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研究業績

RESEARCH WORKS
2016.03.21

老成学第一弾ワード版

『浜松医科大学紀要』第30号(2016年3月刊行)

 

 

<老成学>の構想

老人世代の「社会的再関与」による

コミュニティ再生への展望

 

 

森下直貴

(倫理学)

 

 

キーワード

超高齢化、老人世代の階層二極化、セーフティネット、家族の変容、共助、

社会的再関与、老成、ジェロントロジー、老成社会、持続可能社会

 

 

The Conception of “Re-Ageing” Gerontology

 

Toward community-rebirth

through the social re-involvement by the aged

 

Naoki MORISHITA

(Ethics)

 

Japanese society is now moving to “super-ageing” stage where human kind has not ever experienced. In the current circumstances, it is striking that ageing population divides into two classes: the huge healthy and active upper aged and the not so few ill and poor lower aged. Furthermore, even any upper aged easily fall into the lower class, once they suffer dementia. Why? It is because the Japanese social safety nets since 1960’s cannot work to defend this fall now. One of the most important factors is the “transformation” of the family, which had been the last safety basis. This transformation means since 1980’s Japanese family has lost its own bonding force and been tolerant about family-diversity. As a result, weaker and weaker “the mutual help” of the family is getting. In this situation, what could we expect to strengthen the mutual help of caring? The answer in this paper is to be “the social re-involvement” of “the huge healthy and active aged.” In addition, their re-involvement is also expected to extend over caring to any other social fields, such as education, technologies, politics, art or science. However, to realize this concept, we need our theoretical framework, that is, the perspective RE-AGEING. The word re-ageing means the process that the age recursively give meaning to them, not the state of being matured. This paper explains the conception of Neo-Gerontology to realize the sustainable “re-ageing society.”

 

Key word: super-ageing, division of ageing population, social safety nets, transformation of family, mutual help, social re-involvement, re-ageing, gerontology, re-ageing society, sustainable society

 

 

序章 <老成学>事始め

 

日本社会はいま、人類がこれまでかつて経験したことのない「超高齢化」の時代へと足を踏み入れつつある。ここに起因する影響はすでに社会の隅々にまで及んでおり、今後もますます拡大しながら深刻化することが予想されている。もちろん、少子化による人口減少と高齢者の長寿化の結果である人口構成の「高齢化」は、人々にとって身近であるため種々の葛藤を引き起こしてはいるが、現代社会を激しくゆさぶる問題群の一つであるにすぎない。それ以外にも、デジタル化(1)、気候変動と大災害、貧困格差と構造的排除、排他的民族主義とテロなど、取り組むべき問題が山積している。したがって、ここで「高齢化」に注目するにしても、問題群の全体との連関をつねに考慮しておく必要がある。このような限定をつけた上で、超高齢社会への移行をみすえつつ、一個の統合的な学問領域としてネオ・ジェロントロジー(新・老人学)を構想してみたい。

キーワードは<老成>である。この名称によって意味されるのは、老いの熟成といった完成された状態ではなく、老いが老い自身を不断に意味づけ直すという再帰的なプロセスである(2)。この視点をジュロントロジーそのものに組み込むとき、不断に自己に再帰するジェロントロジーという構想が生まれる。これを<老成学>と命名しよう。めざすは老成の視点から捉えられた未来社会、すなわち<老成社会>である。そのためには関連する既存の学問諸分野の横断と統合が不可欠である。本論文はこの<老成学>の構想を説明するが、読者諸賢のコメントによってさらに改良したいと願っている(3)。なお、「高齢者」という当たり障りのない用語に替えて、以下では基本的に「老人」という威厳のある名称を使用する。

<老成学>の構想にいたった経緯を説明しよう。着想の一つは、生殖補助医療における代理出産に関して、家族機能を拡張する方法として提案した<身近な他者>である(4)。もう一つは、長年手がけてきた健康論の延長線上で浮上した国民規模の際限なき「健康への欲望」に関して(5)、そのコントロールの鍵を握る主役として元気な老人世代に注目したことである。そこから彼らが活躍する<老成社会>というイメージが出てくる(6)。ちなみに、理論的な要である<再帰性>という視点はルーマンの社会システム理論に刺激されたものである(7)

とはいえ、<老成社会>のイメージが直ちに<老成学>に結びついたわけではない。それには現実からの後押しが必要だった。それが老人世代の内部で発生している階層二極化である。この二極化に対して日本社会のセーフティネットが機能しないのはなぜだろうか。その背景を探って浮かび上がったが「家族の変容」である(8)。後述するように、家族の変容じたいは1970年代の後半に芽生え、1980年代の前半から目立ち出し、とくに1990年代の後半以降には急速に広まってきた(9)。この家族の「共助」機能の弱体化を目の当たりにしたとき、その補完・強化として注目されたのが、近所にいる比較的元気な老年世代の社会的関与(再関与というべきか)である。

老人世代の社会的関与はとりわけ「共助」の場面、例えば「認知症」の人をめぐる現場において期待されている(10)。しかし、その関与は共助の領域だけでなく、社会のあらゆる領域でも期待されている。そうだとすれば、ここに新たな老人観とそれを理論的に支える視点が要請されるはずである。この視点こそ<老成>にほかならない。これを織り込んだ<老成学>は、老人世代が活躍する近未来の社会、すなわち<老成社会>の実現をめざす一種のフィールド倫理学である。以下ではそのような<老成学>の構想を展開する。

なお、この論文には本論の後に付論をおいている。<老成学>の理論的な基礎は後述する<四領域>の区分である。この根拠(分割と指し示しとの再帰的交差)についてはどこかで論じる必要があるが、そのためにはいささか厄介な哲学的考察に踏み込まざるをえない。そこで本論から外して付論に回した次第である。関心のある読者にはぜひともお読みいただきたい。

最後に、私自身の研究の全体にも一言しておこう。土台は私なりのシステム理論であるが、これについても付論を参照されたい。その上に4本の柱が立っている。第1の柱は、知と実在の成り立ちと関係を扱う形而上学であり、これは意味論を核心とする。これまた付論を見てほしい。第2の柱は、いわば対立媒介のシステム倫理学であり、和辻哲郎の「間柄の倫理学」の乗り越えをめざしている(11)。第3の柱である近代日本思想史研究では、「戦後思想」の視点を括弧に入れ、明治以降の哲学思想の展開を別様に書き直すことを計画している(12)。そして第4の柱がここで新たに構想する<老成学>であり、いわばフィールド倫理学である。

 

第1章 老人世代の階層二極化と家族の変容

 

今日の老人たちの見せる姿には対照的な二面がある。一方に元気で活動的なお年寄りたちがいる。他方には病院や施設をたらい回しされる「下流老人」がいる。このあまりにかけ離れた両面をどのように結びつけたらいいのだろうか。既存のジェロントロジーや既成のセーフティネットの仕組みと絡めながら、老人世代の現実の断面を起点にして、家族の変容と介護力の低下、それらの背景にあるコミュニティの大きな変動までを把握してみよう。

 

1.1 大量の元気な老人と既存のジェロントロジー

まず、現象面からいえば、元気なお年寄りが行楽地はもとより、美術館、街中の飲食店や喫茶店、スポーツジム、公民館やカルチャーセンター、ゲームセンターなど、人の集まるところならどこでも、しかも朝から夕方まで溢れている。また、かつては手術の適応は70歳未満と決まっていたが、今では90歳を超えても本人が希望するなら、高度な外科手術がごく普通に実施されている。手術に耐えられるほど元気だからである。

元気さを示す指標として平均寿命と健康寿命をとり上げよう(平成26年度「簡易生命表」厚労省2015.7.30発表)。まず、平均寿命(2014年)は男性80.50歳、女性86.83歳である。それが約45年後の2060年には、男性84.19歳、女性90.43歳になると推計されている。つまり、90歳前後の老人がふつうに周囲にいることになる。他方、自立していて寝たきりでないという健康寿命は男性71.11歳、女性75.56歳である。それが2060年には男性75歳、女性80歳になると推計されている。現在でも将来でも平均寿命との差にほとんど違いはなく、10±1歳くらいである。2060年に60歳定年の場合、男性で15年間、女性で20年間は達者な老後を送る計算になる。

元気で長命なだけではない。そのような老人がしかも大量にいるのである。2015年に65歳になった世代は1949年生れで約270万人いる。彼らが小中学校時代の教室は60人を超える生徒で犇めき合っていた。2014年生れが約100万人だからその2.5倍超である。1947年〜1949年生れの世代は「団塊世代」と呼ばれ、3学年合わせると806万人もいる。少し広げて1951年生れまでを含めると何と1084万になる。わずか5学年合わせた人口が総人口の8.5%を占めるのである。その彼らが2017年には一斉に高齢者の仲間入りをする。その10年後には「介護崩壊」が、そしてさらにその10年後には「葬儀崩壊」が待っている(1)

もはやこれ以上統計を持ちだす必要はないだろう。周囲を見回しても、統計数値を見比べても、とにかく元気な老人たちが身の回りに大量にいる。その彼らに共通するのは、自活し、趣味を楽しんでは、仕事やボランティアをする老人像である。そしてそのような老人像を支持し、さらに弘めているのが、既存のジェロントロジーである。これには大別して2つある。一つは老年医学(geriatrics)であり、早期発見・早期治療や抗加齢(アンチエイジング)治療を通じて、老化の進行を遅めたり、壮年期を2倍にすることをめざす。もう一つがいわば老人生活学であり、第二の人生である人生の3分の1を充実することを目標にかかげ、脳トレーニングや健康体操を推進する(2)

 

1.2 「下流老人」現象とセーフティネットの崩壊

しかし、ここ数年のことだが、以上のように描かれた老人像とはおよそ対照的な老人の姿がマスメディアを通じて知られるようになってきた(3)。いわゆる「下流老人」現象である(4)。それまで人目につかないように隠れされていた事態がもはや覆い隠せなくなり、あちこちで噴き出してきたということだろう。

日本の老人たちは従来、漠然とであれ、老後はつましいながらも人並み(中流)に安心して暮らしていけると思っていたのではなかろうか。最期を迎える場所の希望は(実際には病院であることが多いとしても)自宅である。家族の縁がない場合、年金だけでも入所できる特養老人ホームか、資産の余裕があれば民間の有料老人ホームが終の住処になる。

ところが、ごくふつうの老人たちのささやかな希望と期待は無残にも打ち砕かれる。中流を自認していた老人がひとたび病気になると、医療費がかさんでしまい、乏しい貯蓄を切り崩すことになる。その結果、生活保護世帯へと容易に転落していく。とくに高齢者の5分の1がいずれは罹るとされる「認知症」————この「認知症」キャンペーンの問題性については後述する————になり、老老介護や認認介護となった場合、そのリスクは決定的に高くなる。ましてや、介護する子ども世代が離職したり就職していなかったりすると(非正規雇用の場合も含めて)、それはもはやリスクというより現実そのものである。実際、徘徊による事故の賠償ケースが発生したり、介護する家族の不眠等から殺人や心中にいたる痛ましい事件が多発したりしている。

他方、治療のために入院した場合、そこでは「たらい回し」が待っている。慢性期の療養病床は自宅に戻れない患者たちによって長期に占拠されていた。この「社会的入院」を減少させるねらいから2006年に導入されたのが、90日という入院期間の制限ルールである。その結果、患者は別の関連病院に一時的に移されたり、リハビリ施設の「老健」や「特養ホーム」に送り出されたりした。そしてそこに入りきれない患者たちは「介護難民」になった。しかし、患者が吸痰や呼吸器装着や胃瘻造設等の治療を要するようになると、施設からふたたび病院へと送り返される。そしてまた90日経つとそこから別の病院や施設へと回される…。

このような「たらい回し」の末に行き着く先は、介護の質を問わない精神病院であったり、無届け介護ホームや、念書をとって老人を預かる介護里親ビジネスであったりする。こうして少なくない老人たちが行き場もなく、いま日本中を漂流している。そして薬漬けにされ、寝たきりになり、無念にも亡くなっているのだ。

ここで老人ホームの問題点を押さえておこう。特別養護老人ホーム(特養)はとくに都市部で施設が不足している。待機者が約52万人、そのうち要介護4〜5では約22万もいる(厚労省のまとめ、26.3.25)。政府はこのような現状を打開するため、「地方創成」の掛け声によって日本版シルバータウンづくり(CCRC)や特養の地方移設を計画している。しかし、2000年に導入された介護保険制度によって特養における介護の質が劣化したといわれる上に、介護職員の離職も相次いでいる。量と質の水準がどちらも低いことから地方の特養では閉鎖されているところもある。他方、高額の有料老人ホームはあるが、これはもちろん資産(自助)次第である。また、「宅老所」から出発して1980年代から広がった「グループホーム」や、2006年に導入された在宅ケアの「小規模多機能」もある。しかし、医療との連携の難しさや定額制の報酬の問題があり、目下のところそれほど広まってないないようである(5)

