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RESEARCH WORKS
2017.04.25

エンハンスメントの倫理 2005

書評:治療の<外部へ>越えてか、治療の<内部へ>超えてか

 

『治療を超えて―バイオテクノロジーと幸福の追求』

大統領生命倫理評議会報告書、レオン・R・カス編著、2003年

倉持 武監訳、青木書店、2005年

森下直貴

 

例えば、顕著な効果が期待でき、しかも安全で安価な毛生え薬が開発されたとする。そのとき、薄毛を気にしている人のうちのどれだけが、「ナチュラルが一番」と言って無関心でいられるだろうか。さらに周囲の誰もが利用して喜んでいたりすれば、変人扱いされまでしてそれを無視できるだろうか。同様のことは、痩身を約束する薬や、皮膚のしみやシワを取る手術でも言えよう。もっとも、これらの例では、本人たちにとっては深刻な問題かもしれないが、それでもどこか「他愛のなさ」も残っていて、冗談混じりの笑いにくるむこともできる。では、次の例はどうか。

秀でた才能を備えた子を生むためや、子の性別を選ぶためにバイオテクノロジーを利用するとか、子どもが注意深く素直になれるよう覚醒剤を服用させるという例。この場合あなたはそれを「他愛もない」と受け流せるだろうか。あるいは、スポーツ選手が栄養剤に加えて筋肉増強剤を使用して好成績を残したという場合、前者が許されるなら後者も同様だと考えるだろうか。バイオテクノロジーを用いて壮年期を現在の二倍以上に延長できるとすれば、手放しで結構なことだと思うだろうか。誰もが辛く嫌な記憶を消去したり、暗い気分を転換したりするために薬に頼るようになったとしたら、そんな社会を好ましいと感じるだろうか。

以上の例には共通点がある。病傷の「治療」ではなく、これを超えた「向上/強化/増強」(エンハンスメント)を目的にし、そのために各種のバイオテクノロジーを利用していることである。そのような目的の背後には「幸福」になりたいという欲望が働いている。とはいえ、幸福への欲望は人間なら誰もが抱いているものであり、それを実現する仕方も自己配慮的であって、他者に直接迷惑をかけるものではない。それなのに、上述の例に対してもしもあなたが首を傾げ、懸念をもち、不安に感じるとすれば、それはなぜだろうか。健康や安全を脅かすからか。個人の自由と両立しないからか。公正のルールに反するからか。不平等を促進するからか。それとも、社会全体に悪影響を与えるからなのか。

本書は、アメリカのブッシュ大統領によって2001年末に設置された生命倫理評議会の報告書(2003年)の全訳である。この評議会のメンバーには議長のレオン・カスほか、著名な科学者や倫理学者などが17人ほど名前を連ねている。そのなかには、例えば、『歴史の終わり』のフランシス・フクヤマ、『自由主義と正義の限界』のマイケル・サンデル、認知神経科学のマイケル・ガザニガ、細胞生物学のエリザベス・ブラックバーン、白血病研究のジャネット・ラウリーらがいる。また、影響力のあるコラムニスト、ウィリアム・サファイアも関与している。カスはアメリカでH・ヨナス(『責任という原理』)の後継者と目されているらしいし、その他のメンバーについても一定の思想傾向を窺えそうであるが、この点には後で触れることにして、まずは本書に即した紹介を心がけよう。

本書で焦点となっているのは、上述した「よりよい子」「優れたパーフォーマンス」「不老の身体」「幸せな魂」を実現するバイオテクノロジーの個別的な分析・評価ではない。そうではなく、それらを利用する人間の側の「欲望」であり、「幸福」に至るための個々の目標とその手段との連関の全体である。つまり、バイオテクノロジーが「人間の善き生」にとって何を意味し、何を意味するべきかという視点に立ち、そこからバイオテクノロジー時代の倫理の全体的な見取り図を描いているのである。そしてこれをふまえて、健康・安全、自由、公正・平等、社会への影響といった論点に止まることなく、これらの根本に横たわる人間観と幸福観にまで踏み込んで本質的な論点を提出している。

もちろん、そうだからと言って、技術の分析・評価の面がいい加減だということではない。その逆である。個々の技術の実現可能性については慎重であり、近未来と遠い将来との区別を含めて科学空想小説的な論じ方はしていない。また、技術の効用も承知されており、単純な善悪論を振り回すことなく、個々に論じられるべきだという姿勢を貫いている。上述した例がそれぞれ割り当てられた各章は、目標に関する批判的な検討、目標追求のための技術の概観、技術の倫理的分析から構成され、これらの考察を通じて議論の枠組みの全体が最終章で冷静かつ明確に示されている。なお、すべての論点に関してメンバー全員の意見が完全に一致しているわけではないが、全体の趣旨に関しては少なくとも全員で承認しているとの付言がある。

