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研究業績

RESEARCH WORKS
2017.04.25

V.v.ヴァイツゼッカーをめぐる市野川・石井論争 2002

「個と全体」の美しくも危うい関係―市野川・石井論争に寄せて

 

森下 直貴

(浜松医科大学・倫理学)

 

 

はじめに―論場の存続を願って

 

私どもが先般上梓した『「生きるに値しない命」とは誰のことかーナチス安楽死思想の原典を読む』(森下直貴+佐野誠編著、窓社、2001)に関連し、本紙上で3月から5月にかけて、社会学者の市野川容孝氏と哲学者の石井誠士氏とのあいだで注目すべき論争が行われた。論争の焦点はV.v.ヴァイツゼッカーの思想の評価にあり、初歩的な読解の仕方を含めてかなり激しい言葉の応酬があった(図書新聞:2573号、2575号、2577号、2580号)。この論争のきっかけを作った者として、また、常々お二人の仕事に教えられることの多い者として、「出口なしのニヒリズム状況における倫理」を「根本的に考える場」がこのまま閉じてしまっては、まことに残念としか言いようがない。そこで、ひとたび開きかけた論場の存続を願う立場から、今回の論争へのコメントを率直に述べさせていただくことにする。なお、私自身はといえば、ヴァイツゼッカーの『病いと人』を読み、その「医学的人間学」から多くを学ばせてもらったが、なにぶん不勉強でそのテキスト以外のことはあまり知らない。しかし、熱き論争には時として、門外漢(第三者)の意見だからこそ必要とされる場合もあろうかと思う。

 

1.解釈のズレの原因

 

論争に接した当初、焦点がナチスの政策とヴァイツゼッカーとの関係に絞られ、しかも(大多数の読者には判定し難い)彼の思想の読みと解釈に限定されたことに、私は大いに不満を感じていた。というのも、私どもが拙著を出版した意図は、いまを生きる私たち自身の問題として安楽死を受けとめ、深く考え抜くための機会と視点を提供することにあり、安楽死をナチズムと結びつけて「絶対悪」という前提で論じただけでは、問題そのものが相変わらず隠蔽されたままになると考えたからである。

しかし、お二人の文章を幾度となく読み返すなかで、ヴァイツゼッカーの思想をいかに評価するのかということが、ナチズムを超えて「安楽死」にどう向き合い、「超越性」なき現在にいかに立ち向かうかという課題に、そのまま応えることに通じるのではないかと考えるに到った。この意味で、今回の論争が提起した事柄は、私たちにとって重要な意義をもつものと、今では確信している。ヴァイツゼッカーの著作を日本で最も深く読まれているお一人の石井氏には、それだからこそできるだけ早く彼の全体像をまとめて公表していただきたいと願う。

さて、その石井氏によれば、ヴァイツゼッカーの思想の根底には「病気」に対する「宗教的生命経験」があり、この経験から「個と全体」をめぐる「犠牲」という思想や「Volk」という理念が展開している。そうであれば、その経験に対する読み手の側の関心や、知的背景や、理解の質と水準によって、彼の思想の解釈にかなりの幅が生じるであろうことは、ある程度まで予想される事態ではある。しかし、それにしても、である。どうしてお二人の解釈がこうも食い違うのか。<真の解釈>が一つだけあるとはもちろん私も考えない。だが、初歩的な読みも含めたこの食い違いには、正直言って困惑した。ズレの原因はいったいどこにあるのか。

考えあぐねた末にたどり着いた結論はこうである。どうやら「個と全体」に関しては、複数の異なるレベルがあるにもかかわらず、石井氏も市野川氏もそれらを明示的に区別することなく論じておられるように見える。おそらくこの<曖昧さ>のゆえに両者の解釈にズレが生じたのであろうが、曖昧さの原因は解釈する側だけに求められるのではない。むしろヴァイツゼッカーの思想そのものにも内在しているのではあるまいか。「全体主義者」という市野川氏による断定は、思想の理解にとってたしかに相応しいものではない。とはいえ、「個と全体」をめぐってその種の括り方を促すような「何か」がヴァイツゼッカー自身の内にもありはしないだろうか。

 

2.「個と全体」の三つのレベル

 