ここであえて付言すると、介護職員の量質の水準を確保することは、いうまでもなく緊急の課題である。たしかに介護職はストレスの多い重労働ではあるが、離職の背景には職業としての位置づけの低さや労働人口の配置の偏りがある。そうした中で、人手不足を手っ取り早く補うために外国人の介護職員が現場に投入されたり(東京都)、HAL等のロボットの導入が推進されたりしている(6)。しかし、いま最も必要とされるのは、そのような短期的な対策とは別に、長期的な観点から少子高齢社会における労働人口の職業配置をシフトさせる政策ではなかろうか。同じことは農林水産業やそのほかの職種についてもいえる。若い家族が地方移住するケースでは(「消滅可能性都市」における涙ぐましい誘致策の結果)、コンピュータ関連の仕事に就いている場合が多い。

本筋に戻ろう。それにしても、である。上述のような老人たちの酷薄で悲惨な状況が広がってきたのはなぜだろうか。戦後に作られた既成のセーフティネットの仕組みが50年経過する中で、変動する現実にもはや対応できなくなっているからではないか。振り返ってみよう。戦後のセーフティネットの基盤は、自助(家族、貯蓄)+互助(企業)+公助(年金や生活保護等)の3本柱だった(7)。そのうち年金に関していえば、老後の生活をそれだけで支えるようには設計されておらず、あくまで補助として位置づけられていた。ちなみに、同じ公助のうち「生活保護」では(2015年6月現在)、受給世帯が162万5941であり、前月より3400世帯増加している。これは1951年以来で最多であるという。そして受給全体の半数が65歳以上の高齢世帯である。ともかく、このように貧弱な社会保障(公助)の上で老人がひとたび病気になると、なけなしの貯蓄(自助)をとりくずすことになる。そのとき残るのは家族による支えであるが、この最後の頼みの綱である家族が1980年代以降、とくに1990年代半ばから大きく変容し、共助機能を大幅に弱体化させたのである。次節ではこの「家族の変容」に注目してみよう。

 

1.3 家族の変容・漂流・高齢化と「在宅主義」の陥穽

日本社会における家族が変容して漂流し始めたのは、1980年代前半のことである。当時、家族をテーマにしたTVドラマや映画が一斉に現れた。例えば「おしん」「家族ゲーム」「細雪」がそうである。また、出版界でも家族論ブームが起こり、『いま、家族を問う』や『家族史研究』などのシリーズものも刊行された。このような流行に映し出されているのが、社会の深部の揺れ動きである。ただし、家族の変容じたいはすでに1970年代後半に始まっている。TVドラマ「岸辺のアルバム」(1977年)がその先駆けとされる(8)

ここで家族の「変容」や「漂流」とはどういう事態を指しているのだろうか。それは「核家族化」の進行ではないし、逆にその崩壊過程でもない。夫婦と子供2人からなる「核家族」という形態は、戦後一貫して社会制度の設計の標準となっている。統計によれば(『平成26年度高齢社会白書』)、全世帯のうち核家族世帯は59.29%、単独世帯27.19%、残るは三世代世帯6.9%やその他6.8%である。このように形態上ではあいかわらず核家族が6割を占めている。とすれば、「変容」や「漂流」とは何を意味しているか。

その答えは、「家族」という名の共同体の求心力の緩みもしくは揺らぎのことである。あるいは、多様な結びつき方を受け容れる許容の幅の広がりともいえるかもしれない。もちろんそのような傾向は日本社会だけに固有なものではなく、1970年代以降の北欧を含めた先進各国に共通している。湯沢・宮本みち子編『新版データで読む家族問題』(日本放送出版協会、2008年)に収められた種々のデータを概観すると、家族の漂流という現象が全体社会の機能分化にともなう多様化の現れであることが浮かび上がる。家族は親族集団から連帯する個人からなる核家族へ、そして「おひとりさま」をへて多様な対関係(ダイアド)へと移行している。結びつき方の多様性は今後ますますグローバルに広がるものと予想される。

そこに問題があるとすれば、多様化する結びつき方の中で、とりわけ家族の高齢化が急速に進行していることである。2014年6月5日現在(平成26年度「国民生活基礎調査」)、65歳以上の者のいる世帯は全世帯の46.7%を占める。そのうち高齢核家族世帯は50.8%である。内訳は夫婦とも高齢者30.7%、高齢の親プラス未婚の子20.1%である。他方、高齢単独世帯は25.3%になる。高齢者だけ(夫婦と単独)の世帯を合計すると全世帯の26.2%になる。高齢化した核家族はやがて消滅するか、単独世帯になる。

家族の高齢化が進行し、65歳以上の者のいる世帯が全世帯の35%を占めていた2000年、折しも介護保険制度がスタートした。これは家族による介護(共助)を社会全体で支援しようという仕組み(公助)である。そして2006年には「病院・施設から地域・在宅へ」という政策がいっそう強調され、「地域包括ケアシステム」が提唱された。しかし、そこで想定されているのは、介護できる家族であり、居場所としての自宅(持ち家)である。この条件において成り立つ介護システムを<在宅主義>と呼ぼう。ちなみに、住居に関していえば、戦後日本の住宅政策は産業政策の一環であり、安価で良質な公共住宅を供給することよりも、あえて狭小な持ち家の所有を誘導してきた(9)。その結果、老朽化して手狭な公営アパートではバリアーフリーができず、これに加えて民間の賃貸アパートでは家賃が老後の生活を圧迫することになる。

目下のところ、「地域包括ケアシステム」のために設けられたセンターはそれほど機能していないようである。導入されてからの年数が浅いせいか、高齢者の7割がそれについて知らないという報告がある(10)。また、「認知症」で悩んでいる本人や家族のニーズに対して職員が専門的に対応できないという面もある。しかし、それ以上に問題なのが<在宅主義>ではなかろうか。家族の変容・漂流と高齢化によって家族の介護力が著しく低下する、という事態がそもそも織り込まれていない(11)。とすれば、介護保険制度はその設計の最初から問題をかかえていたことになろう。実際、介護する子世代が共働き夫婦か専業主婦の場合、要介護度が低いうちはヘルパーの支援を受けて何とか乗り越えられるが、要介護度が高くなるとお手上げになり、日中独居(寝かされきり)、介護離職、そして生活困窮が待っている。それが老老介護や認認介護になると事態は最初から深刻であり、最悪の場合は心中や殺人や遺棄になりかねない。

けっきょく、どうやっても老人たちは寝たきり(寝かされきり)の状態になる。「家で最期を」という願いは、(施設に移れないから)「家しかない」になり、そして終には「家にも居られなくなる」。寝たきりになるのは「家」でも同じであるが、送られた先の施設ほうが比較的早いというだけの違いである。突破口はどこにあるのだろうか。

 

1.4 孤立・無縁化とコミュニティの転換期

ここで孤立や無縁化の現象に注目しよう。高齢単独世帯(つまり一人暮らしのお年寄り)は、大まかにいうと国民の全世帯の1割を占めている。大都市の内部であろうと、過疎の奥地であろうと、被災した仮設住宅であろうと、老人たちが孤立し、無縁化しつつある。孤独の中で死ぬ人も少なからずいるが、一人暮らしする事情はさまざまである。高齢化率50%で全国一の中津江村の例では、高齢になればなるほど暮らしの不便さが増すにもかかわらず、子供のいる都会に行こうとせず、住み慣れた土地から離れたがらない(12)。都会では孤独死を望む人もいるかもしれない。ただし、いうまでもなく、単独・単身・孤立という現象は老人だけではない。若い人や中高年も含めて単身世帯が急増し、全世帯の3割に達している(13)

コミュニティの介護力の観点から孤立や無縁化の現象を歴史的にながめてみよう。ここでコミュニティとは「顔の見える対面的コミュニケーション」のネットワークとしての地域(村や町)を意味する。なお、社会編成の原理についてはルーマンの見解に準拠している(14)

日本列島で形成されたコミュニティの起点はもちろん原始社会である。原始社会では親族単位の集落が自足自給的に点在し、相互に交易を通じて結びついていた。社会編成の原理は「環節分化」である。次の古代社会では部族連合を通じて国家が形成され、文字やシンボルを通じて氏族単位の集落(郷村)が支配された。ここでは「中心/周縁分化」が編成原理である。転換は中世に起った。古代の村落構造がなし崩し的に変容し、新たなコミュニティ(惣村や町)が日本列島の津々浦々で形成された。編成原理は「身分階層分化」である。こうして新たに形成されたコミュニティが伝統的な村落構造となってその後も長らく存続する。それは近世の幕藩体制を通じて閉鎖的になることでより強固にされた。さらに近代国民国家の中では中央集権化と機能分化を編成原理として再編された。そして今日、親族集団の「家」が三世代家族から核家族へと縮小し、これがさらに変容し高齢化する中で、「おひとりさま」や「単独世帯」が大量に生まれている。伝統的な構造の外殻は残っているが、成員をつなぎとめる共同体の求心力はもはや緩み、明らかに揺らいでいる。

以上をふまえるなら、孤立や無縁化という現象を、第一の転換によって誕生した伝統的なコミュニティの構造が解体・崩壊した結果として、否定的に眺めることもできる。しかしそれとは逆に、新たなコミュニティが形成される萌芽として肯定的に眺めることもできる。本論文では後述するように持続可能な未来の社会へとつなげるねらいから、後者の肯定的な見方に力点をおいている。コミュニティの新たな創出(第二の転換)とみる観点からいえば、原発事故による放射線被災地の福島で試みられている村おこしや村再編の動きは15、強いられた形ではあるとはいえ、先駆的な社会実験として評価される。

 

第2章  <老成学>———自己に再帰するネオ・ジェロントロジー

 

一方に元気で活動的な老人の大群が街に溢れている。他方ではたらい回しされ、行き場を失った老人たちが寝たきりになっている。家族が変容し、さらに高齢化する中で家族による共助の力が弱体化している。それとともに地域コミュニティの支える力も落ちている。そこでこう考えてみよう。地域の元気な老人世代に関与してもらうことによって共助機能を補完できないものかと。このアイデアを敷衍してみる。

 

2.1 「身近な他者」としての元気な老人世代

アイデアの核心は<身近な他者>としての老人同世代による「共助」である。ここで<身近な他者>とは、私が以前、代理出産に絡めて子育て(産育)の場面で提唱した考え方(方法)であるが、一人の子を地域ぐるみで大事に育てるために、従来の家族や親族の枠をはみ出して結集した人たちのことである。この方法を拡張して介護の場面に当てはめたとき、老人による同世代間の「共助」というアイデアが生まれる。

その「共助」の焦点となるのは、「認知症」をかかえた老人とその介護家族である。「認知症」は目下、政府の大々的なキャンペーンもあって介護をめぐる話題の中心になっている。それによると、2012年時点の「認知症患者」数は推計で462万人になるが、それが2025年には700万人(老人全体の5分の1)にまで膨れ上がる。だから早期発見・早期治療が大切だということである(1)。その通りだとすれば、もはや国民病というほかない。

しかし、「認知症」には医学的にみて問題が含まれている(2)。「認知症」は主に老人に特有の症状の総称であるが、脳内の原因疾患には「血管性」、「アルツハイマー型」、「レビー小体型」、「前頭側頭型(ピック病)」などがあり、その違いによって症状が様々になる。また、それらとは別に若年性認知症(とくにアルツハイマー型)がある。こちらは40〜50歳台で発症し、日本には約3.8万人の患者がいると推定される。じつは若年性脳疾患のほうが、最初にアルツハイマーによって発見され、1910年にクレペリンの教科書に記載された元々の稀な病気(疾病)である。ところが、その稀な疾患が1970年代の米国で老人性痴呆と一緒にされ、「アルツハイマー病」と呼ばれるようになったという。その結果、日本でも700万人もの患者が誕生することになる。「認知症」に改称されたのは2004年である。しかし、最新の診断基準を示すDSM-5によれば、「物忘れ(健忘)=アルツハイマー病=認知症」という常識はすでに過去の話である。日本では血管性が多いとされ、1960年代までは「老化」特有の症状とみなされていた。それがいまでは早期発見・早期治療(したがって薬漬け)の対象になっている。

たしかに医学的には問題を含んでいる「認知症」ではあるが、これがいま「徘徊」や「弄便」、「行方不明」や「交通事故」、「共倒れ」、「介護殺人」や「介護心中」等となって、社会問題化している。症状が重度になり、「問題行動」が度重なると、家族による介護はほぼ不可能になり、施設に任せるほかなくなる。そしてそうなると確実に寝たきりが待っている。このような事態は介護保険制度の想定をはるかに超えたものである。例えば次のケースはどうだろう(3)

 

