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研究業績

RESEARCH WORKS
2017.04.28

生命と科学技術の倫理学 2016.1 はじめに

 

はじめに/本書の位置づけ

 

森下直貴

 

 

今日、先端科学技術のニュースに接しないような日はほとんどない。それは例えば、タンパク質の発現や代謝を解析するバイオ技術であったり、脳の内部をイメージングする技術や、身体の組織や器官の再生・サイボーグ技術、各種のロボット技術、ナノテクノロジーであったりする。これらの科学技術は現在、コンピュータ技術を通じて相互に連結される中でデジタル化されている。「デジタル化」とは、例えば文字と画像が情報として互換されるように、あらゆる物事が二値でもって一元的に並列化され、転換される事態を指している。これについては後述するとことにしよう。ともかくその結果として、IC タグを装着した人工物や自然物がコンピュータに接続され、それらがビッグデータとして管理される(IoTといわれる)事態が広がり始めている。いや、もの同士の間だけではない。このような相互接続の事態はいまや、人間の心と身体の間から、人間・動物と機械・ロボットの間にまで及んでいる。そしてその延長線上に、そう遠くない将来、ものと人間と動物と機械やロボットがデジタル回線でつながる世界が到来することだろう。

本書は、近未来のいわばデジタル世界を先取りし、生命(バイオ)技術を含めて人間に関連する先端科学技術のもたらす効果もしくは負荷に対して、私たちの社会がいかに対応したらよいかを探究する倫理学の本である。

ここで「科学技術」という言葉について説明しておこう。実用の次元において設計したものを実現するのが「技術」であり、反省の次元において新たな知識を獲得するのが「サイエンス(科学)」の営みである。両者はもとより異なる営みである。そのためか、両者が相互に滲透し合うような複雑な事態に対しては、多様な捉え方が生じることになる。それは例えば、「科学と技術」や、「科学・技術」、「科学−技術」、「科学技術」、「技術科学」、「テクノサイエンス」といった具合である。本書では「産業・政治・科学・教育等の多様な領域(システム)と連結して組織化されたテクノロジー」のシステムという意味で「科学技術」を用いる。なお、「倫理」と「道徳」や「倫理学」についても解説が必要であるが、その他の重要なタームを含めて後段の中で詳しく説明するので、それまでお待ちいただきたい。

 

さて、生命技術を含めて先端科学技術の倫理を論じた類書はいくつかある。そこでまず、それらに対比することで本書の特徴を明確にしてみよう。容易に入手できる邦語文献のうち主要なものは、A『科学技術倫理を学ぶ人のために』、B『技術の倫理学』、C『科学技術倫理学の展開』、D『科学技術の倫理学』、E『科学技術研究の倫理入門』である*。

最初は、A『科学技術倫理を学ぶ人のために』(新田孝彦・蔵田伸雄・石原孝二編、世界思想社、2005年)である。「総論」の枠組みはカントや哲学的人間学流の人間主義の立場である。これに依拠した市民的自律主体と世界市民の視点が「各論」の基盤にあるといえよう。それと同時に強調されているのが、科学技術のもつ「魔性」の側面であり、そこに現代的な危機意識が示されている。なお、倫理については、個人道徳に対する社会規範という常識的な捉え方をしている。「各論」は、科学技術者倫理(したがって工学倫理)と、社会や文化との関係に注目する科学技術倫理とに分れる。そしてこの両者が最終的に、参加型のテクノロジーアセスメント(例えば哲学カフェやコンセンサス会議)へと収束している。

次に、B『技術の倫理学』(村田純一、丸善出版、2006年)に移ろう。Aが欧米の教科書の標準的な路線上にあったとすれば、Bはそれとは一線を画している。とりわけ次の2点が注目に値する。1点目は倫理学の枠組みに関わる。村田によれば、技術(工学)には「不確定性」が内在しており、そのかぎり技術者は結果に対する責任をとれない状況の中で応答を迫られる。このような倫理的ジレンマを正面から扱うことは従来の倫理学にはできない。なぜなら、その「意図/行為/結果」という枠組みでは、行為の下に確定された技術(手段)しか想定されておらず、その結果、技術の倫理学が「応用倫理」または「後始末の倫理」に止まってしまうからである。新たに必要とされるのは探究・発見の倫理学であるという村田の指摘は、倫理学の枠組みそのものを問い直している。2点目は「技術者倫理」と「技術倫理」の区別に関わる。従来、前者は技術者個人のミクロレベルにあり、後者は技術と社会の関係のマクロレベルとされ、両者は切り離されていた。しかし、レベルの混同は避けるべきだとしても、両者の背景には共通して「組織」とその文化がある。さらにその背後に政治や文化のシステムも横たわる。この村田の指摘は、社会レベルの間の区別と連関をどのように理論づけるかという問題を提起している。

