」、すなわち筆者なりに言えば〈好意の返し合い〉の感覚は、霊長類の群れから人類に受け継がれたものである。とすれば、その感覚の存在をもってきても、人間の「社会的関係」を特徴づけることはできないだろう。同じ指摘は「家族」にも当てはまる。それでは、その固有の特徴はどこに求められるのであろうか。

人類の群れにおいて〈好意の返し合い〉を通じて、敵対・反目でも、無関心・無視でもないような「親密な二者関係」が生じてくる。そしてこの「親密な二者関係」が重なり合うことによって「仲間=群れ」が形成される。とはいえ、「親密な二者関係」は、その内部において脆く、また、その外部の群れ=競争相手の暴力によって壊れやすい。しかもその不安定さは、群れの規模が大きくなるほど高まるに違いない。それゆえ、その種の本質的な不安定さを解消・軽減するには、二者間の「好意の返し合い」がはらむ潜在的暴力を抑制し、さらには共同=仲間意識を強固に保持するような、何らかの超越的な仕組みが不可欠となるだろう。そこに不可避かつ不断に要請・産出される仕組み=禁止こそ、「人類の群れ」を「人間の社会」として成り立たせる〈規範システム〉にほかならない。つまり、〈規範システム〉が人間の社会的関係の本質であることになる。そしてこのシステムが多様な規範=制度を具体化しつつ、親密な関係と敵対の関係とのあいだの中点、すなわち〈友好な関係〉を不断に産出するのである。

人間の社会を構成する「要素的単位」に対して、これまで「家族」という名称が付けられてきた。家族は、〈規範システム〉の下で成り立つ多様な社会制度を支える基礎的な結合であると同時に、二者間の「親密な関係」の担い手でもある。それはこれまで「親族」から「拡大家族」をへて「核家族」にいたる多様な形態をとってきた。そしてその最小形態は言うまでもなく、「母子結合」に「男=父」が加わったものであった。しかし、そのような捉え方が当てはまるのは、あくまで社会が成立した後の「制度」内部での話にすぎない。なぜなら、社会とその制度が発生する以前には、前述のとおり、好意を返し合う「親密な二者関係」とその重なり合いだけがあった、と考えられるからである。とすれば、それと同様に、制度の圧力が弱まった今日では、一種の水平的な「二者関係」が新たに出現し、やがては未来でそれが主流になるのではないかと想像される。つまり、母子結合には還元されない二者関係(ダイアド)が、社会の最小の要素的単位になるだろう。

したがって、第二の論点は、未来に主流となる二者関係の具体像である。それをここでは〈誰かとのつながり〉とイメージしてみよう。〈誰かとのつながり〉とは「核家族」や「純粋な関係」(ギデンズ)10や「母子結合」よりもさらに基盤にあって、たんに「誰かとつながっている」、「誰かが気にかけていてくれる」、「誰かを気にかけている」といった、ただそれだけの関係である。その「誰か」は人(=人類の一員)でなくてもいい。ペット(コンパニオン)でも、極端な話、植物でも、ロボットでも構わないかもしれない。そのような「誰か」とのつながり合いもまた、もとより〈友好な関係〉をめざしており、場合によっては「親密な関係」に傾くことがある。〈誰かとのつながり〉にともなう感覚=センスをここでは〈とも〉感覚と呼ぶことにする。

ここで今日の若者世代に目を転じてみるなら、日本でも、あるいは、例えばスウェーデンでも同様であるが、〈薄い私同士のつながり合い〉が際立っている。それは一面で、他人との関係に深く関与することを好まない。この傾向は、「家族」のきずなの薄れ、自己の輪郭の薄れ、そして生死の境界の薄れに対応している。しかし他面では、家族の垣根を越えて社会的に薄く広がっている。肩書きも年齢・性別・国籍も関係なく、ネットを通じてグローバルにつながり合う。さらにネット内のつながりがネット外にも連続している11