「認知症」の夫を介護する女性が近所の人から匿名の手紙を受け取った。そこには「あなたの夫が日中戸外で女の人に向かって下半身を露出している」と書かれていた。その丁重な手紙に女性は強いショックを受け、夫が勝手に外出できないように自宅の鍵を二重にした。女性の夫は三年前にアルツハイマー型認知症と診断されていた。自転車で出かけて行方不明になったこともある。手紙で忠告される数日前には自宅の駐車場で用を足している姿が目撃された。下半身の露出はその流れの中で起きたようだ。とはいえ、「このままでいいのか」と悩んだ挙句、県外の山間地に引っ越すことを考えた。しかし、気を取り直して地元の介護者支援団体に相談した。支援団体が自治体に連絡してくれたおかげで、デイサービスを利用できるようになった。しかし、それでも根本の事態は変わっていない。

 

上記のような介護者の悩みはけっして特別なものではないと考えられるが、ここで注目したいのはむしろ、親切心から匿名の手紙をくれた「近所の人」のほうである。その人は匿名の手紙による連絡以外の関わり方はできなかったのだろうか。ターミナルケアの場面でいえば、医療や介護のプロとは別に近所の人たちの協力がなければ、一人暮らしの老人が自宅で最期を迎えることは不可能であるという(4)。「近所の人」の関与はたとえ側面からのものだとしても重要である。その「近所の人」にはとうぜん同世代の老人たちも含まれる。軽度の認知症段階でなら、同世代の人たちでも何らかの関与ができるにちがいない。

近所にいる<身近な他者>としての老人世代の社会的関与にとって、原点(アイデアの起点)となるのは介護場面であり、しかもとくに「認知症」をかかえた老人をめぐる介護現場である。しかし、彼らの社会的関与を介護支援だけに止めておくのはもったいない。老人世代の関与をそこから広げてコミュニティづくりにまで活用できないだろうか。このような拡張はむしろ介護支援のための必要条件としても要請される。なぜなら、問われているのはたんなる介護の個別支援というより、むしろコミュニティの介護力だからである。コミュニティの底力がなければ介護の共助も支えきれないだろう。

本論文では老人世代の社会的関与に焦点を合わせている。しかしもちろん、介護にせよコミュニティづくりにせよ、老人世代だけが活躍すればそれで万事片付くわけではない。老人世代とともに中年世代や青年世代がそれぞれの長所を生かしつつ、相互に補い合うことが望ましい。例えば、先述した大分日田市の中津江村では、都会からやって来た青年が老人たちの身の回りのことを支援している(5)。これは青年世代による関与の事例であるが、それとは逆に、元気な老人たちが関与することがあってもいいはずである。老人世代も含めて三世代が役割を分担しなければ、おそらく持続可能な社会は支えられないだろう。そのためには老人像の転換が必要である。

 

2.2 老人像の転換とネオ・ジェロントロジー

 「老い」には多様な側面がある。関連する言葉を拾ってみよう(白川静『字通』)。身体的次元でいえば「老身」、「老弱」、「老衰」、「老骨」などがある。同様に、経験的次元では「老熟」、「老獪」、「老練」、「老謀」など、社会的次元では「老残」、「老醜」、「老害」、「老廃」など、そして精神的次元では「長老」、「老師」、「元老」、「老潔」などがある。日本の中世社会では「翁=神仏」であったように、過去の時代には老いの積極的な側面が重要視されていた(6)。それは今日では「老人=語り部」のうちに受け継がれている(7)。しかし大局的にみると、近代化とともに老いの多面性が消えていく。とくに戦後の日本社会では次の2タイプの老人像に限定されている。

一つは<家族的・受動的老人像>である。60歳で隠居し、余生を補助的・欄外的な役割を果しながらつましく暮らし、家族から世話を受けつつ最期は看取ってもらう。ここでは家族的な受け皿が自明視されている。しかし、この老人像は1970年代に起こった米国のシルバーパワー運動によって「エイジズム」として批判された。ただし、日本ではNHKや民放のTV番組をみれば分かるように、現在でもたえず再生産されている(8)。マスメディアが「家族の絆」を好んで強調するのは、人々がそれを希求しているからである。では、人々はなぜ希求するのか。この20年間に起こった二つの大震災後の状況をみるかぎり、現実の家族が理想の望ましい姿から遠ざかれば遠ざかるほど、そのぶん家族という共同性への憧れは強くなる(9)。そして新しい結びつき方を実感できないとき、かつての共同体への郷愁は残り続けるものである。

もう一つは<個人的・能動的老人像>である。定年後は人生のほぼ3分の1に近い第二の人生が待っている。自活して健康な老後を過ごすために、ボケ防止の健康体操をし、犬の散歩を毎日欠かさず、スポーツジム通いを日課に組み込む。歩けるうちは海外旅行をするが、もちろんツアー参加のビジネスクラスがいい。さまざま趣味や習い事を楽しみつつ、社会的意義を感じたくてボランティア活動にも参加する。このような老人像を拡大再生産しているのが、第1章の1.1で言及した既存の二つのジェロントロジーである(10)

ところが、このような老人像を打ち砕くのが老人世代の階層二極化である。この二極化を前にして新たに要請されるのは、三つめの<世代的・能動的老人像>である。すなわち、定年後も何らかの形で仕事を継続する(これには生活のために仕事をせざるを得ないという事情もある)。支えつつ支えられる関係の中で、仕事やボランティアによって種々の社会的関与を行う。この社会的関与を通じて、同世代や他世代から尊敬され、これが生き甲斐となって幸福感が得られ、それが延いては健康づくりにも役立つ————このように描かれる老人像を地域のコミュニティづくりへとつなげるためには、単なるイメージをこえて新たな理論的枠組みが必要だろう。それが<老成>の視点にほかならない。

 

2.3 <老成>の視点と<老成社会>

<老成>とは、老いが老いに成ること、つまり、老いが老い自身を再帰的に意味づけ直すことである。この視点をとれば、老いは熟成のような完成した状態ではなく、不断に自己更新するプロセスとして捉え返される。英語で表わせば”Re-ageing” になろうか。

<老成>の視点から個人と社会をながめてみよう。個人のレベルで老成するとは、老いた個人が自身を意味づけ直すことである。これをさらに展開すると、老人が自分自身の社会的関与の仕方を捉え直すことになる。他方、社会のレベルでは、「老いた社会」が社会自身を意味づけ直すことであり、延いては老人世代が自分たちの社会的関与の仕方を見直すことである。「老いた社会」という表現をするのは、近代化の延長線上にある現代社会が人口構成上では「高齢社会」であり、「高齢社会」は「老いた社会」といえるからである。

 世代的な社会関与の見直しの中から浮かび上がるのは、老人世代の経験と知恵が活用される社会、すなわち<老成社会>である。これは「一億総活躍社会」という総花的で拡散的なイメージではなく、ターゲットをとくに老人世代に絞ったいわば老活社会である。この未来社会では、老人たちは社会的関与を通じて他世代から尊敬を受け、生き甲斐と生きる喜びを感じる中で、溌剌として健康にもなるだろう。彼らの社会的関与の場は介護の領域だけにとどまらない。広く社会の全領域に及んでコミュニティづくりにつながることになる。

<老成社会>は地域の住み慣れたコミュニティを基盤とする。この点で既存の社会モデルとは違っている。一例を挙げよう。政府の「地方創生会議」では現在、先に言及した日本版CCRC(Continuing Care Retirement Community)が目玉の一つになっている(11)。これは老人だけが暮らすコミュニティであり、米国に多く見られるシルバータウンの日本版である。そこでは相互共助が旨とされ、それを大学や企業がバックアップする。また、老人が例えば地域の教育に関与するというように多世代共生も謳われる(12)。しかし、そこはいうまでもなく住み慣れた地域ではない。

老中青の三世代が住み慣れた地域の中でコミュニティづくりをめざし、それぞれの長所を発揮しながら補う合うことによって、はじめて持続可能な社会が期待できるのではなかろうか。振り返れば、国民国家を立ち上げた日本の近代社会は、富国強兵の政策を推進する中でピラミッド型の人口構成になった。そこでは家族と企業による共助が介護・福祉の中心だった。その後の国家総力戦の敗北をへて、戦後社会の人口構成は少子化・高齢化によって次第に釣鐘型になった。それでは、持続可能な社会の人口構成はどうなるだろうか。総人口が減少する中でおそらく鉛筆ロケット型になると考えられる。そこでは30年区切りの三世代が支えつつ支えられる関係の中で相互に関与し合う。図1を見ていただきたい。

ただし、もちろんその持続可能社会にも問題がある。たとえ釣鐘型からロケット型へとスムーズに移行できたとしても、異常気象による自然災害や戦争のリスクを否定できないかぎり、三世代のバランスといっても短命になる可能性がある(13)。あるいは、高齢化がますます進行すれば、老化にともなって「認知症」をかかえる老人も増加する。そのとき、老衰による自然死を待たずに自発的安楽死を願う声が強まり、安楽死とほとんど差のない鎮静による死への要求が高まるかもしれない。社会はその答えを用意しておく必要に迫られる。

 

2.4 <老成学>の理念

 <老成学>とは、再帰的な視点を組み込んだジェロントロジー、つまり、不断に自己に再帰するジェロントロジーである。この<老成学>が最終的にめざすのは、地域に暮らす老人世代が同世代や他世代に向けて社会的に関与する中で、コミュニティづくりを共に担うことを通じて地域の中に持続可能な社会を実現することである。

そのためには社会の全領域を視野に収める理論的枠組みが不可欠である。しかし、従来のジェロントロジーにはその種の社会理論(社会システム理論)が欠けていた。その反省に立って<老成学>では理論的枠組みを用意する。それが、<意味の根本構造>を基礎にした<四領域>論であり、意味コミュニケーションの本質をふまえた<媒介的関与>論である。前者の解説は付論に回し、後者について次章で論じることにしたい。先取りしていえば、社会の領域は四つの社会的コミュニケーション群(協働・共助・協治・共有)に区分され、それぞれに対して<媒介的関与>が向けられることになる。

以上のように、老人世代の全社会領域にわたる関与に焦点を合わせるかぎり、<老成学>は関連する学問諸分野を横断しつつ統合する役目を負うことになる。ここで関連する諸分野とは、二つのジェロントロジー、ジェネティクス、ジェネオロジー(生殖・出産学)、子ども学、若者論、女性学、ケア学、死生学、ボランティア論、社会保障論、社会疫学等である。<老成学>の当面の研究目標は、社会の全領域にわたって<媒介的関与>を実現するための条件を探求することである。そのために国内外の先駆的な事例(団体や個人や地域)をできるかぎり収集し、実現の条件を分析した上で、多様なモデルやスタイルの試みをつなぎ合わせて提示する。

ここで<老成学>の理念をいっそう明確にするために、既存の「J-AGES」と比較してみたい。J-AGRSとは日本老年学的評価研究の略であり、2003年に開始された社会疫学の大規模アンケート調査である。この調査の窓口は自治体である。2016年段階では全国30の自治体が参加し、調査協力者は約14万人に及ぶ。調査項目は健康と生活に関して網羅的であり、これにもとづいて地域包括ケアのための政策づくりがめざされている。また、身近な援助や地域のつながりに関する項目も充実している。最新の改訂版では転倒防止に重点がおかれ、介護予防の政策づくりが目標になっている(14)

それに対比するなら<老成学>はこうなる。①「ソーシャルキャピタル」のターゲットとして、地域の老人人口全般ではなく、近所にいる元気な老人世代を想定する。②彼らの社会的関与の仕方に関して、新たに媒介型のボランティアまたは仕事を考える(15)。これについては次章で説明する。③媒介型の関与に参加する条件の探究が関心の焦点になる。④「認知症」の老人をめぐる現場が研究の起点であり、ここでのモデルが社会的関与の原点になる。⑤「四領域」の枠組みに沿って社会の全活動領域を整理し、その中に介護を含めて老人世代の社会的関与を配置し、それらが結びついて全体としてコミュニティづくりにつながるよう工夫している。その点でいえば「健康」はアプローチの一つにすぎない。⑥先駆的・先進的な人物・団体・地域を選定し、参与観察と定点観測を通じて、媒介型の社会的関与への参加の条件を探索する。<老成学>はフィールド倫理学なのである。

 

第3章 潜在的な対立構造とコミュニケーションモデル

 

 「認知症」をかかえた老人をめぐる介護現場に降り立ってみよう。その中心にいるのは「認知症」の当事者本人と介護する家族である。この両者のあいだには、「できない自分」へのいらだち、見慣れぬ世界に対する不安、周囲の視線、介護による体調不良や不眠など、さまざまな対立・葛藤の根が潜在している。この両者を取り囲んで支援しているのが、介護プロや医療プロや行政プロである。そしてここにもまた複雑な対立・葛藤の状況が広がっている。そのような介護現場の中で、近所に住む比較的元気な老人たちのできる関与が<媒介的共助>である。この中身を明確にするためには、迂遠ではあるが前もって、医療倫理を例にとって対立構造とは何であるかを把握しておかなければならない。