続いて、C『科学技術倫理学の展開』(石原孝二・河野哲也編、玉川大学出版部、2009年)を見よう。執筆者の一部はAと重なるが、ここにはAにはなかった各論(「領域」)の具体的事例が扱われている。焦点は科学技術者の倫理ではなく、科学研究の倫理と先端科学技術の倫理である。各論の共通項は、科学技術すなわちテクノロジーという見方と、個人の行動と社会の在り方に関わる規範としての倫理という枠組みだけである。このCはAを補完する位置にある。なお、科学技術倫理をめぐる欧米の議論の紹介によると、いわゆるELSI(科学技術の倫理的・法的・社会的問題)以前の第二フェーズにおいて、「テクネシックス」や「テクノエシックス」という包括的で文明論的な観点が出されていた。この点は各論の細部にこだわって政策を志向する昨今の傾向と比較すると興味深い。

さらに、D『科学技術の倫理学』(勢力尚雅編著、梓出版社、2011年)に目を転じよう。ABCがおもに科学哲学・科学技術社会論畑の研究者の手になるものであったのに対して、Dは和辻倫理学の系統に属する若手研究者たちの論集である。出発点は「人と人の間」、したがってコミュニケ―ションにおかれる。倫理学の試みとして科学技術を取り込もうとする点でたしかに意欲的ではあるが、残念ながら具体的事例に乏しく(しかもABCに依拠して二番煎じである)、一般論に終始している。科学技術をめぐるコミュニケーションの対立に関して、対立の解消を志向しつつも、モデルの理論化にまで至っていない点は惜しまれる。

最後に、E『科学技術研究の倫理入門』(M. フックス編著、松田純監訳、知泉書館、2013年)をとりあげよう。これはドイツの科学技術倫理分野の教科書(2010年)の翻訳である。ここにはカント哲学を咀嚼した明確な理論的枠組みがある。また、専門家の職業倫理もあれば、科学技術と社会との関係の論述もあり、そのうえ事例も揃っているから、教科書として全体のバランスがとれている。ただし、そこでふまえられている古典的な「動機/行為/結果」の枠組みには問題がある。この枠組みでは個人の行為の規範の視点から多様な倫理が捉えられ、そしてその捉え方にはそれなりの切れ味もあるとはいえ、その反面で対面的な人間関係と組織と社会全体の間のレベルの相違が不明瞭にならざるをえない。なお、倫理と道徳の関係については、ハーバーマスと同様に、共同体の特殊な倫理(エートス)に対して、それらを共存させる普遍主義的な枠組みとしての市民(個人)の道徳という捉え方をしている。

 

*その他の関連文献のうち二つだけに言及しておく。1つは山脇直司編『科学・技術と社会倫理』(東大出版会、2014年)である。これは池内了氏の提唱する「等身大の科学」をめぐるワークショップの記録であり、3.11後の危機意識の高まりを受けたものである。ただし、その提唱の内容はいくぶん中途半端の印象があり、科学技術に対する「社会倫理」による「統合」という視点も一面的である。しかも類書と重なる部分も多いため、あえてとりあげなるに至らなかった。もう1つは松本三和夫『テクノサイエンス・リスクと社会学』(東大出版会、2009年)である。これは社会学からの科学技術論であり、「倫理」や「コミュニケーション」といった多くの類書が採用する視点とは一線を画している。それゆえ、倫理学としてはとりあげなかったが、理論モデルとしては検討に値するため、この場所ではなく「リスクをめぐる対立」に絡めて結章で言及することにした。

 

以上の類書に対して本書の特徴は以下の4点にまとめられる。

その第1は、科学技術が「全体社会との連動」において捉えられていることである。現代社会において科学技術は産業・政治・教育等の分化した機能システムとの相互連関のうちにある。科学技術の内部で生じた変容は、相互に連関するその他の機能システムに影響を及ぼし、それらに変容を促す。続いて相互連関する機能システム同士の相互変容を介して、組織・最大の組織である国家・社会運動・家族まで含めた社会システムの総体(全体社会)に甚大な影響を与え、それがさらに社会システムの外部にある人間や自然環境にまでも及んでいく。例えば、後述するように、医療システムにおける「デジタル医療化」は、社会の多くの領域や組織や個人を巻き込んで進行する。ここに生じている複合的な事態は「環境倫理」「生命倫理」「情報倫理」として部分的に際立たされてきたが、従来の科学技術倫理学では、科学技術者倫理(専門職・職業倫理)であれ、科学技術倫理(科学技術と社会との関係)であれ、全体社会との連動というマクロな枠組みが欠けているか、そうでなくてもきわめて貧弱であったといえる。