本書はバイオテクノロジー時代を生きる「善き人間と善き社会」を正面から考察したものであり、カスが自認するように、たしかに通常の報告書を超えた倫理的探求の書というべきであろう。この点は「治療を超えて」という題名に明瞭に表れている。さしあたりそれは従来の「治療」を超えた「向上/強化/増強」を意味する。しかし、それと同時にというか、むしろそれ以上に、「向上」そのものあるいは「治療対向上」という枠組みを貫通する「医療化すなわち治療的視点」を超えることを意味している。この広義の「治療」的視点が人間を生物学的あるいは機械論的に捉えるのに対して、「超えて」と指示することで、人間を何よりも道徳的・霊的に捉える見方を示唆しているのである。本書に表明された人間観に含まれるのは、中間的被造物としての有限な人間、自然の恵みという限界のなかでの人間らしさ・卓越性・完全性の追求、努力や向上という活動の尊さ、そして社会的責任の全うである。そこにはまた、リバタリアンへの非難や商業化への懸念とともに、アメリカ建国の理念(生存・自由・幸福の追求)への篤い信仰も含まれる。

人間観・幸福観こそがバイオテクノロジーをめぐる根本問題であると見定めつつ、その特定の立場をあえて鮮明に打ち出した本書の目論見と主張を、私たちはどのように受け取り、いかに評価すべきであろうか。

例えば、公共の議論の場を提供すると宣言しつつ、特定の見解を押し付けるような態度は、そもそも自己矛盾だとして一蹴しようか。しかし、著者たちは自説を率直にさらけ出してはいるが、押し付けているわけではない。しかも、その種の価値観はどんなに隠そうとしても自ずと滲み出るものだから、あえて括弧にくくるとか、踏み込まないという態度の方がむしろ自己欺瞞的とも言える。あるいは、表明された人間観が特殊すぎたり偏っていたりして、まともな議論の相手ではないと退けようか。たしかにその核心にあるのが、有限な人間の分を弁えながら卓越を求める意志的な努力という、ギリシア・キリスト教的な西洋の人間観であることは否定できない。しかし、それがいかに特殊であろうと、そこには通文化的にも共鳴し合う側面が多分に含まれている。自然の恵みや有限な人間という把握の水準でなら、現代の哲学者の多くが賛同するのではなかろうか。あるいは、これはアメリカでも日本でも見られた批評であるが、その評議会の人選とイデオロギー的背景に注目し、新保守主義(ネオコン)、共同体主義、宗教的原理主義などの右派ラベルを貼ったうえで、切り捨てるなり、賛辞を贈ったり、困惑したりしようか。しかし、それはあまりに抽象的で貧しい対応というものだろう。本書では具体的な問題に即して見解が表明されており、また共感できる通文化的な要素もある。ここに表明されているのは、むしろアメリカの良識派の見解と言えなくもない。それが言い過ぎであれば、少なくとも良識の一面はある。

私見では、本書の拠って立つ人間観・幸福観(以下、幸福観で代表する)に難があるとすれば、それはあまりに多くを語りすぎている点に求められる。多くの要素を可能なかぎり包摂する幸福観を<最大限>幸福観と名付けるなら、そこには本質的に、何らかの卓越性・完全性といった理想とこれへの努力が含まれる。そして、理想とこれへの努力は広い意味での<向上への欲望>の具体化である。問題なのはこの<向上への欲望>である。たとえ「有限性」の枠をはめられたにせよ、それは次第に膨らみ続けることで必ずや枠をはみ出し、一人歩きしてしまう。そしてその勢いで狭義の「治療」すらも<向上>の方向に歪める。そうした結果、「有限性」は外から課された障害物でしかなくなる。以上の避けがたい展開は、本書のような最大限幸福観にはとくにあてはまるように思われる。ここでは、「治療」から「向上」をへて「治療を超えて」までの全体を、<向上への欲望>が太く差し貫いている。

有限性という視点は欲望にとって不可欠である。しかし、それが欲望に対して外部から押し付けられるかぎり、お説教にしかならない。とすれば、むしろ欲望の内部へと視線を転換し、その奥底に欲望自身を相対化する原点(底点)を求めるべきではないか。この点で本書は方向を見誤っている。「向上」と広義の「治療」に対して最大限の有限な幸福観を押し出すことに急なあまり、狭義の「治療」や健康・安全の意味を生命の次元にまで掘り下げることなく、安易に通り越しているからである。バイオテクノロジー時代に必要とされるのは、「治療の<外部へ>超えて」ではなく、「治療の<内部へ>超えて」であり、これを通じて成り立つ<最小限>幸福観ではないか。これこそが公共の論議の土台になり、「向上」や「医療化=治療」に対して一定の距離をとることを可能にすると考えたいのだが、ここから先はもはや書評の枠を超える。

本書はバイオテクノロジー時代を生きざるをえない私たち自身を正面から論じたものだ。この試み自体は大いに評価してよい。問題はそのうえで、拒絶・回避・迂回・無視することなく、本書に表明された見解に対してどのような対案を提示するかである。私見はそのまずい一例(一つの切り口)、しかもその仄めかしにすぎない。今後の活発な議論を期待しよう。最後になったが、訳は比較的読み易かった。翻訳を思い立った監訳者の慧眼と短期間の仕事ぶりに敬意を払うとともに、訳出に協力した名古屋大学の若い研究者たちにも感謝しよう。なお、病める社会を見据えて独特の切り口から批判を展開した「あとがき」は、独立した読み物としても興味深い。