 

 

3.1 疾病・視点・コミュニケーション

 医療倫理における対立構造を把握するために、疾患・疾病タイプ、患者への視点、それにコミュニケーションモデルの違いについて押さえておく必要がある。

一つめは疾患・疾病タイプの違いである。傷つき病み苦しむ人が医療システムの内側に入ると「患者」になるように、病気(illness)は医療システムの中では「疾患または疾病(disease)」になる1。ここで、人間が三つのサブシステム、すなわち、生命(分子)システムと生物(情動)システムと自己意識(記号)システムから構成されるとする(2)。そして、生命システム(細胞のネットワーク)における生体分子の接続の異常を「疾患」、この疾患を基盤にして発現した生物(情動)レベルの症状・症候群を「疾病」としよう。このとき、全身の症状はすべて細胞ネットワークの異常や変性の表現であるが、その発現の仕方や態様はそれぞれの組織・器官において多種多様になる。例えば、個体の身体機能の不全、発生・発達における障害、情動や思考の制御不能、社会的な異常行動のように、発現の焦点がそれぞれ違ってくる。以下では、医療倫理における対立構造を取り出すために、病理学教科書における分類(カテゴリー)をふまえつつも、それとは別様の区分を試みよう(3)

まず、圧倒的に多いのは❶癌や感染症や関節炎のような身体疾病のタイプである。このタイプでは身体の特定部位の異常によって身体の全体が影響を受け、日常生活に支障を生じる。次に、❷発達において個体の形態や機能が影響を受ける疾病タイプがある。遺伝子単一病などの先天的異常がこのタイプである。また、❸脳・神経の代謝や伝達に異常の原因があり、記憶や人格の変容にともなう不安感から、「問題行動」やコミュニケーション上のトラブルを発生させる疾病タイプがある。「認知症」はこのタイプである。最後に、❹うつ病や自閉症のように精神に障害を受ける疾病タイプがある。これについてはさしあたり、自己や世界の認識や関係に関連する独特の歪みをもたらすタイプとしておく。

 二つめは患者に対する視点の違いである。医療現場では職業倫理をはじめ、組織倫理、家族倫理、一般社会倫理(社会常識)、生命倫理、法規制など、複数の倫理的な視線が交錯している。そこで患者に対する視点をさしあたり四つに分類しておく。まず、患者を生命体として捉える医学的視点がある。次に、患者の人間的な心理に注目する共感的・実存的視点がある。他方、患者の権利と社会的人格の対等さに注目する法的・政治的視点もある。そして最後に、患者の存在や歴史といった価値に注目する社会的・歴史的視点がある。付論で説明するように、これらの視点はそれぞれ異なる価値理念と関連しており、相互に独立している。

三つめはコミュニケーションモデルの違いである。このモデルには次の二つがある。図2a図2bを見ていただきたい。

一つは<片側同化>モデルである。このモデルでは、関係する双方の側が一方的な説得(啓蒙・啓発や情動的な訴え)を通じて、相手側を自分の立場に引き寄せ、最終的に同化することをめざす。これにはさらに二つのサブタイプがある。すなわち、専門家(または為政者)の側が説得を通じて非専門家(または民衆)の側に働きかけるタイプと、その逆に、非専門家の側が感情を総動員して自分たちの見解を専門家の側に押しつけるタイプである。救急医療の現場には今日でも前者のタイプが典型的に通用している。たほう、ワクチン行政の遅滞は後者である。

もう一つは<両側合意>モデルである。これは双方の側が話し合いを通じて互いに理解し合い、最終的に合意に到るというモデルである。臨床のコミュニケーションにおいて望ましいとされるこのモデルだろう。医療者側はベストの治療法や予後を提出し、患者側は自分の希望や人生観を語る。そして相互理解の末に最善の治療が選択されるというわけである。たしかに慢性病の患者で自分の考えを語ることができる場合なら、このモデルが魅力的に映るかもしれない。しかしこのモデルでは、双方の側の視点の違いや理解の捉え方が浅く、表面的であるように見える(4)

 

3.2 医療倫理における対立構造

以上で指摘した三つの条件を総合することで、医療倫理をめぐる対立構造を際立たせてみよう。ただし、ここに浮かび上がる対立構造は医療現場だけに限られるものではない。社会組織の一般的な場面にも、そしてもちろん介護の現場にも基本的に潜在する。

医療の現場では長らく、医療者と患者の家族の阿吽の呼吸の中で、患者にとって最善と考えられた治療または処置が選ばれてきた。そして医の倫理は伝統的にそうした慣行を正当化してきた。これは典型的な<片側同化>モデルである。近代医学の誕生以降でもこのモデルが基本的に通用してきた。そのさい、おもに糖尿病や感染症などの身体疾病が想定され、もっぱら医学的視点が支配的だった。しかし、長年のそうした医療倫理を「パターナリズム」として非難する動きが1960年代後半の米国で生まれた。バイオエシックス(生命倫理)である。そしてこの動きは1980年代から1990年代にかけて、世界中の近代医療先進国へと急速に広まっていった。バイオエシックスが強調したのは、政治的・法的な権利の視点であり、患者の自律(知る権利と自己決定の権利)である。したがってこれまた極端な<片側同化>モデルである。

伝統的な医の倫理とバイオエシックスは一見すると対極にある。しかし、両者のあいだには共通点もある。バイオエシックスは政治的・法的視点を強調するが、近代医学の視点を否定していない。その上で、患者が自己決定できる身体疾患タイプを想定している。したがって、当初は鋭く対立していた両者であるが、やがて共同歩調をとるようになる。具体的には、「インフォームドコンセント」の手続きのマニュアル化であり、「倫理委員会」という装置の制度化である。こうして二つの<片側同化>モデルの対立をこえる理想として、<両側合意>モデルが位置づけられたのである。図3を見ていただきたい。

ところが、そのような<両側合意>モデルを断固として拒否したのが、障害者運動・障害学である。アリシア・ウーレット著『生命倫理学と障害学の対話』(安藤泰至・児玉真美訳、生活書院、2014年)によれば(5)、障害者運動の側にとって焦点となるのは❶身体疾病一般ではなく、おもに❷発達疾病タイプである。そしてこの種の「障害」に対する社会の否定的な視線による差別と苦しみが原点にあり、これに向けられた共感と連帯が倫理の起点でなければならない。したがってそもそも「疾患・疾病」という医学的視点じたいが拒絶され、「倫理委員会」という合理性の装置に代えて法廷闘争が選ばれる。これは極端な<片側同化>モデルである。この立場からすれば、バイオエシックスの<両側合意>モデルは<片側同化>モデルの偽装にすぎないことになる。図4を見ていただきたい。

ここに、❷の発達タイプの疾病をめぐって二つの<片側同化>モデルが対立していることになる。しかし、このような対立の構造は❷だけに特有なのではない。歴史的に見るならむしろ❹精神疾病タイプにおいてこそ典型的であったし、今日では❸脳疾病タイプのとくに「認知症」をめぐって露呈している。要するに、対立の本質とは二つの異質なコミュニケーション同士の対立、つまり、二つの異なる(閉鎖的な)意味づけ同士の対立なのである。医療現場を離れて社会組織における政策決定の場面に広げるなら、決定する側と決定の影響を被る側のあいだでその種の対立はいつでも発生している。そうだとすれば、コミュニケーション同士の対立構造を解きほぐすために求められているのは、新たなコミュニケーションモデルということになろう。

 

3.3 対立の移動をめざす<両側並行>モデル

本論文の答えは<両側並行>モデルである。図5を見ていただきたい。これは双方の側の「一致」をめざさない。<同化>も<合意>も「一致」である。そのかわり、現状の硬直した対立の場を流動化し、別の対立の場へと移動させることを目標にする。このモデルの前提には<自己変容システム>という捉え方がある。<自己変容システム>は外的刺激を変換しつつ受容し、内部において意味を解釈することを通じて自己変容する。双方の側が相互に外的刺激となって自己変容する中で、対立の場そのものも変容するのであるが、ここではこれ以上詳述しない(6)

対立の場の移動をめざすといっても、それにはもちろん多様なパターンがある。双方の側が接近してほとんど重なるパターンもあれば、いっそう離反して対立が激化するパターンもあろう。<片側同化>や<両側合意>というパターンは、多様なパターンのうちの一つ、しかも極限パターンとみなすことができる。現実のケースで例証しよう。

2005年の福知山(別名は宝塚)線事故は、運転士を含めて死者が107名、負傷者が562名にものぼる大惨事であった。被害者遺族とJR西日本は話し合いのテーブルについた。被害者遺族側が要求したのは、通例と同様、事故の責任者の徹底追及と事故原因の根本究明だった。それに対してJR西日本側は、事故の責任は運転士個人にあり、会社組織は無関係と弁明した。2015年までに27回の話し合いがもたれた。その結果、会社側はヒューマンエラーが起こりうることや、組織内に連携不足があったことを認めた。遺族側のほうは再発防止を遺族の使命と考えるようになった。しかし、対立の構造はそのままであり、対立が解消したわけではない(7)

以上の事態をどのように評価すればよいのだろうか。「一致」を目標にすれば、対立の関係が残るかぎり否定的な評価になる。しかし、双方の側が自己変容して対立の場が移動しているかぎり、<両側並行>モデルでは肯定的に評価できる。時間はかかってはいるが、これが対立の現実の動きであるとすれば、それに沿った形で対立構造をとらえる必要があろう。ところで、もしもそこに<両側並行>モデルを体現した媒介者がいたら、対立の場の移動に要する時間はもっと短縮されたかもしれない。後悔と苦しみの思いが消えることはないとしても、多少とも軽減されて癒されたかもしれない。たしかに揉め事を解決(解消)するのは時間である。しかし人間ならその時間を短縮できるはずである。それが媒介者の役目である。

 

3.4 両側並行モデルの<媒介者>

関係し合う双方(ないしはそれ以上の複数者)のあいだに一定の対立構造が横たわるとき、それを解きほぐすよう働きかける媒介者(仲介者)には、大まかにいえば次の4タイプがある。すなわち、<中立者>、<仲裁者>、<合意形成者>、<助言者>である。図6を見ていただきたい。いずれのタイプも話し合いのテーブルを準備する点では共通しているが、その先の関与の仕方が違っている。

最初の<中立者>は、話し合いのテーブルを用意した後、いかなる関与もしない。ただ外部から見守るだけである。話し合いを通じて何事かを決めるのはあくまで双方の当事者の側である。その意味では放任であり中立である。話し合いの結果、対立の状況が継続するのか、いっそう激化するのか、あるいは消滅するのかについては関知しない。

二番目の<仲裁者>は、話し合いの推移を見守りながら、それが膠着状態に陥ったとき、自身が最適と考える仲裁案を提示する。そして強引に調停にもっていくことによって対立を解消する。日本の家庭裁判所の調停制度がその典型例であるし、国際紛争の調停でもこのパターンが多い。仲裁案はいずれであれ外部からの強引な同一化である。

三番目の<合意形成者>は、話し合いの過程の節々で関与し、論点を整理して議論の方向を定める。そうやって合意へ向けて議論をリードし、誰もが納得できる合意をめざす。合意形成者の理性的な視線は個別の利害関係を超越する。ただし、その合意のうちには、(気象温暖化対策をめぐる2015年パリ協定の例のように)利害関係者のあいだの妥協の産物であり、玉虫色の解釈を許すような例が多々見られる。

最後の<助言者>は、その他のタイプと違って話し合う当事者たちの外部には立っていない。対立し合う当事者たちと同一平面上にいて、見つつ見られる(観察しつつ観察される)関係にいる。そして双方の側の相対性とそれぞれの盲点を指摘しつつ、(同時に自分の相対性と盲点を自認しつつ、)その場その場で相応しい助言を与えることによって、双方の側の自己変容を促す。以上を通じて対立の場を流動化し、移動させることをめざす。

<両側並行>モデルにおける媒介者としてふさわしいのは、もちろん<助言者>である。老人世代は身体機能の点では若者世代に劣るが、人生経験と知恵のほうでは一般に豊富である。したがって、老人世代には元来<助言者>タイプの関与が適している。このような関与を<媒介的関与>と命名しよう。近所の老人世代による<媒介的関与>が「認知症」の現場に適しているとすれば、それは具体的にはどのような中身になるのだろうか。次章ではその中身にふみこんでみよう。

 

第4章 「認知症」老人の主観的経験と<媒介的共助>

 