今日の延長上に到来する未来では、〈輪郭の薄い私〉を中心にして親密な関係の形はますます多様化するだろう。事実婚、母子家庭、父子家庭、三世代家族、核家族、同性愛カップル、同性カップル同士の子ども家族、等々――そこには標準となるモデルはない。共通の土台は〈とも〉感覚だけである。セクシュアリティと愛情をともなう〈とも〉関係もあれば、セクシュアリティと愛情抜きの〈とも〉関係もあろう。広く薄い多重のつながりだけの場合もあれば、その広がりの上での特定の狭く濃い関係もあろう。セクシュアリティと愛情の面では、権力・競争志向の暴力的な男性は少なくなり、激しさや荒々しさをともなうエロティシズムも〈とも〉感覚に裏打ちされるのではなかろうか。

代理出産との絡みで子どもに関して言えば、子どもを産みたいカップルもあれば、欲しくないカップルもある。産むか産まないかの選択は、制度的な圧力よりも「自己アイデンティティ」の有り様が大きく左右するだろう。産みたい場合に生殖テクノロジーの利用は避けられないが、大切なことは、社会の宝=共有財産としての「子ども」という見方であり、社会と文化の担い手としての「子ども」という視点である。少数の生まれた子どもを大事に育てるのは親だけではなく、親とともに周囲の大人たち全員なのである。〈とも〉感覚を共有しつつ、親とともに親を越えて周囲の大人たちが子育てを援助することになろう。

終末期医療との関連で高齢者について言えば、すでに現在、墓に関して家族を越えてつながり合う中高年世代の動きがある。あるいは、高齢者世代同士で助け合って暮らす動きもあれば、自宅とか病院といった固定した空間にとらわれず、自分の「居場所」を確保しようとする地域の試みもある。現在広がりつつある孤独・孤立や無縁死への避け難い傾斜に抗するには、今日から未来にかけて、〈薄い私〉同士のつながり合いをますます張り巡らせていくのでなければならない。そうすれば最後は、誰しも〈とも〉感覚を共有しつつ、残された日々を過ごし、看取り看取られ、見送り見送られることになろう。

三番目にして最後の論点は、社会の〈規範システム〉の在り方である。第一の論点では制度圧力の低下とか、過剰で重たいイデオロギーの剥落傾向に着目した。また、第二の論点では〈薄い私〉の二者関係(ダイアド)の多様なつながりに注目した。しかし、第一の論点で同時に言及したように、社会が成り立つためには〈規範システム〉が不可欠である。それなしには、社会はおろか、社会的二者関係すらも存在しえない。さらにまた、国家の社会制度でなければ人々のいのちと暮らしを守れない場合が多くある。例えば、親や周囲の大人による子育てを多様な形でバックアップするのも社会制度である。それゆえ、米国や日本のSF娯楽映画に見られるような旧知の単純な社会像を乗り越え12、未来の〈親密な関係〉を支える社会とその〈規範システム〉のあり方を真剣に構想してみなければならない。

事はモダニティの進展に関わる。例えば、見田宗介は最近の講演のなかで、無限性から再び有限性へというシェーマで現代を位置づけているが4、そこには〈薄い私〉に対する感度の鈍さのみならず、テクノロジーの無限性という視点も欠落している。いま人類が直面しているのは、見田のタームをあえて用いるなら、むしろ有限性と無限性との新たな総合のステージと言うべきであろう。そのステージ上でデジタル・メディア時代がこのまま進展するかぎり、我々がこれまで慣れ親しんできた実在観と人間観は、その根本から変容を迫られるに違いない。おそらく、それ自身が要素の一定の結合に外ならないデジタル的な要素が、いくつかの異なる結合方式に沿って、多様な形=〈もの〉として際立っては、消えたり、転変したりするバーチャル・リアリティの世界が出現するだろう8。そのとき、例えば機械/身体のような二元的対立は、〈もの〉の際立ち方の違いとして相対化されるであろうし、これまでイデオロギーの倉庫に詰め込まれてきた観念群、例えば「国家/国民/民族」「伝統」「家族」「身体」「自然」「感情」「人間」などは、その役目を終え、新たに捉え返されるか、用済みとなって捨てられることになろう。

