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RESEARCH WORKS
2017.04.30

生命倫理学の基本構図 はじめに 2012.1

 

シリーズ生命倫理学 第1巻『生命倫理学の基本構図』

 

はじめに
本「シリーズ生命倫理学」の全体が、日本における生命倫理の「現在」の総括をめざしているとすれば、その巻頭にあたる第1巻は、学問的反省という視点から「生命倫理」を「学」としてみた場合の「現在」の総括を意図している。「生命倫理」という運動は、どのような歴史的文脈において、何を目標にして誕生したのか。それはその後、どのような方向に展開し、いかなる文化的背景の中で多様化していったのか。さらに、生命倫理はいかなる諸次元から成り立ち、どのような学際領域において構成されているのか。要するに、生命倫理という歴史的運動の全体の「前提」にあるもの(構想、広義の原理、問題構成、理論枠組み、価値観など)に視線を向け、これを反省することが本巻の狙いである。

ただし、「基本構図」という表題がそのような狙いにとって最適であったかと問われれば、たしかに迷いも生じる。例えば「基本構造」とか「歴史と展望」という選択もありえたわけである。が、それはともかく、これまでの歩みを振り返り、生命倫理の「前提に向けられた学問的反省」を通じてこれから進むべき方向を探るという意図を、ご理解いただきたい。

それにしても、生命倫理の「前提に向けられた学問的反省」がなぜ必要なのであろうか。日本では現在、「生命倫理」と銘を打った入門書や概説書、教科書やケースブック、事典の類が続々と刊行されている。諸外国の文献の翻訳や理論の紹介も盛んである。外国の研究者との交流や共同研究も目立って増えてきている。大学等の研究者・教育者の公募では「生命倫理」が条件にされることも多くなっている。病院の各種委員会の委員や、臨床現場のコンサルタント、政府の各種審議会の委員にも、「生命倫理学者」が登用されている。このように眺めてみると、生命倫理は日本社会のうちにすっかり定着し、「産業」として立派に賑わっているという印象すら受ける。しかし、それはあくまで表層的な現象にすぎないのではなかろうか。今後の行く末を見渡しつつその深層に視線を向けるかぎり、事態はけっして楽観を許さないように思われる。もとより多方面の努力によって蓄積されてきた成果も多々あるが、ここではあえて問題点を二つ取り上げる。

一つは、臨床や研究の現場における「インフォームド・コンセント」に関わる。これは狭義の生命倫理(バイオエシックス)の支柱であり、その前提には「情報の理解」と「自己決定」という観点から捉えられた人間観がある。問題はこの人間観が実際の現場の常識にとって相変わらず「腑に落ちない」ということである。もちろん患者や、被験者、住民、国民は生命倫理の舞台の主人公であって、この点を疑っているわけではない。しかし、大多数の人々にとっては、主人公であることが直ちに、「自分で情報を集め、理解し、熟慮し、決断する」ことにつながっていない。病気や、とりわけ死に直面したときはそうである。そのとき誰しも求めるのは、身近な他者たちとの情的なつながりであり、他者の一人としての専門家による人格的な関与である。このような「生身のリアルな人間」と「インフォームド・コンセント」との間の距離をいかに埋めるかは依然として課題であって、教科書的な説明で済ませられるような事柄ではない。

もう一つは、運動としての生命倫理がめざしている目標、つまり「コンセンサス」(公共的合意)に関わる。生命倫理に関する制度や政策、例えば臓器移植や、生殖補助技術、終末期医療をめぐる法律やガイドラインの策定に際して、学会や研究会での議論なり個々の研究なりはそこにどこまで、どれだけ反映されているのであろうか。政府の関連審議会にはごく一部の専門家が常連のように名前を連ね、あるいは議論をリードし、あるいは結論にお墨付きを与えている。大学や病院に設置されている倫理委員会でも同様であって、生命倫理の専門家がそこで行なっているのは、多くの場合、実務家的なアドバイスか承認のお墨付きなのである。翻って生命倫理の議論の中身に目を向けてみると、特定のトピックスをめぐる討論はたいてい噛み合わず、学際的であることに伴うはずのメリットに乏しいといわざるをえない。それどころか、敵味方に分かれたイデオロギー闘争の様相を帯びることのほうが多い。その結果、生命倫理の現状に希望を見出せず、フィールドから去る研究者も少なからずいる。「コンセンサス」はいかにして成り立つのか。そしてどうすればそのコンセンサスを政策や制度に接続することができるのか。その「不可能性」も含めて「可能性」に関する本格的な反省が求められている。