ここでふたたび「認知症」の老人をめぐる介護現場に立ち戻る。そこには「認知症」の当事者である老人と看護する家族、この両者を支援している介護プロや医療プロや行政プロ、そのほかにボランティア団体がいる。しかし、ここで忘れてならないのは、隣家の介護状況をそれとなく見ている近所の人々であり、とくに元気な同世代の老人たちである。近所の老人世代に注目してみよう。彼らに期待できるのはどのような<媒介的関与>だろうか。図7を見ていただきたい。その焦点は「認知症」老人自身の心理的ニーズ、つまり「主観的経験」であり(1)、それと同時に、介護する家族の心理をも織り込んだ両者の関係性である。しかし、そもそも主観的経験とはどのような世界だろうか。まずは、「認知症ケア」における二つのアプローチを対照しながら、主観的経験の相対的だが独自の次元を押さえておこう。

 

4.1 認知症ケアのアプローチと非還元主義的な枠組み

その一つがいわゆる生物医学的・予防的アプローチである。これは「認知症」の原因疾患を脳の変性に求め、脳疾患の観点から症状群とこれに起因する心理を推し量り、社会的な「問題行動」に対して効果的なケアを探る。その延長線上に早期発見・早期治療(薬漬け)を位置づけ、予防に心がける。これは現在の老年医学の主流である(2)。もう一つがいわば実存的・社会心理的アプローチである。これは、記憶を失って途方に暮れる「認知症」の人が抱く不安感を正面から受け止め、人間的な限界状況の観点から彼らの行動を理解する。そしてそれにふさわしいケアを行うことによって症状を解消することをめざす。このアプローチの好例が「パーソンセンタードケア」とされる(3)。二つのケアの違いを図8a図8bに示す(4)。前者が下降スパイラル曲線になるのに対して、後者はレジリアンス波動曲線を描いている。

理論的な観点から二つのケアアプローチを捉え返してみよう。前章で導入したように、人間が三つのサブシステムから構成されているとする(5)。その三つとは、ミクロな生体分子の接続レベル、マクロな情動・イメージの接続レベル、それに記号を接続する自己意識のレベルである。この枠組みをあてはめてみると、前者のアプローチは脳還元理論であり、生体分子の接続レベルから情動のレベルをへて自己意識のレベルへと向かう、一方向的な因果的決定論ということになる。他方、後者のアプローチは実地の臨床体験をふまえ、その直観に裏付けられた経験主義であり(したがって理論とはいえない)、前者とは対照的に、自己意識のレベルに発する逆方向の因果的決定論になる。

学説史的にいえば、以上の二つのアプローチを総合したところに小沢勲の認知症理論が位置づけられる(6)。これは脳疾患と「中核症状」と「周辺症状」の3水準から構成される。脳疾患によって決定される「中核症状」がケアでは対応できないのに対して、パーソナリティと環境の相互作用に基因する「周辺症状」のほうは、周囲からの適切なケアによって解消するとされる。小沢の理論は現在でも「認知症新時代のケア理論」として大きな影響力をもっているようだが(7)、すでに指摘したように、「物忘れ=アルツハイマー病=認知症」という等号関係を前提にして症状を捉えている点では、一時代前の理論といえる。脳疾患と中核症状との接続の理論化を放置しているかぎり、二つのアプローチの総合ではなく、むしろ二元論に留まっているといわざるをえない(8)

そこで、還元主義的ではない非決定的論な理論を提案したい。図9を見ていただきたい。人間システムの三つのレベルではそれぞれ、構成要素のあいだの接続がいつでも偶発的・未決定的あり、この不安定な接続を一定の接続パターンとしての<構造>がかろうじて方向づけている。それだけでなく、三つのレベルの<構造>同士のあいだを偶発的・未決定的に接続する<高次の構造>もまた形成されている。こうして多重にもつれ合う未決定性の中で、人間システムの三つのレベルのあいだには双方向の偶発的・未決定的な因果関係が生じている。以上のように考えるならば、二つのアプローチを理論的に媒介することができるだろう。

具体的にはこうなる。脳における生体物質の接続の異常(例えば特定タンパクのカスケード)は、身体レベルの多様な症状(記憶や見当識などの障害)をもたらし、それが他者とコミュニケーションする自己意識(不安)の中で多様な形で解釈され、「問題行動」(徘徊や弄便)となって表現される。逆に、周囲の関与を通じて不安の気持ちが鎮まり、穏やかな心理状態によって症状が弱くなり、これが延いては間接的に生体物質の接続異常を停止させるという方向もありうる。ともかく、一つのレベルにおける構成要素の接続のネットワークが、他の二つのレベルの接続のネットワークとゆるやかにつながる(9)。三つのレベルの接続のネットワーク同士が多重的かつ多層的に、多=多=多の非決定的な双方向の因果関係において連関するのである(10)

以上のような理論的媒介によって「主観的経験」の相対的に独自の次元が確保される。次に、節をかえてその中身を把握するために、「パーソンセンタードケア」を提唱したトム・キットウッドの枠組みを検討しておこう。

 

4.2 パーソンセンタードケアの「主観的経験」

トム・キットウッドによれば、個々人の心理的ニーズ(主観的経験)は「愛の5枚の花びら」として把握される(11)10を見ていただきたい。Love(愛)が花の芯にあたる。その周りを5枚の花びらが取り囲む。すなわち、「Comfort(安らいだ心地)」、「Occupation(何かをしていること)」、「Attachment(親密なつながり)」、「Inclusion(仲間としての承認)」、「Identity(自分らしさの尊重)」である。

5枚の花びらはたしかに芸術的にみて美しい絵柄ではある。キットウッドはそれが経験と勘にもとづいていることを認めている。しかし、学問的な認識は情感豊かな芸術とは異なる。そもそもなぜケアはLoveなのか。しかもなぜこの5個になるのか。キットウッドには理論的な突き詰めが不足している(12)

キットウッドはまた、主観的経験を有している個人の価値を低めたり、高めたりする行為が17個あるという(13)。臨床の経験を通じて最初に10個が抽出され、後に7個が追加された。彼によれば、生物医学的アプローチにもとづくケアは個人の価値をもっぱら低めるだけである。これが従来のケアの文化であった。これに対して個人の価値を高めるよう働きかける新しいケアがある。それが「パーソンセンタードケア」である。問題の17個の(個人の価値を低める/高める)行為のリストはこうなる(14)

 

① 騙すTreachery/誠実に対応するGenuineness

② できることをさせないDisempowerment/能力を発揮させるEmpowerment

③ 子供扱いするInfantilization/尊重するRespect

④  脅かすIntimidation/思いやり(優しさ・温かさ)を示すWarmth

⑤ レッテルを貼るLabeling/受け入れるAcceptance

⑥ 汚名を着せるStigmatization/個性を認めるRecognition

⑦ 急がせるOutpacing/リラックスさせるRelaxed pace

⑧ 主観的現実を認めないInvalidation/共感をもって分かろうとするValidation

⑨ 仲間外れにするBanishment/一員として感じさせるBelonging

⑩ もの扱いするObjectification/共に行うCollaboration

⑪ 無視するIgnoring/一緒にいるように感じさせるIncluding

⑫ 無理強いするImposition/必要とさせる(支援させる)facilitation

⑬ 放っておくWithholding/包み込む(安らぎを与える)holding

⑭ 非難するAccusation/尊重するAcknowledgement

⑮ 中断するDisruption/関わりを継続できるようにするEnabling

⑯ からかうmockery/一緒に楽しむFun

⑰ 軽蔑するDisparagement/尊び合うCelebration

 

これらをどう見ても、雑然とした印象を拭い去ることができない。重複もあれば、区別の難しいものもある。しかし、なぜこの17個なのか。経験的思考とちがって哲学的思考の特徴の一つは、データをふまえて形成された一般概念(法則)を合理的な観点からあらためて再構成することである。ケアという対面的コミュニケーションの基本に立ち返って、キットウッドの経験的な洞察を再構成してみよう。

 

4.3 対面的コミュニケーションとその分化

対面的なコミュニケーションとは、主観的経験をもつ個人同士が一定の意味をやりとりすることである。それは原初的には(初対面の場合のように)手探りから始まる。相手の行動の意味(情報と意図)は双方ともに不明である。いや、相互に相手が不明だからこそ、むしろ意味をめぐる偶発的で未決定的な接続が反復するのである。コミュニケーションの原初の姿を典型的に表しているのは、例えば童謡「やぎさんゆうびん」である(15)

双方の内部では次のような理解のプロセスが進行している。すなわち、情報の受容→メッセージの解釈→比較→評価にもとづく行動選択である。ここで比較されるのは、二つの意図、すなわち、相手について(客観的ではなく)主観的に解釈した意図と、自分が相手の立場に立ったときに抱いていると想定した意図である。そのどちらも自他に関する自己内部の主観的な解釈または想定である。

そのようなやりとりの反復の中から予期と期待を通じてコミュニケーションが安定してくる。やがてそこに一定の接続パターンとしての<構造>が形成されると、対面的コミュニケーションは社会システム(短縮して「社会」)になる。ここでの構造とは<信頼(Trust)>である。

以上は対面的コミュニケーション一般の話である。ところが、実際のコミュニケーションになると、まったくの対称的な関係ということはありえない。そこで、能動(身体動作による働きかけ)−受動(心の状態の表出つまり態度)という軸を設定して区分してみよう。それがすなわち、<能動—能動>タイプ、<受動—能動>タイプ、<能動—受動>タイプ、<受動−受動>タイプの四つである。11を見ていただきたい。

最初の<能動—能動>タイプでは、片側の能動に対して他の片側の能動が接続する。これに属しているのは、操作に操作が接続する「技術」、処理・片付けに処理・片付けが接続する「生活」、労働に労働が接続する「産業」、支払いに支払いが接続する「経済」である。これらのコミュニケーション群はすべて<実用性>の価値理念の下にまとめられる。

次の<受動—能動>タイプでは、片側の受動に対して片側が能動でもって接続する。ここには、痛みや苦しみに対する「癒し」、困窮に対する「支援」、未熟に対する「育み」、無知に対する「教え」、といったコミュニケーション群がくる。これらがめざすのは<共同性>の価値理念である。

三番目の<能動—受動>タイプでは、片側の能動に対して他の片側が受動でもって応える。例えば、制度の執行に対する従順(行政)、秩序に対する尊重(慣習)、権力に対する正当視(政治)、権威に対する恭順(法律)がそうである。めざされるのは<統合性>の価値理念である。

そして最後の<受動—受動>タイプでは、片側の受動に対して他の片側もまた受動で呼応する。ここに含まれるのは、認識に続く認識(科学的真理)、感動に続く感動(芸術)、懐疑に続く懐疑(哲学)、信仰に続く信仰(宗教)といったコミュニケーション群である。ここでめざされる価値理念は<理想性>である。

以上に説明した4タイプのコミュニケーション群に対して、それぞれ適当な名称を与えて区別してみよう。<実用性>の価値理念をめざすコミュニケーション群には<協働>がふさわしい。同様に<共同性>群には<共助>が、<統合性>群には<協治>が、そして<理想性>群には<共有>がふさわしいだろう。12を見ていただきたい。<老成学>における<共助>とは、<共同性>をめざすコミュニケーション群、すなわち「医療」、「子育て」、「介護・福祉」、「教育」に対する総称ということになる(むろん、例えばここで特徴づけた医療的コミュニケーションはあくまで「医療システム」の対面的な基盤であって、ここから「医療システム」になるためには種々の条件が必要である)(16)

 

4.4 主観的経験およびケアの行為の再構成

以上をふまえて、ここからいよいよ、「愛の5枚の花びら」としての主観的経験(心理的ニーズ)と、個人の価値を低めるか高めるかする17個のケア行為について解釈を試みたい。

まずは「愛の5枚の花びら」である。そもそも介護ケアはなぜ「愛」なのか。答えは<共同性>の価値理念に求められる。このタイプのコミュニケーションは受動的な状態に対して能動的な行為が接続する。この点では狭い意味の「愛」も同様である。恋する状態の相手に対して他方が応えることから愛のコミュニケーションが始まる(17)。したがって<共同性>の価値理念とは広義の愛だということになる。介護ケアが<共同性>をめざすかぎり、それは愛なのである。

続いて「Comfort安らぎ」の花びらをとりあげよう。人は終末期や被災時のような限界状況に投げ出されたとき、何を願うのだろうか。むろん平穏無事な日常への復帰である。これを突き詰めるなら<ひと時の安らぎ>になる。この意味で「安らぎ」は主観的経験(心理的ニーズ)の核心であり、いわば<最小限幸福>である。この中身をもう一歩掘り下げよう。やがて迫り来る死を覚悟した人が残された日々の中で求めるものは何か。それは私の見るところ次の四つに絞られる。すなわち、ささやかでもいいから最期まで目標をもって過ごすこと、誰かが側にいてくれたり居場所があったりすること、同じ人間として対等な扱いを受けること、そして、自分という存在を受け入れてもらうこと、である(18)。独断を覚悟でいえば、これらは人間の<最小限幸福>を構成する4要素である。13を見ていただきたい。なお、なぜこの四つになるかの理由については付論で論じている。