第2は、そのマクロの枠組みを構築するために、「倫理の根本」に立ち返っていることである。その際の基本的視点は<意味コミュニケーション>論である。この考え方によれば、コミュニケーションとは意味解釈の変換過程であり(村田の指摘では見落とされているが、そこには技術と同様の偶発性や不確実性が含まれる)、社会とはそのようなコミュニケーションのシステムとみなされる。この観点からすれば、「倫理」とは、多様なレベルの社会システムの内部で特定の意味解釈の接続回路を方向づける「構造ないしは構造化」として捉えられる。多様なレベルの構造は異なりつつも同型的である。他方、「道徳」とは、社会システムを支える人間の意識における自己内対話の構造(生き方を意味づける信念)として位置づけられる。これに対して、従来の科学技術倫理学では、個人道徳対社会倫理であれ、特殊共同体倫理対普遍主義的道徳であれ、個人の行為に対する規範主義的な枠組みを踏襲するだけに止まり、個人から対面的関係や組織をへて全体社会にまでわたる多レベルの倫理を包括的に捉えることができていない。

第3は、人間・動物の改造やロボットの製造という切り口から先端科学技術の広範な影響を具体的に論じていることである。今日の科学技術では冒頭で言及した「デジタル化」すなわち0/1の二値的な一元化が進行している。このデジタル化の方向として、一方には情報の「デジタルネット化」があり、他方には人間の「デジタルサイボーグ化」がある。本書ではとくに後者に焦点を絞り、その具体例を提示しつつ問題点を浮き彫りにする。とり上げる事例を本書の展開に沿っていえば、予防医学の先制化、新しい健康観とデジタル技術の応用、バイオ医療化としての身体エンハンスメント、道徳性をめぐるバイオ・モラルエンハンスメント、反社会的パーソナリティ障害者の自由意志、犯罪者への医療的介入、動物エンハンスメント、人間の欲望を映し出すロボット観、科学技術のリスクをめぐる対立構図、倫理基準としての「全能性」の根拠、研究倫理の規制と展望、である。以上から見られるように、それらは生命倫理から、脳神経倫理、エンハンスメント倫理、動物倫理、サイボーグ倫理、ロボット倫理などの多分野にまたがっている。これに対して、従来の科学技術倫理学の「各論」において扱われているのは、工学倫理、環境倫理、生命倫理、情報倫理の事例である。本書の事例はそれらと一部は重なりつつも、大部分は本書で初めてとりあげられ、しかも(ここが重要な点だが)連関づけて論じられる。

そして第4は、科学技術倫理の諸問題を包括して一つの根本問題と三つの課題に絞り込み、しかもそれらに対応するための理論モデルを提案していることである。先端科学技術をめぐる倫理学の根本問題とは過剰化する欲望の自己統治であり、三つの基本課題とは新たな共同関係の創出、科学技術にともなうリスクをめぐる正義の対立の解消、それに人間観の再構築である。これらに臨むための基本的視座は、意味コミュニケーションの視点から導かれる<自己変容システム>である。この視座から一貫して提案されるのが、高齢者世代を担い手とする老成社会介モデル、リスク対立の移動をめざす両側並行モデル、そして人間・動物・ロボット・物体の再分割モデルである。根本問題への接近はこれら三つの方向から拓けることだろう。以上のような課題設定およびモデル提案は、従来の科学技術倫理学の枠をはるかに越えたものである。

 

以上を要するに、本書は、バイオ技術を含めて人間に関連する先端科学技術の効果・負荷に対して、近未来をみすえつつ現代社会の全体の連動を見渡すような倫理学の試みである。ここまでの大きなスケールをもつ本はおそらく欧米でも類例がないはずである。構成は以下のようになる。まず序章では倫理の根本を押さえつつ、現代社会の中の科学技術システムの位置、科学技術倫理学とその根本問題および三つの基本課題を説明する。これを受けて第1部から第3部までの各論では、上述したような具体的事例をとりあげる。そして最後の結章では、三つの基本課題に対応する理論モデルが提案される。

なお、本書のベースは四年間にわたる科学費研究(基盤研究(B):先端科学技術の「倫理」の総合的枠組みの構築と現場・制度への展開、課題番号2320004、研究代表者・森下直貴)の共同成果である。したがって、それをまとめた学術論文であるため、本書には全体として一定の知識水準を要求するような難解な部分がどうしても残る。しかし同時に、教科書として読んでもらいたいと願って、解説的な部分をあえて織り込んでもいる。その点を読者にはご理解いただきたい。「二兎を追うもの一兎も獲ず」にならないことを祈るばかりである。