その「何か」を明らかにするに先立ち、論争から読みとれるかぎりの石井氏の解釈をつなぎ合わせて、ヴァイツゼッカーの「個と全体」観を私なりに描いておこう。そのさい、以下の素描には幾重もの限定(ヴァイツゼッカーの一面=石井=記事=森下)が付いていることに留意いただきたい。おそらく誤解や無理解は避け難いだろう。そのときにはいつでも訂正する用意がある。なお、ヴァイツゼッカーの思想は1933年の論文から『病いと人』にいたるまで一貫しているという前提で話を進める。

ヴァイツゼッカーの生命観の一端は次の印象深い一文に見られる。「生命は、常に単なる『自己維持』ではなく、『自己無化』を通して対話的関係の底からおのずから生成してくる」。この難解な文意を解明する鍵は「病気」にある。「病気が人間の生命の本質的なものであり、生きるということは病むということである」。この積極的な病気観は神学的にこう照らし出される。「病気とは『被造物のため息』であり、一つひとつの生命の真理を説き明かす鍵であり、そこで人が生きる使命を見出す転機にほかならない」。ここに語られた「宗教的生命経験」が彼の思想の根底にある。続いて、超越的な意義をもつ病気という観点から、「人間学的医学」の課題が立てられる。それは「医者と患者との人格的な交わりにより、こころとからだが一体となった人間の病いの歴史を究明することにある」。ここに見られる「人格的な交わり」を、ヴァイツゼッカーは医者と患者の「相互性と連帯性」と呼んでいる(なお、『病いと人』では「死の連帯性」と「生の相互性」と言われる)。それでは「犠牲」とは何か。「一人ひとりの人間がその唯一的・一回的な『病人史』を病み抜き、その使命を全うすることに『本来の犠牲』がある」。それは常に「自己犠牲」を意味する。したがって、「個と全体」に関してこう言われる。「一人ひとりの人間は、そのように各々の生と死を生き抜くことによって、全体に貢献し、全体はこれを根本から包み支えるのである」。別の表現では、「個が自己犠牲によって自己を超えて全体に生き、全体がその自己犠牲によって全体を超えて個を包み支えるかたちで成り立つ、個と全体とが一体不二である関係性こそが、真の生命であり、真の世界である」。この真なる関係性をヴァイツゼッカーは「ヴァイマール共和制における社会保険制度の矛盾と取り組むうちに、具体的にVolkに見出した」。「労働による連帯性に指導性を見るVolk」は、血と土とに基づくナチスの運命共同体とは異質なものあって、デモクラシー政治に立脚する。

以上の素描のうちに「個と全体」に関して三つの異なるレベルを認めることができる。第一のレベルは<生命個体>における個と全体の関係である。個とはここでは生体を構成する細胞や臓器などの部分を指す。「壊疽」という病気も全体の部分である。第二は、無数の生命個体と数十億年に渡って受け継がれてきた生命の営みという全体との関係、言うなれば<生命そのもの>のレベルである。親と子をつなぐ生殖や個体の死はここに位置づく。第三のレベルは、国家が制度のかたちで医療に避け難く関与してくる歴史環境のなかで、医療政策として問われる個人と国家との<社会>関係である。このレベルで「Volk 」という理念が提出されている。

「個と全体」について語るとき、<生命個体>と<生命そのもの>と<社会>のレベルが区別されなければ、さまざまな誤解や曲解が生じることだろう。ヴァイツゼッカーはナチスの「犠牲」観では、第一のレベルと第三のレベルが混同されていると批判している(と読むべきだろう)。だから、もちろん彼にも区別の自覚がある。しかし、その種の<混同>ではないにせよ、何らかの<浸透>という事態は見られないだろうか。結論を先取りして言えば、問題とされるべきは<生命そのもの>のレベルでの「全体」の捉え方であり、この上に成り立つ「個と全体」の美的な観念である。これが他の二つの「個と全体」観にも浸透して、そこにある種の<偏り>や<甘さ>をもたらしている。こう結論づけることができるならば、そのような思考圏にこそ<曖昧さ>の原因と「全体主義者」という印象の元があると言えるかもしれない。以下、それぞれのレベルの「個と全体」観の問題点を順に考察しながら、この結論へと到った思考の歩みを改めてたどり直してみよう。

