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RESEARCH WORKS
2017.04.25

死の所有 2011

書評『死の所有』2011.3.6

森下直貴
本書は哲学者一ノ瀬正樹の十年に渡る思索の軌跡である。思索の背後には母の死そして愛犬の死という個人的な動機がある。その事を彼は隠そうとするどころか、むしろそのさいに流した「涙」に引き寄せられ、「涙の哲学」という構想をたてる。「涙」の本質は「喪失」であり、「喪失」はとりわけ「死という喪失」に集約される。こうしてここに「死」をめぐる現象を全方位で論じ始めた本書が生まれる。

本書の眼目は「彼岸視点」にある。死者に対して語りかけ、声・響きとして人格をとらえ、死者と同じ次元に立つことである。一ノ瀬は「アニミズム」と間違われることを嫌い、あくまで哲学的明晰さを保つことにこだわる。しかし、誤解をおそれずにいえば、「彼岸視点」とこれへの通路である「死の所有」という観念は、シャーマニズムの特徴である。彼は本書をもってシャーマンたらんとしている。これはけっして悪い意味ではない。私も含めてそもそも哲学者、とくに形而上学者はシャーマンの末裔だからである。それはともかく、一ノ瀬によれば、その「彼岸視点」が「現世視点」に差し込まれるとき、「死の所有」という観念が創出される。これは彼の思索の核心であり、論理展開の要に位置しているが、問題がないわけではない。

本書の急所である「死の所有」という観念は、とりわけ死刑制度をめぐる論議のなかで露になる。一ノ瀬の立脚点はロックの哲学である。ロックの「人格」概念こそは近代的法制度の「所有」や「刑罰」の前提にある。その原義に立ち戻るならば、人格の所有はできるが生命・身体は所有できない。したがって、人格=自己意識をもたない死者に対する刑罰はありえないし、また、死はそもそも所有されえない。つまり、死というかたちの刑罰は明白な概念矛盾ということになる。ここまでの一ノ瀬の論法はロックの前提に立つかぎり、じつに鋭いものである。そこから彼は一歩進んで「死刑不可能論」を提唱する。

なお、この提唱には、たんなる理論的考察で終らせてはならないとする倫理的一貫性が働いている。それはまた、パーソン=声主という捉え方に立って動物倫理にパーソン度と苦痛度といった程度を導入する姿勢にも、さらに肉食しない「非発展」のプライドにも、同様に働いている。この種の倫理的潔癖性に対して私は肯定も否定もしない。

話を先に進める。「死刑」はロックの原義に照らすと概念矛盾であった。しかし、それにもかかわらず、とりわけ日本社会の人々は「死刑」支持している。なぜか。ここで一ノ瀬は「死をもって償う」という言説に着目する。死というかたちでの賠償・償い、つまり「死が差し出される」という感覚、この背後に潜んでいるものは何か。「死を所有している」という観念である。だから「死」をもって償うということができるわけだ。いや、死刑だけではない。「死が差し出された」という実感は、同様に、身近な人が死んだ場合でも立ち現われる。死にゆく人・死者に心引かれ、死者と対話することは、死者と同じ次元に立つことである。これは古来、人類に普遍的な現象である。そしてそこには何ほどか「罪と罰」の構造が隠れている。

一ノ瀬によれば、「死の所有」という観念は「虚想」だが不合理ではない。古来の世界理解(シャーマニズム)を根底としつつ、破格の観念として「捏造」されたものである。しかし、少なくとも私には、一ノ瀬の捉え方はどこか無理しているように見える。「死んでお詫びをする」とか「死をもって償う」というのは、むしろ原初的な「正義」感覚、すなわち「お返し」または「釣り合い」の論理であり、したがって「贈与」の論理でもあるのだが、その種の正義感覚の現われではなかろうか。そう考えるならば、そこに恩返しや済まなさや復讐の感覚が伴ってもおかしくはない。そしてこれらの感覚は生者と死者とを包んだ一続きの世界で生じてくる。

一ノ瀬も強調するように、ロックの人格概念は近代社会の制度を支える重要な礎石である。その「人格」は個人的な心理状態ではなく、制度的・規範的な概念である。なぜなら、人格の同一性の基準である「意識」は、最初から他者を想定し、所有権と結びついているからだ。ところが、死刑制度をめぐる論議では、「人格」がそのように理解されることなく、概念矛盾にも平気であった。それと同様の事態は生命倫理においても生じている。そこでもまた「自律的な個人として自己決定できる存在」という表面的な人格理解が問い直されることなく、「人格」の問い直しや変容が語られている。

ロックに立ち還る一ノ瀬の論法はたしかにきわめて鋭い。それによって、近代的な「人格」や「基本的人権」タームを無批判に振り回し、それに依拠している法律専門家や生命倫理学者の理解の水準が、容赦なく暴き出される。そもそも「人格」は「死の所有」を介して「彼岸視点」につながる。生命倫理における主体性の揺れとか変化は「現世視点」だけでは捉えられえない。「彼岸視点」がそこに差し込まれ、二つの視点が交錯しているところに、生命倫理の「新しさ」の真相がある。私からみれば、一ノ瀬は「西洋哲学」者の役割を十分に果たしている。

ただし、人格概念の制度的本性をもって、伝統的な人格概念の継承あるいは復元とみなしている点には疑問がある。不在の人格、拡散した人格、死んだ人格という捉え方は、ロック的な近代的伝統にとどまらず、伝統全般にあてはまることではないか。法律の専門家や生命倫理学者はもちろん、普通の人々の意識には近代的人格だけでなく、それ以前の伝統的「人格」が重層的に息づいている。そしてその点は一ノ瀬でも同じである。

彼はロック哲学(西洋哲学)にこだわっているが、彼の意識の背後には日本思想の伝統が脈々と息づいている。死者との語らい、死者への語りかけとは、柳田國男の系譜であり、そこから宣長、益軒、不干斎ハビアンへと遡る。他方、大拙、白隠、道元の系譜があり、双方が最終的には空海(シャーマニズム=真言)にまで行き着く。それはさらに井筒俊彦が切り拓いてみせたような東洋哲学全体へと広がっている。

「涙の哲学」はシャーマンの哲学=形而上学の今日的意匠である。一ノ瀬は「西洋哲学」の臨界に立っている。同じ道を進む者として私は、一ノ瀬の思索の今後の行く末を大いに見守っていきたい。最後に、個人的なことになるが、つい最近、学生時代からの旧い友人であり、同時代をともに生きてきた仲間の死を経験した。その衝撃は量り知れないものがある。「死をきっかけにして時間は過去に向かって動き出す」。このフレーズとともに本書が私の心の琴線に触れたことを告白する。