「生命倫理」を広義に定義づければ、「生命」の視点から捉え返された倫理ということになる。そして今日、そのように捉え返される問題状況はますます広がっている。しかし、その動きに応えるだけの「生命倫理学」が日本にあるだろうか。先の二つの問題点が帰着するのはまさにこの根本問題である。米国のバイオエシックスや欧州の生命倫理学と並び立つような「日本生命倫理学」は存在するのか。残念ながら、明治期の「日本哲学」、さかのぼって近世の「日本儒教」、中世の「日本仏教」に匹敵するような、普遍的個性をもった「日本生命倫理学」はいまだ存在していない。なぜか。「学としての中心」がないからである。それでは、「学としての中心」はいかにして可能になるのか。それはおそらく、学際的な出会いを可能にするような土台、あるいは、「コンセント」から「コンセンサス」までの背後で働いている「コモンセンス」を解きほぐし、編み直すような場、つまりはある種の「コンテクスト」の創出に懸かっているといえるだろう。答えはむろん一つではない。第1巻に配置された各章がそれぞれの視点から取り組んでいるのも、前提にある広義の「コモンセンス」の問い直しにほかならない。

第一部にあたる第1章と第2章は「日本における生命倫理学」を正面から論じる。第1章は生命倫理を人類史的視野において捉え返し、その思想的課題に本格的に取り組んだものであるが、いささか野心的であり、綱領的にして試論的である。その意味では、事始から現在までを丁寧に辿る中で、思想的課題を浮かび上がらせた第2章から先に読んだほうが、読者にとって理解し易いかもしれない。

第二部を構成する第3章(西洋)と第4章(東洋とくに日本)では、「バイオエシックス」が登場する以前の伝統的医療倫理の系譜が概観される。ここで読者は伝統的なコモンセンスのもつ豊穣さに目を開かされることであろう。それに対比される形で第三部では生命倫理の誕生から多様な展開までを扱う。そのうち第5章は米国発祥のバイオエシックスを軸にして英語圏の生命倫理を論じる。当初の文明論的な構想が次第に医療倫理に特化していく経過の叙述を通じて、バイオエシックスのもつ本来の豊かさに気づかされる。続く第6章はドイツ語圏とフランス語圏の生命倫理が概観する。同じ欧州の生命倫理であっても文化伝統に根ざした個性の違いが際立っている。第7章では東アジア(中国と韓国)の生命倫理が言説や特定の事例に即して論じられ、儒教や道教や仏教という伝統文化との強固なつながりが浮き上がる。今日、生命倫理に関するグローバルな基準がますます必要とされている。しかしそのさい、以上の多様性を考慮するかぎり、特定のコモンセンスだけに準拠するようなことがあってはならないだろう。

第四部は生命倫理学を成り立たせる次元のうち三つを取り上げる。第8章では生命倫理において重要な位置を占める「法」という制度をめぐって、実地に即した形で分かり易く叙述される。第9章は「インフォームド・コンセント」との絡みで患者の心理に踏み込み、極めて重要な考察を行なっている。第10章は倫理学の根本に立ち返りつつ、生命倫理学の方法を概括している。そして最後の第五部では、生命倫理学を構成する専門領域を代表する4人のリーダーの方々から、生命倫理学に関わる貴重な証言もしくは提言をいただいた。ここに深甚の感謝を申し上げたい。

最後に、シリーズ全巻との連関に言及しておこう。歴史的視点に力点をおいた第1巻に続いて、第2巻では生命倫理の基礎にある基本概念が哲学的に突っ込んで論じられる。第3巻から第19巻までは多様な分野にわたる各論であり、それぞれの分野の現段階が総括される中で、歴史的視点や基本概念との接続が確認される。そして最後の第20巻では文明論的・思想的・学際的な視点から生命倫理学の成立可能性が批判的に考察され、こうして第1巻に円環的につながることになる。ともあれ、本巻が生命倫理学の前提に関わる議論を呼び起こすきっかけになることを編者として願って止まない。

 

今井道夫

森下直貴