 

3.「個と全体」観の問題点

 

3.1 生命個体における個と全体

ヴァイツゼッカーはもともと医学の専門タームとして「維持」「無化/抹消」「犠牲」を用いている。細胞のネットワークを構成する個々の細胞は、発生や代謝や修復や老化といったそれぞれのプロセスのなかで「無化」され、生体全体のために「犠牲」にされる。病むということは生体の部分の「無化」であり、ネットワーク全体のための「犠牲」である。最終的に迎える死とは、生命個体が全体としての自己を「無化」することである。では、個体の死への歩みがそのように必然だとすれば、医療にできることは何であろうか。死への歩みを阻止して生命をできるかぎり「維持」することだろうか。近代医学の主流はそう考える。それとも、その歩みをできる限り「安らかに」歩み遂げさせてあげることか。この「安楽死」の援助にヴァイツゼッカーは医療の本質を見ている。(少なくとも私が理解した限り)彼の用いる意味での「安楽死」は、医療の限界に対する深い認識の表明ではあっても、けっしていわゆる「慈悲殺」を指すものではない。そこにはむしろ今日の私たちにとってきわめて重要な示唆が含まれているように思う。

このレベルでの「個と全体」という表現は見慣れ、聞き慣れたものであり、取りたてて不自然な感じはない。だが、それでも私は「無化」の過度の強調への違和感にはこだわりたい。私から見れば、環境のなかで傷みつつ痛みながら死へと老いていくなかで、懸命に辛うじて束の間だけ自己を維持しているのが生命である。死へのプロセスのなかで病みつつ、その病いのなかで一時的でも安らぎを得ようとするのが生命ではないか。死に至らざるをえないその自己維持のプロセスを、ヴァイツゼッカーは「個体の死」という全体(終点)から「無化」として、いわば陰画的に眺めていないだろうか。彼の視線は辛うじて自己維持を図ろうとする生命の努力に対して優しさに欠けると言えば、たしかに感情的にすぎるだろう。しかし、フロイトの(私から見れば転倒した)タナトス論との類似性を思わずにいられないのも事実なのである。

石井氏は私を批判して、安楽死の問題は「訳者の森下氏が評注に書いておられるような『ウェルネス』の考え方にはとても納まりきらない、むしろ人間存在そのものを問う深さをもっている」(2575号)と書かれている。この批判は拙著での説明不足に起因する誤解ではないかと思う。死へのプロセスのなかでそのつど修復され、辛うじて維持される元の状態を私は<ウェルネス>と表現し、維持されるなかで得られる身体感覚としての<安らぎ>(主観的・消極的な快の感覚)を、ものごとを考え判断するさいの原点に置いている。だから、「単なる自己維持」とは<死に向かうなかでの自己維持=ウェルネス>の一面を切り取ったものにすぎない。逆に、その一面性は「無化」にも当てはまらないか。そうだとすれば、ヴァイツゼッカーはなぜそうまでして「無化」を強調するのだろうか。そこには医学の視線を越えたまなざしが浸透していないだろうか。

 

3.2 生命そのものにおける個と全体

ここでの「個と全体」とは無数の生命個体と集合的な生命の営みとの関係である。生物学の現在の知見によれば、生命はRNAワールドの出現をもって地球上に登場し、長い時間をかけて多様な方向へと進化した。その過程で有性生殖という生存戦略が編み出されたが、それと同時に「個体の死」という運命から逃れられなくなった。親は子を産み、育て、最後には力尽きて死ぬ。親の犠牲を通じて生命が伝えられる。生命を「遺伝子プール」と置き換えるなら、事柄はいっそう即物的に明白となろう。親の世代の遺伝子は子の世代に代々伝えられる。個体から個体への継承を通して本体である遺伝子プール全体がますます多様化する。それゆえ、<生命そのもの>における「個と全体」という表現はごく自然な感じを与える。このどこに問題があると言うのか。