<最小限幸福>としての「安らぎ」に含まれる4要素を展開・拡大すると、残りの4枚の花びらになる。すなわち、「Occupation(何かができること)」、「Attention(親密な触れ合い)」、「Inclusion(対等な扱い)」、「Identity(自分らしさの尊重)」である。これらは四つの価値理念によって区分される「四領域」に対応する。こうして当事者の心理的ニーズ、つまり自己内コミュニケーションにおける「主観的経験」は、<最小限幸福>を核心とする4個の機能として再構成される。14を見ていただきたい。

4個の機能同士のつながり合いが一定のパターン(構造)を形成するとき、そこに生じるのは自己の生き方に関する<信念(Belief)>である。この信念が自己内コミュニケーションを方向づける(あるいは自己統治する)。ただし、自己内コミュニケーションの<信念>の形成には、対面的コミュニケーションの<構造=信頼>との接続が不可欠である。なぜなら、社会的コミュニケーションなしに個人の自己内コミュニケーションはありえないし、自己内コミュニケーションなしに社会的コミュニケーションもないからである。両者のあいだには相互を変換し合うゆるやかな<高次の構造>が形成されている(19)

次は、個人の価値を左右する17個のケア(コミュニケーション)である。介護ケアは<共同性>を志向する<共助>のコミュニケーション群に属している。<主観的経験>の4個の機能に対応して<共助>もまた、<相互信頼>を核にして4機能に区分することができる。すなわち、「協力連携(Co-Occupation)」、「共感一致(Co-Attachment)」、「相互承認(Co-Inclusion)」、「相互尊重・寛容(Co-Identity Respect or Tolerance)」である。これらを四領域図に配置して17個の行為を位置づけてみたのが15である。

ここに見られるように、ある機能は4個であったり、別の機能は3個であったりしている。しかし、個数が問題なのではない。4機能に分類する基本の原理さえ心に留めておけば、4個でも5個でも6個でも列挙することができる。「パーソンセンタードケア」において行為の分類が難しく感じられるのは、そこに合理性が欠けているからである。上記のように合理的に再構成すれば、そのような心配も消えるはずである。

さて、ここに至ってようやく、冒頭の問いかけに答えることができる。老人世代にとりわけふさわしい関与の仕方は<媒介的関与>である。そして<共同性>の価値理念をめざすコミュニケーション群の文脈では、それは<媒介的共助>になる。「認知症」の現場において<媒介的共助>が向かうのは、「認知症」をかかえる当事者の主観的経験であり、介護する家族の主観的経験であり、そしてこの両者の関係性である。この章では一歩ふみこんでそれらを4機能の枠組みによって捉えてみたわけである。<媒介的共助>はその枠組みをもって、当事者や関係者たちと同じ平面に立ち、支えつつ支えられる関係の中で、相対性と盲点を繰り込んだ適切な助言によって自己変容を促し、対立の場そのものの流動化と移動をめざすことになる。

 

結章 <媒介的関与>によるコミュニティづくり

 

前章で把握したように、対面レベルの社会的コミュニケーションには、<共助>として総称される<共同性>のコミュニケーション群のほかに、<協働>としての<実用性>のコミュニケーション群、<協治>としての<統合性>のコミュニケーション群、それに<共有>としての<理想性>のコミュニケーション群がある。これらの社会的コミュニケーションがつながり合うことによって、地域の<コミュニティ>が形成される。ここでコミュニティとは、地域にねざしたゆるやかなネットワークの集合体であり、家族や組織といった凝集性の高い集合体とはレベルと性質を異にしている(1)

したがって、老人世代にとりわけふさわしい<媒介的関与(mediate involvement)>には、<媒介的共助>だけではなく、<媒介的協働>や<媒介的協治>や<媒介的共有>があることになる。そしてこれらを特定の地域において媒介してつなぎ合わせることが、老人世代によるコミュニティづくりということになる。16を見ていただきたい。

具体化へ向けて一歩進めよう。<媒介的関与>をめぐって<老成学>は二つの実践的な課題に直面する。一つは<媒介的関与>の具体的な方法である。例えば、それは仕事なのか、ボランティアなのか。ここにはNPOや株式会社の位置づけが絡んでくる。あるいは、現場に介入する複数のプロのあいだをいかにして媒介するのか。もう一つは<媒介的関与>に参加する条件である。どのような条件が揃えば、近所の老人たちがそれを担ってくれるのか。この二つの課題の答えを求めて全国の先駆的な事例を収集する必要がある。<老成学>はフィールド倫理学にならざるをえない。以下ではその研究プログラムを兼ねて、モデルとして参考になりそうな実例をいくつかあげておこう。

まずは❷<媒介的共助>から。<老成学>の原点は「認知症」をかかえる老人の介護現場である。この現場で近所の老人世代はどのような関与が期待されるのか京都の「認知症オレンジカフェ」を見よう(2)17を見ていただきたい。

ここでの取り組みは次の理念にまとめられている。すなわち、「自分らしさを発揮し、社会とのかかわりをもてる場所とするともに、情報交換や共感ができ、心が安らぐ場所を提供する。その結果として、認知症への偏見をなくし、認知症になっても暮らしやすい地域をつくる」。具体的な方針としては、「若年性認知症や軽度の段階の人に対するケアの空白を埋める」、「認知症サポーターとして(明日は我が身の)老人世代に働きかける」、「学生ボランティアや専門職(つまり多世代他職種)に協力を求める」、「民生委員や自治会・老人会の役員を巻き込む」がある。いずれも注目に値する。このカフェは「共に同時代を生きる人の交流の場」をめざしている。

<共助>のコミュニケーションは介護・福祉の分野だけに限らない。前章で示唆したようにそれはさらに4分野に細分できる。すなわち「医療」、「子育て」、「介護・福祉」、「教育」である。18を見ていただきたい。したがって、<媒介的共助>は4分野に応じて多彩になる。思いつくものをあげよう。「医療」では模擬患者、院内ボランティア、産婦支援、看取り支援などが考えられる。「子育て」では片親支援、学童保育、若者引きこもり支援などがあろう。「介護・福祉」では、「認知症」の老人への支援のほかに、各種の障害者の支援、心の病で苦しむ人のサポート、独居老人の世話などがある。「教育」ではOB教師支援、NPO塾、出張授業、政治教育などであろうか。

実例をとりあげる。浜松市のある老人劇団は模擬患者として貢献している。東京都港区や千葉県松戸市ではシルバー世代向けに子育て支援研修を開いている(3)19を見ていただきたい。名古屋のNPOでは孤立した老人向けにランチボックスカフェを開いている(4)。あるいはまた、高知市の「健康生き生き百歳体操」では老人たちが自主的に運営しているところがあり、同じく高知県土佐町では健康診断に参加した老人たちが同世代向けに事業を行っているという(5)。そのほか、宮城県北部の田尻町や北海道釧路市における取り組みが定点観測の対象になるだろう。

二つめは❶<媒介的協働>である。この領域には「技術」、「生活」、「産業」、「経済(市場)」の分野が含まれる。これらの分野をつなぐ先駆的な例に、福島県二本松市東和地区のNPO「ゆうきの里東和」がある(6)20を見ていただきたい。このNPOは「道の駅」ほかを経営しているが、会員250名のうち70歳以上が70%を占める。2014年までは何と90歳以上が3名もいたという。理事20名が徹底討議を行い、「里山再生プロジェクト」を立ち上げている。地方再編(市町村合併)や震災による危機感から老人たちが知恵を絞った結果である。このNPO以外にも全国各地にはさまざまな取り組みがある。それらを訪ねてみたい。

三つめは❸<媒介的協治>である。例えば、自主防災組織は2011年以降になって全国各地に作られたが、その活動実態となると結成率とのあいだに乖離があるという。その背景には担い手の高齢化や、地域の結束力の弱体化、町内会の硬直化などがある(7)。総務省や地方自治体による上からの組織作りの限界だろうか。しかし、せっかく存在する組織や団体である。どうやったらそれらを活性化できるかを考えたほうがよい。「民生委員」についても同様であろう。そのためには、地域全体にかかわる政治を身近なものにする必要がある。その点で注目に値するのが「土日夜間の議会」開催をめざす東京都千代田区の運動である(8)21を見ていただきたい。もちろん、老人になってから政治教育を受けても遅い。ドイツの政治教育のように若い頃からの訓練が必要であり(9)、そのために土日夜間の議会開催が必要なのである。先の「ゆうきの里」の<協働>を支えているのは、青年団の時分からの仲間同士の議論と結束だったという(理事長の話)。シルバー世代の政治活動の実情をドイツや北欧で確認してみたい。

四つめは❹<媒介的共有>である。ここには「科学」、「芸術」、「哲学」、「宗教」の分野が絡んでくる。興味深い取り組みをあげよう。信州大学名誉教授が中心になって行われている「ライチョウ・ボディーガード作戦」がある(10)22を見ていただきたい。舞台は南アルプス北岳山頂である。過疎化による山林放棄によって、テンやキツネやサルが山頂近くまで進出してきたため、天敵を知らず恐れないライチョウが絶滅の危機にある。これも自然環境の保護の一つであるが、若い人にはなかなかできない活動である。あるいは、大衆演劇を支えているのは大阪のおばちゃんたちである。最近ではシルバー世代に連れられてきた若い世代もいる(11)。そのほか、全国を見渡せば、祭りや伝統芸能の継承に関して老人世代が大活躍している。また、「哲学カフェ」や「哲学塾」もある。

以上で取り上げたような多種多様な活動は、従来、それぞれ別個のものとして見られ、それらのあいだに何らかの関連性があるとは考えられてこなかった。<媒介的関与>という視点はそれらのうちに連関と統合のまなざしを向ける。老人世代の種々の活動同士を数珠玉のようにつなぐのが<老成学>なのである。

<媒介的関与>によるコミュニティづくりの延長線上に、空間の再編成という課題が浮上する。現在、全国のいたるところに老人世代の孤立・孤独化が広がっている。それは宮城の仮設住宅でも、中津江村のような過疎の地域でも、東京の高島平団地でも同様である。そのために遠距離介護、保健師の巡回、ICT活用が必要になる。しかし、そのような事態を否定的で後ろ向きにではなく、肯定的に前向きに捉えてみてはどうだろうか。第1章の末尾で示唆したように、いまこそ新たにコミュニティを再生する機会として、である。例えば、福島の川内村は、原発事故によって強いられた結果とはいえ、中世以来の枠組みを再編し、新たなコミュニティづくりへと歩みだそうとしている(12)

地域のコミュニティを「コンパクト化」するアイデアがある(13)。これを<老成学>から受け止めるとき、同心円状のコミュニティ空間を構想できる。コミュニティの中心(シティ)には賑やかな商店街がある。その近傍の周囲には行政機関、病院、郵便局、学校、公民館等とともに、老人ホームも配置される。そしてさらにその周囲を<協働>と<共助>と<協治>と<共有>のネットワークが取り囲む。そのさい、例えば認知症カフェのように人々が集う場所として、既存の学校や幼稚園・保育園、公民館等の利用が考えられる。そのためには縦割り行政の壁を取り払う必要があろう。また、寺社の活用も考慮に価しよう。寺社の伝統的な力は貴重である。新たな活用によって葬儀と墓管理に縛られた寺社自身の再生につながるかもしれない。

以上をまとめる。<老成学>の原点は、「認知症」の老人をめぐる介護現場に向けられる<媒介的共助>である。そしてこの<媒介的共助>が有効に機能するためには、コミュニティの底力、つまり地域の人々の思いと活動の結集という裏付けが不可欠である。それゆえ<老成学>はコンパクトなコミュニティづくりをめざし、近所の老人世代を種々の<媒介的関与>へと動かすための実現条件を探求するのである。

 

 

序章

(1)これが森下直貴編『生命と科学技術の倫理学』(丸善出版、2016年)のテーマである。

(2)<老成>の「成」は、完「成」ではなく、再帰的な生「成」を意味する。このような「成」の捉え方は、例えば女性の場合の「女成学」のように応用力・展開力をもつ。

(3)<老成学>は次の科研費研究助成を受けている。基盤(B)特設分野:ネオ・ジェロントロジー、研究課題番号:15KT0005、研究課題名:<老成学>の基盤構築−−<媒介的共助>による持続可能社会をめざして、平成27〜30年度、研究代表者:森下直貴。

(4)森下直貴、「子育て」に今日的意義はあるか—―<身近な他者たちの協同作業>という視点、『都市問題』第102巻第12号、44-52頁、2011年。

(5)森下直貴、病と健康(主題別討議報告)、『倫理学年報』第61集:58-70、2012年。

(6)森下直貴「『健康』を哲学して『老成社会』の提唱に及ぶ」、『人間会議』夏号18−23頁、2014年。

(7)森下直貴「《雑融性》としての「成熟」――「若者世代」論から《規範的なもの》の考察へ」、『哲学と現代』(名古屋哲学研究会)26号:42-87頁、2011年。

(8)森下直貴「『家族』の未来のかたち――結婚・出産・看取りをめぐる人類史的展望」、古茂田宏他編『21世紀への透視図』第3章、青木書店、2009年。

(9)ちなみに、1995年は時代の転換を象徴する年であった。この年の事件には、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、無党派層の拡大、村山談話、金融機関の不良債権、日本型経営の崩れ、ウィンドウズ95、新世紀エヴァンゲリオン等がある。また、墓や葬式に対する社会意識の変容については、井上治代『墓と家族の変容』(岩波書店、2003年)を見よ。

