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2017.04.25

臓器移植 2001

図書新聞/書評/01.06.07

出口顕『臓器は「商品」かー移植される心』(講談社現代新書,2001)

「脳死」からの臓器移植は私たちの日本社会でもようやく一昨年から実施されるようになった。実施例はいまだ十数例にしかならない。が,すでに定着した医療であるかのごとき雰囲気が医療現場では広がっている。地方の自治体や民間の病院のなかには,評判を上げるために臓器提供施設に名を連ねようと狙うところも続出する有様である。同じ雰囲気はマスコミの報道にも感知される。記憶に新しいことだが,最初の数例では天地がひっくり返えったような騒ぎになった。ところが,最近の報道ぶりはどうであろうか。落ち着いてきたというより,急速に熱が冷めたような感じである。どこを眺めても,「もはや臓器移植について云々する時期は終わった。次は夢のような再生医療だ」と言わんばかりの風潮である。

しかし,臓器移植をめぐる議論はもはや済んだことなのだろうか。むしろ,日本社会ではこれまで一度も本格的で徹底した議論は行われてこなかったのではないか(事実,「脳死」優先の論議の陰でまともな議論はなかった)。しかも,臓器移植の根本にある問題点は,そのまま再生医療(とこれに結びつく体外受精・クローン技術,遺伝子情報・操作)でも問われているのではなかろうか。いうまでもなく,臓器移植という技術の特徴は,他人の身体に依存するところにある。そこから避け難く,免疫抑制,不足,コストなどの問題が生じる。これらはたしかに(本人の細胞を利用する)再生医療では問題にならない。しかし,根本の身体観は臓器移植でも再生医療でも同じである。すなわち,人体部品という身体観である。臓器移植の場合,一見すると善意の「贈り物」に映るかもしれないが,美名の裏側の現実からいえば,移植医にとっては取り替えられる部品にすぎない。レシピエントにとっては高額な商品なのである。再生医療でも同じことである。いや,ますます部品としての身体観は純化されるというべきか。この身体観には三つの根本問題が含まれている。すなわち,アイデンティティ,商品,安楽さ(究極には不老不死)への欲望の三つである。

さて,本書は日本社会の風潮に抗して,文化人類学の立場から,根本問題のうちの第1点と第2点に答えたものである。日本ではほとんど研究されていない移植患者の心理に注目し,イギリス滞在中に接した関係資料やそれをめぐる各国の研究者との討論をふまえながら,身体が商品になりきれない点を掘り下げることで,同一性にこだわらないアイデンティティのかたちを提示する。この試みそのものに対して拍手を送りたいと思う。  一般に,異種移植や他人の精子・卵子の注入と聞くと,「豚人間」や「どこの馬の骨」といった観念が連想され,多くの人は嫌悪感や不安を覚えるものである。その理由は,「私は人間である」「私は〜家の一員である」といったアイデンティティが揺さぶられるからである。事情はヒトの臓器移植の場合でも同じである。移植患者やドナー家族にとって,ドナーの臓器(とくに心臓)はたんなる部品ではない。ドナーの心や思いが込められた「人格」ないしは「魂」として体験される。

この体験を著者は「記号としての身体」感覚とみなす。「記号」とは少し難しいが,代替・交換・譲渡不可能でありながらも,あえて譲渡されることもある大切なものを指す。これに対して,代替・交換・譲渡可能なものが「商品」である。常識では,「記号」と「商品」とは全く相容れないし,人間の身体は命と同様,あくまで「商品」になりえない。さらに,道徳的にはそう扱うべきではない(カントの定言命法)。しかし,著者の見解はそうではない。物でも身体でも区別なく,「商品」にも「記号」にもなれる。その際,切り替えるスイッチとなるのが,親密な「関係性の賦与と剥奪」なのである。評者自身のことを言えば,「身体は誰のものか」という問いをめぐっては商品化への嫌悪感が先立ち,それ以上踏み込んで考えてこなかった。その意味で,代替不可能な(親密な)関係性・歴史性の賦与と剥奪により,転換するという視点はとても刺激的である。

もっとも,いくつか小さな疑問がないわけではない。一つは,商品か記号かという二者択一以外の可能性はないのだろうか。例えば,授かりもの・借り物といった感覚であるが,これはヨコの関係性を越えている。個か関係性かという対立はいささか単純な気がする。くわえて,二つには,著者の文化人類学者らしい理論好きにも少々違和感がある。第五章が本書の頂上にあたるが,そこでは,「記号としての身体」という視点と,移植患者の体験に見いだされる「対偶の論理」(私の中にあなたがいて,あなたの中に私がいるという関係性)とを武器に,同一性にかたくなに閉じこもる「近代的自我」と「国民国家」を揺さぶることが目論まれている。旗印はレヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」。しかし,環境問題に関わる「リサイクル」も含めて,臓器移植をその方向に位置づけるとなると,正直なところ,病む人々の心の現場からはるかに遠のいてしまった感じを否めない。  最後に,念を押せば,移植医療に対する著者の姿勢は是非を性急に断ずるものではない。あくまで硬直したアイデンティティを組み換える可能性のほうに力点が置かれている。この姿勢には共感が持てる。ただし,その可能性に関して,同一性か関係性かという枠組みへの固執から自由になり,第3の根本問題である「欲望」に結びつけるならば,病む人の心に届くような理論に転換するかもしれない。本書がそれだけ刺激的で,可能性に満ちているということだ。

なお,第一章では,子供に人気のアニメ「アンパンマン」を通して,アイデンティティ問題が取り出されている。導入としては取り付き易い。また,最後の第六章では,脳死論議の論調形成に影響を与えた梅原猛や波平恵美子の見解をめぐって,安易な日本文化論への寄りかかりとして批判されている。やや舌足らずの面もあるが,説得力はある。

森下直貴(もりしたなおき,浜松医科大学・倫理学)