私が違和感を覚えるのは「全体」としての生命という表現である。個体の身体感覚に密着するかぎり、生命(命)はあくまで個別的である。私の命、あなたの命、誰かの命である。命のやりとりも、そのつながりもあくまで個別的でしかない。別の個々の命から私の命へ、私の命からさらに別の個々の命へと受け継がれる。それゆえ、身体感覚に即すなら、生命の「全体」あるいは「全体」としての生命という表現には実感が伴わない。これに対してヴァイツゼッカーは実感をもって「全体」を経験している。それが彼の「宗教的生命経験」である。この経験は超越者との出会いによって可能になったはずであろうが、その超越者がキュルケゴール流の神なのか、それとも生命そのものであるかは分からない。ともかく、「全体」としての生命が神学的・宗教的に経験されることによって、生命個体における(医学的な文脈での)「無化」は、宗教的な文脈での「無化」「使命」「犠牲」へと意味変容しているのである。

ここで私が問題にしているのは、超越性と宗教的な生命観そのことではない。そうではなく、超越性を背景とする生命「全体」があたかも<主体>であるかのごとく動き出し、個の自己犠牲を受けた「全体がその自己犠牲を通して全体を超えて個を包み支える」と表象されていること、および、ここに成立する個と全体の「一体不二」の関係性が「真の世界」「真の生命」であると言明されていることである。このような表象と言明はとても美しい。しかし厳しい言い方になるが、だからこそ危ういのである。論理の世界を別にすれば、現実の世界に「真の」とか「本当の」ということはありえない。危うさとは現実が見えなくなることである。<主体>としての「全体」および<真理>としての「個と全体」という美的な観念をもつとき、一方では既述のように、<生命個体>において「無化」が過度に強調され、他方では後述するように、<社会>において甘く調和的な国家観が生まれるのではなかろうか。

なお、誤解を防ぐために一言すれば、私自身も<ウェルネス>とその<安らぎ>の根底には<命のつながり合い>という超越性がなくてならないと思っている。しかし、傷みながら痛みに耐えつつ辛うじて得ている束の間の<安らぎ>という身体感覚を原点にして、そこからしか<つながり合う命たちのつながり合い>については語りえないと考える。

 

3.3 社会のなかの個と全体

これは近代社会のなかでの個人と国家の関係である。ヴァイツゼッカーは医師にしては珍しく社会に対して鋭い関心をもっていた。そして、医学による人体の部品化(「物象化」)だけでなく、国家による国民の管理と資源化や、市場経済における人体の商品化の問題点、さらにはそれらの傾向を補完する心理主義や人間主義(これは、昨今の臨床心理学や精神療法の流行や、癒しブーム、心の豊かさの強調に通じる)の問題点をも明確に認識していた。この点は『病いと人』を読めば明らかである。それだからこそ彼は「社会的疾患」を語り、「維持」のための医療政策を批判したのであるが、その延長上でナチスに対抗するために「Volk」という理念や「社会的な国民政治」を語ったのであろうと想像される。

現代社会の運命としての国家をどう考え、医療政策をいかに方向づけるかはたしかに困難な問題である。しかし、現実の世界に「真の関係性」というあまりに美しすぎる観念をそのまま持ち込み、個人と国家との関係が調和的にうまくいくと信じているとすれば、それはあまりにナイーブであり、甘いと言われても仕方ないだろう。歴史の教訓によれば、「本当の」あるいは「真の」と言って共同性に憧れる思考こそが、様々な形態の全体主義、例えばナチズムやスターリズムや「八紘一宇」に惹かれ、これを歓呼して迎えるメンタリティを支えているのである。もっとも、ここで私はヴァイツゼッカーの文脈を離れて一般論に脱線してしまっており、以上の一般的な批評がヴァイツゼッカーの思想にも当てはまるかどうかを判断する材料を私はもっていない。それよりむしろ、彼の思想を契機として私たち(私)自身の内にも何程か潜んでいる共同性への幻想にこそもっと目を向けたいと思う。

さらに別の意味の甘さもある。国家という存在あるいは国家という枠組みの自明視のことである。今日の日本社会でこの種の甘さを免れている人がいるとしてもきわめて稀だろう。例えば、臨床における安楽死に対していきなり一般刑法が適用されているが、この点を危ぶむ識者はほとんどいない。脳死と臓器移植の問題でも国家による法制化が当然のごとく求められたし、生殖医療に関して生命倫理統一法を要望する声は大きい。とくにバイオエシックスで発言する社会学者のなかに国家による規制を求める傾向が強い。同様に、健康に関しても国家機関の手にその基準が握られ、国民一人ひとりが自分の健康状態を専門家から教えてもらい、専門家はヘルスケア政策を参照して判断しているという事態の奇妙さに、専門家のみならず多くの人々も気づいていないのである。