(10)ここでの<共助>は「互助」を含んでいる。ちなみに、藤森克彦『単身急増社会の衝撃』(日本経済新聞社、2010年)では、家族間の支援を「互助」、年金等の相互扶助を「共助」、生活保護等の社会保障を「公助」と区分している。それに対して私は年金や介護保険も一種の公助と考えて、共助と互助を一緒にまとめる。なお、<老成学>の枠組みにおける<共助>とは、<共同性>の価値理念をめざすコミュニケーション群の総称である。本論文の第4章を見よ。

(11)この達成の一部が前掲『生命と科学技術の倫理学』である。

(12)これに関しては、森下直貴(共著)『<昭和思想>新論』(津田雅夫編、文理閣、2009年)や、(単著)「井上哲次郎の<同=情>の形而上学」『浜松医科大学紀要(一般教育)』(第29号、1−43頁、2015年)がある。

 

1

(1)ちなみに、平均が90歳という高齢化の中で人口構成を捉えるなら、0〜30歳、30〜60歳、60〜90歳で区切るほうが適しているように思う。そこで60歳以上を老人(高齢者)として計算すると、老人世代は2014年では全人口のほぼ3分の1を占めていたが、2060年にはそれがほぼ2分の1になる。つまり、二人に一人が60歳以上ということである。なお、50歳からが向老期である。

(2)高知市保健所によって提唱された「百歳生き生き健康体操」が有名である。

(3)NHK取材班による一連の書物は以下である。『無縁社会』(文藝春秋舎、2010年)、『老人漂流社会』(主婦と生活社、2013年)『認知症・行方不明者1万人の衝撃』(幻冬舎、2015年)。『老後破産——長寿という悪夢』(新潮社、2015年)。他に、新郷由起『老人たちの裏社会』(宝島社、2015年)がある。

(4)藤田孝典『下流老人——一億総老後崩壊の衝撃』朝日新書、2015年。

(5)土本亜理子『在宅ケア「小規模多機能」』岩波書店、2010年。ちなみに、老年看護学が専門の鈴木みずえ教授(浜松医大)の話では、静岡県の浜松市では病院の数が多くて充実しているが、巨大な医療介護福祉事業団も複数あり、例えば「浜松エデンの家」のような有料老人ホームが全国でも例外的に多い。また、デイケアサービスの施設もコンビニのように競合している。浜松市のような例外的な事例の問題点を洗い出す作業も必要だろう。

(6)『生命と科学技術の倫理学』第2章。

(7)藤森前掲書。

(8)成馬零一「ドラマが描いた家族(1)」2015/12/02付日経夕刊。

(9)平山洋介『住宅政策のどこが問題か<持家社会>の次を展望する』光文社新書、2009年。(10)日本理学療法士協会の調査。2015/12/1付Yahooニュース。

(11)滋賀県守山市の調査。2015/12/29付Yahooニュース。認知症老人の介護家族の4割が在宅では支えきれないと回答。

(12)「ぬくもりにつつまれて」にっぽん紀行、NHK総合テレビ2015/12/14放送。

(13)藤森前掲書。

(14)ニクラス・ルーマン『社会の社会2』第4章、法政大学出版局、2009年(原著1997年)。

(15)例えば二本松市東和地区や川内村。

 

2

(1)2013年のオレンジプランと2015年の新オレンジプランによる。

(2)この点は美馬達哉「さらば、アルツハイマー?」、『現代思想[特集] 認知症新時代』(2015年3月号)所収に詳しい。

(3)「認知症の夫の行動に衝撃」2015/12/9付中日新聞朝刊。

(4)川越 厚『ひとり、家で穏やかに死ぬ方法』主婦と生活社、2015年。

(5)前傾「ぬくもりにつつまれて」。

(6)黒田日出男『境界の中世 象徴の中世』(東京大学出版会、1986年)、228頁を見よ。

(7)六車由実『驚きの介護民俗学(シリーズケアをひらく)』医学書院、2012年。

(8)学生ボランティアを扱った番組「復興レポート若い力で元気」(2015/11/22放送)では、被災地の老人の受動的な姿が一面的に強調されていた。同様のステレオタイプは「のど自慢」や「家族に乾杯」ではお馴染みである。

(9)「家族の絆」の強調は湯沢・宮本前掲書の「家族の理念」の箇所にうかがえる。

(10)もちろんWHOが推進している「アクティブ・エイジング」という見方もここに入る。

(11)www.kantei.go.jp/singi/sousei/…/ccrc/

(12)三菱総研「プラチナ社会研究会」platinum.mri.co.jpの提唱である。

(13)この点に関しては京都大学東南アジア研究所の松林公蔵教授より示唆を受けた。

(14)以上に関してはJ-AGESのメンバーである浜松医大健康社会医学講座の尾島俊之教授からご教示をえた。

(15)これまで見られたのは、共同関係としての結合型、異なる社会レベル間の橋渡し型、異なる業界同士の連携型である。

 

3

(1)Diseaseは「疾患」つまり細胞レベルの異常や変性と、疾患に基因する「疾病」つまり全身や各部位における症状・症候群に細分できる。日本語の病理学では「疾患」と「疾病」のあいだに明確な区別はないが、ここではそのようにあえて区分する。また、医療システムに関しては前掲『生命と科学技術の倫理学』を見よ。

(2)前掲『生命と科学技術の倫理学』を見よ。

(3)例えば『標準病理学 第4版』(坂本・北川・仁木編、医学書院、2010年)では、細胞の傷害・修復の延長線上で、炎症、感染症、免疫異常、代謝異常、循環障害、染色体・遺伝子および発生の異常、腫瘍に区分されている。

(4)以上については前掲『生命と科学技術の倫理学』の終章を見よ。

(5)森下による次の書評がある。『週間読書人』第3073号、4頁、2015/1/16。

(6)前掲『生命と科学技術の倫理学』を見よ。

(7)NHKクローズアップ現代「いのちをめぐる対話〜遺族とJR 西日本の10年〜」、2015/4/20放送。

 

4

(1)これは「認知症新時代のケア」の基本でもある。井口高志「『できること』の場を広げる」、前掲『現代思想』所収。

(2)東田勉「『認知症をつくる国』から抜け出すために」(前掲『現代思想』所収)、美馬前掲論文。

(3)キットウッド『認知症のパーソンセンタードケア——新しいケアの文化へ』高橋誠一訳、筒井書房、2005年(Tom Kitwood, Dementia reconsidered: the person comes first, Open University Press,1997)。

(4)キットウッド前掲書、94、120頁。

(5)『生命と科学技術の倫理学』序章および第4章

(6)小澤勲『痴呆を生きるということ』(岩波新書、2003年)や『認知症とは何か』(岩波新書、2005年)。これに関しては美馬前掲論文や天田城介「認知症新時代における排除と包摂」(前掲『現代思想』所収)に詳しい。

(7)井口前掲論文、美馬前掲論文、天田前掲論文。

(8)この見解は基本的に美馬や天田と同様である。

(9)余談だが、新学術分野「オシロロジー」では脳内の接続ネットワークを「発振現象」とする。www.nips.ac.jp

(10)以上の捉え方の前提にあるシステム理論については、付論や『生命と科学技術の倫理学』第4章を見よ。

(11)キットウッド前掲書、142頁。

(12)ちなみに、心理学者の中には5個を好む傾向がある。例えば「エゴグラム」では、5個の自我状態にもとづいて心的エネルギーを論理性・支配性・寛容性・奔放性・順応性に分類している。

(13)キットウッド前掲書、85—87頁。

(14)次の解説書も参考にした。ドーン・ブルッカー『パーソン・センタード・ケア』水野裕監修、村田ほか訳、クリエイツかもがわ、2010年(Dawn Brooker, Person-centered dementia Care)。

(15)この童謡は『生命と科学技術の倫理学』の序章で紹介している。

(16)N.ルーマン『情熱としての愛——親密さのコード』木鐸社、2005年。

(16)前掲『生命と科学技術の倫理学』序章を見よ。

(17)森下直貴「病気/健康—<滞ることなく流れる循環>という視点」、シリーズ生命倫理学第2巻『生命倫理学の基本概念』(丸善出版、2012年)所収の第6章を見よ。

(18)前掲『生命と科学技術の倫理学』第4章を見よ。

 

結章

(1)諸機能を未分化に担って包括する小集団が「家族」である。ただし、近代社会における家族では機能が限定される。他方、特定の機能システムに特化して担うのが「組織」である。これはさらに四つのタイプ、すなわち、企業体(コーポレーション)、共同体(コミューン)、政党(パーティ)、結社(アソシエーション)に細分される。また、すべての機能システムを包括して担うのが国家(組織)である。詳しくは『生命と科学技術の倫理学』序章の3を見よ。

(2)武地 一編著・監訳『認知症カフェハンドブック』クリエイツかもがわ、2015年。

(3)「シニア男性、地域の子育て担う研修で後押し」2015/12/1付日本経済新聞夕刊。

(4)「共助の関係築く場に名古屋のNPOがランチ交流で新たな試み」、THE PAGE、2015/12/1配信。

(5)高知市保健所所長・堀川俊一氏の話ならびに京都大学東南アジア研究所のフィールド医学松林研究会での話。

(6)www.touwanosato.net

(7)www.fdma.go.jp/html/life/bousai

(8)www.donichiyakan.jp

(9)ちなみに、ドイツにおける政治教育の「三原則」とは、中立性に逃げ込むことなく、政治の議論をすることを前提に、「教師の見解を押しつけない」、「論争があるものとして扱う」「生徒の関心に応じた能力を得させる」である。ただし、これについて合理的に考えれば、「一致を目的にしない」が抜けている。なお、ハーバーマスの妥当性3要求(真理性・正当性・誠実性)に関して、隠れている4番目の要求を(合意ではなく)「対立の場の移動」で埋める必要があろう。

(10)NHK総合テレビ「ダーウィンが来た」2015/11/22放送。

(11)筆者の参与観察。

(13)遠藤雄幸村長の話。

(12)大西隆(豊橋技術科学大学学長)「共助維持へコンパクト化」、2014/9/25付日本経済新聞朝刊。

 

 

 

 

付論 意味の根本構造——なぜ「四領域」か?

 

本論の理論的基礎は「四領域」の区分である。例えば、「疾病」や「媒介者」にせよ、「主観的経験」や「対面的コミュニケーション」、「価値理念」、<共助>にせよ、キーとなる概念がことごとく4領域に区分されている。それにしてもなぜ「4」なのか。どうしてそこまでして4にこだわるのか。3でも5でもいいではないか。4にこだわることによって、むしろそこからはみ出したり、すり抜けたりするものがあるのではないか。もっともな疑問である(1)。しかし、それでも4にこだわるのには、それなりの根拠がある。人間はものを見たり考えたりするさい「意味」を用いる。人間はいわば意味の宇宙に住んでいる。その意味の根本構造がじつに「四領域」に分れているのである(2)。以下では「もの」、「分割」、「記号」、「システム」に分けて、意味の根本構造が「四領域」になることを説明する。

 

. もの(thing

<もの(thing)>とは、私たち人間との出会いの中で立ち現れてくる相手の総称である。<もの>はけっして単独ではなく、人間と関係するように相互に関係し合っている。ここで<もの>の一例として「●」と「▲」と「▼」をとろう。この三者は相互に<区別(distinction)>されてい。このように<もの>は一般に区別において立ち現れる。ただし、区別されてはいても<差異difference>があるとは限らない。区別には<差異のない区別>と<差異のある区別>がある。●と▲のあいだは<差異のある区別>であるが、▲と▼のあいだは(上下に回転させても同一であるかぎり数学では)<差異のない区別>になる。とはいえ、区別と差異の区別は視点のとり方に依存する。●に対しては▼もまた<差異のある区別>の関係にある。したがってすべての<もの>は、<差異のある区別>つまり<差異>をもつということができる。さて、ここに●の特定の並び方●●●があり、それらを線で結ぶとき「A」になるとしよう。図1を見られたい。このように複数の●が接続されるとき、そこに一定の<形>が現われる。この<形>は別の<形>(例えば「B)に対して<差異>をもつ。一般に<もの>は<差異>のある<形>として存在する。注釈を加えよう。

①<もの>は、それを構成する要素であれ、構成される全体であれ、他の<もの>に対して差異のある<形>として存在する。<形>とは<差異>をもつ<パターン>(つまり要素の関係)である。