〈もの〉の変化が一番強く現れるのは、自己/他者・親密な関係・生/死といった〈もの〉に密着した次元である。それらがそれぞれ、〈薄い私〉・〈ダイアドのつながり〉・〈生死の境界の薄れ〉の方向に進んでゆくとき、それらを規制する〈規範システム〉はどうなるのであろうか。その構成要素である制度・役割や、権利・義務とか、人柄・徳・品位は、社会が存続するかぎり消えることはない。たとえ過剰な充当・装飾が薄れ、その効力と範囲が限定化されるにしても、必要不可欠だからである。それでは、その〈規範システム〉の全体を支える拠り所はどこに見出されるのであろうか。ここで問われているのは、何かあるいは誰かに対する応答=負債のお返しという「責任」の根拠である8

人間の社会の成り立ちの根源をふり返るならば、〈規範システム〉を支えている支柱が明瞭に浮かび上がる。「拘束性」「超越性」「共同性」がそれである。したがって、「責任」の根拠への問いは、今日から未来にかけて「拘束性」が限定され、「共同性」が薄まりゆくなかで、残る「超越性」はどうなるのかと問うことである。K.ヤスパースや見田の言う「軸の時代」以降、それは人格化されるなり、非人格化されるなりして、多様な伝統を太く枠づけてきた。しかし、デジタル存在体の結合形態としての〈もの〉が、いまや実在(リアリティ)のベースに置かれるようになるかぎり、「責任」が差し向けられるのは、無数の〈もの〉たちが働き合う動的なネットワークそのものに対して、ということになるのではなかろうか。そしてそこから、同じ〈もの〉としての根源的な平等感覚が発してくるだろう。そのような責任意識と平等感覚が供給されないとすれば、人類を待っているのは、「アーキテクチャ」が張り巡らされたユビキタス監視社会であるかもしれない13

ただし、以上で描いた哲学的な構想とは別の水準で、個々人や集団にとってはそれでも、先述した「伝統的」な観念群(自然・身体・民族・国家・伝統・信仰・死後の世界など)が、バーチャル・リアリティとしての多様な強度を保持しながら、超越的な拠り所であり続けるに違いない。なぜなら、部分的であれ身体をもつ存在体(サイボーグ)でも、 あくまでイマージュ(形象)を必要とするからであり、また、個々の〈もの〉たちにとっては、 個別的な偶有性・不安定さ(病気・死・不遇・不幸などの運命)が相変わらず残り続けるからである。

 

 

(1)この点は日本社会だけに限られる事柄ではないが、ここではそのことにあえて言及しない。ただし、 一つだけエピソードを挙げるなら、医療倫理教育の国際会議が2001年にイスラエルで開かれた際、 極端に個人主義的な側面を強調したエンゲルハートの理論に対して、世界各国から参加した人々が見せた反発が思い起こされる。その時の知見は次の論文に反映されている。Morishita、 N: Revising the So-called Western Universalism in Medical Ethics.浜松医科大学紀要一般教育(Bulletin of Liberal Arts Hamamatsu University School of Medicine)16:1-8、2002.
(2)本節以下の論述は文献10)の第1節とほとんど重なるが、次節との連関を考慮してあえて再録することにした。その点を予めお断りしておきたい。ただし精確に言えば、ここでの論述の方が先に出来上がっており、文献10)の既発表部分はそれを切り詰めたものである。