もちろん、国家は社会にとって必要であり、その果たす役割が重要となる場面はある。しかし初めから国家ありきで、すべてを国家に委ねればそれでものごとが解決するかのような発想は払拭すべきであろう。さもなければ、ただでさえ影の薄い<プロフェッション倫理>がますます脆弱なものになってしまうからである。国家の管理から距離をとるためには、私たちの内部に潜む共同性への幻想だけでなく、国家という存在の自明視とそれへの依存とも手を切る必要がある。この意味では徹底した「リバタリアニズム」の洗礼を受けたほうがよいくらいだとも思ってしまうが、もとより、市場における商品化と欲望の一元化に対しては別の視点が必要になる。私が<ウェルネス>とその身体感覚にこだわる理由も、じつは以上の点と関連している。

 

おわりに―倫理と超越性

 

要するに、超越性の特有の経験を背景に、<主体>としての生命「全体」に基づく<真理>としての「個と全体」という美的な観念から、一方では生命個体観の陰画的な<偏り>が、他方では国家観の<甘さ>とが帰結したというのが、私の結論である。したがって、たとえ誤解だとしても、そこからナチズムとの近縁性や「全体主義者」という印象が生まれてくる潜在可能性を指摘した。しかしもとより、この結論や指摘の説得力については議論の余地があろう。それどころか、とんでもない見当違いを犯しているかもしれない。というのも、論争へのコメントを機縁にして私が最終的に考えたかったのは、ニヒリズム(通常語られる意味での「超越性なき生」)状況のなかで倫理をいかに語ることができるかという課題であり、これに対する私の視角から問題点が強引に引き出され、論旨の運びが歪められている可能性を否定できないからである。これについては厳しい批判をいただくことにしよう。

繰り返せば、私たちのメインテーマは<超越性なき現在における倫理の可能性>である。この一部に安楽死の問題がある。私に言わせれば、「超越性」とは欲望に対する距離を不断に創出する働きである。この働きを支える根拠はどこに見出されるのか。市野川氏が持ちだされるレヴィナス流の「他者」であろうか。それとも、石井氏が強調されて止まない医師と患者との「相互性と連帯性」つまり「同道性」であろうか。あるいは、資本主義的な欲望回路を突き破るドゥルーズ流の唯物論だろうか。

自分とは異質な「他者」という存在を承認するところでしか倫理は成り立たない。しかし他者とは具体的に何を意味するのか。私の考えでは、既述のような傷みと痛みのなかで辛うじて一時的に維持される<ウェルネス>と<安らぎ>の個別性、これが他者の<原像>である。言い換えれば、私にとって「他者」とは、ギリギリのところで、個別的な<ウェルネス>の<主観的かつ消極的な快の感覚>という極にほかならない。この<消極的な身体感覚の極としての他者>を<原点>に置くことで、患者と医療者のあいだの相互理解という安易な幻想が棄てられ、積極的な快楽と自己生産的な欲望を相対化でき、しかも<命のつながり合い>への通路が開かれるのではないか、と考えている。

そこでこう問いかけたくなる。市野川氏は「他者」を具体的にどう把握されているのか。石井氏の「同道性」には理解を拒絶する厳しさがどの程度あるのか。ドゥルーズ流の欲望には<ウェルネス>と<安らぎ>の場所があるのだろうか。もとより倫理に唯一の正しい回答があるわけではない。同じ目標を目指して相互にぶつかり合うところ、つまり論場での反発や共鳴のうちこそ、求められるべき多様さがある。

 

付記

本稿は『図書新聞』2588-2590、2002に掲載された。また、末尾にほのめかされた私の考えは、その翌年に『健康への欲望と<安らぎ>―ウェルビーイングの哲学』(青木書店、2003)にまとめられた。なお、論争の当事者のお一人、石井先生は2006年の春に他界された。『医学哲学 医学倫理』24号(2006)に私の追悼文が掲載されている。