②<もの>が特定の<パターン>として立ち現れるのは、原初的には人間が知覚するからである(3)。知覚されることによって<もの>が立ち現れる。知覚における形(パターン)はさしあたり「大まか」である。それらが比較されることによって共通した形、すなわち一般的な形(「概形」)が形成される(4)。知覚も、比較も、そして全体を一挙に捉える直観も、すべてはパターン知である。

③ 人間の<知>は、根源的にみれば、実在する<もの>との出会いによって生じる外的な刺激なしには生じない(5)。つまり、人間は<もの>の<実在>を直接に知ることができない。その代わりに、種々のレベルのパターン知の比較を通じて、間接的にのみ実在をパターンとして類推する。そのかぎり知のパターンと実在のパターンは、パターンの同型的な変換という関係にある。知はそのような変換によって、実在のパターンの動的な複雑性を静的に単純化する。

④<形=パターン>として人間に立ち現れてくる<もの>は、1個の全体である。全体を構成する要素もまた、それじたい差異をもつ要素群からなる<形=パターン>であり、したがって1個の全体である。このようないわば微分・積分の関係は、要素の方向でも、全体の方向でも、いわばフラクタル的に反復する。実在の側に即していえば、要素同士は相互に関係し合って全体を構成している。実在する<もの>は要素同士の接続の働き合いの中で生成する(6)

 

. 分割(division

「A」という<もの>が特定の<形=パターン>として立ち現われるとき、そこには「A」でない(例えば「B」を含めて)すべての<もの>もまた、同時に立ち現われている。つまり、「A」の立ち現われにはつねに「非A」がともなう。「A」が立ち現われるということは、「A」と「非A」とが一緒に立ち現れるということである。ここで「非A」を「〜A」と表すなら、「A」とはじつは「A/〜A」ということになる。ここで「/」は「A」と「〜A」のあいだの分割線である。要するに、「A」は<分割(division)>において立ち現れる。注釈を加える。

①「A」が知覚において立ち現れる、つまり現前するかぎり、「A/〜A」の分割もまた現前する。この現前を<現実性>と呼ぼう。例えば「非A」を「B」とすれば、「A」とともに「A/B」の分割が現前する。そのさい「A」が前面に出てくるのは、現時点でたまたま分割線のこちら側、つまり「A」に注目されているからである。一般に、注目されマークされた側が<もの>とみなされる。ここでは「A」になる。しかし「B」に視線を移せば、反転して「B」が<もの>になる。<現実性>は空間的である。

② 「A」したがって「A/〜A」は現前しているかぎり瞬間的である。瞬間の現在である。この瞬間の現在は次々に過ぎ去り、次々に新たな瞬間の現在が到来する。この去来は時間的である(7)。とすれば、「A/〜A」はつねに自身の否定、つまり「〜(A/〜A)」を含んでいることになる。これを<可能性>と呼ぶ。したがって、<現実性>はいつでも<可能性>をともなう。<現実性>は<可能性>とのあいだの<分割>として現在する。この分割線を「// 」と表すなら、<もの>は「(A/〜A)//〜(A/〜A)」として存在する。

③ <現実性>の内部の「/」は知覚における分割である。「<現実性>//<可能性>」は記憶や予期における分割である。<知>はそのように二重の分割としてある。しかし、この二重の分割の背後にはさらに別の分割がある。<知>は<実在>からの外的刺激の変換であり、実在の複雑なパターンの単純化として想定される。そのかぎり、<もの>が立ち現れるということは、<実在>とのあいだの分割もまた、同時に立ち現れるということである。この第三の分割(特別に<境界>と呼ぼう)の向こう側が<潜在性>である。これは「〜{(A/〜A)// 〜(A/〜A)}」と表せる。

④ <現実性>内部の分割「/」、<現実性>と<可能性>のあいだの分割「// 」に加えて、<現実性// 可能性>と<潜在性>のあいだの分割(境界)がある。三番目の分割は<知>と<実在>のあいだの境界である。この境界を「‖」と表記しよう。そうすると、けっきょく、<もの>は人間の<知>において三重の分割として、すなわち、「(A/〜A) // 〜(A/〜A)‖〜{(A/〜A)// 〜(A/〜A)}」として立ち現れることになる。

 

. 記号(sign

<もの>は<別のもの>によって指し示される(indication)。この<別のもの>が<記号>である。指し示される<もの>は、原初的には、知覚される<もの>である。指し示す記号はそれじたい知覚される<もの>である。記号を指し示すものもまた記号である。指し示しの繰り返しは記号同士の接続である。記号による指し示しの中に<意味>が生じる。<意味>はその外には存在しない。注釈を加える。

① 意味づけるとは、<もの>に対して<別のもの>を接続することである。<もの>が<別のもの>とのあいだに<差異>をもつかぎり、指し示しの中で、指し示す側の<差異>が指し示される側の<差異>に接続する。意味は差異そのものではなく、差異と差異の接続の中に生じる。

② 指し示す側の<もの>が広義の<記号>である。<記号=もの>には、絵画、図表、マーク(シンボル・サイン・シグナル・ロゴ)、数式、言葉や文字のように、種々の形態がある(8)。種々の記号形態の基礎は、(比較による)一般的な<形=パターン>である。これを<原図>(あるいは「概形」)と呼ぶ。<原図>にはいくつかのタイプ、「領域」、「連結」、「配列」、「座標」、「形象」がある。ここから種々の記号形態が派生する。

③ <意味>は、広義の記号の指し示しの中で生成し、空間と時間の直観的な限界を超えるとともに、パターンの単純さを超える。複雑なメッセージの伝達には<記号>が必要である。いわゆる「無文字社会」にも広義の記号形態はある(文字がないだけである)。<原図>の具象化の例としては、音声の反復、(事件を思い起こさせる)人名、ぶら下げられたもの、縄の形状(輪の結び方)、太鼓表面の叩かれる位置がある(9)

④ <原図>を<具象化=もの化=物象化>し、さらに種々の方向に<形式化>したところに<記号>が生じる。この<記号>によって別のものを指し示す、つまり意味づけるところに人間の特徴がある。<もの>を<原図>として把握することは人間以外の生物でもできる。さらに<原図>を身体化し、身振りや声や表情によって表出することもできる。そこに違いはない。しかし、自分の身体から切り離して物象化し、それを記号として用いることは、人間以外の動物にはできない。

 

. システム(system)(10)

<もの>が別の<もの>に接続する中で、その接続のつながりの内部に一定のパターンが形成され、このパターンによって偶発的で未決定な接続が方向づけられるとき、そこに<システム>が成立する。このパターンを<構造>と呼ぶ。個々の<もの>の接続の連続は、その内部に<構造>をもったときに<システム>になる。注釈を加える。

① <もの>たちには、<システムとしてのもの>もあれば、<システムでないもの>もある。<システム>は他のもの(非システム)や他のシステムに対して<差異>、すなわち、差異のある<形=パターン>をもつ。システムはたえず生成しては消滅する。消滅しないで存続できるのは、その接続の内部に形成した<構造>によって、接続が方向づけられているからである。<構造>はシステム内部の動的な形である。形の中の形であり、パターンの中のパターンである。

② システムにとって、他の<システム>やシステムでない<もの>は、外部としての<環境>である。システムは内部(自己)と外部(他者・環境)を同時にもつ。システムは自己と環境のあいだの境界(「‖」)を不断に維持している。システムの自己維持とは環境とのあいだの境界の維持である。これは外的刺激の変換による内的変容を通じて行われる。システムは外的刺激に対しては閉じているが、内的意味づけにおいて閉じている。

③ <構造>は個々の接続を方向づける働きである。働きを強調するならむしろ<構造化>というべきである。接続の偶発性・未決定性のためにシステムはたえず動揺する。この動揺が従来の<構造化>では対処できなくなったとき、<構造化>は構造化じたいを再帰的に構造化する。ファーストオーダーの構造化では内部的な時間(遅延)が生じる。セカンドオーダーの構造化では比較による一般化が生じる。そしてサードオーダーの構造化において初めて記号化が可能になる。

④ 人間はサードオーダーシステムである。記号による指し示しが可能なのは、サードオーダーのシステムだからである。本論で説明したように、人間を構成する3レベルのサブシステムのあいだには、双方向の未決定な因果的連関が多重に成り立っている。その最上位のレベルでは記号に記号が接続される。これが自己内対話のコミュニケーションである。<自己>は記号の接続の相互参照の中に立ち現れる。

 

以上をまとめよう。サードオーダーシステムの人間にとって、<もの>は、現実性・可能性・潜在性のあいだの三重の分割において、また同時に、指し示すものと指し示されるものとの再帰的な関係の中で、差異のある<形=パターン>として立ち現れる。図2を見ていただきたい。

<意味>とは、システムの内部における<二重の分割>に対して再帰的に直交する<指し示し>の関係である。そのかぎり、そこには<現実性/可能性>と<限定性/再限定性>を軸とする四領域が生じる。これが<意味の根本構造>である。ここで、三重の分割ではなく二重の分割、すなわち<現実性/可能性>になるのは、<潜在性>との境界線がつねにシステムの背景に留まるからである。また、指し示しの関係が<限定性/再限定性>となるのは、指し示されるものもすでに限定するものであり、すべては限定するもの同士の関係として捉えられるからである。要するに、<意味の根本構造>こそ、ものごとが「四領域」に区分される根拠である。その四領域をそれぞれ特徴づけるなら、❶外部的空間性、❷内部的時間性、❸比較的一般性、❹想像的変容性になる。図3を見ていただきたい。なお、<意味の根本構造>が二つの関係(平面)の直交であることから、本来は再帰的・立体的に表現されるべきところであるが、直観的な分かり易さを重視してあえて二次元の平面に落とし込んでいる。

さて、先に一歩進めよう。<もの>たちと同様、人間もまた単数では存在しない。そこにコミュニケーションの必然性がある。このコミュニケーションの中で「意味」の内側に双方性(複数性)が織り込まれる。本論の第4章で説明したように、人間(自己変容システム)同士の対面的コミュニケーションでは、「メッセージ(意味の接続)」を理解するプロセスは、双方の側において、外的刺激=情報の知覚→相手の意図の解釈→解釈の比較→信念による評価(と行動選択)、という4段階をふむ。これを二次元の四領域に投影すると、❶対外性、❷対内性、❸対他性、❹対自性という特徴が生じる。図4を見ていただきたい。

さらに、本論の同章で説明したように、対面的コミュニケーションは社会的コミュニケーションの原点である。種々のレベルの集合体(家族やコミュニティ)、種々の組織(4タイプの組織と包括的な組織としての国家)、そして種々の機能システムは、すべて対面的コミュニケーションを基盤にしてそこから分化する。本論ではそれらの分化の原理として<能動/受動>に着目し、4タイプの区分を導入したが、この区分もまた<意味の根本構造>にもとづいたのである。

けっきょく、人間は<意味>の宇宙の中に生きている。<意味>なしにサードシステムとしての人間は存在しえない。ものを見たり考えたりするときには、かならず<意味の根本構造>にもとづいて区別している。その<意味の根本構造>が「四領域」なのである。そこに「4」であることの必然性がある。

 

(1)「4でなければならない」とか「4になるのは必然的である」と聞くと、誰もが「この人は大丈夫かな」という顔をするにちがいない。しかし、哲学者のヘーゲルは終生にわたって「3」にこだわった。有名な弁証法である。「3」はもともと時間的順序の基本区別であるが、ヘーゲルはそこに対立の統一および完成という観点を織り込んだ。とするなら問題は、哲学史的にいえば、なぜ「3」ではなく「4」なのかということになる。

(2)社会学者のパーソンズは4分割のシステム論にこだわり、システム「理論病者」を自認した。それはじつは自慢であった。しかし、弟子たちは誰一人、パーソンズのようには4分割を使いこなせなかった。パーソンズはどこかで間違ったのだろうか。私見では、間違ったとすれば、それは4そのものではなく、4の根拠を整合的に説明できなかったことにある(実際、生物システム論と行為パターン論の寄せ集めであった)。パーソンズのシステム論は規範主義的な「構造−機能」論である。それを「機能−構造」論として受け継いだのがルーマンであった。しかしルーマンは特段4にこだわってはいない。社会学者である彼の関心が社会理論にあって、形而上学にはなかったからである。

(3)ただし、知覚の前段階には生体分子レベルのパターン反応がある。

(4)出原栄一、吉田武、渥美浩章著『図の体系』日科技連、1986年)、126頁。

(5)幻覚もまた知覚にとって外部にある脳の刺激から生じる。

(6)この事態を量子力学や宇宙論において確認することは今後の宿題である。

(7)要素の接続作動がその前提にある。

(8)前掲『図の体系』第4章。

(9)梶茂樹「無文字社会の言語記号性」、『言語研究』142:1−28(2012)。

(10)ここでの説明は『生命と科学技術の倫理学』序章で詳述されている。