(3)『法律時報』79巻11号掲載の座談会「生殖補助医療の規制と親子関係法」は参考になる。

(4)『法律時報』79巻11号、柘植あづみ発言、14頁。

(5)同上、吉村泰典発言、11頁。

(6)同上、柘植発言、15-16頁。

(7)この点は次の論文に詳しい。仙波由加里:代理懐胎における理にかなう費用の支弁、医学哲学 医学倫理27:69-78、2009.
(8)なお、意識調査は2008年にも実施され、2009年にその解析結果が公表された。それによれば、全体として、「延命治療」を「望まない」割合が高い傾向にあることを除けば、前回までの内容と大きく異なるところはない。唯一の例外は「積極的安楽死」賛成の割合の激変である。ただし、 同時に「分からない」「無回答」も増えている。前回と今回の調査のあいだでマスコミによる安楽死報道が大々的に行われたから、 その影響が考えられるが、なお慎重な考察を要する。とはいえ、以上の注記はここでの論述の主旨を変えるものではない。

(9)2008年神奈川県と2007年青森県の保険医協会による県民意識調査でも同様の結果が出ている(医療介護情報CBニュース2008年6月6日)。

(10)筆者は2008年の4月から5月にかけて、スウェーデンのリンシェーピン大学から招待され、当地に滞在した。

(11)ここでのポイントは、「核家族」の理念やその進化形である「シングル」の理想を追い求める〈個人〉とは違って、〈薄い私〉が何らかの理念や理想を「真理」としてはもたないというところにある。そしてこの〈薄い私〉こそが、私見では、モダニティが行き着く究極の姿にほかならない9。ただし 本田由紀も指摘するように(「毀れた循環―戦後日本型モデルへの弔辞」13)、日本社会のシステムは1990年代後半以降大きく変容し、従来のような仕事・家族・教育の循環モデルが解体しつつある。そのなかにあって、〈薄い私〉も屈折・屈曲を余儀なくされ、「自己責任」を強いられつつ、無気力・絶望の淵に立たされ、 孤立・無縁化の方向に追い込まれている。以上をふまえるなら、日本社会のそしてグローバルな未来世界の課題は、孤立・無縁化への傾斜に抗するために、〈薄い私同士のつながり合い〉を幾重にも張り巡らせる動きを促進することであろう。

(12)その原像はジョージ・オーウェルの『1984年』であろう。

 

文献

 

1) 井上治代:墓と家族の変容、岩波書店 2003.

2) 竹崎 孜:スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか、あけび書房 1999.
3) 藤垣裕子(編):科学技術社会論の技法、東大出版会、2005.
4) 見田宗介:軸の時代Ⅰ/軸の時代Ⅱ―森をめぐる思考の冒険. 軸の時代Ⅰ/軸の時代Ⅱシンポジウム報告論集、東京大学大学院人文社会系研究科、2009.

5) 森下直貴:人間が「目的存在」であることの根拠、哲学と現代19:53-69、  2003.
6) ――――:終末期における「臨床的真実」―〈思いやり〉と〈決まり〉の根源、哲学58:97-114 2007.

7) ――――:〈無形のもの〉たちのリアリティ―日本人の死生感の現在、死生学研究特集号:57-79、2009.

8) ――――:「デーミウルゴス」的主体性とその彼方―J.-P.デュピュイのナノエシックスの「哲学的基礎づけ」をめぐって、生存研究B19:95-111、2009.

9) ――――:西田・三木・戸坂の思想と〈ものの思考〉―「経験と制度」の歴史哲学への視座. 津田雅夫編:〈昭和思想〉新論―二十世紀日本思想史の試み、文理閣、2009、第二章.

10) ――――:「家族」の未来のかたち―結婚・出産・看取りをめぐる人類史的展望. 古茂田宏ほか編:21世紀への透視図―今日的変容の根源から、青木書店、2009、第三章.
11) ――――:生命と回復―〈規準〉としての健康、比較思想36:5-14 2010.

12) 湯沢雍彦、宮本みち子(編):新版 データで読む家族問題、日本放送出版協会 2008.

13) 東浩紀、 北田暁大(編):思想地図vol.2&3、日本放送出版協会、2009.

 

(2009.12.4受理、2010.2.2掲載決定)